旅行、地域

2016.05.06

志賀、鉄への想い二

3.志賀の鉄生産の状況
全国的な国家形成、強化の中で、志賀も鉄生産の拠点として重要な位置を占めていた。
日本の鉄歴史の中に志賀での記述はほとんど見られない。しかし、古代、
この地域が国の発展に欠かすことが出来ない場所であったということは、町史の記述が
やや我田引水的要素があったとしても、素晴らしいことである。
志賀町史はさらに言う。
「近江の鉄生産がヤマト王権の勢力の基盤を支えていた時期があったと思われる。
このような鉄生産を近江で支配していた豪族には、湖西北部の角つの氏、湖北
北部の物部氏、湖南の小槻氏などが推定されるが、比良山麓では和邇氏同族として
多くの支族に分岐しつつも擬制的な同族関係を形成していた和邇部氏が有力な
氏族として推定される。また、ヤマト王権の存立基盤として不可欠であった

鉄生産を拡大しつつ、新しい資源の他地域、他豪族に先駆けての発見、開発は
和邇氏同族にとっての重要な任務であった。早い時期に中国山脈の兵庫県千穂
川上流域にまでかかわっていたらしく、「日本書紀」「播磨国風土記」の記載
を合わせよむと次のように要約できる。播磨国狭夜郡仲川里にその昔、丸部具
そなふというものがおり、この人がかって所持していた粟田の穴合あなから開墾中に
剣が掘り起こされたが、その刃はさびておらず、鍛人を招き、刃を焼き入れしようと
したところ、蛇のように伸びちじみしたので、怪しんで朝廷に献上したという。
どうやら和邇氏同族である栗田氏がかって、砂鉄採取が隆盛を迎える以前の段階に、
この地で鉄穴による鉄鉱石の採掘、そして製錬を行っていたが、後に吉備の
分氏に、おそらく砂鉄による新しい操業方法で駆逐され、衰退していき、その後
かっての栗田氏が鉄穴でまつっていた神剣が偶然にも掘り出されたことに、
この御宅に安置された刀の由来があると考えられる。

このことから、千種川上流域での初期製鉄操業時には和邇氏同族の関与があり、
鉄鉱石で製錬がなされていたことが推測されるが、おそらくヤマト王権の
支配下での鉄支配であったと思われる。これらの地域で製造されたけら(鉄塊)
もまた大和、河内に鉄器の原料として運び込まれたものと推定される。
出雲の製鉄でもその工人は千種から移り住んだものとの伝承もある。
近江の製鉄集団が千種、出雲の工人集団の祖であるといった観念が存在
していたのであろうか。
本町域の鉄資源もまた少なくとも二か所からあるいは二系統の岩脈から
採掘していたことがうかがわれる。これらは豊かな山腹の山林で炭を焼き
これを燃料として操業を続けたのであろう」。

4.なぜ、湖西なのか、継体天皇の誕生、和邇氏とのつながり
志賀町史での指摘は中々に、面白い。
5世紀後半の雄略天皇の時代は、王の権力が確立した時代として、日本の古代史上
大きな意味を持っている。その具体的な事実の1つとして5世紀代に朝鮮半島から
移住してきた先進技術者を主に大阪平野に定住させ、王直属の手工業生産組織に
編成したことにある。そのような手工業生産組織の中に、他の技術者に部品を提供
したり、みずから武器や工具、農具を作ったりする鉄器生産集団がいた。
彼らを「韓鍛冶からかぬち」という。韓鍛冶は単なる鍛冶師(小鍛冶)ではなく、
鉄の素材(けらを小割にしたもの)を繰り返し鍛えて精錬(大鍛冶)する技術
も持っていた。この中央の韓鍛冶に鉄素材を供給していた有力な候補地として
近江と播磨がある。

日本列島では弥生時代から鉄が作られていた。砂鉄を原料としてごく少量の
しかも低品質の鉄が作られていたと考えられる。
8世紀には播磨や近江において岩鉄を採掘していた。(播磨国風土記、続日本記)
中国地方の美作、備前、備中、備後(広島)、伯耆(鳥取)、九州の筑前の6か国
は、官人への給与あてる税として、鉄、鉄製品を貢納していた。それに対して、
優良な鉄素材を生産していた播磨、近江は、直接に中央政府や王族、貴族に
供給していたらしく、税として徴収される国からはのぞかれていた。
この違いを生じたのは、ヤマト国家時代にまでさかのぼるとされる。なぜなら、
5世紀から6世紀に初めにかけて、ヤマト政権は、播磨と近江から2代続けて
ヤマト王権の聖なる女性に婿入りさせているからである。この2代の入り婿
には、播磨と近江との鉄生産体制を王権の直接支配下に吸収するという意図が
秘められていたと思われる。

「続日本記」には、近江の「鉄穴」に関する記事が3か所出てくる。他の地域には、
鉄穴の記事はなく、このことは近江でしか見られない特徴である。このことからも、
近江の製鉄は日本の中でも一番優れていたものであったといえる。
この時代の鉄穴とは、鉄鉱石の採掘場だけをさすのではない。木炭の生産、製錬や
精錬の作業を含む鉄生産を一貫しておこなう、いわば製鉄工場であった。
都の皇族や貴族がこれらを独占し、近江の一般庶民は鉄を生産しながらそれを入手
できなかった。浅井郡高島郡など野坂山地の鉄穴は、近江のなかでももっとも
優良かつ大規模なものであったと推測される。

本町の歴史ともかかわる湖西北部の本格的な製鉄は、5世紀後半にはじまる
ようである。
高島郡高島からヤマト王権の聖なる女性であるキサキの婿として迎えられて王
となった継体天皇の経済基盤は、鉄の生産と水上交通によるヤマト政権への
供給であったと考えざるを得ない。
彼がヤマト政権に迎え入れられ、高島郡マキノや今津などで本格的に鉄の大規模
生産が行われ、勝野津からヤマト王権の中心地へ運送、供給が成立したと思われる。
このような製鉄工場は、間もなく比良山地でも操業され、志賀の小野に残るタタラ谷
や比良山地の金糞峠などの地名はかってこの地が製鉄工場であったことを示唆
している。

武器や農具など鉄需要の高まりとヤマト政権とのつながりの深さ、比良山系の豊富な
木材などが大きな要素となって湖西でも本格的な製鉄が進められたのかもしれない。
先ほどの調査でも、言っているが、近世、独占的になされた中国地方の砂鉄に
よる製鉄のイメージが強すぎるためか、例えば、司馬遼太郎の鉄についての記述でも
中国地方がほとんど、近江での製鉄については、脚光を浴びることがなかったものの、
この地域での製鉄の歴史への関与がそれなりにあったという歴史的な事実は
再認識すべきかもしれない。
しかし、製鉄が近世まで続き、繁栄をしてきた奥出雲のたたら製鉄の紹介を読むと、
湖西地域の製鉄が繁栄していった場合の怖さも感じる。
たたら製鉄には、砂鉄の他に、大量の木炭の確保が不可欠であった。
このため、森の修復には、30年以上かかるといわれ、雨量の少ない地域では
百年単位であろうし、修復できない場合もあるようだ。さほど雨量が多いと
言えない湖西では、近世までこのような製鉄事業ができたか、は疑問だ。

2016.04.29

志賀、鉄への想い一

宮本常一の「塩の道」は生活の必需品であった塩がどのように広まったか、
それに対して人々はどのように対応してきたか、を考えさせられるきっかけ
であった。さらに、塩以上に社会の拡大に大きな役割を果たしていった鉄についても
同様の疑問が出てきた。「鉄」は、どのように広がっていったのであろうか。
さらに、この湖西、志賀、地域は古代鉄生産ではかなりの有力な地域であったと、
志賀町史などに書かれている。まだまだ浅学非才のレベルであるが、少しでも
その認識を深めていきたい。

1.志賀での鉄生産とは、
志賀町史では、以下の記述をベースに、その場所の探査なども含め、
鉄への想いを深める。
「比良山麓の製鉄遺跡は、いずれもが背後の谷間に源を持つ大小の河川の
岸に近接してい営まれている。比良の山麓部の谷間から緩傾斜地にでた
河川が扇状地の扇頂に平坦部をつくるが、多くの遺跡はその頂部か斜面
もしくは近接地を選んでいる。、、、、、
各遺跡での炉の数は、鉄滓の分布状態から見て一基のみの築造を原則
とするものと思われる。谷筋の樹木の伐採による炭の生産も、炉操業
にとまなう不可欠な作業である。この山林伐採が自然環境に及ぼす
影響は、下流の扇状地面で生業を営む人々にとっては深刻な問題であって
そのためか、一谷間、一河川での操業は一基のみを原則とし、二基ないし
それ以上に及ぶ同時操業は基本的になされなかったものと思われる。
各遺跡間の距離が500メートルから750メートル前後とかなり画一的
で、空白地帯を挟む遺跡も1から1.5キロの間隔を保っていることから、
あるいはその数値から見て未発見の炉がその間に一つづつ埋没している
のではないかと思わせるほどである。、、、、
本町域には現在12か所の製鉄遺跡が確認されている。いずれの遺跡も、
現地には、精錬時に不用物として排出された「金糞」と呼ばれる鉄滓
が多量に堆積している。なかにはこの鉄滓に混じって、赤く焼けたスサまじり
の粘土からなる炉壁片や木炭片なども認められ、その堆積が小さなマウンド
のようにもりあがっているものさえある。
本町域の製鉄原料は砂跌ではなく、岩鉄(鉄鉱石)であったように思われる」。

更には、
「また、木之本町の古橋遺跡などの遺跡から想定すると製鉄の操業年代は、
6世紀末と思われる。
続日本記には、「近江国司をして有勢の家、専ら鉄穴を貪り貧賤の民の採り
用い得ぬことをきんだんせしむ」(天平14年743年12月17日)とある。
また日本書紀の「水碓を造りて鉄を治す」(670年)も近江に関する
製鉄関連史料と見ることも出来るので、七世紀から八世紀にかけては
近江の製鉄操業の最盛期であったのであろう。

本町域にはすくなくとも20基以上の炉があっておかしくない。
是には一集団かあるいは適宜複数集団に分かれた少数の集団が操業していた。
さらに近江地域では、本町域他でも十個ほどの製鉄遺跡群が7,8世紀には
操業していたようである」ともある。
記述のある念仏山の弁天神社周辺は、小さな水の流れがあり、その水音だけでも
落ち着くところであるが、鉄滓らしきものもその小川の中に見られる場合もある。
「本町域の比良山麓製鉄遺跡群を構成する多くの遺跡の共通する大きな特徴の
一つは、そのなかに木瓜原型の遺跡を含まないことである。木瓜原遺跡では
一つの谷筋に一基の精錬炉だけではなく、大鍛冶場や小鍛冶場を備え、製錬から
精錬へ、さらには鉄器素材もしくは鉄器生産まで、いわば鉄鉱石から鉄器が
作られるまでのおおよそ全工程が処理されていた。しかし、この一遺跡
単一炉分散分布型地域では、大鍛冶、小鍛冶に不可欠なたたら精錬のための
送風口であるふいごの羽口が出土しないことが多い。本町域でもその採集は
ない。山麓山間部での製錬の後、得られた製品である鉄の塊は手軽に運び
出せるように適度の大きさに割られ、集落内の鍛冶工房で、脱炭、鉄器生産
の作業がなされる。小野の石神古墳群三号墳の鉄滓もそのような工程で
出来たものである。しかし、この古墳時代には、粉砕されないままで、河内や
大和に運ばれ、そこで脱炭、鉄器生産がなされるといった流通形態をとる
場合も多くあった。、、、、」。

また、平成6年から8年の調査では、14基の製鉄遺跡が確認されたという。
志賀町史の内容と少し違う点があるが、これらを読み比べてみるのも面白い。

北から北小松の賤山北側遺跡、滝山遺跡、山田地蔵谷遺跡、南小松のオクビ山遺跡、
谷之口遺跡、弁天神社遺跡、北比良の後山畦倉遺跡、南比良の天神山金糞峠
入り口遺跡、大物の九僧ケ谷遺跡、守山の金刀比羅神社遺跡、北船路の福谷川遺跡、
栗原の二口遺跡、和邇中の金糞遺跡、小野のタタラ谷遺跡である。
更に総括として、
「各遺跡での炉の数は鉄滓の分布状態から見て、1基を原則としている。
比良山麓の各河川ごとに営まれた製鉄遺跡は谷ごとに1基のみの築造を原則
としていたようで、炉の位置より上流での谷筋の樹木の伐採による炭の生産も
炉操業に伴う不可欠の作業であった。下流での生活、環境面の影響も考慮された
のか、1谷間、1河川での操業は、1基のみを原則として2基以上の操業は
なかったと判断される。各遺跡間の距離が500もしくは750メートルとかなり
均一的であり、おそらく山麓の半永久的な荒廃を避け、その効率化も図ったとも
考えられる」。
地図に分布状況を入れていくと、なるほどと思われる。

