人生

2018.06.24

西近江路紀行8 比良

西近江路紀行8 比良

大物をすぎると道は、ほぼまっすぐに北へ延び、右側には
琵琶湖岸に位置する南比良、北比良の集落を見下ろす事が出来る。
この湖岸線は比良浦、比良湊とよばれ、「新拾遺集」の
「ふけゆけば嵐やさえてさざ波の比良の湊に千鳥鳴くなり」
をはじめ、多くの詩歌が詠まれている。
さらには、木戸には、宿駅跡と石垣近くに常夜燈があり、
守山の旧街道の横に地蔵菩薩とともに道標がある。大物の
旧街道横に二つほど残っており、白髭神社への道標とともに
それらを味わって歩くのもよい。

比良湊については、志賀町史にも以下の様な記述がある。
「古来、比良の湊がおかれ、北陸地方との交易を中心に水運にも
従事していた。中世には比良八庄とよばれ、小松荘と木戸荘が
その中心であったという。、、、
比良湊は万葉集にも見られる。ほかにも、「比良の浦の海人」
が詠まれ、「日本書紀」斉明天皇5年三月条には、「天皇近江の
平浦に幸す」ということがあった。万葉集巻三(二七四)には、
わが船は比良(ひら)の湊(みなと)に漕ぎ泊(は)てむ沖へな
離(さか)りさ夜更(よふ)けにけり
(わが乗る船は比良の湊に船泊りしよう。沖へは離れてゆくな。
夜も更けて来たことだ)。
高市連黒人(たけちのむらじくろひと)が旅先で詠んだ八首の
歌のうちの一首がある。
この時代、海は異界との境目だと信じられていた。また、
夜は悪しき魔物たちが最も活発に活動する時間だとも
考えられていたようで、そんな魔物たちの活発に活動する
夜の時間が近づいてくる前に「湊に船泊りしよう(湊へ戻ろう)」
と言霊として詠うことで、黒人は夜を前に動揺する自分自身
の心を鎮めようとしたのであろう。

また港近くの福田寺(浄土真宗 北比良)には、蓮如が北陸に
向かうためにここに立ち寄った時に渡った橋を蓮如橋と呼んでいる。
近くには、比良観音堂があり、天満天神の本地仏十一面観音がある。
十一面観音を祀る寺として創建された。北比良城跡の石碑もある。

比良周辺は、城跡の15ほどあるが、形を残しているものはない。
さらに神社仏閣が多くある。その寺院宗派には、天台真盛宗、
浄土宗、浄土真宗、臨済宗、日蓮宗などがある。
いずれも寺院の規模は小さく、本殿と鳥居、拝殿、御輿庫、
などの付属建物で構成される。
とくに、拝殿は三間もしくは二間の正方形平面で入母屋造り、
桧皮葺(ひわだぶき)である。街道沿いには、多くの寺や寺院
の瓦屋根が見受けられる。
すこし、列記しておくと、西福寺(浄土真宗 北比良)、福田寺
(浄土真宗 北比良)、本立寺(真宗 南比良)超専寺(浄土真宗
大物)は覚如上人や蓮如上人がこの寺を参詣された。
さらに長栄寺(日蓮宗 大物)、萬福寺(真宗 荒川)、西方寺
(浄土宗 木戸)、安養寺(浄土宗 木戸)、正覚寺(真宗 木戸)、
光明寺(浄土宗 北船路)、西福寺(天台真盛宗 守山)など
比良三千坊と言われた名残りなのであろう。

さらに街道の脇には神社も多くあり、樹下神社(北小松)、八幡神社
(南小松)、天満神社(北比良)、樹下神社(南比良)、妙義神社は
比良三千坊と称され、この地が山岳信仰の中心地の1つであった
事を偲ばせる神社である。湯島神社(荒川)、樹下神社(木戸)
十禅師権現社と称し、コノモトさんとも呼ばれていた。五か村
の氏神である。若宮神社(守山)、金毘羅神社、八所神社(北船路)、
八所神社(南船路)などまさに軒を連ねる状態だ。

福田寺から湖に向かうと、そぐら浜がある。そぐら浜から北へ
延びる浜辺一帯を「ジョネンバ」と呼び、かっては石屋小屋
(石きり加工場)が軒を連ね、浜辺では氷魚、ハス、モロコなどの
地引網が盛んに行われていた。今はその面影はなく一部を児童公園
となっているジョネンバから南側のそぐら浜辺りは上納する
年貢米や特産の石材、木材、薪、および壁土、葦、瓦などの集積場で、
これらの保管する蔵が集まっていたが、いまはその跡すらない。
そぐら浜 という地名は、当時、交易で運ばれて来た物資を保管・
保存するための蔵が、立ち並んでいたことから付けられたという。
ちなみに、そぐらは、「総蔵」からきていると言われている。
ここの常夜灯は、大きく立派な造りだ。湖上が交易に使われていた
頃に、船主や船頭衆によって航行の安全を祈願して建てられたもの。
昔は毎年、当番が四国の金比羅宮に、航行の安全祈願に参拝
したことから、常夜灯のびわ湖側には、「金比羅大権現」とう文字が、
刻まれている。

道は、湖岸から参道が続く天満宮社の前を通り、坂道を登るように
して水のない比良川をわたる。この比良川の下流にあたるところは、
大きな三角州が形成され、その中に内湖をだいている。
内湖と琵琶湖の間には細長い浜が数キロも続く。比良山系から流し
出された白い砂と緑の松とが好対照をみせ、独特の景観をみせている。
古くから西近江路の景勝地として知られていた。
昭和25年選定の琵琶湖八景では、「雄松崎の白汀」とよばれ、
近年でも琵琶湖随一の水泳場として最もにぎわうところである。
白くのびやかに砂地が湖に緩やかな曲線を描き、やや緑の深い
数百本の松がそれに沿っている。まさに白砂清松の趣が強い。
さらには、湖国に春の訪れを告げる法要「比良八講(ひらはっこう)」
が例年三月二十六日にこの浜で営まれ、修行を積んだ僧侶や
修験者らが、比良山系から取水した「法水」を湖面に注ぎ、
物故者の供養や湖上安全を祈願する。

この法要は、法華八講(ほっけはっこう)という天台宗の試験
を兼ねた大切な法要で、この法要のころに寒気がぶり返し、
突風が吹いて琵琶湖が大荒れになる。これをこの周辺の人は
「比良八荒(ひらはっこう)」と呼んで、この日を「比良の八荒、
荒れじまい」の日とした。この法要が終わると湖国にも
本格的な春が訪れる、と言われている。
護摩供(ごまぐ)法要が営まれ、その煙が龍の如く立ち昇る様を
少し記述する。

その日3月26日例年の風もなく、穏やかな日和である。
近江舞子は白く長い砂浜と幾重にも重なるように伸びている松林
に静かな時間を重ねていた。冬の間は、この砂の白さも侘しさ
が増すが、比良山系の山に雪が消えるこの頃になると一挙に
明るさを取り戻す。山々もここから見ると蓬莱山、武奈岳など
が何層にも重なり合い和邇から見える景観よりも変化に富んだ
顔を見せる。その幾層もの連なりには微かな雪化粧が残って
いるものの、すでに木々の緑がそのほとんどを支配し始めている。
浜への途中には、子供たちの声とともに和太鼓の激しい響き
が鳴り響いていた。その響きにあわせてやや凹凸のある道
を進んでいくと、左手に紅白の幕が風に揺られるように手招き
していた。そして、松林の切れたその光を帯びた先に護摩法要
のための杉の枝を積み上げた小山が見えた。小山といっても
二メートルのほどの高さのものであるが、周囲をしめ縄で仕切られ、
祭壇が置かれており、比良八講の四字がたなびく幟とともに
目の前に大きく浮かんでいる。護摩壇の先には、蒼い湖が広がり
沖島の黒い姿が見えている。陽射しはこれら全てに容赦なく
注ぎ込まれ、更なるエネルギーを与えているようにも感じられる。
やがて、法螺貝とそれに先導された僧や行者が念仏を唱える音、
人のざわつきの音、道を踏みしめる音などの様々な音が横を
緩やかな風とともに通り過ぎていく。そして、それに連なる祈祷
を受ける人々の一団が思い思いの歩みで現われる。背筋をキチン
と伸ばし、ただ一直線に護摩法要の祭壇を見ている老人、
数人で談笑しながら歩む中年の女性たち、孫と手を携えている
老婆、各人各様の想いが明るく差し込む木洩れ陽の中で踊っている
ようだ。

そこには、信仰の重苦しさは感じられないけど、明るさがあった。
法螺貝が止み一つの静寂が訪れ、次へと続き僧や修験者の
読経が始まり、やがて阿闍梨(あじゃり)の祈祷となる。
阿闍梨の読経する声は一つのリズムとなり、護摩法要の祭壇を
包み込み、その声が一段と高まり、水との共生をあらためて
想いの中に沸き立たせていく。その声が参列する人の上を流れ、
蒼い空の下でやや霞を増した比良の山並に吸い込まれていく頃、
護摩木を湛えた杉の小山に火がかけられいく。杉の小山から
吐き出される煙はその強さと濃さを増しながら青き天空へと
消えて行くが、その煙が徐々に渦を巻き、龍が天空を駆け上がる
が如き姿となっていくのだ。さらに燃え上がる炎は渦となり巻き
上がりながら舞う煙と一体となって龍の姿をさらに強大で
荒ぶる生き物として現出させ、ゴーと言う音ともに比良の山並み
に向かってかけ上がる。ここに護摩法要は最高潮となり、
周りを取り巻く人々も跪き般若心経を唱え始める。

2018.06.17

西近江路紀行7 荒川大物

西近江路紀行7 荒川大物

木戸の集落をすぎると、国道161号と合流し、荒川の集落から大物の家並みに入る。
この集落には、歴史的に有名な二つの寺院がある。一つは右側の道を下った所にある
超専寺であり、親鸞が流罪となり越後に向かうとき大物の三浦義忠が一考を泊めた。
そのとき、各地から親鸞を慕って多くの人がきて、義忠も親鸞の人柄に惚れ、
出家した。これにより「明空」の縫合を授かった。
このため、親鸞ゆかりの旧跡とみられ、参拝者も多い。
また、左側の道を登れば、薬師堂がある。
江戸時代には四つ子川、大谷川が大雨のたびに氾濫を起こし、特に大物の村に多大な
被害を与えた。このため、大物、荒川村には堤が何回となく作られ、水との闘いが
あった。古地図には、そのような石垣の提が集落を囲むように描かれている。特に、
四つ子川の百閒堤は今もその頼もしい姿を見せている。もし、寄り道するようであれば、
この百閒堤を見るのも楽しい。

この周辺の情景を少し小説に書いたその1節、
「湖から吹き渡ってくるわずかの風のすずとした装いを感じながら歩を進める。
大谷川の水音が聞こえるほどになると、道の集落側に堤防のような幾重にも石積み
をなして、数百メートルほど続いていた。乾いた土の褐色の道が先まで続き、
二人はゆっくりと進んだ。苔むした石の一つ一つが時代の流れを感じさせる。
この地域、昔はあちらこちらにしし垣や堤防があり、集落の出入り口にもなっていたが、
今は石の柱がわずかにその姿をとどめている。しし垣の役目にもなっていたのであろう
二メートルの高さで集落の周囲を囲むような形になっている。大谷川などの氾濫に
備えて江戸時代には水防ぎの石垣としてその役目を果たしていた。
ドロが邪魔くさそうにそんな話をしていたが、彼はその石垣に飛び上がると悠然と
歩き始めた。チャトは少し考えたが、やめにした。彼のジャンプ力では、厳しいと思ったからだ。
この大谷川の上流には、湯島の地に弁財天が祀られた湯島神社がある。
昔この地域は大谷川の氾濫が多々あり、竹生島の宝厳寺から弁財天の分霊を
いただき、祀ったという、ドロが石垣の上からまたそのような説明をした。結構話好きな猫なのだ。
以前に見た百閒堤と合わせ、この辺は水との戦いの場所でもあったのだろう。
茶畑からひょっこり白い猫が立ち現われ、その黒めの長いまなざし二人に向けたが、
これも愛想なく消えた。黒ずんだ茶の葉と千地たる光こもれる林、神社を押し込むような
小さな森、野辺の草叢、色調豊かな緑の世界だが、それ以外は石が主役のようだ。
川に沿って、下り始めると今まで目はじにあった琵琶湖が正面に来た。
平板とした青の中に三筋ほどの白い線が右から左へと航跡を残し、沖島の上には櫛
を梳いたような薄雲が数条航跡に合すかのようにたなびいている。」

