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2019.02.02

2019.02.02

大寒、寒さに身を縮める

24節気  大寒(1月20日から2月3日ごろ)

1月26日吹雪いた。幾つもの雪風が舞っていた。ゆっくりと遮るもののない
世界から白い抜け毛のような姿で落ちてくるもの、横滑りに粉雪となって窓辺
を駆け抜けるもの、小さな白い虫が群れ飛び不可測な動きを見せる雪煙、
庭の裸木を揺すり押し倒そうとする風の強い息ぶき、ゴーと轟き、すっと
後ろに引くように止まる風、すべてが一瞬にその姿を変じ、顕現させる。
人はただその音、雪の舞いに呆然と見つめるのみ、猫たちはここぞとばかり
ストーブにしがみ付き、ただただ寝入るだけのものもいる。
突然雲が押しのけられ青い空が顔を出す。弱い陽が白き世界にすっと流れる。
消える雪たち、真っ白に輝きわたる屋根に日が溶ける。
そして又吹雪きわたる光景に変容する。その気まぐれに人々は戸惑うだけ、
猫は寝入るだけ。

大寒、そろそろ節気という流れも最後となり、春の兆しか?
しかし、昨日からまた雪が降り出し、比良の山も湖も灰色と白く舞う雪の花に
ひっそりと見え隠れする。
南天の赤い実が薄い雪端に見えた。金柑の実も白と緑の葉に散らばり飛んでいる。
春隣と言う言葉があるそうだ、美しい言葉だ。陽に力が湧いてくる、そんな気分
の言葉だが、まだ少し先のようだ。今日は恵方巻を食して寝休日としゃれようか、
もっとも毎日が休日だが。
彼にとって、この季節、二つの情景がいつもその心によみがえってくる。
白く輝く光りを浴びた湖面は三角錐の八幡山と皿を伏せた沖島の島影を
浮き立たせ、細かな波状のつらなりが丸く輝く月の下で揺れかかっている。
雲一つ無い闇天の空に神々しく輝く満月がその様をのぞき見ている。
山と空、水、沖舟にさす影、羽衣のひだと思わす波のはしり、それが墨絵の
趣で眼前にあった。 彼は、凍えそうな手に己が息を吐きかけ、闇に身を置いていた。
湖水は寂寞として何も言わず、橋を渡る赤いいくつもの筋のみが消えては
またその姿を現していた。 さらには、湖に薄く舞い落ちる雪の切片が月光に
染められ、金粉をまいている ように湖水の面に踊っていた。
湖面も月光に染められ飛び跳ねる小鮎の銀の鱗となってひろがり、
雪が休みなく降り続いている。
だが、月が雲にかき消されるとそこは暗闇と化し、何もない。
それは、静寂とある意味甘美の世界でもあった。
むかしの彼であれば、それは苦痛の世界であったろうが、今は違った。
そこに永遠にいたいとも思った。いつの間にか横に猫のソラがいた。
その眼の中に、今見た彼の情景が映っている。

時折り天から舞い落ちる雪の精、朝のしじまのなかで見た時は、道路を薄布が
覆うような細雪であったが、その白い薄片はやがて大きな粒状を成しボタン雪
となった。
「津軽恋女」という歌に「7つの雪」というのが歌われている。
「津軽の女よ
ねぶた祭の行きずり戯れか
過ぎた夜の匂いを抱いて 
帰れと叫ぶ岩木川 降り積もる雪雪雪また雪よ
津軽には七つの 雪が降るとか
こな雪 つぶ雪 わた雪 ざらめ雪 みず雪 かた雪 春待つ氷雪
津軽の海よ 三味がゆさぶるじょんがら聞こえるよ
嘆き唄か 人恋う唄か 胸のすきまに しみてくる 降り積もる雪雪雪また雪よ
津軽には七つの 雪が降るとか
こな雪 つぶ雪 わた雪 ざらめ雪 みず雪 かた雪 春待つ氷雪
降り積もる雪雪雪また雪よ
津軽には七つの 雪が降るとか こな雪 つぶ雪 わた雪 ざらめ雪
みず雪 かた雪 春待つ氷雪」
だが、ここではそれほど多彩な雪は見られないし、思いなせない。
そんな考えが浮かぶほどの今日の雪だ。