2.日本の鉄文化の始まり
「弥生の鉄文化とその世界」の記述では、
「発掘例を見ると、鉄の加工は弥生時代中期(紀元前後)に始まったと見て
まず間違いないでしょう。しかし、本当にしっかりした鍛冶遺跡はないのです。
例えば、炉のほかに吹子、鉄片、鉄滓、鍛冶道具のそろった遺跡はありません。
また、鉄滓の調査結果によれば、ほとんどが鉄鉱石を原料とする鍛冶滓と判断
されています。鉄製鍛冶工具が現れるのは古墳時代中期(5世紀)になってからです。
鉄器の普及この弥生時代中期中葉から後半(1世紀)にかけては、北部九州では鉄器
が普及し、石器が消滅する時期です。ただし、鉄器の普及については地域差が大きく、
全国的に見れば、弥生時代後期後半(3世紀)に鉄器への転換がほぼ完了する
ことになります。

さて、このような多量の鉄器を作るには多量の鉄素材が必要です。製鉄がまだ行われて
いないとすれば、大陸から輸入しなければなりません。『魏志』東夷伝弁辰条に「国、
鉄を出す。韓、ワイ(さんずいに歳)、倭みな従ってこれを取る。諸市買うにみな鉄を
用い、中国の銭を用いるが如し」とありますから、鉄を朝鮮半島から輸入していたこと
は確かでしょう。
では、どんな形で輸入していたのでしょうか?
鉄鉱石、ケラのような還元鉄の塊、銑鉄魂、鍛造鉄片、鉄テイ(かねへんに廷、長方形
の鉄板状のもので加工素材や貨幣として用いられた)などが考えられますが、まだよく
分かっていません。
日本では弥生時代中期ないし後期には鍛冶は行っていますので、その鉄原料としては、
恐らくケラ(素鉄塊)か、鉄テイの形で輸入したものでしょう。銑鉄の脱炭技術(ズク
卸)は後世になると思われます」。
と書かれてもいます。ただ、製鉄が行われたのが、弥生時代なのか、さらに後なのか
色々と説はあるようですが、弥生時代にはまず武具として、その後、農具として
使われていったようである。これは福岡や佐賀県で出土したものからも言えるらしい。

また、鉄の生産開始を推測される以下のような記述もある。
欽明天皇記に「鉄屋(くろがねのいえ)を得て還来り」とあるのは、朝鮮半島の戦いで
製鉄の工人を連れ帰ったことという考えもあるようだ。
農耕経済を中心とした弥生文化が急速な発展をし、全国的に鉄器が広がるにつれて、
農産物の生産量が増え、さらに経済力は強まった。これにより集落が小国家の
ような組織体となり、原始的な国家形成へと進んだ。
このため、鉄は、武具、農具としても重要な役割を果たしていく。

2016.04.22

外国人の見た日本人と日本文化

桂離宮の紹介で有名なブルーノ・タウト、多くの小説を書いた小泉八雲、
さらには滋賀に関係の深いフェノロサら、彼らの見た日本人と日本文化への
傾聴、傾倒から日本のそれを違った視点で見ることが出来るのでは、と思う。

1.タウトの場合、
タウトによれば、日本文化の本質は、
「簡潔、明確、清純」にあるという。
その典型例が伊勢神宮(外宮)や桂離宮であり、そこに見出される本質は、
日本各地に根づく伝統的な日本家屋や工芸品、さらには一般庶民の生活
様式の中に生き続けているといっている。
ブルーノ・タウトは「画帖 桂離宮」のなかで「部屋そのもの調和的な落ち着きは、
言葉ではとうてい言い表すことができない。わずかに用材、塗装、極めて
控えめな襖絵、また襖絵のないところでは襖紙、これらの見事な調和を語る
のがせいぜいである。

外国人の目にいかにも珍しく思われるのは、障子を閉めきった部屋には深い
静けさを湛えているのに、障子をあけると絵のような庭があたかも家屋の
一部ででもあるかのように突然、私たちの眼の前に 圧倒的な力をもって現れ
出ることである。一般に部屋の壁面は庭の反射を映じるようにあらかじめ
考慮せられている。そしてこのことは部屋全体にとって支配的な意味を持ち、
庭の光はくすんだ金銀の色の襖紙に強く反射するからである、と書いている。
さらには、都市の街並みに関しても、その醜悪さ、絶望的な全体感、など多く
の日本を理解する外国人たちが酷評する一方、地方の町村の家並みに関しては、
日本の伝統が生きているがゆえに高い評価となっている。

これはタウトの時代でなくとも、蜘蛛の巣の如くはりめぐらされた電線と複雑
怪奇な原色の看板が立ち並ぶ街中では今でも変わりなくその絶望的な景観
をさらしている。
タウトにとっての日本美は、神道にもとづく様式にあり、仏教伝来と共に入ってきた
中国由来の装飾的な様式は「未消化の輸入品で日本的でない」と見做す。

しかし、日本の民芸の良さを積極的に推し進めた柳宗悦とは多少の食い違いを
見せていた。その場の記録は残っていないのだが、のちにタウトが「柳の民芸」に
文句をつけたことは「げてものかハイカラか」というエッセイに残っている。
タウトは柳にもリーチにも敬意を払っていたし、とりわけ浜田庄司、富本憲吉、河井
寛次郎らの陶芸を褒めていた。なかでも富本の陶芸趣向を絶賛していた。しかし
「柳の民芸」には、使いっぱなしの「使い勝手の味」ばかり求めている傾向が強すぎて
「それらが持つ質感」が追求されていない物だとみなしたのだ。一方、柳のほうも
タウトのデザインは「頭から生まれている」という不満をもっていた。
このタウトと柳の食い違いには、なかなか興味深いものがある。
しかし、タウトの場合は、やはり他国人の視点、文化視点の違い、が
強いのでは、と感じる。

これは、柳宗悦の「手仕事の日本」の一文からも垣間見られる。
「、、、、さてこういうような様々な品物が出来る原因を考えて見ますと、
2つの大きな基礎があることに気付かれます。一つは自然であり、一つは
歴史であります。自然と言うのは、神が仕組む天与のもであり、歴史と
言うのは人間が開発した努力の跡であります。どんなものも自然と人間との
交わりから生み出されていきます。
中でも、自然こそは全ての物の基礎であるといわねばなりません。その力は
限りなく大きく終わりなく深いものなのを感じます。昔から自然を崇拝する
宗教が絶えないのは無理もありません。自然を仰ぐ信仰や山岳を敬う信心は
人間の抱く必然な感情でありました。、、、、、、

前にも述べました通り、寒暖の2つを共に育つこの国は、風土に従って多種
多様な資材に恵まれています。例を植物にとるといたしましょう。柔らかい
桐や杉を始めとして、松や桜やさては、堅い欅、栗、楢。黄色い桑や黒い黒柿、
節のある楓や柾目の檜、それぞれに異なった性質を示してわれわれの用途を
待っています。この恵まれた事情が日本人の木材に対する好みを発達させました。
柾目だとか木目だとか、好みは細かく分かれます。こんなにも木の味に心を
寄せる国民は他にないでしょう。しかしそれは全て日本の地理からくる
恩恵なのです。私たちは日本の文化の大きな基礎が、日本の自然である事を
見ました。何者もこの自然を離れて存在することが出来ません」。

更には、和辻哲郎の指摘にも相通じる。
「この日本民族気概を観察するについては、まず、我々の親しむべく
愛すべき「自然」の影響が考えられなくてはならない。
我々の祖先は、この島国の気候風土が現在のような状態に確定した
頃から暫時この新状態に適応して、自らの心身状態をも変えて行った
に違いない。もし、そうであるならば、我々の考察する時代には、既に、
この風土の自然が彼らの血肉に浸透しきっていたはずである。
温和なこの国土の気候は、彼らの衝動を温和にし彼らの願望を
調和的にならしめたであろう」と。
そして、美濃和紙や各地の和紙、有田から備前などの焼き物、木曾檜の
木工品など結構好きで、旅したときはその地方の工芸品を見たり、
買ったりしてきたが、それらがその地域の自然と切り離しては、成り立たない、
と言うことをその度に、感じたものである。

2.小泉八雲のばあい
彼の「日本の面影」からいくつかの面白い一文が見られる。これらから
今の我々を見るとどうなのであろうか。
「神道は西洋科学を快く受け入れるが、その一方で、西洋の宗教にとっては、
どうしてもつき崩せない牙城でもある。異邦人がどんなにがんばったところで、
しょせんは磁力のように不可思議で、空気のように捕えることのできない、
神道という存在に舌を巻くしかないのだ」。
特にキリスト文化の中で育まれた彼らにとって、万物がすべて、神という考え、
そのものがまず理解できないのではないだろうか。

更には、
「この村落は、美術の中心地から遠く離れているというのに、この宿の中には、
日本人の造型に対するすぐれた美的感覚を表してないものは、何ひとつとしてない。
花の金蒔絵が施された時代ものの目を見張るような菓子器。飛び跳ねるエビが、
一匹小さく金であしらわれた透かしの陶器の盃。巻き上がった蓮の葉の形をした、
青銅製の茶托。さらに、竜と雲の模様が施された鉄瓶や、取っ手に仏陀の獅子の
頭がついた真鍮の火鉢までもが、私の目を楽しませてくれ、空想をも刺激してくれる
のである。実際に、今日の日本のどこかで、まったく面白味のない陶器や金属製品
など、どこにでもあるような醜いものを目にしたなら、その嫌悪感を催させるものは、
まず外国の影響を受けて作られたと思って間違いない」。

旅する中で、特に近世などから栄えた街の中で見る家並み、ふと出された茶器の彩と
形に懐かしい心を感じるときがある。八雲は、それを自身の生活と地元の人々との
肌触りから感じたのではないだろうか。
「日本人のように、幸せに生きていくための秘訣を十分に心得ている人々は、他の
文明国にはいない。人生の喜びは、周囲の人たちの幸福にかかっており、そうである
からこそ、無私と忍耐を、われわれのうちに培う必要があるということを、日本人
ほど広く一般に理解している国民は、他にあるまい」。
この心のDNAは確かに受け継がれている。しかし、少しづつそれも消し去られよう
ともしている。

3.日本人の心を守ったフェノロサ
明治という変革と混乱の中で、廃仏毀釈という愚行を止めさせ、仏像や日本画を中心
とする日本文化の素晴らしさを日本人にあらためて認識させたのが、彼である。
特に、廃仏毀釈の大波にもまれていた日本、仏教文化は壊滅的な状態であった。
岡倉天心の言葉でいえば、「遺跡は血に染まり、緑の苔まで生臭い、鬼や霊が
古庭で吠えている」。明治という今までの社会の慣習、体制、文化が消えて行き、
仏像や仏教も消えてもよいのでは、という考えがあった情勢の中で、
実体としての仏像が壊されていくという現実があった。
明治維新後の日本は盲目的に西洋文明を崇拝し、日本人が考える“芸術”は
海外の絵画や彫刻であり、日本古来の浮世絵や屏風は二束三文の扱いを受けていた。
写楽、北斎、歌麿の名画に日本人は芸術的価値があると思っておらず、狩野派、
土佐派といったかつての日本画壇の代表流派は世間からすっかり忘れ去られていた。
世相としても、例えば、当時の日本人について、ベルツの日記では、
「今の日本人は過去についてしきりに恥じている。中には、我々日本人に歴史
はありません。今から始まるのです、と言う人さえいる」と書かれている。
フェノロサ、岡倉天心は、日本人の精神がよりどころをなくし、その精神が浮遊する
ということを嘆き、フェノロサは「日本の伝統美術は西洋に匹敵する」と説いた。
これらにより、「日本独自の文化と精神にしっかりとした誇りを持つことが西洋と
対等に付き合うこととなる」とあらためて明治政府や関係者の意識の見直しを迫った。
彼の業績の1つに、法隆寺・夢殿の開扉がある。
内部には千年前の創建時から『救世(くせ)観音像』(等身大の聖徳太子像)がある
ものの、住職でさえ見ることができない“絶対秘仏”だった。法隆寺の僧侶達は、「開
扉すると地震が襲いこの世が滅びます」と抵抗したが、フェノロサは政府の許可証を
掲げて「鍵を開けて下さい!」と迫った。押し問答を経てようやく夢殿に入ると、
僧侶達は恐怖のあまり皆逃げていった。観音像は布でグルグル巻きにされている。
フェノロサは記す。
「長年使用されなかった鍵が、錠前の中で音を立てた時の感激は、何時までも
忘れることが出来ない。厨子(仏像のお堂)の扉を開くと、木綿の布を包帯
のように幾重にもキッチリと巻きつけた背丈の高いものが現れた。
布は約450mもあり、これを解きほぐすだけでも容易ではない。ついに巻きつけてある
最後の覆いがハラリと落ちると、この驚嘆すべき世界に比類のない彫像は、数世紀を
経て我々の眼前に姿を現したのである。
救世観音は穏やかに微笑んでいた。立ち会った者はその美しさに驚嘆し声を失う。
世界は滅ばなかった」。
また、私の好きな聖林寺の十一面観音もまたフェノロサによって1887年に秘仏
の封印が解かれた。
三井寺法明院の緩やかな小路を杉の木立ちの木漏れ日の中を進むとそれほど大きいとは
言えない彼の墓所をみる。木製の日本語の案内板と英文で書かれた石碑の奥、静寂の
なかにフェノロサの墓石がひっそりとたたずむ。滋賀の人間として琵琶湖を愛し、
仏に帰依した彼に感動を禁じ得ない。