さらに以下で「新近江名所図会 大規模治水工事の歴史」という記事からその
様子を垣間見てみる。
「平成25年(2013)10月15・16日に滋賀県を通過した台風26号は、県内各地に多くの
被害をもたらしました。大津市北小松の北比良山系から楊梅滝(第116回)を
経て流れ下る滝川も、JR湖西線の鉄橋付近で氾濫し、周辺の別荘地は床下まで
浸水しました。JR湖西線蓬莱駅付近から北小松駅付近にかけては、比良山系と
琵琶湖に挟まれた狭隘な地形で、山地から流れ出る大小の河川が小規模で急な
扇状地を形成しています。過去に幾多の被害に見舞われた集落は、扇状地の扇頂部の
斜面と湖岸に沿った平坦地に集まっています。こういった洪水や干ばつ被害から集落を
守った江戸時代の大規模な治水工事の歴史遺産を、訪ねてみることにしましょう。
百間堤
 JR湖西線志賀駅から線路に沿う道を高島市方向に1kmほど進むと、大物(だいもつ)
の集落に入ります。集落内の道を山手(西側)に進んで国道161号を越え、湖西道路志賀
バイパスの下をくぐり抜けます。山手の別荘地帯には進まず、右折して志賀バイパス
の側道を高島市方向に進み、左折して山に向かう林道に入ります。坂道をしばらく登ると
突然左手に巨大な石塁群が姿を現します。この石塁が四ツ子川の百間堤(ひゃっけんつつみ)です。
「大物区有文書」や『近江国滋賀郡誌』(宇野健一1979)・『志賀町むかし話』(志賀町
教育委員会1985)などによると、四ツ子川が嘉永5年(1852)7月22日卯刻(現在の暦で
いうと9月6日朝6時頃)に暴風雨で大規模に氾濫し、下流の田畑や人家数戸が流失
する被害が出ました。四ツ子川は集落の上側(西側)で左折して流れているため、
それまでも暴風雨や大雨でしばしば洪水を起こしていて、下流の集落や田畑に被害を
もたらしていました。そのため、住民は藩への上納米の減額をたびたび役所に願い出ていました。
そこで、当時大物村を治めていた宮川藩(現在の長浜市宮司町に所在)の藩主堀田正誠は、
水害防止のために一大石積み工事を起こすことにしました。若狭国から石積み名人の
「佐吉」を呼び寄せて棟梁とし、人夫は近郷の百姓の男女に日当として男米1升、女米5合
で出仕させました。1m前後の巨石を用いて長さ百間(約180m、ただし実測では約200mあります)、
天場幅十間(約18m)、高さ五~三間(5.5~9m)の大堤を、5年8ヵ月の歳月をかけて完成させました。
百間堤は崩壊することなく現在でも当時の姿をとどめ、その迫力には驚かされます。
また、下流の生活用水や水田の水源用に堤を横断して造られた水路は、石造建築の強さ
と優しさが表れています。百間堤に続く下流部の堤は女堤(おなごつつみ)とよばれ、女性でも
運べる程度の石で造られています。
こうもり穴出口
JR蓬莱駅から県道558号を北に進み、八屋戸の交差点を左折して山手(西側)の守山集落に
入ります。玄関先に守山石(蓬莱産付近でのみ産出する縞模様を持つチャート)の庭石
が据えられた民家が並ぶ細い道路をぬけ、やがて蓬莱山への登山道となる車道を進みます。
集落を抜けると、車道は山腹を横断する湖西道路の下をくぐり抜け、山腹の山荘住宅に
向かう道と山頂に向かう山道に分かれます。この山道の右手に「こうもり穴」とよばれる
トンネルがありました。
湖西道路の建設工事に先立ち、昭和59年(1984)に周辺の発掘調査が行われました
(滋賀県教育委員会・財団法人滋賀県文化財保護協会1986『国道161号線バイパス・湖西
道路関係遺跡調査報告Ⅲ 木戸・荒川坊遺跡 こうもり穴遺跡』)。山道にそって斜面を
さかのぼるように、長さ約310mのトンネルが見つかりました。そのうちの約245m分は完全な
トンネルで、ひと1人がかろうじて立って歩けるほどの幅と高さでした。トンネルの内部は
所々にロウソクを立てたと思われる穴や窪みもありましたが、土器などの人工遺物
は見つかりませんでした。
地元の住民もこの「こうもり穴」の存在は知っていましたが、いつ掘られたのか、その由来
や何のためトンネルなのか、地元の古文書にも残されていませんでした。現在では、
山腹を貫く長さ300m以上のこの謎のトンネルは、江戸時代終わり頃に水不足を解消する
ために掘られた隧道と推定されています。『志賀町むかし話』には、「水不足の守山の、
水探し事業のために掘られたもの」と記されています。平成4年(199
2)頃までは中を歩くことができたようですが、現在ではトンネル入口(西側)は埋まって
しまったようです。唯一、トンネル出口(東側)の痕跡が、湖西道路の下に残されています。
山中の歓喜寺薬師堂
百間堤のある四ツ子川の谷をはさんだ西の尾根の中腹に、平安時代に最澄が開基した
と伝えられている歓喜寺(かんきじ)の薬師堂がひっそりとたたずんでいます。
お堂に向かって左手には斜面を切り開いて平地を造成し、石垣や堀切で区切られたいくつかの
郭や庭園跡が残されていて、繁栄した様子がうかがえます。歓喜寺は、元亀3年(1572)の
元亀争乱で焼失してしまいますが、文禄元年(1592)に村人が薬師像を土中から見つけたため、
薬師堂が建立されたとされ、今日に至っています。また、薬師堂の東側山頂には歓喜寺城跡
も残されています。」

この地域は水との闘いの地域でもあった。

2018.06.09

西近江路紀行6 木戸

西近江路紀行6木戸

さて、道は守山の集落を後にすると、再び国道161号と合流
して北へ進む。道の左側には比良山系が屏風のように立ちはだかり、
右側には琵琶湖を眼下に見下ろし、その景観は素晴らしい。
白い砂浜に青く光る琵琶湖のたたずまいが多くの保養所をこの周辺
に造らせたが、車社会の発達やレジャーの多様化が観光客や宿泊の
人々を遠ざけることになり、多くの保養所は使われないまま、
時を過ごしている。それらが木々の合間に見え隠れている。
それを見ていると何が無しに足は湖へと向かう。

この湖辺の道は四季を通じて素晴らしい。以前は、和邇や小野まで
このつづら折れ風の道は続いたいたと思うが、今は、蓬莱の駅の横、
八所神社の参道であった道から湖岸沿いに伸びて来ている。
北船路の棚田や八屋戸の石畳の道を杉や檜、松、などの木立の影を
そぞろに歩くのもよいが、湖が足元まで食い込んでくる水音と
比良の覆うかぶさるような山並みを肌で感じながら歩くのもまた楽しいものだ。
特に、冬の小雪が湖からの不規則な風に舞い、銀粉のように
湖を覆い、更には白く塗り染められた比良に向かって吹き上がっていく
情景は素晴らしい。自然の中で立ち往生するかのような心持でだが
生きているという実感が肌で感じられる瞬間でもある。

江戸時代までは、それぞれの村に舟寄せの小さな入り江があった。古地図にも
それらがきちんと書かれている。比良が湖まで攻め寄せるかのような土地では、
半農半漁が営まれ住民たちは湖と山の両方から恵の幸を受けていた。
都人が秋や春にここを訪れその情景を歌にした。
万葉集では、
楽浪(さざなみ)の比良山嵐の海吹けば釣する海人の袖反(かえ)る見ゆ
さざ浪の比良の都のかり庵いほに 尾花乱れて 秋風ぞ吹く
さざ浪の比良の大曲わだよどむとも 昔の人に また逢わめやも
なかなかに君に恋ひすは比良の浦の 海人ならましを 玉も刈りつつ

しかし、そのような古き良き時代に浸っているわけにはいかない。小道を
進みだすとすぐにすでに廃墟の如き様相を見せているバブルの時代に
建てられた保養所が左手に絶え間なく現れる。庭は雑草の緑に覆われ、
建物のペンキは剥げ落ち、割れた窓、欠け落ちた壁、高く積まれたままの
椅子やソファーの内装品の数々、すべてが宴の後の趣を持って迫ってくる。
人間の欲望を満たすため、この地の自然も多くは塗り替えられていった。
だが、わずかの痕跡は残っている。途中に幾つかある砂浜の美しさ、
寄せる波を数百年弾いてきたであろう石積の連なり、更には茶色に
輝く葦の群生など、そこには静かな空気に昔の人々の声が漏れ聞こえて
くるようだ。この小道は途中幾つかの小さな集落を通って北比良まで
続いている。多分、その昔は、北小松からさらに先まで湖辺の連なりに
合わせ旅人に心安らかな旅路を与えていたのであろう。

道を比良へと戻す。雑木林や若い杉の木立の中を歩くと綺麗に舗装
された道路が忽然と現れる。びわ湖バレイの道路の道だ。琵琶湖バレイは
冬はスキー、春から秋には、山頂にある展望台やユリやしゃくなげの
咲く庭園があり、眼下に琵琶湖のまさに琵琶のような全景を見ながら
過ごせる。底が抜けた青い空に羊の形をした雲が数個、波縞が銀色に
いくつもの筋を見せる琵琶湖の上をゆっくりと漂い東の伊吹の山並み
へと流れていく。その手前は緑色に塗り込められたような湖東の田畑が
幾つかのあぜ道や道路の直線的な筋の中に見えている。

白洲正子は「近江山河抄」の中で、湖東の山々からこの比良を望んだ
様子を見事に描いている。また、作家の井上靖はこの比良の持つ自然に
憧れ幾つかの作品を残している。「比良のしゃくなげ」もその一つだ。
「わしは今でも、はっきりと覚えている。その写真は、はるか眼下に
鏡のような湖面の一部が望まれる比良山系の頂で、高山植物石楠花の
みごとな群落が、岩石のところどころ露出しているその急峻な斜面を
まるでお花畑のように美しく覆っていた。」
比良山系の頂や琵琶湖の河畔から見た比良山系の素晴らしさをこよなく愛した。
千メートルを超す山並みの織りなす絶景とそこに残るいまだ人間の手
が加えられていない景観に我々はあまりにも鈍感だ。

太い山道を比良の山端に沿って歩き、雑木林を抜けると少し高台に相撲技の
始祖という志賀清林をまつる墓と相撲公園がある。清林は、木戸に生まれ、
聖武天皇の勅命を受けて相撲の四十八手の基本作法を編み出したといわれる。
道は、再び北へ木戸川を越え、左側の旧道に入る。木戸の集落が続き、樹下神社、
山道と交差する。この辺が木戸集落の真ん中で、かっては木戸の宿があった。
いまも、当時の旅館の屋号や常夜燈が残されている。ここは、志賀の中枢部であり、
樹下神社の祭礼も「五ヶ祭り」と言われ、周辺の大物、荒川、木戸、守山、
北船路の旧木戸荘の人々によって5月5日に行われている。
木戸の樹下神社は、御祭神は、玉依姫命タマヨリヒメノミコトと言われる。
創祀年代不詳であるが、木戸城主佐野左衛門尉豊賢の創建と伝えられる。
永享元年社地を除地とせられ、以来世々木戸城主の崇敬が篤く、木戸庄
(比良ノ本庄木戸庄)五ヶ村の氏神として崇敬されてきた。
ところが元亀二年織田信長の比叡山焼打の累を受け、翌三年社殿が焼失する。
当時織田軍に追われて山中に遁世していた木戸城主佐野十乗坊秀方が社頭
の荒廃を痛憂して、天正六年社殿を再造し、坂本の日吉山王より樹下大神を
十禅師権現として再勧請して、郷内安穏貴賤豊楽を祈願せられた。
日吉山王の分霊社で、明治初年までは十禅師権現社と称され、コノモトさん
とも呼ばれていた。しかし類推するところ、古記録に正平三年に創立と
あるのは、日吉山王を勧請した年代で、それ以前には古代より比良神を
産土神として奉斎して来たもので、その云い伝えや文献が多く残っている。

当社境内の峰神社は祭神が比良神で、奥宮が比良山頂にあったもので今も
「峰さん」「峰権現さん」と崇敬されている。この比良神は古く比良三系を
神体山として周辺の住民が産土神として仰いで来た神であるが、この比良山
に佛教が入って来ると、宗教界に大きな位置をしめ、南都の佛教が入ると、
東大寺縁起に比良神が重要な役割をもって現れ、続いて比叡山延暦寺の勢力
が南都寺院を圧迫して入って来ると、比良神も北端に追われて白鬚明神が
比良神であると縁起に語られ、地元民の比良権現信仰が白山権現にすり
替えられるのである。(比良神は貞観七年に従四位下の神階を贈られた)
当社の例祭には五基の神輿による勇壮な神幸祭があり、庄内五部落の立会の
古式祭で古くより五箇祭と称され、例年5月5日に開催され、北船路の
八所神社の神輿とあわせ五基の神輿が湖岸の御旅所へ渡御する湖西地方
で有名な祭である。この地域、神社も様々な変転がある。

ある日の周辺歩きの記録を見てみよう。
「樹下神社を少し、湖へと下ると、その先にこの辺でも見られなくなった
茅葺きの家があった。久しぶりに見る茅葺きの家だった。
ガラスの引き戸の隙間を抜けると、中は黒く光る土間の中に外からの
光を受けて様々な陰翳を見せていた。黒ずんだ梁には右手からの光と
左手の庭に通ずる入り口からの光が光の濃淡をつけている。奥の居間には
左手の廊下から差し込む光が黒い陰となって畳の上に2筋の線を作っている。
昔、竈があったという台所の隅の小さな窓からちぎれ雲が浮かんでいる
ように見えた。浮かんで、それから風に少しばかり、右左と吹かれている
ようでもあった。その曇りガラスを中から薄められた光が台所全体を暗い
スクリーンに浮かぶモノクロ写真の映像を映し出しているようだった。
さらに、黒ずんだ家塀の小さな節穴がもう1つの粗末なスクリーンを作り出し、
裏庭をおいて北向こうにある生垣の緑が、ぼんやりと映っていた。
梁や天井の煤による黒き光映えがこの家の200年以上という古さをさらに
古くさえ見せているようでもある。