ボタン雪、それが風に揺られことはなく、ほぼ垂直に天から地へと落ちてくる。
1時間もすると家の周辺は白く輝く光が満ち、ただ平板な白い地面となった。
すでに、10センチほどの雪の絨毯が庭を被っている。ソラが飛び出したものの、
雪の中にはまり大慌てで出ようとするが、目の前はただただ白い壁が続くのみ、
彼にとっては初めてに近い経験であるが、若さが彼を雪へと誘うのか。
助けての叫びに、わたしもまたかの顔で抱きかかえに行く。
だが、犬のルナは違った。
元来寒さには強い犬種でもあり、自分の顔が沈むほどの深さの中に飛び出し、
白く深く伸びた雪原のごとき広場をはね飛びながら遊んでいる。
梅ノ木もその枝枝を白き雪帽子で着飾り、他の草花はすでに影形なく、映え光る
白の世界に埋没している。
薄いベールの先に見えていた比良の山並みも薄墨の壁紙がはられたように彼の視線
から消し去られた。われわれはただ水滴がこぼれ落ちる窓ガラスの中で、ひっそりと
この情景に見入るのみだ。
だが、この辺りを北国と呼ぶには、雪の中に数か月も閉じ込められる「北国の人」には
大いに失礼だ。その想いを柳田國男は「雪国の春」の中でうまく綴っている。
「故郷の春と題して、しばしば描かれるわれわれの胸の絵は、自分等真っ先に
日の良く当たる赤土の岡、小松まじりのつつじの色、雲雀が子を育てる麦畑の
陽炎、里には石垣のタンポポすみれ、神の森の大掛かりな藤の紫、今日から
明日への題目も際立たずに、いつの間にか花の色が淡くなり、木蔭が多くなって
行く姿であったが、この休息ともまた退屈とも名づくべき春の暮れの心持は、
ただ旅行してみただけでは、おそらく北国の人たちには味わいえなかったであろう。
北国でなくとも、京都などはもう北の限りで、わずか数里離れたいわゆる比叡
の山蔭になると、すでに雪高き谷間の庵である。それから嶺を超え湖を
少し隔てた土地には、冬ごもりをせねばならぬ村里が多かった。
丹波雪国積もらぬさきに
つれておでやれうす雪に
という盆踊りの歌もあった。これを聞いても山の冬の静けさ寂しさが考えられる。
日本海の水域に属する低地は、一円に雪のために交通が難しくなる。伊予にすみ
慣れた土居得能之一党が越前に落ちていこうとして木の目峠の山路で、悲惨な
最後を遂げたという物語は、「太平記」を読んだ者の永く忘れえない印象である。
総体に北国を行脚する人々は、冬のまだ深くならぬうちに、何とかして、身を
入れるだけの隠れ家を見つけて、そこに平穏に一季を送ろうとした。
そうして春の帰ってくるのを待ち焦がれていたのである。
越後当たりの大百姓にはこうした臨時の家族が珍しくはなかったらしい。、、、
汽車の八方に通じている国としては、日本のように雪の多く降る国も珍しいであろう。
それがいたるところ深い谷をさかのぼり、山の屏風を突き抜けているゆえに、かの、
黄昏や又ひとり行く雪の人の句のごとく、おりおり往還に立ってじっと眺めている
ような場合が多かったのである。停車場には時として暖国から来た家族が住んでいる。
雪の底の生活に飽き飽きした若い人などが、何という目的もなしに、鍬をふるって
庭前の雪を掘り、土の色を見ようとしたという話もある。鳥などは食に飢えている
ために、こと簡単な方法で捕らえられた。二、三日も降り続いた後の朝に、一尺
か二尺四方の黒い土の肌を出しておくと、何のえさも囮もなくてそれだけで
ヒヨドリやツグミが下りてくる」
彼はこの一節を読みながら、ストーブの前を占拠している猫たちの顔を一睨み
した。ソラなぞは堂々と腹と隠すべきものまでさらして寝ていた。