4.そのほか
イザベラ・バードは明治の初めに日本に来た。その「日本紀行」には、当時の日本人の
生活と我々の心根が描かれている。
「上陸してつぎにわたしが感心したのは、浮浪者がひとりもいないこと、そして通り
で見かける小柄で、醜くて、親切そうで、しなびていて、がに股で、猫背で、胸の
へこんだ貧相な人々には、全員それぞれ気にかけるべきなんらかの自分の仕事という
ものがあったことです」。
さらに、
「日本の女性は独自の集いを持っており、そこでは実に東洋的な、品のないおしゃべり
が特徴のうわさ話や雑談が主なものです。多くのことごと、なかんずく表面的なこと
において、日本人はわたしたちよりすぐれていると思いますが、その他のことにおいて
は格段にわたしたちより遅れています。この丁重で勤勉で文明化された人々に混じって
暮らしていると、彼らの流儀を何世紀にもわたってキリスト教の強い影響を受けて
きた人々のそれと比べるのは、彼らに対してきわめて不当な行為であるのを忘れるよう
になります。わたしたちが十二分にキリスト教化されていて、比較した結果がいつも
こちらのほうに有利になればいいのですが、そうはいかないのです」。
当時の日本人の心根、立ち振る舞いがそこはかとなく伝わってくる。

ファン・オーフルメール・フィッセルの「日本風俗備考・1」には考えさせられる。
「日本人は完全な専制主義の下に生活しており、したがって何の幸福も満足も
享受していないと普通想像されている。ところが私は彼ら日本人と交際してみて、
まったく反対の現象を経験した。
専制主義はこの国では、ただ名目だけであって実際には存在しない。、、、、
自分たちの義務を遂行する日本人たちは、完全に自由であり独立的である。奴隷制度
という言葉はまだ知られておらず、封建的奉仕という関係さえも報酬なしには
行われない。
勤勉な職人は高い尊敬を受けており、下層階級のものもほぼ満足している。
、、、日本には、食べ物にこと欠くほどの貧乏人は存在しない。また上級者と下級者
との間の関係は丁寧で温和であり、それを見れば、一般に満足と信頼が行きわたってい
ることを知ることができよう」。
これは江戸時代訪れた彼の言葉である。今に照らしてみていかがであろうか。
イザべラの言葉と合わせ感じるのは、素朴さと勤勉さであろう。今日、われわれが
失いかけているものでもある。

2016.04.14

志賀の里、清明穀雨のころ

猫たちとこの里を感じる。

雲が全てを覆い隠していた。
比良山系の頂のいまだ残る雪もまったくその雲の中に隠れ、わずかに杉の木立ちが
山の瀬戸際の切れ切れの底から顔を出している。
湖も一番手前の砂浜をわずかに見える程度で立ち尽くす雲の群れの中に隠されていた。
春を迎えるに辺り自然も色々と都合があるのであろうか、寒い冬の日と暖かい
春の日を交互に人間界に見せてくる。それは少し湿っているが、霞んだ蒼い空と
雨の日を交互に見せても来るのと同じ理由かもしれない。

清明は、4月5日ごろ。万物がすがすがしく明るく美しいころだ。
「暦便覧」には「万物発して清浄明潔なれば、此芽は何の草としれるなり」と
記されている。ここから西の地方では、様々な花が咲き乱れ、お花見シーズンになる。
全てが柔らかな光に照らされ、早朝の比良の山には、うっすらとした霞がたなびく。
春霞の中、樹々に清々しい新緑が芽吹きはじめる。その中で、山椒の花が開花し、
このごく短い期間に自宅で手摘みされた花山椒は、収穫もわずかで貴重な季節の
食材となり、やがて来る色とりどりの食べ物への先駆けとなる。

ラジオから河口恭吾の桜が流れている。
「僕がそばにいるよ 君を笑わせるから 桜舞う季節かぞえ 君と歩いていこう
 、、、、、
 まぶしい朝は何故か切なくて 理由をさがすように君を見つめていた
 涙の夜は月の光に震えていたよ
 二人で
、、、、、、、、、
いつもそばにいるよ 君を笑わせるから やわらかな風に吹かれ
君と歩いていこう、、、、、
君がいる 君がいる いつもそばにいるよ」

そして、この歌のような清純な世界とは対極にある生存への涙ぐましい世界もある。
春は冬の間凍りついていた多くの活動を一斉に解き放していた。
外の少し残る肌寒さが我が家では、一段とその強く感じられるが、若きエネルギーの
充満する家ではむしろ心地よい日々なのかもしれない。
そして、「桜」と言うこの季節には極めて多くの思い出を残すキーワードも徐々に
眼につき始めている。残念ながら我が家の桜はさくらんぼであり、その花と実を
つけるのはもう少し時間が必要であるが、世間は桜と多くの花々の到来を
告げ始めていた。
・桜さく比良の山風吹くままに
 花になりゆく志賀の浦なみ     御京極
・桜咲く比良の山風ふくなへに
 花のさざ波寄する水海       大納言定国

更には、ドナルド・キーンの言う、
「美の本質的要素としての、この非永続性は、長い間日本人によって、暗黙の
うちに重視されてきた。開花期が長い梅や、ゆっくりしおれてゆく菊
よりも、早々と散り果てる桜の方が、はるかにこの国で尊ばれるゆえん
である。西洋人は、永遠の気を伝えんがために、神々の寺院を大理石
で建てた。それに反して伊勢神宮の建築の持つ本質的な特色は、その
非永続性にほかならない」を、かみしめる頃でもある。

また、二十歳を超えたであろう老猫もいう。
「もう考えるのも面倒くさいほどの昔は、この辺も湖と比良山と周辺の森や林
だけだった。見えるのは、お寺と萱葺の家が数10軒肩を寄せ合うようにある
だけだったし、俺たちも近くの漁港の余った魚をノンビリと食べて変わらぬ
日々を過ごしていた。周りの景色も白と灰色の世界からこの時分は畑の緑が
少し色をつけ、やがて緑色一色になり、一面が色とりどりのカラーの世界、
動物と植物が支配し、人間は片隅で動いていた。そんなのが同じ様に続いたよ。
白さ舞う冬からピンクや薄緑の草木の春となり、燃え立つ緑と湖のコントラスト
の強い夏、最後には抜ける蒼さの下に広がる赤や黄色の秋、それが限りなく
続いていた」。40年ほど前まではその様々に色を変え、姿を変える自然の
中を茶色に塗られた2両続きの木造列車が走り抜けていた、と言う。

今の様なコンクリートのそっけもない列車ではなく、まるでどこでも乗り降り
自由なそのごとごとした揺れと音の列車は猫たちにとっても楽しい動くモノ
でもあった。初めはそのような動くモノに警戒したものの、やがて猫たち
にとっても、それを見ることが一つの楽しみとなった。
菜の花が咲き乱れる中を、桜が舞い落ちる季節を、雪が吹き付ける寒空の下を、
しっとりと降り注ぐ雨の中を、比良山と琵琶湖の間を縫うように毎日欠かさず
走るその姿に一種の感動を覚えるのだ。
さらに、「それは今も続くけど、やがて丘に沿って人間の家が上へ上へと伸びて
グロテスクな世界が支配し始めたし、田圃や畑も姿を変えていったね、
面白くないけど」。

だが、生活の中に琵琶湖と比良の山並が滑り込んで、その古さと新しさの調和
を活かしている場所でもある。多くの古代文化の遺跡や古墳など形あるものは、
数百年の時により、消え去り埋没したかもしれないが、人は人をベースとする文化
は継続して残っていくし、自然も、皆生きていく。
千年前、都人が愛でたであろう情景は、今もここにある。

穀雨(こくう)とは、二十四節気の第6番目であり、4月20日ごろである。
田畑の準備が整い、それに合わせて春の雨の降るころであり、穀雨とは、
穀物の成長を助ける雨のことである。そして、穀雨の終わりごろ(立夏直前)
に八十八夜がある。春雨が地面に染み入り、芽を出させる頃となり、各地の
竹林では筍が収穫の時期を迎える。街の奥にある竹林でも、筍が元気な姿を
見せる。筍の魅力は、春を感じる独特の香りとコリコリとした独特の歯応え
であり、それを楽しむ方法はここの郷土料理にはたくさんあるが、中でもよく
親しまれているのが佃煮。細かく刻み、木耳(きくらげ)や椎茸などと混ぜ
合せることで、食感が更に引き立つ。その味は、食べたものでしか分からない。

すでに彼方此方から桜の開花や花見の様子が伝えられていたが、このあたりは
少し遅い様で穀雨前後に桜も満開となる。公園や坂を少し下った道沿いの桜も
まだ固く蕾のままである。
しかし、農作業はすでに始まり、田圃にも水が張られ、気の早い蛙は日夜その
独唱に励んでいる世でもある。水を湛え始めた田圃にも生気が蘇り、畦道にも
命の息吹が見えていた。ハコベの緑に加えタンポポの小さな黄色が幅を利かして
いたし、紫の小さな花々がその横に一団となって咲いている。
気の早い人はすでにトラクターの騒がしい音を畑や田圃一杯に響かせている。

猫たちは、地元の長老猫から聞いたすでに数週間前には終わっていたが、
比良八講の様子をまるで本人がその場で見てきたかのように話すのを春の
まどろみの中で、うつらうつらと聞いていた。

その日3月26日の様子は、
近江舞子は白く長い砂浜と幾重にも重なるように伸びている松林に静かな時間を
重ねていたね。冬の間は、この砂の白さも侘しさが増すのであるが、比良山系の
山に雪が消えるこの頃になると一挙に明るさを取り戻すようだ。
山々もここから見ると蓬莱山、武奈岳などが何層にも重なり合い和邇から見える
景観よりも変化に富んだ顔を見せる。その幾層もの連なりには微かな雪化粧が
残っているものの、すでに木々の緑がそのほとんどを支配し始めていたよ。
途中で、子供たちの声とともに和太鼓の激しい響きが聞こえてきた。
その響きにあわせてやや凹凸のある道を進んでいくと、左手に紅白の幕が風に
揺られるように手招きしている。そして、松林の切れたその光を帯びた先に護摩法要
のための杉の枝を積み上げた小山が見えた。小山といっても2メートルのほどの
高さのものであるが、周囲をしめ縄で仕切られ、祭壇が置かれているのを見ると、
比良八講の四字がたなびく旗とともに目の前に大きく浮かんでくる。

護摩壇の先には、蒼い湖が広がり沖島の黒い姿が見えている。陽射しはこれら全てに
容赦なく注ぎ込まれ、更なるエネルギーを与えているようにも感じられた。
やがて、法螺貝とそれに先導された僧や行者が念仏を唱える音、人のざわつきの音、
道を踏みしめるなどの様々な音とともに横を緩やかな風とともに通り過ぎていった。
そして、それに連なる祈祷を受ける人々の一団が思い思いの歩みで現われる。
背筋をキチンと伸ばしただ一直線に護摩法要の祭壇を見ている老人、数人で
談笑しながら歩む中年の女性たち、孫と手を携えている老婆、各人各様の想い
が明るく差し込む木洩れ陽の中で踊っているようだ。
俺も隠れながらその集団についていった。

そこには、信仰の重さは感じられないけど、明るさがあったね。
法螺貝が止み一つの静寂が訪れ、次へと続き僧や修験者の読経が始まり、
やがてあじゃりの祈祷となる。あじゃりの読経する声は1つのリズムとなり、
護摩法要の祭壇を包み込み、その声が一段と高まり、水との共生をあらためて
想いの中に沸き立たせていく。その声が参列する人の上を流れ、蒼い空の下でやや
霞を増した比良の山並に吸い込まれていく頃、護摩木を湛えた杉の小山に火
がかけられいくんだ。
杉の小山から吐き出される煙はその強さと濃さを増しながら青き天空へと消えて
行くが、その煙が徐々に渦を巻き、龍がとぐろを巻くが如き姿となっていく。
下から燃え上がる炎と渦を巻き上げながら舞う煙が一体となって龍の姿を現し、
ゴーと言う音ともに比良の山並みに向かっていく。ここに護摩法要は最高潮となり、
周りを取り巻く人々も跪き般若心経を唱え始める。俺は無信仰だから横で
様子を見ていただけど、人間も結構いいことするな、と想ったよ。

雨がやみ、それと同時に自然界に新たな成長の季節が訪れた。
松尾芭蕉も詠んでいる。
山々にかこまれた春の琵琶湖の大観を一句に納めたものとして、
「四方より花吹き入れて鳰の海」、春の琵琶湖である。
木々や草花はいっせいに華やかな色彩とかおりをまき散らし、トチノキの
枝は小刻みに震えながら、円錐形の花キャンドルを支えていた。
白いヤマニンジンの花笠が道端をびっしりと覆っている。つるバラが
庭塀を這いあがり、深紅のシャクヤクがテッシュペパーのような花弁
開いている。りんごの木は花びらを振り落としはじめ、その後にビーズ
のような小さな実をのぞかせている。