庭の横にあるかわとの水のきらめきが薄黄色の暖簾を通して家の中まで
届いている。庭から土間へそして裏庭へと抜ける風が涼しい。これが
先人の人間たちの知恵なのであろう。冷房のいらない生活、今は遠い昔
のような気がしていたが、ここは違った。
しばしの休みを取るには、良い場所だ。
日本には昔から「煤の文化」があった。
家の台所には煮炊きの竈があり、部屋には炉が切ってあった。竈や炉では
薪が焚かれ、炎を上げ、煙りを吹きだした。煮炊きだけではなく夜の照明
の蝋燭や灯明からも油煙が立ち上った。煙は細かな煤となり、梁や桟に
ひそかに積もり、屋根裏や天井に染み込んだ。
建てたばかりの素木の家も、5年10年と人が住むうちに煤で黒く染まって
いった。これはまた実用的な面も持っている。煤によって害虫の駆除や
防水効果などが強められるのだ。家だけでなく家の中の道具も煤で黒くなる。
鍋や釜や炉の自在鉤はいうまでもなく、障子も襖も箪笥も机も黒ずんでくる。
それが「黒ずむ」であり、つやつやになるまで拭きあげれば、「黒光り」という。
新しい家や道具のすがすがしさもいいが、日本人は煤を浴びて黒ずみ、
黒光りするものにこそ安らぎをかんじてきたのではなかったろうか。
最近は、外国人の方が昔の生活を知りたいということでこの家を訪れるという。」

先ほどの湖畔の道を今度は樹げ神社向けに向かうとこの茅葺きの家に辿りつく。
四季に応じて山側から、湖側から、好きな想いで立ち寄るのもまた楽しみの一つであろう。
なお、木戸には「臼摺りうた」と言う、ちょっと小粋な歌がある。
東山から出やしゃる月は
さんしゃぐるまの花のような
高い山には霞がかかる
わたしゃあなたに気がかかる
あなた何処行く手に豆のせて
好きなとのごの年とりに

2018.06.03

西近江路紀行5 八屋戸守山

西近江路紀行5 八屋戸守山

八所神社の森がこじんまりとわたしを見送っている。
鎮守の森というのは、かつては神社を囲むようにして必ず存在した
森林のことで、杜の字をあてることも多い。「神社」と書いて「もり」
と読ませている例もあり古神道から神社神道が派生したことがうかがえる]。
また、「社叢」(しゃそう)と称されることも多い、そんな話が浮かんでみた。
現在の神社神道の神体は本殿や拝殿などの、注連縄の張られた「社」
であり、それを囲むものが鎮守の森であると理解されているが、
本来の神道の源流である古神道には、神籬(ひもろぎ)・磐座(いわくら)
信仰があり、森林や森林に覆われた土地、山岳(霊峰富士など)・巨石や
海や河川(岩礁や滝など特徴的な場所)など自然そのものが信仰の
対象になっていたという。
神社神道の神社も、もともとはこのような神域や、常世(とこよ)と
現世(うつしよ)の端境と考えられた、神籬や磐座のある場所に
建立されたものがほとんどで、境内に神体としての神木や霊石なども
見ることができる。なかには本殿や拝殿さえ存在しない神社もあり、
森林やその丘を神体としているものなどがあり、日本の自然崇拝・
精霊崇拝でもある古神道を今に伝えている。

北船路を少し行くと八屋戸と呼ばれる地域が現れる。道路の脇には、
お地蔵さんがいた。
道は、八屋戸守山の集落の手前で、左に入り右へ曲がるが、その角には
「左京大津」と刻まれた自然石の道標がある。この守山は、明治7年に
隣りの北船路村と合わせて、八屋戸村となったところだ。
守山は、比良山系の一つ蓬莱山への登り口として知られている。
この集落の中を歩きはじめるとすぐに石畳の道が続いている。庭までも石
が敷き詰められ、春には梅が、夏には向日葵の大輪が私を迎えるように
その季節の風情を色と形、更には匂いで包んでくれる。更に道を
上がれば、標高500メートル付近に文政11年に勧請した湖上航行
の安全の神金毘羅さんを祀る金刀比羅神社(ことひら)がある。
江戸時代は柴、割り木、庭石を運ぶための50石、百石船が出入りし、
白い帆で埋め尽くされたものだ、と土地の古老が懐かし気に話してくれる。
神社は、漁師や船頭衆はこの金毘羅さんを海の守り神として信仰し、
毎月十日には例祭を行っていた。三月十日は大祭で、集落の辻々に猿
のぬいぐるみや幟が立てられ村人が参詣したという。
現在も大祭には、多くの人が訪れる。更に進むと金毘羅峠を越えて蓬莱山
へと道は続くが、ちとしんどいので国道に沿って先へと向かう。
守山の集落は、湖岸の八屋戸浜に接しているが、この浜から江戸時代
には薪炭、石材などが湖東、大津方面まで舟で運び出されていたのである。
この地域は守山石、木戸石といわれ多くの石材は採れた。先ほどのように
庭先までも石が敷き詰められ、山並みから湧き出てくる水を三面水路を
使って生活に利用してきた。石の文化が生活に根付いている、といえる。
石に映える日の光は柔らかい。杉の屋敷林が家々を包み込み、石たちが
それを支えている。道の横にあったチャート石で一休みするが、水路の
さざめく水音と石畳をゆるく吹き落ちる風にしばしの安らぎを得る。
更に北へと向かえば、比良を中心としたこの地域から産する石材を利用した
多くの歴史的な構造物が今も残っている。これらは、河川や琵琶湖の
水害から地域を守るための百間堤などの堤防、獣害を防ぐしし垣、利水の
ための水路、石積みの棚田、神社の彫刻物などであり、高度な技術を
持った先人たちが、長い年月をかけて築き上げてきた遺産である。
個人の家の庭や道には、石畳として使われたり、生活用水のための石造り
のかわとなど生活の一部に溶け込んでもいる。神社の狛犬、しし垣、
石灯篭、家の基礎石、車石など様々な形でも使われて来た。
古くは、多数存在する古墳にも縦横3メートル以上の一枚岩の石版が壁
や天井に使われている。古代から近世まで石の産地としてその生業として、
日々の生活の中にも、様々に姿を変え、関わってきた。江戸時代初期
の「毛吹草」には名産の一つに木戸石が出ている。
ここで少し石工の話を聞きたいものだ。

「旧志賀町域の石工たち」の記述では、
明治十三年(1880)にまとめられた「滋賀県物産誌」に、県内の各町村
における農・工・商の軒数や特産物などが記録されている。
ただ、「滋賀県物産誌」の記述は、滋賀県内の石工を網羅的に記録している
訳ではない。「滋賀県物産誌」の石工に関する記述の中で特筆すべきは、
旧志賀町周辺の状況である。この地域では「木戸村」の項に特産物として
「石燈籠」「石塔」などが挙げられているなど、石工の分布密度は
他地域に比べて圧倒的である。
木戸村・北比良村では戸数の中において「工」の占める比率も高く、
明治時代初めにおける滋賀県の石工の分布状況として、この地域が
特筆されるべき状況であった。
江戸時代の石造物の刻銘等の資料では、その中で比較的よく知られている
資料と
・「雲根志」などを著した木内石亭が郷里の大津市幸神社に、
文化二年(1805)に奉納した石燈籠の「荒川村石工今井丈左衛門」
という刻銘。、、、」ともある。

2018.05.27

西近江路紀行4 北船路

西近江路紀行 北船路

西近江路は文化面のほかにも、その特徴の1つに湖上交通の物資輸送の集散地
となっていった港との深い関係がある。
「延喜式」には、能登や越中の日本海沿岸の諸物資が敦賀から塩津、海津、
に輸送され、湖上を大津へ廻漕されて都へと運ばれたと記述されている。
江戸時代にはさらに開拓され、「淡海録」には、
大津212艘、堅田133艘、今津125艘、塩津121艘、北小松35艘、
和邇33艘、南比良27、南小松13、木戸10艘などとなっている。
これをみても西近江路にある港には、合わせて919艘という多くの船
を所持していたことがわかる。

しかし、西近江路の名称は、古絵図には「北国海道」、「北国道」と書かれている
場合が多い。さらには、石造道標にも「北国海道」、「北国道」の名称が
多く刻まれている。これらから当時の人々は西近江路と呼ぶよりも、北国海道
という呼称で親しんでいた。
北国海道の前身となる古代、中世の北陸道は、日本の官路都市て畿内あるいは平安の
郡と北陸を最短距離でつなぐ重要な道として長い歴史を刻んできた。

和邇から北船路へ
西近江路は、和邇の北浜をすぎ、暫く湖岸沿いに歩く。夏は湖岸から
吹き寄せる風と対岸の沖島や三上山の遠景に旅人もほっこりする。
JR湖西線を再びくぐり、蓬莱駅前の北船路の八所神社の前へ出る。
この八所神社の由来は、日吉社の神官祝部行丸が、織田信長の比叡山
焼き討ちの時、その難をのがれて、日吉社七体のご神体をこの地に
運び、元来の地主神と合わせて八神をまつったことによると言われている。
ところで、北船路は比良の山上にある小女郎池への登り口にあたる。
蓬莱山と権現山とのほぼ中間にあるこの池は、およそ千メートルも高い
ところにあって、今も水をたたえている。この池を見るにつけ比良の
山のもつ神秘性をうかがわせる。小女郎池は、竜神の住む池として地元の
人々から畏敬され、干ばつになると、かっては雨乞いの行事が行われた。
今も山麓の集落との結びつきが強い池である。

冬の琵琶湖は味気ない。
灰色の湖面に僅かのさざ波が遊び、対岸の三上山や野洲の平ぺったい畑や水田も
灰色の世界に閉じこもっている。すべてが灰色の薄絹の中にある。
和邇漁港の近くの砂浜もやや灰色がかった砂に残雪がまだら模様を見せている。
漁港の近くには北浜住吉神社がひっそりと建っている。
緩やかに湾曲した湖辺の細い道を行くと、枯れ葦の先に僅かに雪を頂いた比良の山々が
現われてくる。1か月前までは薄赤と茶色、薄緑の入り混じったパキスタン絨毯の趣で
あった山肌も薄く拡がる雲に溶け込むようにその肌をさらしている。ここから見る
春から夏の彩は生命の強さを感じるが、今はただ老い行く老人の体を見せているだけだ。
今の国道は古代、北国海道として京都や大津から敦賀へと向かう街道として栄えていた。
夏の暑い日には、今は別な場所に移された大きな松の木があり、旅人をその木蔭と湖の
涼やかな風で迎えたともいう。晴れた日の比良の山並みと琵琶湖の光に映える蒼さは
一服の清涼剤となった。
しかし、冬至の今、それは望めない。
冬至、冬のとばりが深い
薄灰色のとばりが湖面まで垂れ下がり、灰色の水面を覆う形で琵琶湖がいた。
その上には、わずかに残る力を振り絞るが如き姿で朝日がわずかな形を見せている。
既に比良山には、頂上を雪の切れ切れが白く大きく張り付き広がっている。こちらも
薄墨の背景に浮かぶ山水画の風情を見せている。
「暦便覧」では「日南の限りを行て、日の短きの至りなれば也」と説明している。
日照時間が減り、夏至と反対に夜が最も長く昼が短い日だ。
冬至にかぼちゃを食べるのは風邪を引かない、金運を祈願するというような意味が
あるそうだ。ふとそんな思いが頭をかすめていく。
・乃東生(なつかれくさしょうず)十二月二十二日頃
夏枯草が芽をだす頃。夏至の「乃東枯」に対応し、うつぼ草を表している。
・麋角解(さわしかのつのおつる)十二月二十七日頃
鹿の角が落ちる頃。「麋」は大鹿のことで、古い角を落として生え変わる。
・雪下出麦(ゆきわたりてむぎのびる)一月一日頃
雪の下で麦が芽をだす頃。浮き上がった芽を踏む「麦踏み」は日本独特の風習だと
誰かに聞いた。
初茜、いい言葉だ。元旦、直前の茜空。夜の暗がりから白み、明るみ、茜に染まる
東雲しののめの空をさす。
近くの農家の年寄がよく言っていた。
むかし、冬至によく食べたのが、冬至がゆとかぼちゃだった。冬至がゆは小豆を
入れたおかゆのことで、小豆の赤が太陽を意味する魔除けの色で、冬至に食べて
厄祓いをするそうだ。かぼちゃは栄養豊富で長期保存がきくことから、冬の栄養補給
になり、冬至に食べたのだという。
また、冬至には「ん」のつくものを食べると「運」が呼びこめるといわれているともいう。
にんじん、だいこん、れんこん、うどん、ぎんなん、きんかん......など、「ん」のつくもの
を運盛り といって縁起をかついでいたこともあるようだ。最近はこのような話を
あまり聞かない。豊富な野菜や健康志向のレシピ、栄養剤、味覚ある冬料理、
などこの素朴な料理に注意を向けることは失われつつある。だが、人がその風土
に合わせ生きる力として数百年も培ってきた知恵を忘れるべきではない、と彼
は思いつつ昨夜はカボチャ料理を妻に頼んだ。
目はじに黒く深い緑に黄色の点描が見えた。小さな赤子のこぶしほどの黄色い実が
小ぶりの葉を押しのけるように実っていた。柚子の木が一つ、彼の背丈を超す大きさに
その直立した姿を見せている。数日前に柚子の風呂をした記憶がよみがえる。
むかしは、冬至の翌日から日が延びるため、この日は陰の極みとし、翌日から再び陽に
かえると考えられてきた。それを「一陽来復」といい、この日を境に運が向くとされていた。
厄払いするための禊(みそぎ)として身を清めるということから柚子風呂は冬の代名詞
のようなものだ。冬が旬の柚子は香りも強く、強い香りのもとには邪気がおこらないと
いう考えもあったのであろう。