大寒は、一月二十日ごろ、寒さが最も厳しくなるころである。「暦便覧」では
「冷ゆることの至りて甚だしきときなれば也」と説明している。
そして、初めの五日ほどを「款冬華」(ふきのはなさく)、「水沢腹堅」
(さわみずこおりつめる)、最後に「鶏始乳」(にわとりはじめてとやにつく)
と昔の人はこの季節を細かく言い表している。
朝の空は青一色、そこに櫛で梳いたような雲がたなびき、木立の向こうには、
いまなお細い月が消え残っている。前夜の雪がまだその残滓を残し、街は白く
輝いていた。朝の寒さの中、街の一番奥にある丘の上に彼はいた。
まるで雪に埋もれる木々のごとく立ち尽くしていた。
彼はまたこの季節を迎え春を感じ始めることに安堵した。
だが、彼の頭は茫洋とした果てしない過去のつなぎの中にいた。広々と視界
の開けた自然な中に立ったいま、彼はふたたびある場所と次の場所との
中間地点にあって、頭には、様々な情景がなんの束縛もなく去来していく。
この数十年のあいだ考えまいとして抑えつけて来た過去のもろもろが解き放たれ
彼の中を駆け巡っている。おかげで、いま彼の頭の中では様々な情景がけたたましく
さえずりながら、独特の騒々しいエネルギーを発していた。
夜来よりの雪の残り香であろう小さな宝石の雫を光り輝かせる丘の上の桜の木。
この自然が描く一幅の浮世絵の中をあこがれの目で眺め、自分の素足が柔らかな
草花に沈むところを想像した。横をほとばしる水が鞭となって空気を打ち破りながら
ときおり陽の光を捉えてきらめき流れて行く。
黒くむき出した野原の中に、赤く燃え映えた花が一群を成していた。
ハート形をした柄の長い葉には白斑があり、伸びた花茎に篝火をたいているように
白い雪原にその赤さを誇っているようだ。シクラメンだった。
まだ若かった頃聞いたあの歌が思い出される。
「、、、うす紅色(べにいろ)の シクラメンほどまぶしいものはない
恋する時の 君のようです 木もれ陽あびた 君を抱(いだ)けば
淋しささえも おきざりにして 愛がいつのまにか 歩き始めました、、、、」
ある人に言わせると、「シクラメンのようなかほり」で、奥さんを
思っての歌だともいう。寒いなかに一刻の温かさが心を過ぎる。
若きときの一瞬の時間が切り取られ、この琵琶湖と比良の山並みとの対比
に過去の自分の過ごした日々を思った。

西近江路紀行33 古墳探訪

西近江路紀行33 古墳探訪

琵琶湖の周辺は古代人の活動が盛んであったのだろう。
湖東、湖南、そしてこの湖西、古墳が多く散在している。
古代、この地域は敦賀と京都、奈良への陸路、水路の重要地域
でもあり、和邇部氏、小野氏などの有力豪族が支配していた地域でもある。
このため、琵琶湖を望む比良のすそ野には、多くの古墳がある。

白洲正子「近江山河抄」に以下の記述がある。
「国道沿いの道風神社の手前を左に入ると、そのとっつきの山懐
の丘の上に、大きな古墳群が見出される。妹子の墓と呼ばれる
唐臼山古墳は、この丘の尾根つづきにあり、老松の根元に
石室が露出し、大きな石がるいるいと重なっているのは、
みるからに凄まじい風景である。が、そこからの眺めは
すばらしく、真野の入り江を眼下にのぞみ、その向こうには
三上山から湖東の連山、湖水に浮かぶ沖つ島もみえ、目近に
比叡山がそびえる景色は、思わず嘆息を発していしまう。
その一番奥にあるのが、大塚山古墳で、いずれなにがしの命の
奥津城に違いないが、背後には、比良山がのしかかるように迫り、
無言のうちに彼らが経てきた歴史を語っている。」
しかし、多くの古墳は山の中腹などにあり、ちょっと足を伸ばして、
と言う風情ではない。また、何基かの石の室が笹や野草の中に口を開けている、
そのような光景に佇むといつも虚しさが湧いてくる。
「なぜ、俺は此処にいる?」、と。
1枚岩で作られた石室に足を踏み入れる。かって皆から敬われた
人々の最後の場所、黄泉へ通じると信じられていた入り口、死後の世界
を信じていた証の場所、1000数百年を経た過去の場所、時の移ろい
を形に見せる。心の空洞に何かが忍び込む。体感の鋭い人は何かを
感じられるかもしれない。
少しながら気楽に探訪できるのは、石神古墳群、ゼニワラ古墳、
唐臼山古墳であろうか。他のは、形が残っていないものも多い。

ちなみに、旧志賀町史が参考になる。
①北小松古墳群
遺跡の立地は比良山系の尾根筋を山系の北から数えて2つ目となる尾根筋
最先端から一段と下がった低位に位置する山塊の先端近くに主に分布する。
AからCと北の支群の4つのグループが見られる。計12基の古墳がある。
概ね、主体部は横穴式石室からなり、長さは4メートルほど高さは2メートル弱
と想定さる。出土品には須恵器と鉄釘があった。
石室などはしっかりとしている。
②南船路古墳群
南船路の集落から天川を隔てた西南西の丘陵裾野にある。総計7基の古墳
がある。多くは径7,8メートルの円墳で、主体部は横穴式石室からなり、
高さは2メートル弱と想定される。
③天皇神社古墳群
天皇神社の境内にある。3基ほどの古墳があるが、高さ1メートル強の円墳。
④石神古墳群
小野神社と道風神社の中間にあり、眺望のよい場所である。4基の古墳
からなる。主体部は横穴式石室からなり、一番大きな4号墳は直径15
メートルほどの墳丘である。天井石は1石で高さは3メートルほどあり、
比較的高い。家形石棺が出土しているが、須恵器と土師器に刀の小片があった。
鉄滓も採取された。大きさなどからも有力豪族(小野氏?)の墓と思われる。