比良の若葉山の姿は、やはりこのあたりから見るのが良いように思った。
山並みの傾斜と直立する杉の木々との角度、これに対する見るものの位置が
あたかもころあいになっているのである。
その上に昔もこの通りであったととも言われぬが明るい新樹の緑色に混じった
杉の樹の数と高さがわざわざ人が計画したもののように好く調和している。
猫たちの考えでは、山は山の自然に任せておけば、永くこの状態は
保ちえられると思っている。琵琶湖の水蒸気はいつでも春の木々を紺青にし、
これを取り囲むような色々の雑木に花なき寂しさを補わしめるような複雑な
光の濃淡を与える。山に分け入る人は、単によきときに遅れることなく、
静かに昔の山桜の陰に立って、鑑賞しておりさえすればよいのであって、
自然の絵巻きは季節がこれを広げて見せてくれるようになっているのだ。

そんな事を考えながら、雑木林を抜け、街のはずれの竹林の中を落ち葉の
かさかさする音と踏みしめる足元の心地よさを味わっていた。
通り過ぎる家々の壁はその陽射しの中で新しい灰色、キチンと刈り込まれた
生垣の緑色、庭の芝生も黄緑の色を濃くしていた。それに対抗する様にユキヤナギ
の木々が5弁で雪白の小さな花を枝全体につけてその白さを誇っているよう
に繁っている。雑草が一本も生えていない花壇には、クロッカスの紫の花が
行儀よく2列をなしている。家々は春の装いの最中なのだ。

2016.04.08

ドナルド・キーン百代の過客より日本人の心を見る

旅行記はその地方の特質も見せるが、日本人の考えや行動もそこから
垣間見られる。「百代の過客」は、そのような想いから日本人の共通的な
意識を探し求めている。

「終わりより」には、以下の彼の想いが書かれている。
「私が日記に心を向けたのは、今日私が知る日本人と、いささかでも似通った
人間を、過去の著作の中に見出す喜びのためだったのである。最も優れた
日記は、その著者を最もよく表し、逆に最もつまらぬ日記は、先人の日記や
詩歌から学んだ歌枕の伝統を、ただいたずらに繰り返すのみである。
日本人はいにしえより今日に至るまで、読書によって知悉する風景を
己自身の目で確かめ、ところの名物を己も口にすることに、格別の喜びを
抱いてきた。1人ならずの批評家が、日本人は、文学から吸収した先入主
なしに、景色を眺めることもない、といったことがある。それは誇張という
ものであろう。だが、どこもかしこも同じ場所ばかり見ての印象をそれぞれ
並べ立てる、東海道の旅を描いた日記の数々を読むとき、そのような説にも
つい同意したくなってくる。年毎の年中行事であれ、また先輩歌人に詠われた
がゆえに名のでた地への旅であれ、体験の繰り返しこそ、まことに日本人
特有の習癖なのである」と言っている。
ここに選別された平安から江戸時代までの様々な旅日記は、現在の日本人にも
相通ずる点が多く、変わらぬ日本人の性向を感じることにもなる。

まず、中務内侍日記の中でキーンが言っている以下の言葉は、彼の底辺意識にある
基本なのであろうし、多くの日本人も感じていることでもあろう。
「美の本質的要素としての、この非永続性は、長い間日本人によって、暗黙の
うちに重視されてきた。開花期が長い梅や、ゆっくりしおれてゆく菊
よりも、早々と散り果てる桜の方が、はるかにこの国で尊ばれるゆえん
である。西洋人は、永遠の気を伝えんがために、神々の寺院を大理石
で建てた。それに反して伊勢神宮の建築の持つ本質的な特色は、その
非永続性にほかならない」。

彼は松尾芭蕉の「野ざらし紀行」「鹿島詣」「笈の小文」「更科紀行」
そして、「奥の細道」をあげて芭蕉の心根を深く知ろうとしている。
そして、それは日本人の持つ性向ともなるのであろう。
「芭蕉がよく旅に出かけたのは、過去の詩人に霊感を与えた自然の風光だけではなく、
路上や旅籠で行くずりに得た人間的な経験からも、自分の詩に対する新鮮な刺激を
受けたいと、おそらく望んだからであろう。日記作者としての芭蕉の成功には、
実に目を瞠らされるものがある。「奥の細道」ほど広く読まれた日本の古典文学
作品は、他にそうあるまい。
ところが芭蕉は、自分の日記を文学作品にしようという意図はを、一切否定している。
「笈の小文」では、さまざまな自分の回想を、ただ雑然と書き記しただけだといい、
したがって酔っぱらいの狂乱の言葉、眠っている人間の譫言を聞くかのように
それを読んで貰いたいと読者に乞うている。にもかかわらず、そういうこと自体
芭蕉が自分の日記を人に読んで貰いたいと期待していたことを証明している。
したがって、それは、忘れえぬ事どもを、単に自分の記憶に留めておくためにだけに
書いたものでは、決してなかったのである。
芭蕉の日記は、自己発見の表現でもあった。彼にそれを書かせたのは、「万葉集」
から今日まで、日本の文学に一貫して流れる旅を愛する心ではなく、旅の中に、
彼自身の芸術の、ひいては人として、詩人としての、自己存在の根源を見つけ出そう
とする欲求でもあったのだ。「奥」に入ろうと、白河の関を越えたあとで作った
という句「風流の初や奥の田植うた」の中には、いよいよ文学的創造の端緒に
出会ったぞ、という心の高ぶりが読み取れる。他のいくつかの日記では、
自分がなぜ詩人になったのか、また他にどのような仕事を考えてみたか、
そして自分は、詩の到達すべき最高の目標は何と信じるか、などという事柄に
関する、まことに素直な意見を述べている」。
この文章にキーンの想いのすべてが見えるようでもある。
そしてそれが、彼の見たい日本人なのかもしれない。また、この気持ちは戦後の
日本ではその影を薄くし、我々がその原点として憧れる時代への回帰でもある。

芭蕉の言葉が持つ魔術を、一言で定義するのは容易ではない。だが次のような文章を
読む時、それが感じ取られる。「三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに
有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す」。ここでは大和言葉と熟語とが、ま
さに完璧に融け合い、初期日記作者による文章と引き比べて、はるかに豊潤な肌合いと
簡潔さとを生み出している。そのくせ言葉は、読者の頭の中で、徐々に大きく成長す
るのである。

さらに、以下の3つからも日本人の性向が読み取れる。
改元紀行(大田南畝なんぽ)
彼は古くは更級日記から最新の名所図会にいたるまで、東海道に関する文献と言う
文献を手当たり次第に読み、旅に備えたという。道中名所に来ると必ず脚を留め、
其の地についての説明を傾聴している。
また、目に留まったあらゆる石碑の碑文、額の文字を、几帳面に書き取っている。
北条五代の墓石を探す。「苔蒸したけれど文字鮮明に見ゆ。後に経営いとなみ
建てしものなるべし。斉の七十余城にも劣らざりし勢いを思うに、涙も禁とどまらず」
また、詩的な描写も多い。
此処は相模伊豆の国境にして、二本の杉立てり。右は焼けたる山の如く、左は深き
谷かと危うく、踏み所の石あらじ。古木老杉木末を交えて物凄く、衣の袖も冷ややかに
打ち湿りたるに雨さえ降り出ぬ。大枯木小枯木など言う辺りより、輿の戸さし籠りて
蹲り居るに、輿かく者も石に躓き、息杖立てて漸うに下り行く。
そして日記のそここに、自伝的情報の断片を散りばめている。
今日は弥生三日なれば、故郷には孫娘の許に囲居して、桃の酒酌み交わすらしと思うに
我が初度の日にさえあれば従者に銀銭取らせて祝ひぬ。また、京都に着いた後には、
「八坂の塔の高きを見るにも、彼の浄蔵貴所の行法を試し事まで思い出される。
この辺りの人家に土の人形をひさぐ。古郷の孫の玩びにもならんかと、
一個求めて懐にしつ」。

西北紀行(貝原益軒)
巻頭の言葉より、
名区佳境の勝れたる処を見るは、只其の時暫し心を慰むるのみかは、幾年経ても
折々に、其の所々の有り様を思ひ出れば、さながら今目の前に見る心地して、
珍らかに懐かしければ、老いの身の後年まで忘られざらん為に、此年巡りし国郡
の境地を、拙き筆に任せて書き留め置ぬ。是れ身を終わるまでの思ひ出にせんとなり、
又我と志を同じくして名所に遊覧する事を始める人も、いまだ見ざる所多かんめれば、
斯かる人の為にも成れかしとて、聊いささか記して後覧に供ふる事然り。

「白河紀行」からは、 
「宗祇は彼の人生の大半を旅に過ごしている。旅は主として歌枕を訪ねたい
という願望からであった。ただ、当時このような旅の仕方をした連歌者は
少なくなかった。人とのつながりを求めていた連歌への想いが行く先で歓待を
受ける形で現れた。また、地方有力者の文化への憧れがそれを推し進めた
とも言える。
宗祇にとって、歌枕を訪ねることが最優先のことであり、どこにでも出向いた。
荒涼たる那須の荒野を行く時に詠んだ歌がある。
「歎かじよこの世は誰も憂き旅と思ひなす野の露にまかせて」
もう歎くのはやめよう、この世をわたって行くことは、自分ばかりでなく、
誰もみんな憂いつらい旅をしているようなものなのだ。そう思いなおして、
那須野の原におく露のように、はかない運命に身を任せよう」
彼はその場所がやや不明であっても、それは問題ではなかった。
彼は古歌を生み出した土地の雰囲気の中に我が身をおき、その地の持つ
特質を己自身の言葉によって、表現することが重要であったのだ。

西行もしかり、他の詩人がその詩を生み出した源泉に身を置き、新しい
霊感を見出すことによって、己の芸術を更に高めることにあった。
芭蕉も言っている。「許六離別の詞」の中で空海の書より「古人の跡を
もとめず、古人の求めたる所をもとめよ」と。
白河の関明神の神々しさに、
「苔を軒端とし、紅葉をゐ垣として、正木のかつらゆふかけわたすに、
木枯のみぞ手向をばし侍ると見えて感涙とどめかがきに、兼盛、能因
ここにぞみて、いかばかりの哀れ侍りけんと想像るに、瓦礫をつづり
侍らんも中々なれど、皆思い余りて、、」
そして、
「都出し霞も風もけふみれば跡無き空の夢に時雨れて」
「行く末の名をばたのまず心をや世々にとどめん白川の関」、、」とある。

本書を通じてキーンも書いているが、貫之も和泉式部も宗長も芭蕉も、べつだん
目新しいことをしたいなどとはまったく思っていない。古人が求めるところの
ものを辿って求めたい。まずそこなのだ。
「先人によって見逃された風光に初めて着目する野望は、毛筋ほども持ち
合わせなかった。それどころか、昔の歌に詠まれた所でなければ、いかに
壮麗無比の風景であろうと、芭蕉の感興を唆ることはなかったのである」と書く。
そこに新しい知性が微妙にはたらいていることを感じたいわけなのだ。
歌枕の作用というもの、花鳥風月というもの、旅の漂泊というもの、時の景気
というものが加わって、さらに和歌や俳諧の律動が胸をつくとき、日本人は
日記にさえ「風雅の直なる交ひ」を綴りたくなるのだ。

2016.01.23

比良で頑張る人たち

比良はほかのブログでも詳細に描いているが、この自然に恵まれた石の里を
より広く知ってもらうため頑張っている「比良の里人」というNPO法人がある。
何げなく過ごしている中にも、地域の資産は多くあるもの、このグループの
活動からはそんな示唆をもらえる。

1.「比良の里人」について
「比良の里人」という名前には、「比良の景観を愛し、その麓に暮らす“里人”として
人と人のつながりを大切にしてゆきたい」という思いが込められている。
この法人を立ち上げるにあたっては、 
「滋賀県の西部に聳える比良山系は標高1000メートルを超える山々が連なり琵琶湖
を臨んでいる。そしてその麓には棚田が築かれ、人々は長い歴史を自然と共に暮してき
た。日本の里山を象徴するような、この景観は日本人の原風景とも言える。
しかし今この景観が大きく失われてきている。これは、第1次産業の衰退、土地の
乱開発、地域コミュニティの喪失など、景観を維持してきた人々の暮らしに
大きな変化が生じている為とも思っている。
私たちは、営々として築かれてきたこのすばらしい景観を後世に残す為の調査や、
地域での社会教育・まちづくり・環境保全の推進事業、学術・文化・芸術・スポーツの
振興事業、更には地域の自立を目指した経済活動の活性化事業及び福祉の推進事業など
を展開することで、比良山麓の豊かな自然と景観を活かした未来の地域を創造し、
社会に寄与していきたい」と考え、この組織を設立した。

今もこの考えに沿って会員や地域の支援者とともに活動を進めているといわれる。

既に法人となって10年が経過した(平成17年4月設立)が、「比良の里人」
として、頑張ったのが法人設立記念に催した「比良里山まつり」であったという。
放置林の間伐、休耕田の再生、地域の魅力の再発見。市街地域にはない魅力や
景観がここにはある。市街地に住む人たちとの交流を通じて、多くの人に比良の
魅力を知ってほしいと思っている。このため、「花畑事業」と「放牧事業」の
二つの事業を取り組んでみた。
いずれも休耕田の有効利用のアイデア募集で採択された事業で、比良の自然な生態系に
配慮しつつ、経済性と持続性を考えたものである。「ここは古くから石の文化が栄えた
ところ。景観は人が自然とのかかわりあいの中でつくっていくもの。景観も文化も
所詮は人の為せる業、とメンバーは語る。