身体の芯に迫り溶け込むような感触を今日も味わいたい、思わず体がほてるのを感じた。
茶色に広がる枯れた野原と疎林となった林が一段とその侘しさを見せていた。白く緩やかな
穂毛を見せていたススキの群れも消えていた。ただぼーとして、動きのない雑木を見つめる。
こんなとき、真っ白になった頭の中では、次第に時間が遡りはじめる。霧が少しづつ晴れてくる
ように雑木林のなかは、小さな生命にあふれていたころの様子が蘇ってくる。雑草たちの旺盛な
広がりと小さな木々の緑をまとった姿だ。秋の終わりころの陽だまりはススキの柔らかい
穂先の下で波打っていた。まだわずかの緑を残した落ち葉の上をかさかさと音を立ててかけ
走るオオオサムシが垣間見えた。彼はいま黒ずんだ朽木の中で、どのようにして眠っている
のだろうか。紅葉したツタの葉で、重ね合わせた手のひらの上に、あごを乗せて物思いに
ふけっていたアマガエルは、土くれの中で春の暖かさをまっているのだろう。
雪の中で春を待つホソミオツネントンボを見たことがある。脚で枝をしっかりつかんで体を固定し、
体をピンと張って小枝に見せていた。その力強さに思わず見とれた。
実に他愛のないことが、頭の中を駆け巡る。生き物たちのことが無性に恋しくなるのは、すべて
が無に見える果てしない枯草の世界から少しでも逃げ出そうとする意識がそうさせているのか、
時間は逆に廻り、晩春から初秋へ、そして夏の終わりから真夏へと記憶が引き戻されていく。
そんなことを考えていると、八所神社の鳥居とJR蓬莱の駅が見えてきた。

以下に八所神社と小女郎池について少し詳しく見てみよう。
蓬莱の駅の真前には、二つの八所神社がある。

その路は、琵琶湖のさざなみが寄せ波間の音が聞こえる足元から
一直線に西へと伸びている。国道を切り取るようにそのまま大きな
石の鳥居の下から数段の石段を駆け上がり拝殿へと続く。鳥居には
大きな注連縄がかかり、鳥居の横の大きな石碑には、「八所神社」
と深く刻まれ、こちらをにらむかのように建っていた。
横道の常夜灯と道端の羊歯、南天の赤い実、風にさやぐ杉の木肌、
がひそやかに彼を迎える。地表に広がる無数の苔、その雑念とした空間
を斑模様に拡がる水溜りの薄灰色の道が、ゆくての拝殿のややくすんだ中
へと紛れ入っていた。
ゆっくりと小砂利の道を踏みしめながら周りを見れば、幹は青く照り
ながら葉は黄ばんだ竹林や無造作に打ち捨てられた朽木がさびしげに見られる。
拝殿を回り込む形で、その先に進むと小さな本殿が杉木立を後景に
その華奢な姿を木漏れ日の中に浮き立たせている。
右手の社務所とある建物は、数十年という風雪がしみ込む形で杉陰の中に
見えた。
石碑の横にある神社の由来によれば、
「祭神は、大己貴命、 白山菊理姫命の二座です。
織田信長が比叡山を焼き討ちした折り、日吉神社の禰宜祝部行丸が類焼
を避けて日吉七社の御神体をこの地に遷し日吉神社再興までこの地で奉祀
したと伝えています。日吉大社七座と地主神白山菊理姫神一座とを併せて
八所神社と称するとしています。
日吉大社が再興されるまで日吉祭りはこの八所神社で実施されたため、現在、
日吉山王と書かれた菊入りの高張りがあり、五か祭には使用されます。
天正6年(1578)の再建とされました。
例祭は、5月5日で木戸の樹下神社の例祭とあわして行われ、湖岸を朝早く
木戸の樹下神社に渡御し、夕方還御します。
拝殿は、間口二間 奥行二間 入母屋造りで、柱間を桁裄三間、梁間二間とした
木割の太い建物です」とある。
静けさの中に水音がわずかな動きを伝える。右横の竜神の口からは、幾筋かの
水滴が落ちている。本殿の後ろには、隠れるように、祝部行丸の墓や愛宕さん
の石灯篭、山ノ神を祀る石像などがあり、その銅色の錆びた青色の屋根
とともに静かな世界を造っていた。
拝殿から来た道を振り返れば、まっすぐ伸びた道は湖へと消えている。
拝殿の柱間にその碧き色が光をくねらすように見えていた。
更にここには、同じ名前の八所神社がもう一つある。
先ほどの八所神社の横の参道の少し先に同じ石の鳥居が建っている。
鳥居の後ろから注連縄が顔を出しているが、薄茶色に化した樒がそこに吊り
下げられている。
注連縄の先には、拝殿と本殿が石畳の直線の上に乗るかのように鎮座し、
杉木立が並走するかのように奥へと伸び、後背の林へと消えていく。
石段の手前には、神社由来の辻立てがある。
「祭神は八所大神 住吉大神の二座です。
創祀年代不詳ですが、神護景雲2年(768)に良弁(ろうべん 689~773)
によって創建されたと伝えられています。良弁は、奈良時代の学僧として
名高いが、南船路辺りの出身とする伝承があります。
斎明天皇5年比良行幸の際、当社にも臨幸ありと伝えられます。
又良弁僧正と深い関係があり、天平宝字6年(762)社宇を改造し社側に
一字一石経塚を建て(此経塚現存す)法楽を修しました。
又足利将軍が安産の神として崇め、和邇金蔵坊が郷の産土神と崇敬し
社領若干を寄進されたともあります。
拝殿は、間口二間 奥行二間 入母屋造りです。
中には、伝良弁納経の石塔があり、良弁が書いた経文を納めたものと
伝えられます。層塔の残欠で、厚さ6~7cmの自然石の上に三層の笠
を置き、その上に宝珠形の石をのせ、良弁が一石一字の法華経を納めた
塚であると伝えます。
例祭は、5月5日、神輿二基が湖岸の御旅所へ渡御します」とある。
くすんだ杉板には黒い染みが点々とあり、年代を感じる。
拝殿の西側に、タブイキの林が広がり、境内にその静けさをもたらしている。
中には、胸高周囲4メートル以上のタボノキ・コジイの巨木が深き境界を
創りだし、中央に鎮座する拝殿に千々たる光の葉影を落としていた。
拝殿の後ろ、陰となるところに朽ちた大木が何条もの割れ目を見せて
その枯れ肌をみせて苔地の上に座っている。
昔はかなりの大木であったのだろう。
その根の周りには深緑の苔たちがかしずくかのように四方に伸びている。
老いてもこのように存在感を示せれば、老木も幸せ者だ。
拝殿から湖を見れば、柱のフレームに切り取られた碧い水模様が午後の
光りの中で絶えず変化するように煌めいている。この拝殿もその昔は、
国道や湖西線の無様な遮蔽物もなく、1つのつながりとして湖へ伸びて
いたのであろう。静かに目を閉じれば、湖の小さきさえずりが聞こえ、
幾重の葉影がこの身を包みこんでいる。
良弁(689~773)については、奈良時代に活躍した僧。石山寺の
建立に尽力しました。出自について諸説ありますが、良弁は南船路辺り
の出身とする伝承があり、また近江国志賀里の百済氏とする説もあります。
残された伝承によると、良弁が2歳の頃、大きな鷹が良弁をつかんで飛び去り、
行方不明になり、奈良の春日社で義淵(ぎえん)という僧が鷹につかまった
子どもを見つけ自分の弟子とし、「良弁」と名づけ大切に育てたとのことです。
その後、良弁は成長して僧正にまでなり、母親は奈良まで出向き、30数年
ぶりに親子の再会がかないました。良弁の師匠の義淵は、飛鳥の岡寺の創健者
と知られる高僧で、弟子に行基や玄昉(げんぼう)などの著名人が多くいます。
良弁は聖武天皇や光明皇后とのつながりも深く、東大寺の初代別当にもなっています。
これは、地元の古老から聞いた話である。
この奥には、円墳横穴式石室の古墳があったが、今は見ることが出来ない。

小女郎池までは、先ほどの蓬莱駅から中学校を通り、500メートルほど蓬莱の
山麓を上ると雑木林の先に見えてくる。冬の雪に浮かぶ姿は美しいが、夏には
ただの池としか見えないのが残念だ。だが、この池にまつわる昔話は中々に楽しい。

その途中にある棚田も栗原の棚田と同じようにこの地を彩る1つだ。
棚田の淡描
蓬莱の駅は無人駅だ。少し前まで手打ちそばの蕎麦屋があったが、すでに休業
している。やや硬めのそばは歯ごたえがよく結構通ったものだ。そこは琵琶湖
が近くに迫り、わずかに茶褐色を見せる畑と田んぼの薄緑が混じり合い湖の青さ
の中に消えていく、その風景を店の窓辺から見たものだが、いまはない。
駅前からの道はやや勾配を保ち、比良の山端に向かって伸びている。
初夏の日差しがさえぎるものがない舗装道路に強く照りかえり、その白さを一段と
強めながら、私の体を突き抜いていく。小さな影がわたしの歩みに合わせ静か
についてくる。集落を外れ、砂利道に入ると、草草の発する息がむっとした
水蒸気となり、朝日をうけて金色に輝き、体にまとわりつき始める。
すでに十センチほどに伸びた稲穂が鋭い穂先を見せながらゆったりと風に
乗って動いている。朝の雫に光り輝く蜘蛛糸がそのあり様を誰の目にも
明らかにするかのように水平な網を稲穂の揺れ、あぜ道の草むらの中に
見せている。その細く雫を帯びた糸は、五線の譜のようでゆらゆらと揺れている。
大きな水玉がしなった葉の上を転がりすっとんと落ちた。深緑、薄い緑、
白い小さな花、その群生の中を日差しを跳ね返しながら、川が顔を出す。
小さな凹凸が水にいくつかの階を作り、下へと流れていく。数条の水の筋
を作りながらそのくねり進む様は悠々たる大河の趣を感じさせた。
夏の暑い日、友達とパンツ一つとなり、ザリガニや小魚を捕りあった日、
小魚がその銀色を一ひねりしながら水草に隠れるのをさらに追いかけた友
の水浸しの体、足に伝わる泥と小石の感触と水の冷たさ、さらには背中に
刺す太陽の熱さ、ふとそんな昔の情景が浮かぶ。
川を少し上ったところにその情景はあった。

蓬莱山に横たわるかのように何十となく緑に熟れた水田が上へ上と重なっていた。
北船路の棚田だ。伸びた先に森の一団がこれも蓬莱の山に溶け込む形で棚田
と青い空を仕切り、横一線に伸びている。飛行機雲が一つ、青く広やかな空
を二分するかのように西へと伸びている。覚悟を決めて、棚田の最上部へと
一歩踏む出す。見た目でもその勾配の強さが感じられるが、歩き始めると
その強さが足の裏を伝わり、体全体に感じられる。かなりきつい。
夏の田んぼには、浮草がその水面を覆うかのようにひろく生えわたっている。
その中にいくつかの目がこちらをうかがうように水面に盛り上がっている。
蛙たちだ。その緑の肌と大きな目は闖入者の動きを見張るかのようにじっと
眼を据えて動かない。チャトがあぜ道に身を伏せるかのようにそれに近づくと
一瞬にしてそれは消えた。横でぽちゃりと水音がはねた。
途中、紅色の花が群れ咲く三本の木に寄り添って、強烈な日差しを避け、
ひと時の息休めをする。頬を撫ぜる風がわずかな流れで心地よさを与える。
成長の途中であろう稲たちが一斉に右へとその穂先を傾け、また左へと
揺れ動いている。渡る風の音は聞こえない。棚田の中ごろあたりであるが、
平板な青さの湖に白い帆を揺らめかせているヨットや二筋の波線を引きながら
右から左へと流れるボートが見られる。その先は初夏の霞の中にただ茫洋
と白さが広がり、いつも見える三上山の小さくも華麗な姿はその白き霞の
中に消えている。

