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2019.05.24

立夏、まさに夏が攻め立ってきた

第7節気  立夏(5月5日から5月20日ごろ)

青く澄み渡った空が何日も続いている。比良も深い緑がこぼれ落ちそうに
山裾まで緑の帯を伸ばしている。裏山の雑木林の中、木々をあおぐ。
ちぎれ雲が思い思いの方向に動き、大地には熊笹の群生が光を浴びている。
少し前までは灰白色の樹皮をさらし、枝も骸骨の腕のような殺風景な姿
であった銀杏の木もいつの間にか柔らかな緑の葉を重ね合わせ緑の装い
を成していた。
イヌシデの大きな葉が、しなやかに波打ち風に揺れ、太陽の光を浴びている。
もう少し経つと木々の葉が一段と育ち、見え隠れする比良の山並みもやがて
緑の壁にさえぎられる。だが、今は緑色の穿った隙間から漏れこむ日が地面に
映え、明るく澄んだ空気を見せている。

雑木林が開くと、雑草が入り乱れた花を咲かす野原に出た。そこに二つの
直立したピンクを帯びた白い清楚な大輪の花が迎えてくれる。
ササユリは、ヤマユリのように多数の花をつけない。また一華だけでもない。
成長すると三つの花をつける。三枝の名はそれに基づく、三は三種の神器
のように意味ある数字である。
太い幹にラッパ状の花をつけ、地面の緑に浮いている。以前、古老に
聞いたことがあった。ユリの球根は、血行を良くし、痰をとり、脚気に
効くなどの薬効がある。又食用としても使われた。昔は神社の庭にも多く
見られたという。ササユリは、巫女がそれを持ち踊ったというから神事
に多く使われたのであろう。近くの神社の裏にひっそりとした趣で
白と紫の花菖蒲が咲いていた。ゆるく開いた花は日本女性の奥ゆかしさ
表しているようにも見えるが単なる老人の片思い、幻想なのだろうか。
この時期、神事に絡む花々があちらこちらで散見できる。
緑一色が支配するような中で、ふと古代の心根が湧いてくる、そんな時期でもある。

5月の連休を過ぎると稲の子供たちが規則正しく並び立っている。今年は10連休、
令和という新時代の始まり、だが里は何も変わらない。日常の自然が
滞りなく進む。「田水張り」、代掻きが終り、苗が並び立つ。
シラサギがその白く凛とした姿を見せている。
数百年変わらず続いている風景、人と里の共生は里の生活も変えない。
風土は人を創り、食べ物を育てる。多くの湖の魚たちも美味しい季節だ。
近くの小川にいくつもの小さな光がその薄い光跡を見せ始める。
立ち上る金粉のような輝きを見せ、彼らはその短い命をこの季節に育む。

我が家の庭、緑がこもり日の照らすにあわせて時に深く、また黄色味を帯びたり、
白く光映えたりしている。その草叢に愛犬が低い唸りを上げながらそこから動かない。
近寄って見るとまだ若いカマキリがその艶のある鎌を逆立てて重なり合う
葉群の中にいた。更にもう2匹、同様に犬に向かって威嚇している。
黒い鼻先からほんのわずかの距離をおいて、彼らは対峙したまま動かない。
見ているこちらが飽きたころ、ようやく犬はこちらに向き直って紅い
大きな舌を出して一声吠えた。
「暑いのに、ご苦労様」
思わず頭をさすった。

4月末から5月と春の祭りが各地域を彩ってきた、昔は菖蒲祭りや御田植え祭り
など豊作を祈願した祭事が少なくなかった。だが、それも姿を消しつつある。
芳賀日出夫氏の「日本の民俗」にこんな文がある。
「祭りを行うときには、聖なる場所を清め、五穀、餅、神酒、塩、野菜、
魚などで、神の降臨を待つ。祭主の祝詞により神は祭りの挨拶を受け、
願いを聞く。そして神は人々に生きるエネルギーを与える。それは神と人の
共食いであり、芸能である。我々の生活はケの日常が続くと、活力が失せ、
怠惰になる。非日常のハレの機会の祭日に神と交歓し、活力を得て、
日常生活に戻るのである」。
村が共同体としての機能を大きく持っていたころとは違い、その残滓としての
神社は形は残っているが、少しづつその役目を失いつつある。
北小松、南比良、木戸、それぞれの地域で神輿が練り歩く。田には水が満ち、
稲の子供たちも顔をそろえ始め、希望の歩みを始めるようだ。
氏神の天皇神社の春の祭りもそうである。

雲が一片足りとも見えない蒼く透明な空とともに祭りの日となった。
普段わずかな人影だけが見え隠れする境内には五基ほどの神輿がきらびやかに
鎮座している。その少し先にある鳥居から三,四百メートルの道の両脇には
色々なテントが軒を並べている。焼きとうもろこし、揚げカツ、今川焼き、
たこ焼きなど様々な匂いが集まった人々の織り成す雑多な音とともに一つの
塊りとなってそれぞれの身体に降り注いでいく。やがて祭りが最高潮となると
ハッピを着た若者たちが駆け足で神社に向って一斉に押し寄せてくる。
周りの人もそれに合わすかのようにゆるりと横へ流れる。
駆け抜ける若者の顔は汗と照りかえる日差しの中で紅く染め上がり、陽に
照らされた身体からは幾筋もの流れとなって汗が落ちていく。
神社と通り一杯になった人々からはどよめきと歓声が蒼い空に突き抜けていく。
揚げたソーセージを口にした子どもたち、Tシャツに祭りのロゴをつけた若者、
スマホで写真を撮る女性、皆が一斉に顔を左から右へと流していく。

その後には、縞模様の裃に白足袋の年寄りたちがゆるリゆるりと歩を進める。
いずれもその皺の多い顔に汗が光り、白髪がその歩みに合わし小刻みに揺れている。
神社の奥では、白地に大宮、今宮などの染付けたハッピ姿の若者がまだ駆け抜けた
興奮が冷めやらぬのか、白い帯となって神輿の周りを取り巻いている。
少し前までは、周辺はほとんど田圃であり、祭りには、畦道を通って、氏子たちが
納行事を始めたそうだ。だが、今はモダンな家々に囲まれ、その面影は薄い。
やや広めの道路と様々な彩を発している家々の間を抜けてくるようで、
厳粛な雰囲気は消えつつあるが、人が醸し出す明るさは今のこの街には、
ふさわしいのであろう。神輿渡御の時間となった。五つの神輿が中天にかかった
陽を浴びて、ゆらりと動き出す。金色の光りが四方に放たれ、若者の発する熱気
とともに、周囲の空気を燃え上がらせていく。裃姿の年寄りたちがその若さを
取り戻すかのように、先頭に立ち、歩き始める。入り乱れる足音と道路沿いの店店
と人々が放つ喧騒とが、一体となって、神輿の後を追う。神輿はやがてその熱気を
残し浜へと向かい、金色の光りを和邇川に映しながら、小さくなって行く。
古き良き時代と新しい波の訪れ、その混じり合う香りを残していく。
多分、御旅所に無事着いた時には、若者たちの息切れと年寄りたちの安堵の
溜息で、湖のさざ波も静かに揺れるのであろう。
幾重にも重なりあうように稲の子らをその胸に抱え込むように
水田が続く。その横を力強く鯉のぼりが空に浮いている。水色や
赤の鱗を風の中でゆるりと動かし何十もの鯉が五月の空を湖に
向かって泳いでいくように見える。

すでに30度を超す天候である。まさに立夏の名にふさわしい?昨年のような
身動きできないほどの猛暑は勘弁してほしい。老人の切なる願いだ。

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