2.比良の里を少し紹介
それでは、この比良の里を少し見て行きたい。

比良の里は、大津市の北部、比良山系の麓に広がり、今でも、琵琶湖との間に
豊かな自然を残している。この自然とのつながりが身近に感じられる里に魅かれて、
様々な職業の人が多く移住して来ている(これについては以前のレポート
「かんじる比良」で伝えている)。豊かに湧く比良山系からの水が幾筋もの川を
つくり、四季折々に様々な色合いを見せる木々の群れ、更には、古代から大陸から
の交通の要衝、文化の中継地でもあり、比叡山の仏教文化の影響や比良三千坊
と言われる寺院が散在し、歴代の天皇が祭祀したという神社など、多くの神社仏閣
とともにかっての文化集積の地でもある。司馬遼太郎の「街道をゆく」の第一巻が
この比良の里周辺から書き始められているのは、偶然ではないのであろう。

また、比良八荒と呼ばれる春を告げる強い風の里でもあり、比良山系を通ってきた
清らかな水が湧き出る里でもある。
さらには、石の里でもある。神社の狛犬、しし垣、石灯篭、家の基礎石、車石など
様々な形で使われて来た。古くは、多数存在する古墳に縦横3メートル以上の
一枚岩の石板が壁や天井に使われている。古代から近世まで石の産地として
その生業として、日々の生活の中にも、様々に姿を変え、密着してきた。
例えば、南小松は江州燈籠と北比良は家の基礎石等石の切り出し方にも特徴
があったようで、八屋戸地区は守山石の産地で有名であったし、木戸地区も
石の産地としても知られ、江戸時代初期の「毛吹草」には名産の一つに木戸石
が記載されている。

コンクリートなどの普及で石材としての使われる範囲は狭まってはいるが、石の
持つ温かさは、我々にとっても貴重な資源である。
明治十三年(1880)にまとめられた「滋賀県物産誌」には、県内の各町村における
農・工・商の軒数や特産物などが記録されているが、その中の石工に関する記述の中
で特筆すべきは、旧志賀町周辺(比良の里も含む)の状況である。
この地域では「木戸村」の項に特産物として「石燈籠」「石塔」などが挙げられている
など、石工の分布密度は他地域に比べて圧倒的である。
また、木戸村、北比良村(いずれも旧志賀町であり、現在は大津市)では戸数の中に
おいて「工」の占める比率も高く、明治時代初めにおける滋賀県の石工の分布状況
として、この地域が特筆されるべき状況であった、と言われる。
いまでも、八屋戸地区の家々の庭には、守山石と言われるこの地域で多く採れた石が
庭の石畳風景として見られるし、山からの水を引く水路や昔は洗い場として使われた
「かわと」、害獣対策としてのしし垣など生活のあらゆる場所で垣間見られる。

3.10年間の活動より
メンバーの話から活動の範囲について簡単にまとめると、

事業項目として、以下の様な活動を進めてきた。
・地域の特性を生かした自立できるまちづくり/社会環境教育
・地域の自然・文化環境の保全・回復
・第1次産業の活性化(農林業の維持育成、交流)
・景観の維持・創造
・人的ネットワークを広げる
・まちづくりの政策提言 
・自然との共生をテーマにした研究と提言
・芸術、文化の発展
などとの事。

さらに、10年間の様々な活動について色々とお話を聞いたが、その活動の広さは
まさに「この地を好きだから」が活動の原点にある様だ。

1)比良里山まつりの開催
平成17年から平成21年まで開催し、八屋戸地区の棚田を中心に様々なイベント
を実施した。

2)比良の里山の魅力探訪
日本全国で見たとき、これだけまとまった地域に大きな湖があり、山があり、多様な
環境、歴史、いろんな資源、生物があるというのは恵まれすぎる位、恵まれている所
であり、それを活用する気になれば何でもできそうなものを一地域で備えている。
これを知ってもらうため、設立当初から開催して来た。
例えば、
・南小松・里山歩き~石にまつわる文化的場所・里山の植物観察~
コース:八幡神社→天狗杉→弁財天→野小屋→トンボ車(増尾邸)→琵琶湖湖岸
「江戸時代から、南小松では200軒~300軒、ほとんどの家が石材加工業を
営んでいたが、後継者が無く、現在ではほんのわずか数える程になった。
しかし石は人々の生活に今も溶け込んでいて改めて、石材加工業の拠点であること
を実感した」という。
・比良登山・アシュウスギとブナ原生林を見に行く
比良リフト乗り場→ロープウェイ乗り換え駅→比良明神→カラ岳→八雲が原湿原
→金糞峠→アシウスギ原木→青ガレ
「岩ウチワや、シャクナゲ、においこぶし(良い匂いがします)の花がきれいで
あった。八雲が原湿原付近には、赤ハラも生育し、金糞峠の水には鉄分が染み
出していた」の感想もある。

3)石積みの川復活プロジェクト
平成20年より、びわ湖自然環境ネットワーク“石組の川復活プロジェクト”に
参画した。比良山麓をはじめ、県内各地で小河川においてもコンクリート化が
進められ、これまで使用され、保存されてきたてきた石積みの川が消滅寸前にある。
びわ湖自然環境ネットが進める石積みの川を保存するとともに、壊された所は
復元を目指す事業に参画した。
大道川の上流で石積みの残る場所に行き、現地を調査した後、樹木伐採・運搬班、
上流・下流石組補修班の2班に分かれて作業を開始。樹木伐採班は、川沿いのスギと
ヒノキの大木を伐採処理、上下流の石組班は数台の重機を使って壊れた石組みの箇所
を次々と補修し、中には直径1メートルもある大石もあったが、3箇所の主な
破壊場所を見事に補修できた。
参加者は、比良の里人、造園協会、一般・学生など計20名ほどであった。
更にこのプロジェクトは2回ほど行い、大道川の石組区間約300メートルを3回の
作業で補修を完成させることが出来た。毎回20名弱の参加者があり、楽しくしかも
しっかりとした補修となった。

4)雑木林と間伐整備作業
平成17年11月の2日間、雑木林整備事業を行った。NPO法人としての
初仕事であったが、15名ほどの会員が集まり、雨という悪条件でもあったが、
無事事故も無く終了した。

5)河川水質調査を行った。
平成18年より20年まで「身近な水環境の全国一斉調査」(みずとみどり研究会
主催)比良の里人も協力して地元の水の水質調査を行った。

6)地元をあらためて知る
・小松散策
司馬遼太郎の紀行文「街道をゆく」は旧志賀町、北小松から始まる。
地元で暮らしていても、日頃なかなかゆっくりと触れることのできない、
文化・歴史・文学の痕跡をたどりながら散策した。
他には、八屋戸などの散策も実施し、江戸時代からの三面石組水路は、歴史を感じ
させると共に、現代の近代工法であるコンクリート三面張りに比べ、性能においても
美観においても、さらに生物多様性にとってもはるかに凌いでいると再認識した。
・近江舞子内湖視察
「近江舞子ホテル」の廃業など痛手を受ける中、何かこの内湖の湖面を、観光や地域の
振興に生かせないか、ということで、水の様子、動植物の生態を水上から観察した。
現在、水質はかなり汚い。内湖の水が汚いのは、もともと富栄養化しやすく、内湖に栄
養を貯めることによって、琵琶湖の浜がきれいになるため。水をこれ以上きれいにする
ことは難しいが、これ以上汚さないようにすることはできる。
また、湿地帯 水質を浄化するヨシが枯れてきている。ヨシの背が場所によって低く
なってきていた。ヨシの間には、サギが住んでいたり、茎に卵を産みつけ魚の産卵場所
になっている。
カワセミ、カイツブリ、カメ、トンボの類もたくさんいた。内湖を景観と湖面を活かす
方法としては、タライ船を櫓でこぐ・水上運動会・中秋の名月を湖上で見る会・などな
どが案として出ていた。

7)休耕田の有効利用に向けて
平成17年より継続的にヤギの放牧事業(ヤギが雑草を食べ、同時に猿害対策にも)
と摘んでもいい花畑事業を実施して来た。
バジル苗植え付け・種まき、草抜きを実施した。
チューリップが終わり、そこにひまわりがいくつか芽をだし、周りの草抜きをした。
カモミールは可愛い白い花が満開になった、などの報告もある。
バジルはたくさんつくる予定で種まきと苗の植え付けをおこなった。
以後、いろんなハーブが花を咲かせ始め、草抜きなどを継続的に実施した。

8)生水の流れる川作り
生水(しょうず)はこの地域では、山からの恵みとして、飲み水や生活用水などに
使われて来た。平成24年よりこの生水を活かすための川作りに取り組んでいる。

9)近江舞子内湖活性化と環境学習
平成20年には、「内湖シンポジウム」を開催し、今年まで継続的にタライ舟
に乗った環境学習を実施してきた。最近は、京都からの参加者もあり、当初の
想いが広く認められつつある。
「旧志賀町の良さや伝統が伝承されず風化してしまう」と危機感を覚え、地元の
魅力を次代へ伝えようと、かつて水泳や魚釣りといった遊び場であり、民家の屋根葺き
に使われた葦刈り場、在来魚のよい産卵場でもあった大津市南小松(旧志賀町)にある
「近江舞子内湖」で「内湖に関心を持ってもらいたい」と地元の子どもたちへ向けた
環境学習を実施した。

環境学習は、「内湖には普通の舟ではなくタライ舟が似合うのでは」と、タライ舟体
験を通して行われる。たらい舟は「地元漁師の小屋に置かれていた地引き網を保管する
大きな桶を発見し譲り受け、地元で桶などの修復を手がける人に直してもらった」と、
最初に地元でタライ舟を作った。しかし、「1艘では学習するには足りない」こと
から、タライ舟で知られる新潟県佐渡市まで足を運び、教わったタライ舟の設計図を
もとに新たに2艘を製造した。さらに、「操作技術も教えてもらってきた」という。
子どもから親まで巻き込みながら実施されるこの学習は、今も継続してる。
当日、初めてタライ舟を体験した子どもたちは、法人のメンバーらに舟の漕ぎ方を
手取り足取り教わりながら内湖で遊び、舟の上から水の透明度や水深を測り、自生する
葦を観察するなど自然環境を学んだ。

この10年で様々な形で地域の良さをあらためて知り、比良の持つ有形無形の様々な
地域資源を活かすための努力を会員を中心にしてきたとメンバーの思いは同じだ。

4.今後に向けて
最後に、メンバーから今後の想いについて聞いた。

当面の最大の目標はこの比良の地域の織り成す石の文化を活かした地域づくり
としての「重要文化的景観」地域としての選定になること、と石塚さんは言う。
比良を中心としたこの地域から産する石材を利用した多くの歴史的な構造物が今も
残っている。これらは、河川や琵琶湖の水害から地域を守るための堤防、獣害を
防ぐしし垣、利水のための水路、石積みの棚田、神社の彫刻物などであり、高度な
技術を持った先人たちが、長い年月をかけて築き上げてきた遺産である。
しかしながら、その多くは、産業の変化、土地の開発、農業従事者の減少などに
伴って荒廃しつつある。先人の残したこれらの地域資産を後世に残し、更には
地域全体の活性化の中核的な活動としても当法人が進めていくべきと考えている。
このため、今年は「石の文化景観調査」を北小松から和邇南浜まで実施し、
あらてめてこの地域の潜在的な資産の多さを知り、12月6日には著名な先生も
呼んで「重要文化的景観」認定のためのシンポジウムも開催した。
これを具体的な形にするには、まだまだ解決すべき課題は多くあると思っているが、
是非、「比良の里人」として活動を進めて行きたい。

しかし、地域資産を活かす点においては、「これまでも、地域の自然、風土、文化は
まちづくりの思想の根底に据えられてきました。他方、地域経済を支える産業は風景
や景観、風土や文化とのかかわりから論じられることは少なく、むしろ自然や文化に
対置してとらえられてきたふしがあります。」という松永桂子氏の指摘もあるが、
今後の流れの中では、地域の経済といえどもその風景、風土、文化、さらに景観も
考えた総合的なアプローチが重要となって来るのでは、と思う。

また、同じく以下の指摘も考えていくことが重要なのでは、と思っている。
「地域に産業があることにより、多様な人々がひきつけられ、多様な人々が
まじり合うことによって、町の姿が演出されます。そして豊かな生活空間を創出して
いくことにもつながっていきます。円熟した景観や風景がそれを物語ることになる
でしょう。しかし、それは単に内なる視点だけでは構築されず、外部者からの意味づけ
があって意味を持つわけです。生活者の視点だけでなく、旅行者的な外部の視点で地域
を捉えることは、観光まちづくりを進めるうえでも重要になってくるのではない
でしょうか」。第三者が見る場合は、違う視点と想いのあるもの、これは過去の
経験でも痛切に感じてきたものだが、これは是非気にしてほしいものと思っている。