比良は山端が琵琶湖の湖岸まで直接伸びており、平地が少ない。
伝承によれば、明智光秀の時代から山麓の傾斜地に水田の開発が進められて
きたという。どこの地域の棚田もそうだが、水をたたえるため、石垣等をつくり、
等高線に従い平坦な土地を確保している。棚田百選などと言われているが、
ここも先人たちの努力が営々と続けてこられた結果でもある。我々は写真など
で美しいとは思うものの、その地道な毎日の生業を忘れてはならない。
ここも、後継者の問題などで一時その姿を失う状況ともなったが、水田を
大きな区画につくりかえる圃場整備事業を行うことで、大きな区画の水田が
雛壇状に並ぶような棚田になったという。多分かってあった棚田の形は
だいぶ消えたのかもしれない。千地と寄せる光の中で、わたしはそんな
ことを思った。
最上部の棚田の横に来た。途中の道で見た情景よりもさらに艶やかに広がる
緑と琵琶湖の千地に光る群青、雲の幾重にも重なった空の薄青きが一つの
フレームにはめ込まれたように目の前にある。既にここでは棚段という
意識は覚えず、幾重にも重なる緑の絨毯がいくつもの黒い線で区切られ、
下へ下へとと延びている、ただそれだけだ。その緑も平板なそれとは
違い、そばの森のざわつきに合すかのようにその緑の中に小さな影が
出来、全体がふわり浮き上がりまた下がる、その緩やかなリズムがわたし
の鼓動と同期し、緩やかな和らぎを与えていく。ゆったりとした水縞を描きながら
水音が流れる。その溝の横に、ツユ草が群れ咲いていた。真っ青な花びらには、
紺色の筋が枝葉のように広がり、さながらガラス細工のようである。黄色の
おしべはその目の覚めるような色をさらに強めている。ここはちょうど梅の木
の下、強く光る日差しの中で、ややくつろいだ空気が占めている。
小さな草花たちもその日陰の中で、休息している。静かな時間が流れ、

わたしは一刻の眠りにつく。
棚田は自然と人の結節点だ。ひな壇のように落ちていくそれぞれの水田の
すぐ横には、樫の木や栗の木がその葉群をざわつかせながら取り巻き
騒いでいる。今はのびやかに育つ稲たちも人の手が手控えられた瞬間
からこれらの森の様々な木々や草たちに侵略され朽ちていく。
どこの棚田もそのような宿命の中で生き続けるのだ。春先に聞こえる
田植えに集まった人々、そこには幼児の初々しい声もある、がある限り
この水田たちも永く生きていけるのだ。午睡の中で、そんな取り止めの
ない思いが湧きまた消えた。そのウツらとした中にブーンという羽音が
わたしを引き戻す。虎模様のカミキリムシがわたしの肩に止まり、
その長い触角を揺らしていた。チャトは、彼の得意の腹だしスタイルで、
まだ夢の中だ。空を飛び回る夢でも見ているのでろう。
緑続く水田と湖の照り映える蒼さの中を一直線に白い線が通っている。
やや高めのブレーキ音を出して緑色の電車が駅に滑り込んできた。数時間前
までの灼熱の空はやや柔らかさを増し、頬を撫でる風にも涼やかさが加わり
始めている。わたしは木陰から重たげに体を起こし、少し周りを見るかの
仕草で棚田の外れへとあぜ道をたどりながら進む。かっ、かっ、かっ、と
少し早いヒグラシの声が近くの林、遠くの森から木霊してくるようだ。
その澄んだ声が足元の草藁を撫ぜるかのようにわたしの耳に届く。
やがてここにもアブラゼミやミンミンゼミの声があふれその穂先を
揺るがすかのように四方に飛び交う。

小女郎ケ池の昔話
昔この蓬莱山の麓に忠右衛門という人のいえがありました。妻をはなといい、
2人の間には生まれて間もないかわいい赤ん坊がいました。
ある夏の日、山へ行ってこの小女郎がのそばで草刈りをしていたはなは、
暑さのあまり池の水でも飲もうと思って池に近づくと、かたわらに真っ白な
蛇が1匹いるのを見つけました。はなは蛇に「お前はいいな、暑くなると
池で泳ぐことが出来てさぞかし涼しいことやろうが、私は人間と生まれたばっかりに
こんなに暑うても仕事をせんならん」と何の気もなしに愚痴をこぼしました。
ところが、その夜中はなは暑さのあまり寝苦しくてふと目を覚ましました。
そして、そのうえ夢中のままで家を飛び出し、気が付いてみると昼間水を飲みに来た池の中に
我が身を横たえて居たのです。不思議なことに厚さはかき消すようになくなり、はなは
そのまま家に帰りました。このことがあって、より奇妙なことには、毎夜
きまった時刻になるとはなの身体は焼け付くような暑さに襲われ、その度に
はなは夢中のまま山へ行き、小女郎が池に身を浸さねばならないのでした。
夜ごとに床を抜け出す妻の様子に不思議に思った夫の忠右衛門は、ある夜ひそかに
妻の後をつけていきました。ところが、こともあろうに池の面に横たわり
泳ぐ真っ白な大蛇と化したはなの姿を見て、大声を出して驚きました。
その声に気が付いたはなは「今はいたしかたございません。実は池のほとりに住む
蛇の主に魅入られてしまいました。と泣く、すべてを打ち明けました。
忠右衛門は因果の恐ろしさ覚り、すべたは前世の因縁と諦めて妻をこの池の
畔に住まわせることにしました。しかし、気がかりなのは手元に残された
赤ん坊に乳を飲ませることでした。このため、2人は相談の末、妻は山を下り、
夫は山に登って1日1度だけ逢うことにことにしたのです。こうして、
赤ん坊に乳を与えるために休んだ石は、丘石といい、そこには今も赤ん坊の
足あとが残っていると伝えられています。
「雨たもれ小女郎が池。」と旱魃の際、土地の人らが唱える雨乞いの風習は
はなが夫と別れる時に「干ばつののため、村が困るようなことがあったら、
ここへきて「小女郎が池の歌を詠ってください」と言い残したという伝説に
基づくものだと言われています。

これもまた志賀の昔話として語り継がれてきたものである。
北浜住吉神社にまつわる話

旧栗原村に,大教寺という大寺院がありました。今の妙道会敷地内と思われます。後に
宗派の争いで焼かれたとのことですが、皇室が直参される格式高い寺でもありました。
寛弘7年2月、花山天皇の皇子清仁せいにん親王が、比良山最勝寺へ参詣の帰途に
御座船で北浜の湊にお着きになりました。御座船には、貴船神社を祀り、船の安全を
祈っておりました。親王は栗原道を通られて、無事大教寺参詣を澄まされ、再び
御座船を召されて、帰路につきました。
御座船が沖に出た時、湖上に突如すさまじい突風が吹き、船も危うくなりました。
これを見て、北浜の人は、漁船に乗って急ぎ救援に向かいました。と同時に、南浜
の方からも救助の船が出ました。
風いよいよ烈しく、すくいの方法もありませんでしたが、親王が御座船の舳先に
立たれて、一心に住吉大明神を祈念されると、さすがに風も収まり、波も静まって
難を逃れることが出来、御座船は漁船に守れらながら、一時寺浜(南浜)に御安着
になりました。
なお、寺浜跡を残す南浜の町道端には、わたしたちの子供の頃には、住吉大明神
と書かれた木柱がありましたが、朽ちて古くなったので、今は住吉神社、八幡神社、
貴船神社と3神社の社名が書かれた石碑が建て直されています。
皇室は、このことを痛く感じられ、同年4月、北浜湊の上に住吉神社を建立され、
合わせて神饌田を下したまわりました。当時、御神体は木造でしたが、昭和12年に
何ものかに盗まれました。ちなみにその木造御神体は、国宝級のものだと言い伝えられています。
さらに、親王はこの時救援に向かった漁師に感謝され、南浜、北浜の長男に
限り、和邇祭礼に我と同じ服装をして稚児として出るよう、お許しになりました。
今、行われている「駒被り」はその名残です。
また、嵐のあった26日を住吉神社の祭日とされていますが、とりわけ秋の大祭には、
南浜におもむいて沖に出て、竹筒に湖中の水をくみ取り、その水でお湯を立ててお祝いを
しますが、この南浜の水を入れないとお湯が立たないというのも、不思議なことです。

また、同じような話が住吉神社の由来として伝わってもいる。
北浜の真光寺の浜から船に乗られた一行は途中風と浪が強くなって南浜につきましたが、
南浜の南喜左衛門さんの屋敷で住吉さんへ祈願すると、たちまち湖は静かになって
お帰りなることが出来たという。それがあり、喜左衛門さんから住吉さんをお祀り
して欲しいと北浜が頼まれ、今の土地の近くに祀られることになったという。

この話もそうであるが、志賀が古来より北国海道として敦賀などの北陸地域と京都
を結ぶ重要な中継地域であったことや都人が琵琶湖や比良山系などのこの地の景観に
触れるため、よく訪れていたことがわかる。民話であるからその真実性には疑問も
残るが、一般庶民の生活や今残る神社や寺院の由来などは面白くも読める。
まず、この話に出てくる寺院や神社は石碑や古文書からも見えるものであり、当時の
古地図などからも和邇周辺はいくつかの舟入もあり、親王が舟を使ったのは、本当
なのであろう。さらに、2月、3月は比良おろしと言われる突風が今も列車を止める
ほどであるからこの突風にまつわる事態は予想できることでもある。
もっとも、南浜の水を入れないとお湯が立たないというのは、ちょっと理解が
難しいが。

2018.05.20

西近江路紀行3 和邇

西近江路紀行3 和邇

小野の集落をあとにして和邇川をわたると、和邇中の家並みにはいる。
その真ん中あたりに三叉路があり、かっては西近江路の宿駅がおかれ、交通の
要衝にあたっていたところだ。左側の道をとれば、竜華から還来(もどろき)
神社前を通り伊香立途中町へ。ところで、この三叉路のちょうど真ん中には、
地名の由来にもなった榎の大木があったが、枯れてしまったので明治百年記念
に大きな石に「榎」と記した碑が建てられている。榎はかって神木として
仰がれていたので、いまも注連縄がめぐらされている。この石碑は私たちに
歴史的足跡を教えてくれる好例であろう。また、その角には木下屋という
旅館があり榎の大木があったことをしのばせていた。その旅館もいまは
跡形もない。この交差路を左に行けば、天皇神社から途中峠と向かう。

天皇神社は、元天台宗寺院鎮守社として京都八坂の祇園牛頭天王を奉還して
和邇牛頭天王社と呼ばれていましたが、1876年にに天皇神社と改称された。
祭神は、素盞嗚尊(スサノオノミコト)、三宮神社殿、樹下神社本殿、若宮神社
本殿もあり、近世では、五か村の氏神となっている。
現在の本殿は、隅柱や歴代記等から鎌倉時代の正中元年(1324)に建立された
と考えられており、本殿は流造の多い中、全国的にも稀な三間社切妻造平入の
鎌倉時代の作風を伝える外観の整った建物だ。
5月8日には旧六か村の和邇祭が行われ、庄鎮守社としてこの天皇神社(天王社)
の境内には、各村の氏神が摂末社としてあります。天王社本社(大宮)は和邇中、
今宿、中浜は樹下(十禅師権現)、北浜は三之宮、南浜は木元大明神、高城は
若宮大明神があり、夫々の神輿が出て、中々ににぎわう。

少し和邇祭を点描してみよう。
その身、雲が一片足りとも見えない蒼く透明な空とともに祭りの日となった。
普段わずかな人影だけが残されている境内には五基ほどの神輿がきらびやかに
鎮座している。その少し先にある鳥居から三,四百メートルの道の両脇には
色々なテントが軒を並べている。焼きとうもろこし、揚げカツ、今川焼き、
たこ焼きなど様々な匂いが集まった人々の織り成す雑多な音とともに一つの
塊りとなってそれぞれの身体に降り注いでいく。やがて祭りが最高潮となると
ハッピを着た若者たちが駆け足で神社に向って一斉に押し寄せてくる。
周りの人もそれに合わすかのようにゆるりと横へ流れる。
駆け抜ける若者の顔は汗と照りかえる日差しの中で紅く染め上がり、陽に
照らされた身体からは幾筋もの流れとなって汗が落ちていく。
神社と通り一杯になった人々からはどよめきと歓声が蒼い空に突き抜けていく。
揚げたソーセージを口にした子どもたち、Tシャツに祭りのロゴをつけた若者、
スマホで写真を撮る女性、皆が一斉に顔を左から右へと流していく。
その後には、縞模様の裃に白足袋の年寄りたちがゆるリゆるりと歩を進める。
いずれもその皺の多い顔に汗が光り、白髪がその歩みに合わし小刻みに揺れている。
神社の奥では、白地に大宮、今宮などの染付けたハッピ姿の若者がまだ
駆け抜けた興奮が冷めやらぬのか、白い帯となって神輿の周りを取り巻いている。
少し前までは、周辺はほとんど田圃であり、祭りには、畦道を通って、
氏子たちが納行事を始めたそうだ。だが、今はモダンな家々に囲まれ、
その面影は薄い。やや広めの道路と様々な彩を発している家々の間を
抜けてくるようで、厳粛な雰囲気は消えつつあるが、人が醸し出す
明るさは今のこの街には、ふさわしいのであろう。
神輿渡御の時間となった。五つの神輿が中天にかかった陽を浴びて、
ゆらりと動き出す。金色の光りが四方に放たれ、若者の発する熱気とともに、
周囲の空気を燃え上がらせていく。裃姿の年寄りたちがその若さを
取り戻すかのように、先頭に立ち、走り始める。入り乱れる足音と
道路沿いの店店と人々が放つ喧騒とが、一体となって、神輿の後を追う。
神輿はやがてその熱気を残し浜へと向かい、金色の光りを和邇川に
映しながら、小さくなって行く。古き良き時代と新しい波の訪れ、
その混じり合う香りを残していく。
多分、御旅所に無事着いた時には、若者たちの息切れと年寄りたち
の安堵の溜息で、湖のさざ波も静かに揺れるのであろう。