なお、志賀町史第1巻には、以下の記述もある。
「本町域の比良山麓製鉄遺跡群を構成する多くの遺跡の共通する大きな
特徴の一つは、そのなかに木瓜原型の遺跡を含まないことである。
木瓜原遺跡では一つの谷筋に一基の精錬炉だけではなく、大鍛冶場や
小鍛冶場を備え、製錬から精錬へ、さらには鉄器素材もしくは鉄器生産まで、
いわば鉄鉱石から鉄器が作られるまでのおおよそ全工程が処理されていた。
しかし、この一遺跡単一炉分散分布型地域では、大鍛冶、小鍛冶に不可欠な
たたら精錬のための送風口であるふいごの羽口が出土しないことが多い。
本町域でもその採集はない。山麓山間部での製錬の後、得られた製品である
鉄の塊は手軽に運び出せるように適度の大きさに割られ、集落内の鍛冶工房で、
脱炭、鉄器生産の作業がなされる。小野の石神古墳群三号墳の鉄滓も
そのような工程で出来たものである。
しかし、この古墳時代には、粉砕されないままで、河内や大和に運ばれ、
そこで脱炭、鉄器生産がなされるといった流通形態をとる場合も
多くあった。、、、、」
⑤石釜古墳群
和邇川沿いの井の尻橋付近にあり、琵琶湖をまじかに見れる場所ではない。
南北2つの支群からなり、総計で7基の古墳がある。直径5メートルから
19メートルほどのものもある円墳である。
⑥から⑩まではいずれも曼荼羅山を囲むようにして、築造されている。
⑥ヨウ古墳群
曼荼羅山の北にあり、ゴルフ場と和邇川の中間に位置する。3基の古墳
からなる。直径22メートルほどの円墳の1号機をはじめ結構大きい。
⑦前間田古墳群
曼荼羅山の北裾とヨウ古墳群との中間にある後期古墳群である。3基の
古墳からなる。直径が10メートル前後のものであり、規模的には大きくない。
⑧曼陀羅山北古墳群
小野朝日と緑町の中間、曼荼羅山の尾根に築造されている。眼下に和邇川
河口や琵琶湖、対岸の湖東も見える場所である。5つの古墳からなる。
直径は10から20メートルほどの円墳であり、主体部は横穴式石室に
なっている。
⑨大塚山北古墳群
曼荼羅山の尾根筋上のなだらかな頂部に築造された3基からなる古墳群である。
いずれも直径10数メートルの円墳である。
⑩ゼニワラ古墳
曼荼羅山北寄りの東に位置し、丘陵の尾根筋に占める単独の古墳である。
直径は20メートル、横穴式の石室で何枚かの岩で積み重ねられている。
出土には須恵器があった。
⑪唐臼山古墳
小野妹子公園の中にあり、前方後円墳の崩れたものではないかとの推測もある。
墳丘は南北18メートル、東西20メートルほどあり、大きめの古墳と
みられる。
⑫小野不二ケ谷古墳群
滋賀丘陵の尾根筋上部で傾斜変換点を創り下降する交点に位置する。
2つの古墳からなり、集落の間に築造されているため、その集落で祭祀
されてきた集落間の一体化が考えられる。3点の土器を含め、幾つかの
遺物がでている。
⑭和邇大塚山古墳
ゼニワラ古墳の近くにあり、前方後円墳を成している。琵琶湖が広く望め、
その規模は全長72メートルほどある。盗掘があり、その原型を推し量る
のは厳しい。副葬品としては、鏡一面、刀剣三点、甲冑一点、鉄斧二点などがある。
⑮小野神社古墳群
小野神社本殿の北脇にある。2基の古墳からなるが、小野神社の敷地整備
に伴い、その規模は不明。主体部は箱式石棺と思われる。
以前には、石棺が他に5基あったといわれるが、確認できない。
⑯道風神社古墳群
道風神社本殿のすぐ西側に古墳がある。2基の円墳があり、直径は20
メートルほど、であるが具体的な形は不明。
さらに、小野駅の近くに真野古墳も確認された。

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