2015.12.25

地域資産を見える化する

最近、世界遺産、日本遺産、更には、未来遺産、そして最近この地域で
進めようとしている文化的景観と呼ばれる生活と自然を組み合わせた資産など
様々な地域の持つ資産継承の活動が言われているようだ。
変わり行く日本であるが、変わってもらいたくないものもある。人は自然との
調和の中で生きている。これは、都市生活と呼ばれる機能性と便利さを重視
した生活とは、ある面、対極にあるものでもあろう。しかし、自然をそのままに
活かし、人がその中で過ごせることが肝要ではないのだろうか。人口減少に
よって多くの市町村が消滅の危機にあるという話がよく聞かれるようになった。
多くの市町村が都会と同じ生活を目指し同様の市民サービスをしてきたが、
コンクリートだらけの無機質な世界を造るのではなく、自然の資産、資源を
活かした自分たちの実力に見合った運営をしてくれば、このような姿とは違った
ものになった可能性もある。だが、自然を壊し高速道路や様々な施設を造る事が
住民サービスだという遅れた意識と行動がまだまだある。人と自然は一体の
もののはずだが、人の尽きない欲望が優先し、それを壊す事に専念してきた時代
でもあった。
この旧志賀町辺りは、様々な文化的な遺構、遺跡、そして比良山系と琵琶湖の
織り成す自然がまだまだ生きている地域でもある。
その環境に魅かれて様々な人々が移住して来ている。
出来れば、この良さを未来につないで行きたい、と思う人が多い様だ。

1.重要文化的な景観の認定に向けて
まずは、地域の資産を自ら見直し、それらを見える形にして行くことを目指す
この地域の特長である石を中心とした「重要文化的景観」へ取り組みについて
直接関わりがあるわけではないが、概要を述べて行きたい。
1)文化的景観とは、
まず「文化的景観の定義」ですが、 文化財保護法第2条に「地域における人々の生活
又は生業及び当該風土により形成された景観地で我が国民の生活又は生業の理解のため
に欠くことのできないもの」と定義されている。
この「地域における」という部分が重要で、 名勝地のように国のレベルで高い評価
を得ているということだけではなく、地域に残された固有のものを積極的に保護対象
にしていこうという法律なのです。
また、 法律自体はその生業や生活を保護するものではない。 しかし、その生活・
生業を営んでいく中で結果として形成された景観地を保護対象とすることになっている

この制度の中で「どのような」景観を「どのように」選ぶのか重要となる。
「どのような」の部分については、選定基準を設けている。地域がそれを文化的景観
であると考えれば、どのような景観でも保護対象になるとは考えられるが、
やはり地元の中で合意を得ているということが重要となり、それを重要文化的景観
選定基準という形である程度明らかにしている。
まずは、 選定基準の第一項で「地域における人々の生活又は生業及び当該地域の
風土により形成された次に掲げる景観地のうち我が国民の基盤的な生活又は生業の
特色を示すもので典型的なもの又は独特のもの」と定められている。
これらのうち、 特に「基盤的な生活や生業の特色を示す典型的なもの又は独特な
もの」について、具体的には次のものが選定基準になっている。
①水田・畑地などの農耕に関する景観地
②茅野・牧野などの採草・放牧に関する景観地
③用材林・防災林などの森林の利用に関する景観地
④養殖いかだ・海苔ひびなどの漁ろうに関する景観地
⑤ため池・水路・港などの水の利用に関する景観地
⑥鉱山・採石場・工場群などの採掘・製造に関する景観地
⑦道・広場などの流通・往来に関する景観地
⑧垣根・屋敷林などの居住に関する景観地

2)この地域は石の文化が生活に根付いている
比良を中心としたこの地域から産する石材を利用した多くの歴史的な構造物が今も
残っている。これらは、河川や琵琶湖の水害から地域を守るための堤防、獣害を
防ぐしし垣、利水のための水路、石積みの棚田、神社の彫刻物などであり、高度な
技術を持った先人たちが、長い年月をかけて築き上げてきた遺産である。さらには、
個人の家の庭や道には、石畳として使われたり、生活用水のための石造りのかわと
など生活の一部に溶け込んでもいる。神社の狛犬、しし垣、石灯篭、家の基礎石、
車石など様々な形でも使われて来た。
古くは、多数存在する古墳にも縦横3メートル以上の一枚岩の石版が壁や天井に
使われている。古代から近世まで石の産地としてその生業として、日々の生活の
中にも、様々に姿を変え、関わってきた。
また、南小松は江州燈籠と北比良は家の基礎石等石の切り出し方にも特徴があった
ようで、八屋戸地区は守山石の産地で有名であったし、木戸地区も石の産地と
しても知られ、江戸時代初期の「毛吹草」には名産の一つに木戸石が出ている。
コンクリートなどの普及で石材としての使われる範囲は狭まってはいるが、石の
持つ温かさは、我々にとっても貴重な資源である。ここで、文献などから石や石工
など石に関することに、の様子などを少し見て行きたい。
「旧志賀町域の石工たち」の記述より、
明治十三年(1880)にまとめられた「滋賀県物産誌」には、県内の各町村における
農・工・商の軒数や特産物などが記録されている。ただ、「滋賀県物産誌」の記述は、
滋賀県内の石工を網羅的に記録している訳ではない。
「滋賀県物産誌」の石工に関する記述の中で特筆すべきは、旧志賀町周辺の状況
である。この地域では「木戸村」の項に特産物として「石燈籠」「石塔」などが
挙げられているなど、石工の分布密度は他地域に比べて圧倒的である。
木戸村・北比良村では戸数の中において「工」の占める比率も高く、明治時代初めに
おける滋賀県の石工の分布状況として、この地域が特筆されるべき状況であった。
江戸時代の石造物の刻銘等の資料では、その中で比較的よく知られている資料と
・「雲根志」などを著した木内石亭が郷里の大津市幸神社に、文化二年(1805)に
奉納した石燈籠の「荒川村石工今井丈左衛門」という刻銘。、、、」ともある。

しかし、重要文化的景観の選定に向けては、以下の三つが必要で有る。
・地元の人がどうしようとするのかの想いと位置付けを明確にする
・その位置付けを研究者が明確にする
・景観法に沿ったまとめ(大津市)
この選定の活動は、始まったばかりのようであり、この三つの要件をキチンと
満足させられる体制作りが今後重要となっていくようだ。

2.日本遺産とは、
「日本遺産」は各地に点在する有形・無形の文化財を、地域的なつながりや時代的な
特徴ごとにまとめ、その魅力を国内外に発信していこうと、文化庁が今年度新たに
設けた。第1回の認定を目指して83件の申請があり、審査の結果、18件が
選ばれた。
このうち、水戸市と栃木県足利市、岡山県備前市、それに大分県日田市が合同で申請
した「近世日本の教育遺産群」は、水戸藩の藩校だった「旧弘道館」や、国内で現存
する最古の学校とされる「足利学校跡」などが含まれていて、武士だけでなく、庶民
も対象にした学校の普及が高い教育水準を支え、日本の近代化の原動力になった
としている。
また、織田信長が発展させた岐阜城の城下町や長良川の鵜飼の観覧など、岐阜市一帯の
景観や文化は、「信長公のおもてなし」が息づく戦国城下町として認定された。
さらに、石川県能登地方の「キリコ祭り」は、巨大な灯籠が町を練り歩く伝統行事で、
夏になるとおよそ200の地区で行われるという。
「日本遺産」に認定された18件には、文化庁がガイドの育成や外国語のパンフレット
の作成などにかかる費用を補助することにしていて、観光客の増加や地域の活性化を
支援していく。
申請をしてもらうにあたり、文化庁は一つの自治体で完結する「地域型」と各地の遺産
をひとまとまりにする各地の遺産をひとまとまりにする「ネットワーク型」の2つの
タイプを想定した。「日本一危ない国宝鑑賞」として認定された鳥取県三朝町の申請
は地域型。水戸市、栃木県足利市、岡山県備前市、大分県日田市の4市が共同
で申請した「近世日本の教育遺産群」はネットワーク型にあたり、水戸藩校だった
「旧弘道館」や、日本最古の高等教育機関とされる足利学校跡、庶民教育の場だった
旧閑谷学校、私塾の咸宜園跡で構成される。

滋賀の日本遺産認定
滋賀県は提案した7件から「琵琶湖とその水辺景観-祈りと暮らしの水遺産」
が認定を受けた。湧き水を家に引き込む「川端(かばた)」など水と生活が
調和した景観や、いかだ乗りを川の魔物から守るシコブチ信仰などの宗教、
ふなずしに代表される食など「水の文化」の深さをアピールした。
文化庁は、「びわ湖の水と人々が織りなす文化」を認定した。
滋賀県からは、びわ湖の水と人々が織りなす文化を集めた「琵琶湖とその水辺
景観ー祈りと暮らしの水遺産」を認定した。具体的には、
びわ湖に面する県内6つの市にある、
・国宝に指定された寺院
・国の重要文化的景観に選定された近江八幡市の水郷
・大津市の延暦寺は、比叡山から臨むびわ湖を最澄が理想郷とたたえて
建立したとされている。
そのストーリーの概要
穢れを除き、病を癒すものとして祀られてきた水。仏教の普及とともに東方
にあっては、瑠璃色に輝く「水の浄土」の教主・薬師如来が広く信仰されてきた。
琵琶湖では「水の浄土」を臨んで多くの寺社が建立され、今日も多くの人々を
惹きつけている。また、暮らしの中には、山から水を引いた古式水道や湧き水
を使いながら汚さないルールが伝わっている。湖辺の集落や湖中の島では、
米と魚を活用した鮒ずしなどの独自の食文化やエリなどの漁法が育まれた。
多くの生き物を育む水郷や水辺の景観は、芸術や庭園に取り上げられてきたが
近年では、水と人の営みが調和した文化的景観として多くの現代人をひきつけている。
ここには、日本人の高度な「水の文化」の歴史が集積されている。

個人的に気になる日本遺産として、福井県(小浜市,若狭町)がある。
テーマは「海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群~御食国若狭と鯖街道」
・ストーリーの概要
若狭は,古代から「御食国(みけつくに)」として塩や海産物など豊富な
食材を都に運び、都の食文化を支えてきた地である。
湖西もその交通要路としてその役割が大きい。
大陸からつながる海の道と都へとつながる陸の道が結節する最大の拠点
となった地であり、古代から続く往来の歴史の中で、街道沿いには港、城下町、
宿場町が栄え、また往来によりもたらされた祭礼、芸能、仏教文化が街道沿い
から農漁村にまで広く伝播し独自の発展を遂げた。
近年「鯖街道」と呼ばれるこの街道群沿いには、往時の賑わいを伝える町並み
とともに豊かな自然や受け継がれてきた食や祭礼など様々な文化が今も
息づいている。
湖西のこの地域は小浜や若狭と深いつながりがあり、また多くの渡来人が小浜
などからここを通過して様々な文化や生活の技術を伝えたのであろう。

3.プロジェクト未来遺産
日本ユネスコ協会連盟が新しいプロジェクトを始動した。
その名も「未来遺産運動」。
http://www.unesco.or.jp/mirai/
「100年後の子どもたちの為にできることって何だろう?」
その答えのひとつとして、ユネスコが新たに手がける「未来遺産運動」は、
地域文化や自然遺産を未来へ伝えていこうとする活動を「プロジェクト未来遺産」
として登録、それを推進する地域を支援できるような仕組みを作るもの。
プロジェクト未来遺産は公募で選び、応募条件は「原則として2年以上の活動実績
があること」「非営利団体であること」「地域の人々が主体となって運営して
いること」の3つだという。
さて、ユネスコというと、世界遺産をイメージする人も多いはず。世界遺産との
違いは、世界遺産がものを指定するのに対し、未来遺産運動ではそれを守る人々
を応援しようという点にあるということだ。
ちなみに、2009年から2011年 プロジェクト未来遺産の重点テーマは、
「危機にある遺産」と「生物多様性」。プロジェクト未来遺産に登録されると、
総額500万円の助成金が想定され、専門家の派遣などの支援が得られるという。
となれば地域が元気になり、日本全体ももっと元気になるというもの。
ぜひとも奮って応募してほしい。
この未来遺産運動は、ほかにも子どもたちがふるさとの伝統と文化の素晴らしさ
を学び、紹介する「私のまちのたからものコンテスト」、社会全体でこうした活動
を支えていくための「未来遺産募金」も行うという。
ありそうでなかった運動。明るい未来を作ろうという、人々の意欲を活性化する
いいカンフル剤となるだろう。

滋賀では、残念ながらまだ1件が登録されたのみである。比良山系の自然と古墳や
城跡のような文化資産の多く残る滋賀では、まだまだ多いとはいえない。
地域の人々が自分の住んでいる場所、生まれ育った地域を再認識する事で、行政に
頼らない新しい「結い」の世界を創って欲しいものである。
滋賀で選定されたのは、湖国の原風景権座(ごんざ)水郷を守り育てる活動
(日本の里百選)である。
団体名:権座・水郷を守り育てる会
場所:滋賀県近江八幡市
琵琶湖の内湖である西の湖・長命寺川辺周辺は、日本で唯一とされる「権座」と
呼ばれる内湖にある湖中水田の風景などが、文化財保護法に基づく「重要文化的景観」
に選定された。またラムサール条約湿地として西の湖・長命寺川が琵琶湖の拡大
として登録され、「日本の里百選」にも選ばれた。当会では水郷景観の保全活用
を推進するとともに、純米吟醸酒「權座」の生産・販売、魚のゆりかご水田の設置、
魚道設置、親子陶芸教室や田植え・稲刈り体験、収穫感謝祭や権座・水郷コンサート
の開催など、持続可能な地域農業経営と景観保全活動を展開している。
私も2回ほど地域支援の関係で権座を訪ねたが、地域全体の活動として根付いている事
を感じた。しかし、限られた人数で、色々な催しをしたり、保全作業をすることは
かなり厳しいようである。
昔は、内湖にも同様の水田があったそうであるが、埋め立てなどで旧来の姿は、失われ
て来ている。これらを踏まえ、今後も継続的活動をどう進めて行くかが課題でもある。