西近江路には、江戸時代の思想家で、近江聖人といわれた中江藤樹所縁
の伝承がおおい。この榎の宿にも、いまも語り継がれている話がある。
和邇中の集落をあとにして道は、湖西線の下をくぐり湖岸に向かい、そこで
国道161号と合流して、中浜、北浜の細長い家並みを通る。
近世では、西近江路の街道筋を中心に「和邇九が郷」といわれ、それには
小野、栗原、中村、高城、今宿、南浜、中浜、北浜、南船路の各村が含まれた。
そのうち、北浜、中浜、南浜は、琵琶湖岸に接し和邇浜と呼ばれていた。
ここでは、琵琶湖特有の魦(いさざ)が捕れる浜となっていた。江戸時代初期に
あたる寛永年間にできた「毛吹草」にも諸国名物の一つとして「和邇崎の
イサザ」とあり、すでにこの地の名産として知られていた。
イサザはうきごりの幼魚にあたり、体長約5センチぐらいの淡水魚で、
飴煮や汁にする。その淡水魚独特の素朴な味覚は、いまも捨て難いものがある。
ビワマス、氷魚などとともに琵琶湖八珍として親しまれている。
江戸時代の絵図に「魦漁村々絵図」と言うのがあり、そこには漁を営んでいた
14か村が描かれている。

眼を転じれば、比良の山並みが、このあたりから進み行くにつれ、覆い
かぶさるように迫ってくる。右には、遠く一本杉のあたりまで、やや灰色
がかった砂浜がゆったりとした弧を描きながら、伸び去っている。
白い砂地に無数のの足跡がその曲線に沿うかのように、不規則な点描を見せている。
湖に向かって数個の橋板が、浮かんでいる。
20数年前までは、あちらこちらの浜辺で洗濯や水洗いなどに使っていた。
その日々の営みである証左が、そこここに見えたが、今は数えるほどになった。
湖辺から百メートル先まで、えり漁の仕掛けが幾重にも伸び、波縞のきらめきに
無数の棒が湖面からつき出ている。
漁師が黙々と引き上げる網の中ではアユ、モロコやワカサギなど立ち上る朝日を
浴びて銀の色を発しながら、魚たちが、跳ね、踊るのだ。
この地域の地域の景観がまだ垣間見られる。
初夏の霞が見せる遠くかすんだ情景と夏の強さを含んだ透明感のある空気、
心地よい風に揺れる松と古木の木々が通り過ぎていく。
遠くぼんやりとした緑を見せる北の山並みのわずかな光景が進みながらも画枠に
きちりとはめ込まれたままでいる。古代からの変わらぬ自然景観である。
今も、古代の都人が歌った風情が残っている、自然との調和の世界である。
「人住まず 隣絶えたる 山里に 寝覚めの鹿の 声のみぞする
岸近く 残れる菊は 霜ならで 波をさへこそ しのぐべらなれ」

北浜の集落から西近江路を北へ進むと、目の前に高い比良の山並がたちはだかる。
この比良山系は、南から蓬莱山、鳥谷山、堂満岳、釈迦岳、武奈ヶ岳など
千メートルを越す山々で形成されている。眼下に琵琶湖をもつ比良山系は、
それぞれ山容が変化に富むとともに、四季折々異なった景色を見せ、
登山者に親しまれ愛されてきた。
一方、それを眺める山としても著名であった。春になっても山並の頂上部に
まだ雪を残したその景観は素晴らしく、「比良の暮雪」として近江八景の
一つに数えられ、江戸時代の名所や浮世絵版画に登場している。
また、「比良の高嶺、比良の山嵐、比良の山」といった歌枕として万葉集、
新古今和歌集など多くの歌集にも見ることが出来る。

以前にも描いたが、「恵慶集」に旧暦10月に比良を訪れた時に詠んだ9首の
歌があるが起これ以外にも、例えば、

万葉集では、
楽浪(さざなみ)の比良山嵐の海吹けば釣する海人の袖反(かえ)る見ゆ

このほかに、本町域に関する歌には、「比良の山(比良の高嶺、比良の峰)」
「比良の海」、「比良の浦」「比良の湊」「小松」「小松が崎」「小松の山」
が詠みこまれている。その中で、もっとも多いのが、「比良の山」を題材に
して詠まれた歌である。比良山地は、四季の変化が美しく、とりわけ冬は
「比良の暮雪」「比良おろし」で良く知られている。
このように、比良の山々は、古代の知識人に親しまれ、景勝の地として称賛
されていたのである。
鎌倉時代以降は、旅を目的とした古代北陸道としての活用が高まり、
多くの歌人が名勝や情景に歌を綴った。
なお、小松地区の古名称は比良ともよばれ、日本書紀の「斉明天皇5年3月3日
庚辰の日近江平浦に幸す」とある。
万葉集にも、他にもいくつかの歌がある。
さざ浪の比良の都のかり庵いほに 尾花乱れて 秋風ぞ吹く
さざ浪の比良の大曲わだよどむとも 昔の人に また逢わめやも
なかなかに君に恋ひすは比良の浦の 海人ならましを 玉も刈りつつ
などもある。

2018.05.06

西近江路紀行1

西近江路をゆく その序

今、私はJR湖西線小野駅の前に立っている。ここも30年ほど前までは、琵琶湖を
見下ろせる緩やかな丘陵地帯であったのであろう。だが、今はその痕跡すら残っていない。
大きなロータリーが2つあり、そこから見えるのは、70、80坪の家並みが続いたいる。
その合間を縫うような形で小山が2つほど見える。古代には、これから向かう北国海道
と呼ばれる京都と敦賀を結ぶ道があった。そして、この地を支配していた和邇部氏や
小野氏の古墳が琵琶湖を望むような形で多く作られた。更には、小野氏の隆盛を感じさせる
幾つかの神社が今も健在である。遠く望む比良の一千メートル級の山並みは秋の訪れを
松、杉の常緑の中に黄色味のブナやオオナラの広葉樹とが微妙な彩となりがゴブラン織り
のような姿を見せはじめるのもこのころだ。

しかし、約30年以上前に開発が進められたこの周辺は4600戸ほどの街並みとなり、
かっての自然はすべて脇に押しやれら、僅かな古墳周辺の雑木林や湖辺に細長く残る
葦原のみのどこにでもある住宅地となった。

西近江路は、大津から敦賀までの街道を示すが、大陸と京都を結ぶ重要な道でもあり、
古代から整備されていた。また旧志賀町は、その街道の一部でもあり、小野から北小松
までの情景、生活風景には、幸いというべきか、まだその残り香が各地区の片隅や
伝統行事という形で散在し、地区の人々に守られ慈しまれている。それはちょっと奥深い
小さな神社を流れる湧水であったり、語り告げられた説話として時に表現されたり、
苔むした石垣の存在であったりもする。歴史の積み重ねの中で捨て去られたり、
埋没したものもあろうが、小野から南方面のいわゆる開発され尽くした地域では、
まだ密やかな存在を受け継いでいるものさえもが、その多くは時の中、「人間の幸せ」
という名分の中に消し去られつつもある。

しかし、北小松までの比良山系と琵琶湖に挟まれたこの地方をぶらぶらと足に任せて
歩く小さな紀行から、まだまだ小さな見どころ、隠れた地域で語り継がれた来たもの、
数百年の時にもかかわらず残っている自然のあり様を見いだせた。それは二十四節気
という季節の変わりごとを描いた農事暦の移ろいが身近に感ぜられることからも分かった。
更には、古老と言われる人々にもそれがある。司馬遼太郎が「街道をゆく」で、その第一回
をこの地域を選んだのが納得できる。琵琶湖に沿う形で伸びる比良山系、山歩きが
苦手な私であるが、千メートルを超える山並みは自然の描画を様々季節、一瞬間の間にも
その変化の多様な琵琶湖の多様多彩な姿形と調和し、時には反駁しながら描いてくれる。
湖の群青、満月に光り輝く黄金色の水面、四季の折り目を見せてくれる葉群の濃淡の緑、
秋の赤、黄色、橙の変化する葉たち、白雪の頂を持つ比良の山並みと透き通る蒼さの中に
さざ波を見せる湖面、時にはそれらの色凡てが入り混じり濃厚な自然の有色の景観を織り
なしていく。

更に少し奥へと足を延ばせば、大小の不揃いな田んぼが緩やかな傾斜を持った小さな丘
を這うように並び「田毎の月」を楽しめる棚田もある。歌川広重が描いた「信濃 更科
田毎月 鏡台山」さながらの景色がある。小さいながらもこの地は日本の原風景を抱えている。
それはアスファルトジャングル化した都会ではありえない自然の癒しであり恵みでもある。

それらのどれか、もしくはすべてに魅かれたのであろうか、琵琶湖を取り巻く近江の文学は
100冊以上もあり、多くの作家の心の襞に触れてきた。
例えば、井上靖は「夜の声」「星と祭」等多くの作品をこの近江を中心に描いている。また、
白洲正子や司馬遼太郎の紀行文に描かれる多くの神社仏閣の存在や琵琶湖を中心とした
生活情景は今もまだ息づいている。商業化されるには、派手さがなく、多くの景観もその規模
が小さくそこに住む人にさえあまり知られていない存在でもあった。
しかし、いまだ人の手が加わらない古代以降の日本的情景が残っているのもこの地域だ。
ここは、その想いを味わいながらゆっくりと歩き、己や知り合いに想いを深めるには最適の
場所でもある。

そして、その第一歩をこの小野から始める。
この静かな住宅地を脳裏からすべて消し去り、都人が訪れ詠ったという歌が「志賀町史」
にある。それを思い出しつつ小さな旅を始めたい。
以下は志賀町史の「志賀の四季」にある。歌心は無けれど、これあの歌以外でも
多くの都人が詠ったという四季時折の歌にその情景が浮かぶ。
そしてそれはまだこれから漂遊する地域でも見られるはずである。自然は頑強に
この地を守ってきた。

「恵慶集」に旧暦10月に比良を訪れた時に詠んだ9首の歌がある。
比良の山 もみじは夜の間 いかならむ 峰の上風 打ちしきり吹く
人住まず 隣絶えたる 山里に 寝覚めの鹿の 声のみぞする
岸近く 残れる菊は 霜ならで 波をさへこそ しのぐべらなれ
見る人も 沖の荒波 うとけれど わざと馴れいる 鴛(おし)かたつかも 
磯触(いそふり)に さわぐ波だに 高ければ 峰の木の葉も いまは残らじ
唐錦(からにしき) あはなる糸に よりければ 山水にこそ 乱るべらなれ
もみぢゆえ み山ほとりに 宿とりて 夜の嵐に しづ心なし
氷だに まだ山水に むすばねど 比良の高嶺は 雪降りにけり
よどみなく 波路に通ふ 海女(あま)舟は いづこを宿と さして行くらむ
これらの歌は、晩秋から初冬にかけての琵琶湖と比良山地からなる景観の微妙な
季節の移り変わりを、見事に表現している。散っていく紅葉に心を痛めながら
山で鳴く鹿の声、湖岸の菊、波にただよう水鳥や漁をする舟に思いをよせつつ、
比良の山の冠雪から確かな冬の到来をつげている。そして、冬の到来を予感させる
山から吹く強い風により、紅葉が散り終えた事を示唆している。これらの歌が
作られてから焼く1000年の歳月が過ぎているが、現在でも11月頃になると
比良では同じ様な景色が見られる。

ゆっくりと季節を味わい、この地を味わい、消え去った日々に思いを寄せ、歩き綴り行く。

2018.04.07

ある里の春

この里では春は土から来る。肌寒さが畑に立つ人の心を揺する。暮れに植えた大麦の葉が
融けはじめた雪の間から顔を出し、春の光の中で微笑んでいる。村人もその顔を見てほっこりする。
まだ寒さを帯びた風が茶色と白の斑な地面を撫ぜ、彼方こちらから湧き出ている水と立ち上る
薄い蒸気を巻き込みながら湖へと流れ落ちていく。湖は薄黄色や薄紅の光を混じり合わせた
霞に曖昧な丸さの朝日を抱きかかえ静かな面を保っている。朝日が斜めから射し込む中を
いくつもの影がその大地を踏みしめ、麦たちのその小さな命を慈しむように単調な作業を
繰り返していく。太い影、小柄な影が劔の山から遠ざかるように湖へと向かい、踏みしめる
足影に、ザクザクという音が混じり込んでいく。しばらくするとその影は湖の霞に浮かぶように
横一線に立ち現れ、また御山に一定のリズムを持って向かっていく。朝日を背にした大小
幾つもの影は、その連なりを時折まだ残る雪の塊に足並みを乱し、四方から掛け合いの
声が響き渡る。足元をただ見つめ歩を進める者、時に薄い綿状の雲に目を上げては
踏み進むもの、何か心配事があるように首を振りながら踏むもの、様々な姿態が
様々な影を落とし畑を一つの線を成して進む。朝の仕事が、それは軍隊の攻め入る姿にも似て、
続いていく。

御山からゆっくりとした足どりで降りてくる風もはたと止まって、土は暖かくその日のすべてを
受け、思う存分その熱を地中へと伝えわたす。その刺激は冬を大過なく過ごしてきた虫や
木の根にも春の到来を告げていく。田圃に並び立つ榛の木もまだ葉も出ないうちに
地味な紅紫の蕾を目立たたぬように少しづつ色づけている。地中の虫たちの中でも
その慌て者は微かな土の盛り上がりにその姿を見せる。蟻が土手の荒く拡がった土の
縁に顔を見せ黒く小さな触角を休むことなく動かし、春の香りを嗅ぐかのように穴の
周辺を動き回る。

春の光をすべてのものが受け止める。そこに新しい命が芽生えまた村人を支えもする。
村の女たちもまた忙しくなる。雑木林や山端の近くに足を運ぶ。春の旬菜を摘み、その
食膳をにぎわすのだ。雑木林にも幾つもの人影が見え隠れしてる。うず高く積もった
枯葉とすべての葉を落とした裸の木々が女たちの姿を明瞭に映し出す。
腰をかがめてひたすら枯葉と茶色の地面に目を据えているもの、二人ならんで喋りながら
時に枯葉色の中に見えた緑の葉を竹編みの籠に入れていくもの、若い女房に採った
野草の食べ方を教えているもの、繁った草もなく、何の遮りもないただ立ち並ぶ幹だけが
光に映えた空間に女たちの姿が動き回る。それは里に下りてきた熊や猪を思い起こさせる。
まだ枯草色が占めるが、若芽の緑がその中に小さな彩を見せている。緑と薄黄色の蕾の
ようなフキノトウがわずかに残った雪の白さに浮き出ている。
少し奥に入ると、白く小さな花の群落が小川に沿って伸びている。二リンソウは暖かい白さ
がある。咲き乱れるその中で春の声を聞く。雜木林も変容を始めていた。枯葉を押しのける
ように其處此處に緑の葉が散在し、顔をのぞかせ春の様子をうかがっている。立ち枯れた
芒や麦の茎が丸裸となったクヌギやコナラの木の間に寄り添うように立ち並び、己の最後の
姿を日の中に晒しているが、その傍では黄色の色鮮やかなタンポポが降り注ぐ日の中に
しっかりと大きな葉を下ろしてる。雑木林の隙間を縫うように鳥たちが飛び交い、様々な音律
を奏でていく。その声とまだ残る枯草のかさかさという音に合し、女たちも自然の恵みを採り続ける。
少し奥の湿ったところにギシギシの葉が見えた。老婆がそれを採りあげ、若い女房に何かを教えている。

刈田はまだ眠ったままだ。雪解けの水が稲の白く枯れ切った切り株のまわりにいくつもの
水溜りを作っている。水溜りが空の青さを写し取り、それがピースの抜けたパズルの未完成品
のように所々に黒い土を見せている。しかし、田圃のあぜ道はすでに緑の衣装を着けた様に
様々な野草の中で緑のフレームを作り上げている。村人はあぜ道をゆっくりと踏みしめ歩き、
冬に弱った土盛りや崩れ落ちた畦を丁寧に修復をしていく。泥にまみれた手と足がタビラコ、
つくしやスギナに褐色の色を残しつつも照り始めた日の中でやがて薄茶色に変色しながらも
彼らの仕事はそこに満足の微笑みが見えるまで続く。中腰の曲げた身体を時にまっすぐにし
小さな吐息を吐きながら、老人は折を見てあぜ道に座り込み、のこぎり葉の真ん中から茎を
直立に伸ばしたタンポポの健やかな姿に見入る。若者は汗ばんだ顔を手で拭い、その影が
紅赤に帯びるまで止めることはない。彼らを励ますのは、ほのかな蒸気を見せて流れる湧き水
の流れの音だ。だが、田圃に引き込まれる水はまだその役目を果たさないまま道の脇から
ごぼごぼという音を立てつつ所在なさげに小川を通り、湖へと白い糸引きを見せつつ流れ行く。
それを見下ろす榛の木もまだ葉をつけるまでには至っていない。あぜ道に佇む村人は思う。
風が暖かみを見せ、劔の山もせり上がる緑色が中腹まで至ると、籾種が水の張られた水田
を突き上げるように萌出てくる様を、そして大麦の畑がその若い穂波をその柔らかな風に
揺らし波打つ絨毯の様を見せていることを。自然との闘いと共生が循環を巡らしてまた
彼らの前に現れてくる。

村の間近も色づいた。雪の間にひっそりと見えていた小さな緑の葉が一面に拡がり、すでに
黄色く色づく蕾となって、日の強い東側では、黄色の薄絹に覆われたかのように菜の花が
石垣に沿って彩を放っている。時折降る細く緩やかな雨に促されるのか、その黄色を更に
強め見る人に春を告げる。村人が自作している小さな畑には、春キャベツ、菜花、明日葉、
が一畝ごとに濃い緑、黄色みある緑、薄緑を注がれる光に映えている。
冬を過ごしたナズナが線香のような細い薹をもたげてその先に米粒に似た花をつけている。
黒く盛られた畝に薄茶色の玉ねぎが見えている。数人の老婆が玉ねぎ取りながら畝の
雑草を取っている。少し腰をかがめ丸くなった身体を左右に揺らし土の香りとともに玉ねぎを
引き抜いていく。雑草たちも春の光の中、己らの存在を誇示したいのであろう。しかし、
その皺とあかぎれの見える手は彼らに容赦しない。次第に黒く艶のある畝と一直線に
並んでいる玉ねぎだけがそこに残る。

雪が融け込んでいた雨にも温かさが育ち、彼らの細く緩やかな滴りは多くの草木にとっては
育ての親となる。木の芽起こしの雨だ。夜の密やかな闇を音もなく降り注ぎ、また薄青さと
灰色の入り混じった空から見えないほどの細い雨を降らしていく。まだ山端の奥、谷の
せせらぎの傍、家の軒下に残る雪、すでに泥を帯び白き純白さを失った、を消し去っていく。
黒く何も身に着けていない殺風景な木立にその雫がしみ込み、また大地に葉を広げる雑草や
野草にも雨が柔らかくその発育を促す。若くしなやかな葉が木々に戯れ、地上の葉は次第に
大地に映る影を黒く大きく広げていく。空からのエネルギーは地上の生物、植物に均等に注ぎ、
新しい命と力を与えていく。それは人に対しても同じだ。多くの人は、その内より湧き上がる
興奮と喜びに冬に味わった苦痛と萎んだ心、身体に決別を宣言する。

若者や子供たちは光の注ぐ野や山に出かけ、老いたるものは日差し溢れる庭や縁側で
終日を過ごす。男たちは畑や湖で日々の生業を自然の循環に合してこなしていく。女たちも
また家事や畑仕事を中心に日々にその身を委ねる。老いたるものも同じだ。
そしてその身を動かし自然の中で生きることが彼らの役目であることを理解している。
村はそのように動き、長き時に合わせ生きて来た。

2018.04.02

春の短描

私は明け行く朝の光の中にいた。
まだ白さが半分ほど残る山並みが橙色に色づきはじめ、薄暗い蒼さに太い毛筆で描いた
尾根の緩やかな曲線が次第に溶け込んでいく、その姿に見入っていた。空の白さが
増すにつれて山並みもその荘厳さを失い、平板な何の変哲もない朝の情景に成り
下がっていく様を、肌に寄せる寒さを感じつつ、その喜びを急速に胸の内に押し込め、
この朝の自分の行動を馬鹿々々しく思った。
まだ外は、冬の情景に張るが忍び込んでくるような状態であったし、春はその隙を縫うか
のようにわずかな微笑を見せているだけであった。期待の高まりが、私の思う以上に
失望を大きくした。大きく息を吸い込み一気に吐き出す、まるで坂を全速力で上がろうと
あがく機関車のように、仕草でかじかんだ手を温めようとした。そこには望み叶わなかった
想いの色が灰色となってその白さを濁らせた。40代も終わりを迎える彼にとっては、
春は微妙な感じの肌合いになりつつあった。父親がよく言っていた「50の歳ともなると、
何故か秋の憂いと寂しさに惹かれるようになるものだ」、その言葉が耳から入り込み
腹を通ってまた喉元から吐き出される、何も付け加えられず、消化もされずに、
その感情をそのままで空気をなぞった。秋の色と春の色が微妙に混じり合い、私の心を
揺らしている。

しかし、いま心の天秤は春に傾きかけていた。それは秋色が老いという影に近づくという
潜在的な怖れと春を楽しんできた心の惰性の成せることからだったかもしれない。
今朝の馬鹿げた行動はそれを確かめたいという心根から生じていた、と私は考えた。
春の持つ生命の息吹き、秋の持っている心の安寧、いずれもが魅力的ではあるものの、
とふと私は足を止める。本当にそうなのだろうか。

そして、春と呼ばれる日々を思い起こしていく。春は立春から始まるとされている。
2月の初めだ。それは、東風と言い、春風が吹き出し頃というが、寒風はまだ凄まじく
周囲をかける。比良おろしに雪がまじあい、今年の冬は中々に寒さが厳しかった。
福井など北陸は過去最高の積雪で3メートルを超す地域もあった。こちらは大寒ほどの
雪はなかったが、寒さはどこでも変わらない。庭の梅の木も蕾が多く顔を出しているが、
寒そうに首を縮めていた。そろそろ見かけるメジロにも出会ていない。今年は例年より
2,3度低いそうだ。この時期、魚氷に上がる、の通り「春寒、余寒」の呼び名を思い
起こす日々が続いた。「冬過ぎ去りてもいまだ春寒し、遠くにあり」の言葉がよく似合う。

だが、3月初めの声が聞こえると、さすがにここ1週間ほどは暖かさが感じられる。
比良の山の雪も薄くなった。頂の付近にはまだ残るものの、緑の色が少し深くなった
ようにも見える。降る雪も雨となって地を潤していく。この時期の雨を「木の芽起こしの雨」、
「催華雨さいかう」ともいうそうだ。
近くの田圃の切り株にも春の気配が近づいた。対岸の守山の公園には菜の花が咲き
はじめた。春キャベツが美味しいころだが、今年の雪の多さが災いして野菜が高い。
菜花が売られていた。葉は柔らかく緑が鮮やかで春を告げる旬の緑黄色の野菜だ。
ほろ苦さがあるが、栄養満点の野菜だ。やはり春の心は食に傾くのだろうか。

湖の景色が薄ぼんやりとたなびいている。霞が出ていた。霧とは違う定義だそうだ。
薄ぼんやりとたなびく様が霞、目の前に深く立ち込める霧とは違うかもしれないが、
「立ち上る」場合は霧という。もっとも、見る人にとってはどちらでもよいが。
だが、私の感性にもこの言葉使いは何故か似合う。

さすがに暖かさが身体を潤す。梅の蕾もふくらみが増し、そこはかとない佇まいを
見せはじめた。よく見るとその薄ピンクの蕾が群れ騒ぐ中に1つ2つと花弁を開き白い
細毛に小さな黄色い帽子を付けて見せている。そぼ降る雨に打たれて翌日もまた
1つその姿を見出した。さらに進めば、春の兆しがようよう見えてくる。いまは冬の残照と
春の温もりがせめぎ合い、その力を競っている。庭の梅も蕾から花に変身するもの、
まだ固くその身を閉じているもの、お互いに相手を見る素振りで華を開く時期を
見計らっている。琵琶湖も澄んだ空気に対岸の伊吹の山並みを見せることもあれば、
霞の中に薄白く茫洋とした蒼さが拡がることもある。田の色も黒く畝となって春の日差し
を帯び始め、場所によっては、その茶褐色の色を田の一面に張り出ている。

旬菜をまじえた料理を味わった。鰆の西京漬け、こごみのてんぷら、鯛の造り、筍ご飯、
鱒桜寿司などなど、春が口からも感じられた。わらび、ぜんまいの新芽も味わえるだろう。
「菜虫蝶と化す」と言われるが、それもまた身近に感じられる。やはり春は捨てたものではない。
薄くなった雪を押しのけるように顔を出す早春の山菜は、ふきのとう、オレンジ色の八重咲の
花がきれいなヤブカンゾウ、にりんそうの白い花が咲き乱れる群落、更にせり、なずな、
春の7草をてんぷらや味噌あえにしたのが目に浮かぶ。
やがて山端の薄い緑が濃くなり始めると、ハハコグサ、ハコベ、セイヨウカラシナ、ノビル
(にらに似ている)、タネツケバナ、さらにヨモギ、セイヨウアブラナ、ギシギシ、スイバ、
セイヨウタンポポ、ハルノノゲシ(ぎざぎざの葉に黄色の花)、クレソン、などが、まだ眠りの
見える田圃のあぜ、河原の土手にその姿を見せる。