これらの活動はいずれも、その地域に住む人々が永年にわたり育てて来たものである。
旧志賀町には、文化的景観で目指す「石の文化」が生活の場の彼方此方に見られるが、
まだ地域の人々がそれを充分認識しているとは言い難い。また、比良山系をその
母体とした湧水や山からの生活用水活用などの「水の里」でもある。「石と水」
この当たり前の情景を更に見える化し、その遺産を次の時代へ伝えて欲しいものだ。

2015.10.30

「塩の道」より暮らしと形の美

(暮らしの形と美)

「日本人は独自な美をわれわれの生活の中から見つけきておりますが、
それは実は生活の立て方の中にあるのだと言ってよいのではないかと思います。
生活を立てるというのは、どういうことだとなのだろうかと言うと、
自分からの周囲にある環境に対して、どう対応していったか。また、対決して
いったか。さらにはそれを思案と行動のうえで、どのようにとらえていったか。
つまり自然や環境のかかわりあいのしかたの中に生まれ出てきたものが、
われわれにとっての生活のためのデザインではないだろうかと、
こう考えております。」
と言っている。

我々の周囲を見渡せば、確かに日本人は独自な美を生活の中に見つけてきた。
環境との関わりによって、デザインが、文化に関わる広い意味でのデサインとして
生れてきた。

「雑草が茂るということが、日本の文化というものを決定していたのではない
と思っています。」という指摘がある。
その一つが鍬の種類が多様である事からわかる。
牛や馬を使わずに鍬で田圃の稲の刈り入れや雑草をとっていた。多くの田圃が極めて
小さくそれを丹念に耕し作物を収穫していく。その地道さと自然への愛着が生活文化の
基本となっている。いま山の背に張り付くように開拓整備された、いわゆる棚田がその
象徴かもしれない。

さらに、彼は、
日本の鋸というのは、鎌倉時代へ入ると外へ向いていた刃が内側へ向いて、手前へ引く
ようになりはじめる。日本人の性格というものをみていく場合に、たいへん大事な一つ
の基準になるのではないかと思っている。
日本人はけっして攻撃的ではないのです。というのは、じつは草との戦いからそれが生
まれてきたのではなかったのか。」と推測する。

また、同様に、家の造り方から数学的な才能をも培ったと言う。
日本の家はほとんどがマツ、スギ、ヒノキ、クリ、ケヤキなどが建築資材として
使われている。そしてこれらの多くが針葉樹であり、真っ直ぐに長く伸びる。
これらの素材から長い気を使って家を建てる文化を作り上げた。長い直線的な構造の
建物となっていった。そのことが直線的な文化や精神形成、更には数学的な才能向上に
関係していった、という。直裁簡明の行動につながっている。

畳の発明と藁の利用
稲作からは藁が生まれ、藁の利用が重要な文化となっていく。
平安時代の家の床は板の間がほとんであった。それにござが敷かれ、
やがて畳が出てくる。これにより日本の生活の基本的なパターンが
できあがった。さらに藁の利用が広がっていく。
藁細工が様々な形で行われた。
・縄をなう
・綱を作る
・蓆を編む
・草履や草鞋を作る
たとえば草鞋は、5人家族だと年間500足必要であり、冬の仕事、
家族全体が取り組むこの仕事により日本人が器用になったのではないか。
またこの藁もそうだが、ほかにも糸を紡いで機を織ることは、
軟文化の代表的なものと言っている。
軟文化とは、宮本氏の言葉だが、この文化の特徴は、竹細工もそうだが、
ほとんどが刃物を使わないことであり、刃物1つで様々な細工が出来る
ことでもある。このような文化が生活の底辺まで幅広く広がっていく
ことで育てられた柔軟な文化は、国民性にも現れている、という。

生活を守る強さをもつ美
近江から西のほうでは、スギが少なく先ほどのような建築資材として使う
ことが難しかったという。その代わりが松だそうだが、その扱いが少し
面倒であった。松の節を取り除くために縦引きの鋸が出来、虫の予防の
ために紅殻を塗っていた。
例えば、司馬遼太郎の「街道をゆく」でも紹介されている。
「北小松の家々の軒は低く、紅殻格子が古び、厠の扉までが紅殻が塗られて、
その赤は須田国太郎の色調のようであった。それが粉雪によく映えて
こういう漁村がであったならばどんなに懐かしいだろうと思った。
、、、、私の足元に、溝がある。水がわずかに流れている。
村の中のこの水は堅牢に石囲いされていて、おそらく何百年経つに
相違ないほどに石の面が磨耗していた。石垣や石積みの上手さは、
湖西の特徴の1つである。山の水がわずかな距離を走って湖に落ちる。
その水走りの傾斜面に田畑が広がっているのだが、ところがこの付近
の川は眼に見えない。この村の中の溝を除いては、皆暗渠になっている
のである。この地方の言葉では、この田園の暗渠をショウズヌキという。」

このようにして、我々の生活をその場に合わせ、さらにその生活を豊かに
して行くために、一つ一つの工夫がされ、その中で新しいデザインが
活かされて来た。

2015.10.23

「塩の道」、日本人と食べ物の変化は?

塩の道「日本人と食べもの」より

今日われわれは、塩に関して無関心になっている。
長い歴史のなかで人がどのようにして道を開き、そしてそれが、すべてにわたって
実は海につながる道であったということをこの本から強く感じた。
更にそれは、縄文時代にまで遡る歴史であり、現在に生活でもなお、その延長線上
にあるのだといって過言でない。この幾層にも積み上げられた日本人の生活文化の
姿が垣間見られる。

日本列島では、過去二千年の間に人口が漸増している、という。
大きな変動もなく、徐々に増えているのは世界でも類をみない地域なのだそうだ。
宮本氏はその理由をいくつか挙げている。
異民族が大挙して侵攻してくることがなく、武力による侵略をほとんど受けなかった。

内乱では、戦争をするものと耕作するものが分かれていた。ゲリラ戦がなかった
からとも言う。
農村社会と武家社会とは別々の世界であり、鎌倉時代からの武家の存在がなかった
更には、享保の飢饉以来、東日本では産児制限により人口は減少ぎみであったの
に対し、西日本でサツマイモを作ったところでは、2倍、3倍と増えている。
農耕の進化とともに、木の実の採取も管理されていた。
岐阜県と福井県の境にある穴馬という村の例がある。
嫁に行くときトチの木をもってくのだそうで、トチの木をもつことによって飢饉
から逃れられることができた。このように実にきめこまかに、食用に供しうる
ものすべてを抱え込んで生活を立てている。
こまかな食糧確保の知恵であり、同じようなことは海でもあった。
漁師ではタコの取れる穴の権利をもたせたりという、娘を経由した世襲制度
を紹介、母系的な名残であると指摘している。
人口の安定化のための智恵が様々な形で存在した。

食物については、古事記、日本書紀、風土記などに記載されている食用作物は
かなり豊富であり、またそれらの外来の物を上手く広めている。
イネ、ムギ、アワ、キビ、ソバ、ダイズ、アズキ、ヒエ、サトイモ、ウリ、
ダイコン、などの名前が出ている。
更に、時代が進むとサツマイモ、トウモロコシ、カボチャ、ジャガイモなど
今の我々が食用しているものがスペインやポルトガルの宣教師たちを経て、
国中に広まっている。九州から四国、中国へと民衆が中心となり、広めている。
特に、トウモロコシなどは宮本氏が歩いた全国各地の山間の村々で作られていた
と言う。サツマイモが飢饉を救ったと言う話は多いが、トウモロコシも
人口安定には大きな力となった、と言う。

また、稲はどこから来たか、という問に、米の豊作を祈ったのが始まりである神社
の建物は高床式であり、それは南方から朝鮮半島を伝って日本にやってきたと
主張している。竪穴式住居に暮らしていた縄文人は土蜘蛛と呼ばれ、弥生人が
稲作をもたらしたともいう。神殿に土間は一つもないのは米作りと神社が一体
となって南方から伝わった証であるともいう。

さらに、ソバについての記述では、いまから4000年くらい前に、北海道では
ソバをつくっていた。それは、シベリアから海を越えて樺太、北海道へと渡ってきた
と言う。アワも同様にイネよりも大分昔から北で栽培されていた。それはイネの新嘗
よりもアワの祭があったという。これのことから、農耕は北で早く発達したの
ではないだろうか、また、「続日本記」の元正天皇の霊亀2年(716)の冬に
蝦夷が馬千頭を献上したという記述があり、北では農耕や畜産が畿内など
よりも早く始まったと言う。
北海道にはわれわれが考えているよりはるかに充実した生活があった。

魚肉の食べ方で、山の中で魚を食べるために塩魚にする方法と、酢で保存する
という方法があった。そこで米を炊いて米に塩を混ぜ、米の間に魚を挟んで
桶などに入れて米と魚を重ねていく。そうすると、魚肉と米が発行して鮨になる。
これが鮨の原型であり鯖や鯵が多く使われ、その後鱒やあゆなども利用された。
現代の握り寿司は江戸で発達したもので、今でも関西では押しずしである。
これは熟れ鮨の名残である。熟れ鮨の入れ物は当初壺であったかもしれないが、
600年ほど前にタガの技術が中国から日本に入り、杉と竹を産出する関西地方
で樽を作る技術が定着した。大阪を中心に酒を樽に入れて作る、それを江戸に送る、
という生産と流通のしくみが展開された。江戸では送られてきた樽で漬物を
作るということが行われた。野田の醤油はその一つであった。

江戸時代を初め、各地は他の国とは関係ない形で領民の生活を成り立たせていた
のであろうから、当然藩同士の助け合いはなかった。このため、各々の藩は常に
飢饉に備え、節約に努めた、自給のための工夫をしていた。
獣肉をほとんど食べなかったので、魚が中心であり、この魚を山の中でも食べれる
様な工夫があり、先ほどのような発酵技術やお鮨などが生れた。
それには、味噌汁などもあった。
野菜は普段、ごっちゃ煮、雑炊、煮込みなどで食べたが、ハレの日と日常では
差があった。 このように、如何にすれば手元にある素材を栄養にし、また美味しい
ものにしていくという、民衆の智慧があった。

これらの仮説が正しいかどうかは分らないが、数千年に渡って暮らしてきた
私たちの祖先が間違いなくいること、そしてわたしたちの文化の底に流れて
いるものは、間違いなく祖先によって養われてきたものである。
この本からは、遠い祖先の生活の延長の先に現在の我々がいる。それを
強く感じぜずにいられない。

2015.08.07

近江文学in京阪沿線その3

京阪鉄道とは縁もゆかりもないが、色々と近江関連文学を集めていると
結構その舞台となる場所に駅が多くある。ここを訪れ、石山坂本沿線の
施設・観光と合わせて小説の中の社会、生活などを感じてもらうのも
面白いのでは、と思う。 今回、石山駅から坂本駅までの間で所縁の
小説34冊ほどを紹介しよう。しかし、さすがに近江に関する文学
は多い様だ、全体で見ると90冊以上もあり、湖北や湖東もこれら作品で
楽しめそうである。

1)石山寺駅

・岩間寺

・石山寺
①春(島崎藤村)
②源氏供養(松本徹)
③幻住庵記(松尾芭蕉)

・瀬田川リバークルーズ

2)唐橋前駅
・建部大社

・瀬田の唐橋
④邪宗門(高橋和巳)
⑤瀬田の唐橋(徳永真一郎)
⑥鮫の恩返し(小泉八雲)
・唐橋焼窯元

3)京阪石山駅
4)粟津駅
5)瓦ヶ浜駅
・膳所焼美術館
6)中ノ庄駅
7)膳所本町駅
・大津市科学館
・膳所城跡公園

8)錦駅
9)京阪膳所駅
・義仲寺
⑦芭蕉物語(麻生磯次)
⑧老残日記(中谷孝雄)

・竜が丘俳人墓地

10)石場駅
⑨大津恋坂物語(可堂秀三)

・びわ湖ホール
11)島ノ関駅

12)浜大津駅

⑪琵琶湖(横山利一)
⑫兇徒津田三蔵(藤枝静男)
⑬東海道五十三次(岡本かの子)、
⑭ニコライの遭難(吉村昭)
⑮湖のほとり(田山花袋)

・大津港(琵琶湖汽船)
・びわこ花噴水
・浜大津アーカス
・琵琶湖ホテル
⑯美しさと哀しみと(川端康成) 


・大津祭曳山展示館
13)三井寺駅
・三井寺(園城寺)
⑰埋み火(杉本苑子)
⑱僧興義(小泉八雲)
⑲七つ街道ー近江路フェノロサ先生(井伏鱒二)

・琵琶湖疏水
14)別所駅
・大津市歴史博物館
・円満院門跡
・大津絵美術館
・弘文天皇陵
・皇子山陸上競技場

15)皇子山駅
20)一歩の距離(城山三郎)
陸上自衛隊大津駐屯所のあった航空隊での4人の予科練生を中心とした際川や唐崎
での終戦直前の話。
「(浮御堂の光景は)小学校の遠足の日でも思わせるような、のどかな姿であった。
、、、だが、そうしたのどかさは、うつろいやすい仮のモノでしかなかったし、
彼らはそれを承知していた。平和とは常に仮のものである。平和を願うなどと言う
のは、臆病者であるどころか日本人でさえない。」
さらに、
「やっと海軍軍人になれると。だが、それは「必殺必中の兵器」つまり特攻の
募集だった。彼は予期せぬ場面で、突然、生か死かの選択を迫られたのである。
出なければ、出なければ。死ぬために来たのに、何を躊躇っているのか。
腋の下を冷たい汗が流れ続けた。手もぐっしょり汗を握った。
志願するものは、一歩前に出よ。司令のよびかけにかれは「一歩を踏み出すこと
ができなかった。それは乗りたがっていた航空機ではなかったからか。
それとも一歩を踏み出せば確実に約束される死への恐怖からか。
前に出るも出ないのも、余りに大きな決意であった。一歩の前と後ろの間には、
眼もくらむばかりの底深い谷があった。
一歩踏み出す距離はわずかであった。しかし、それぞれの人生を決定する距離
であった。若者を死に導き、あるいは生涯消えぬ苦しみを刻む距離であった。」

21)小説日本婦道記ー尾花川(山本周五郎)
大津尾花川の勤皇の志士であった川瀬太宰とその妻幸を描いている。
婦人の美徳、といっても家父長的視点からではなく人間としての美質に
焦点をあてている。
「日本の女性の一番美しいのは、連れ添っている夫も気付かないという
ところに非常に美しく現われる。、、これが日本の女性の特徴ではないか
と思ってあの一連の小説を書きました」ということ。

・皇子が丘公園
・皇子山球場

16)近江神宮前駅
・近江神宮
近江神宮 時計館宝物館
大津京錦織遺跡
17)南滋賀駅
・南滋賀廃寺跡
22)北白川日誌(岡部伊都子)
北白川廃寺跡から山中越えし、比叡平近くの池ノ谷地蔵尊、新羅善神堂、南滋賀
廃寺跡などをめぐり大津京を探し求めた。 

18)滋賀里駅
23)幻の近江京(邦光士郎)
滋賀、奈良、京都に残存する幻の寺を舞台の推理小説。その寺が
草津にある花摘寺である。一般の滋賀里周辺の大津京とは違う仮説で展開する。
24)志賀寺上人の恋(三島由紀夫)
「春になって、花見の季節になると、志賀の里を訪れる都人士が多くなった。上人は
何の煩わしさをも感じなかった。今更こういう人たちに掻き乱される心境ではなかった
からである。上人は杖を携えて草庵をでた。湖水のほとりへ行った。午後の光りに
ようよう夕影のさしてくる頃で、湖の波は静かであった。上人は水想観を成して、
湖畔に一人佇んでいたのである。」
志賀寺は崇福寺の別称で、奈良時代には十大寺の一つとして隆盛を誇った大寺で、
現在は滋賀里にその旧跡が少し認められる。
ひたすらに浄土を想い描き、その中でのみ生き抜こうとしていたものの、抗いきれない
恋によって現世に引きずり戻されていく人間の心の葛藤を描いている。
「私には実は、その独特な恋の情緒よりも、その単純な心理的事実に興味があった。
そこでは、恋愛と信仰の相克が扱われている。、、、、、
来世と今世がその席を争いあって、大袈裟に言えば、彼らは自分の考えている
世界構造が崩れるか崩れないか、というきわどいところで、この恋物語を
成り立たせたのである。」

19)穴太駅
20)松ノ馬場駅
21)坂本駅
25)金魚繚乱(岡本かの子)
大津下坂本にある実験所にきた美しい金魚を作ろうとする男とその彼女の話。
「白牡丹のような万華鏡のようなじゅんらん、波乱を重畳させつつ嬌艶に豪華に、
また粛々として上品に、内気にあどけなくもゆらぎ広ごり広ごりゆらぎ、さらにまた
広ごり」
26)咲庵しょうあん(中山義秀)
明智光秀の一生を描いた。坂本城は下坂本付近だが、その遺構はほとんどない
27)星と祭(井上靖)
更に、大津坂本の盛安寺の11面を拝してもいる。
「微かに笑っているようなふくよかな顔、がそこにある。京都や奈良の大寺でみる
取り澄ました顔の仏像にはない温かい息づかいが肌にふれてくる。、、、、、
湖畔にたたずむ十一面観音像の美しさは、単に造形的な美しさではない。それぞれの
生活が営まれるそれぞれの土地に、見過ごしてしまいそうな小堂があり、その
中央の厨司の中に大切にまつられ、お守りされている観音像、そこに住む人の
生活の歴史が、像の皮膚に染み込んでいる様に思われる。これが生きた息づかい
と感じられ、自然にこちらも微笑せずにはいられなくなるふくよかな微笑み
として現われるのである。盛安寺11面観音像は、その後、かっての観音堂
のすぐうしろに建設された収蔵庫のなかに、いまもひっそりと立っている。

・日吉大社
28)街道をゆく16巻(司馬遼太郎)
16巻は「叡山の諸道」である。比叡山を含めこの周辺の事を書き綴っている。
司馬遼太郎は、近江について第1巻、第4巻、第7巻、第16巻、第24巻
に書き綴っている。しかも、第24巻近江散歩では、失われ行く琵琶湖の
自然に対する人間のエゴについても、警鐘を鳴らしている。良き自然を
守るのは大変な事でもある。
・滋賀院門跡
29)山椒魚(今東光)
山椒魚は比叡山をはじめ、40編からなる短編集。
「比叡山」
「坂本の大鳥居をくぐって、石ころ路を丹海と軍平とは、ぼそぼそと話し
ながら歩いた。両側には石垣をめぐらせた山内の寺院が並んでいるが、
ことりとも音がしない。中に人が住んでいるか、どうかもわからないほど
閑寂だ。」
さらに、
ケーブルに乗り、軍平は琵琶湖を一望にして、その雄大な光景にため息を
漏らしていた。
「なあ、見なはれ、たいしたもんやおまへんか。何宗の御本山かて、日本一の
びわ湖ちゅう大きな湖水を懐に抱いている御山はありまへんやろ。
この天台宗ばかりや」そう言われてみると成る程そんな気もするのである。
「そら、まあ、もっと高いお山もありましゃろけど、日本一の湖を庭池にしてのは、
延暦寺ばっかりだっしゃろなあ」
「まったく、こんな景色を見てたら気ぃも晴れ晴れしまんな。良え坊主、出るのん
当たり前や、ちとっも浮世心が起こらんやろ」、、、、坂本で一番高い戒蔵院から
急な坂を下りる左右には何ヶ寺かの寺院がある。竹林に囲まれた見性院を探し当てると
座敷に通された。

旧竹林院
西教寺
・比叡山延暦寺
30)私の古寺巡礼(白洲正子)
「10世紀のころ、比叡山に相応和尚という修行者がいた。南の谷に無動寺を
建てて、籠っていたが、正身の不動明王を拝みたいと発心し、3年間の間、
比叡の山中を放浪していた。雨の日も雪の夜も、たゆまぬ苦行に、身心とも
やせ衰え、今は死を待つばかりとなったある日の事、比良山の奥、葛川の
三の瀧で祈っていると、滔滔たる水しぶきの中に、まごうかたなき不動明王
が出現した。相応は嬉しさのあまり、滝壺に身を躍らせて抱きつくと、不動と
見たのは一片の桂の古木であった。その古木をもって、拝んだばかりの不動明王
の姿を彫刻し、明王堂を建立してその本尊とした。それが今の葛川の明王院
である。
この相応の足跡を忠実に辿っているのが、無動寺を本拠とする回峰の行者たちである。
彼らは白い死装束に身をかため、千年の昔に始祖がしたと同じ様に、一心に
不動明王を念じつつ、比叡の山中を巡礼し、最後に比良山の三の滝へ到着する。
毎年春から夏へかけて午前2時に無動寺を出発し、行者道を30キロ歩いて、
8時ごろ寺に帰る。これを百日続けて、千日をもって満行となるが、その他
京都市中の切廻り、大廻り、断食行、そして、明王院の「夏安居(げあんご)」
など、どれ一つとっても、常人には考えられない苦行の数々を経る。
それによって得るものはなにもない。しいて言えば何者動じない不動の精神、
不動明王の魂を身につけるというべきか。

31)比叡(瀬戸内晴美)
女流作家が出家し、比叡山で行をつむ話である。
比叡山での「もしかしたら、既に死んでいるのに気付いていないのだろか、
と言う厳しい修行の中で、仏に引き寄せられ、新しく生きて行く事を知る
姿を語っている。
「湖はとぎすましたような晴れた冬空を沈め、森閑と横たわっている。
そこからのぞむ比叡の山脈は湖の西に南から北に走りながらくっきりと
空をかかげ、圧倒的に、力強く、生命力にみちあふれていた。
日本仏教の根本道場と呼ぶにふさわしい威厳と神聖さを感じさせた。
琵琶湖と比叡は混然と一体化して、それを切り離す事の出来ない完璧な
1つづきの風景を形成している。俊子の目にはそのとき、山脈があくまで
雄雄しく、湖がかぎりなくおおらかにふるまっているように見えた。」
その合間に日本の文化や西行、一遍などの出家者の恋の話し、外国の風景、
や名画の話など、豊かな話題が散りばめられている。
男と秘密に旅をした堅田の町も思い出される。
「旧い家並みの家々は、どの家もどっしりと地に根を生やしたような落ち着きで
肩を並べていた。生まれてくる前に、通った事のあるような所だと、俊子は
感じていた。」
また、雪の降る日、浮御堂に立った後、隣りの料亭で鴨鍋を突付く、月が出ている。
その光景を、
「湖に薄く舞い落ちる雪が月光に染められ、金粉をまいているように湖水の面に
映っていた。湖面も月光に染められ金波がひろがる上に雪が休みなく降り続いている。
それは不思議なこの世ならぬ幻想的な光景だった。」
「人が寝とんなはる時間、夜通し車走らせて好いとる女ごの許ば通いなはる。
そぎゃんして、病気になって死にはってもよかと覚悟しとらすっと」と。
なおも責める尼僧に、「そぎゃんこと解決できるなら、だあれもなあんも
苦しむことなか。そぎゃんこと悪かことわかとって、とめられんばってん、
死ぬほどきつか思いすっと」

32)風流懺法(高浜虚子)
延暦寺横川中堂のはなし。虚子と渋谷天台座主とのかかわりが深い。
大師堂小僧一念との出会い、一力の舞妓三千歳らとの遊び中にまた一念に会う。
一念と舞妓三千歳の幼い男女の交わりが生き生きと描かれている。
「横川は叡山の三塔のうちでも一番奥まっているので淋しいこともまた格別だ。
二三町離れた処にある大師堂の方には日によると参詣人もぼつぼつあるが、
中堂の方は年中一人の参拝者もないといってよい。大きな建物が杉を圧して
立っている。」
虚子の一句  清浄な月を見にけり峰の寺

33)乳野物語(谷崎潤一郎)
元三大師と母月子姫の天台宗の説話をベースに描いている。
比叡山横川の安養院は元三大師の母の月子姫の墓がある。また、月子姫の墓は
虎姫町三川にもある。乳野は雄琴温泉から少し山に入った純農村の集落であった。
そのときの千野の印象を谷崎は次のように書いている。
「われわれは歩き出すと間もなく乳野の里に這入ったが、ところどころに農家が
二三軒まばらに点在しているような小さな部落で、本来ならば悲しく侘しい感じのする
場所であろうが、今は新緑で、その辺一面の柿畑が眩いようにきらきらしている。
さっきからわれわれの行く手に聳えていた横川の峰は、もうここへ来ると、
そのかがやかしい柿若葉の波の上に、四条の大橋から仰ぐ東山のちかさで圧し
かぶさっているのであった。」

34)湖光島影ー琵琶湖めぐり(近松秋江)
「比叡山延暦寺の、今、私の坐っている宿院の二階の座敷の東の窓の机に向って
遠く眼を放っていると、老杉躁鬱たる尾峰の彼方に琵琶湖の水が古鏡の面の
如く、五月雨晴れの日を受けて白く光っている。、、、空気の澄明な日などには
瓦甍粉壁が夕陽を浴びて白く反射している。やがて日が比良比叡の峰続きに
没して遠くの山下が野も里も一様に薄暮の底に隠れてしまうと、その人家
の群がっている処にぽつりぽつり明星のごとき燈火が山を蔽おた夜霧を透して
瞬きはじめる。」
近松浄瑠璃の愛読者であったこともあり、内部的には、情念的な性質を持っており、
異常な情念と妄執の作品が多い。

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