しかし、時には冬の残り香を嗅ぐことにもなる。夜の寒さはまだ続くし、比良の山並みにも
小さな雪帽子もあり、時にその白き絹ずれが中腹まで這いおりてくる日もある。
冬の澄み切った空気以上にその透明感を増す秋のそれであり、琵琶湖の青の深さでもある。
そこに秋の深さを知る。茫洋とした中に見えない未来を感じるか、透徹した光景と
精神の穏やかさに自身の姿を見切り、その先に存在の有無を知る。
春と秋、並び立つ2つにいまだ戸惑い悩む私がいた。

春分が見えると、いわゆる春だ。梅が満開だ。ピンクの花びらがぱっと開き我が人生
謳歌の時となる。褐色の幹や枝を覆い隠し、不細工だった褐色の庭が萌え、彩が彼方此方
から漏れ出てくる。

男2人が所在なさげに浜辺に立っている。遠く霞の中に沖島がゆらりと浮かんでいた。
松林が白砂の上に無数の短い影を投げかけている。3月も末になると、比良八講という
行事が執り行われる。琵琶湖の春はここから始まる。比良の山並みを這うように吹き
下りてくる風は荒々しい風神のごとく木々を押し曲げ、ガラス戸を叩き、また時には湖上の
舟を揺らし波に揉む。しかし、今日はその勢いは全く影を潜め林になびく幟は静かに首を
垂れている。うずたかく積まれた杉の枝の祭壇は日光の中で白く輝き、その周りを多くの
人影が風に揺られるかのように左へなびいたと思うとまた右へと戻ってきた。
2人はその無作為な動きと青空と砂浜の間を行き来するどこか浮き立ったざわめきの中にいた。
「春は通り過ぎたような天気だな。暑いわ。まだ行列は来ないのか」
彼は湖辺で水に親しむ子供たちを見て嘆息の一声を発した。子供が投げた石が見えない
航跡を残して湖に3つほどの飛沫を見せた。ポンポンという音が風音の間を縫って聞こえた。
皆の顔が一斉に左へと向いた。重く地を這うような読経が松林の影を払いのけ、
それが空中を舞い始めた。紫や黄色の袈裟が1つの流れとなりそれに続いて白い装束に
金剛棒の響きをのせた修験者が一呼吸遅れてその白い影を見せた。

読経と見物人たちのざわめきが混じり合い消し合うかのように松林の先、護摩壇へと動いていく。
「ようやく来たか」
私は少し安堵した。春が形を見せたのだ。風がその後を追うように動いた。見上げれば、
比良の山並みが笑っている。多くの人にとって、春が一番好まれるのだろう。
また私の心根に秋の静けさが寄ってきたが、護摩壇から立ち上り始めた白煙が少し黒さを
まじえて人々の顔をなぜ上がっていき、歓喜する声にそれは押し戻された。白煙の底に
ちらりと赤みをさす、それは蛇が獲物を前に赤い舌を動かしていくに似て、その凄みを
更に周りへと舐めつくす。10数人の僧たちが唱える読経が立ち上る煙に力を与える
かのように、その厚さを増し、渦巻く様は天に昇る龍の姿形に変貌しつつあった。
比良の山並みと青白く映える湖、白く輝く太陽はその太く巻き上がる煙に紛れ、天を
駆け上がろうとする龍に道を開けるかのごとき光景を見せていた。

2人は満足げにその情景に見入り、煙り巻く護摩壇を取り囲む人々と一体となっていた。
「これが湖畔の春か」
ぽつりと砂に落とすような声がした。

近くの喫茶店に2人はいた。先ほどまでいた松林が青い線を木々の間に見せながら
かなり先まで伸びている。目の前の道を満足そうな趣の人々が三々五々と駅の方へと流れていく。
「やはり春は一番いいね」
彼はコーヒーを口に当てながらそう言った。私は黙って少し翳りの見える比良の山並み
を見ていた。霞みにその山肌がおぼろに見える。中腹までせり上がった緑がまだ残る
クヌギやコナラの褐色の色と混ざり合い春と冬のせめぎ合いをしている。
だが、それもあとわずかだ。もう1ヶ月もすれば、山は緑が占拠し、夏に向けてその深さを増していく。
不意にその色が暗転した。想いの中に秋が現れた。芒の穂波が吹き下りる風に逆らうこと
なく右に傾いている。透きとおる空の青さに金色に輝き、すでに緑の強さを失った山並みを
遮るように日を一身に浴びていた。私のそのさざめきにいた。
大きく開いた鼻腔から秋の様々な香りが一気に流れ込んできた。刈り田の香ばしい香り、
薄紫に彩られた煙が吐き出す枯れ葉を焼く匂い、そこに割り込むように冷気を含んだ清涼な空気、
それは春の香りとは対極にある。制御しきれない生き物の力ではなく、自然からのすべての
力を与えられ自己完結したという満足の心根の香りだった。

「親父が1年前の今頃死んでね。その時に思ったんだ。春に死は似合わないとね。
老いて死に行くものにとって周りがどんな季節かなんて気にしないだろうけど、
残りそれを見届けるものは違うよな。それにふさわしいのは秋だよ」
私は少し驚いた。思えば、私が秋を好きになったきっかけは父の死だった。
それも秋が四方を深く支配している時期であった。父の家は山端の木々に抱かれる様に
静かにたたずんでいた。久しぶりの帰郷であったが、家は茅葺きにそのままの姿を保ち、
白木にしつられた棺を開けて見た時の父の白く穏やかな顔が煤で黒くなった柱や梁に
映えてひどく美しく見えた。出棺の前の一時、枯葉に覆われた雑木林を1人で歩きまわった。
かさかさという枯葉を踏み鎮める音と、葉の落ちた木々から射し込む薄日の橙や
黄色味を帯びた光、その間を囀り飛び渡る鳥たちの声、それらが一体となって私を
数10年前の世界へと引き込んだ。褐色の艶やかな肌に柔和な笑いを見せていた父がいた。
それにまとわりつき時に枯葉にうずまるような仕草を盛んに繰り返す私がいた。
遠くで母が何かを叫んでいた。だが、その透き通った空気にまず母が消えた。
そして今父は声なき身体となって棺に身を横たえている。哀しみより心の安らかさ、
雑木林の秋が私を癒してくれた。

「俺は、やはり秋が好きだな、心の安らぎが得られる。特にこの歳、このような世の中ではね。特にね」
春に傾きかけた心根を内に閉じ込めた。
「親父の時の想いはあるが、まだ俺は春がいいね。このわき立つような空気と人が
醸し出す生への想いは捨てきれないね。まあ、死がなんとなく俺の周りに見えたら考えが
変わるかもしれないけどね」
私は冷めたコーヒーを一気に飲み干した。その苦さが彼の言葉とともに心に落ちた。

循環する季節と人の心根、時は直線的な歩みのようでいて、そうではない。
それは己の歳の積み重ねとともに、強固に私の心に棲みついてきた。
1年後にも同じ思いが私を離れずに少し色褪せたような色合いで私の心を彩っている。
それは、棚の上にそのまま置き忘れられ、埃を被った茶碗のようでもある。
循環は人に安心と安寧を与える。それを味わえるのが老いの特権でもあり、
直線的時の流れを堪能できるのが若さの強みである。春は生がわき目もふらずに
ただ進むだけのものにとっての季節なのだ。秋は過去の己を見、少し先の我が身を
見ることに喜びを見出すものの季節だ。
私はやはり秋が好きなのだ。

2018.03.19

取り残された老人たち 続き

翌朝、少し二日酔いの頭を抱えながら散歩に出た。晩秋の朝は空気が透明だ。
足元からかさかさという小気味よい音調が聞こえてくる。銀杏並木の銀杏の葉も
半分ながら美しい黄色の模様を見せている。黄色の世界とその途切れた合間に
顔を出す葉の落ちた枝がまるで老人のやせ細り干からびて皺の寄った腕に見える
その寂しげな姿に快い銀杏の調べとともに喜悦と寂寥の想いを感じる。

暫く歩くと急な坂の向こうに湖が静かな面立ちでこちらを見ている。湖の手前の街並み、
細い波縞を見せる湖、更に対岸の薄緑に映えた山の幾つかの影のような立ち姿、
その奥に頂を白く輝かせている山並み、それらが一つのキャンバスとなって優雅な
自然画を作り出している。時にその情景を勘違いする。それが道を遮る一枚の絵画と
思わせるからだ。そしてその絵の中に窮屈そうな姿勢で歩いている人影を見る。
横に介添えのためであろうか、お婆さんがしきりに彼に何かを言っている。
時にその二人連れをよく見るが、その光景にほっとする自分がいた。母は早くに死に、
父は元気に自転車に乗っていた時に車にはねられて帰らぬ人となった。
介護すべき年寄りが早くに自分の周りから消えていた。しかし、最近はあの光景は自分の
それではないかと思うことが多くなった。「老醜」という言葉が苦みを持って胃から口へと
せり上がってくる。それは、自分にとって、死と同じだ、と思ってきた。

それは果てしない砂漠を歩くかごとき思いで、何時頃かという時間感覚さえ分からなくなる
ほどの長さを持っていた。では、死とはどういうものなのだ。昨夜の酔いの中での色々な
ことがあの焼き鳥や囲炉裏の薄い煙の中に浮かんできた。誰かが、死んだらどうなるのだ
と少し感傷的な気持ちを酔いの中に吐露した。皆の頭に半年前に心臓発作に倒れ、
二日後に帰らぬ人となったZの丸坊主の顔が浮かんでいた。誰もがその想い起こす
時間には差があるだろうが、白い棺の中に横たわり、白衣をまとった自分を見ている。
またそれを棺の黒枠が邪魔だと思いつつ下から見上げる自分を思っているかもしれない。
死とはその程度のものと思う自分がいた。

昨夜の焼き鳥や安酒の匂いが湖を渡ってきた風に消えたころ、少し汗ばんだ気持ちが
我が身を反転させた。湖から家まではかなり急な坂道がある。そこを太陽に背を押される
ように上り始める。足の苦しみが少しづつ腰から胸、そして頭へとその歩みの高まりごとに
せり上がってくる。二十年以上の不可解な想いが浮かんでくる。「なぜ、こう苦しんでまで
湖まで歩いてくるのか」と。

家の扉が油の切れた不細工な音を上げる。そこは死の世界の入り口のような趣を持って
彼を出迎える。疲れ切った身体を一番手前の椅子に預ける。二十畳ほどのリビングに
どんと据えられた大きなテーブルが斜めから射しこむ朝日の影を黒く太い線を床に
描いている。かって、さざめく五人の声、五人の猫たちの鳴き声、時には口をカチカチと
歯音でなく犬、更にはボリュームいっぱいのテレビの音、小宇宙の如き小うるさい
世界がそこにあった。しかし、時の流れは音もなく流れ、先ずは一,二人と息子が消え、
猫たちも二人が消えて行った。さらにまた一人息子が消え、猫も最後の一人となった。
そして二年前、最後の人であった妻も遠くへと逝った。犬も消え、この老人が一人
まだ残っている。

彼の目の前には、ビロード様な真っ赤な花と艶やかな深緑の葉を持った薔薇が一輪あり、
大きな樫の木のテーブルで焔のような姿形を見せている。そのプリザードフラワーの
薔薇は半年ほどその姿を変えずに、彼のコーヒーを飲む時の伴侶のようでもある。
いつまでも変わらずに保ち続けるその姿に彼は一種の憧憬を持っていた。時には、
朝日の射しこむ白い光の中でそれを味わい、やがてポーチに長く赤く引く光が見え
始まってもそれに見入っていることもあった。
そこでは、時が止まっていた。

時に、妻が横でにこやかな微笑を見せているときもあった。彼は思い出す。主治医に
「亡くなった」といわれたが、その手がまだ温かく柔らかな手であったことを、そして妻は
「死に行く」のだとも思った。たしかに納棺された彼女の手は冷たく硬かったが、これが
彼女の死とは思えなかった。人は生まれ落ちた時から死に向かうと聞いたときの気持ちが
蘇った。生と死を明確に分けることは出来ない。そんな単純な思考とは思えない。
現に傍には、妻の呼吸が、匂いが漂い、一緒にコーヒーを味わっている。死に行くものの
妻は生という中にまだいる。それは、彼の心の中に同居している生かもしれない。
だが、それを感ずる人間にとってどうでも良いことなのかもしれない。
死が外生的な事象であってもそれが内生的な事象と全く同期化している必要はない。
外生的な死を認めても内生的な死が己に存在するのであれば、その死ですべてが
終わったとは言えない。冷めていくコーヒの薄く消えかかった香ばしさと湯気が彼を
見つめている。

庭の木が一斉に左へ傾いた。ごうという音が大きなガラス戸を揺るがし、流れ去って行く。
枯葉が数枚錐もみのような運動を見せ、そのガラス戸に当たるとそのまま張り付き残った。
いくつもの枯葉が私をのぞき見ている。斜めに首をかしげる様な仕草、直立不動の一寸
の乱れなき兵隊の整列のように、そして転寝の私の姿のままに、様々な姿形を直線的に
伸びる光に浮き上がらせている。私は所在なさげにそれに見入っている。
春から夏へ、秋へといつもの変わらない日々が変わらずに過ぎ去った。生ぬるい日、
格別な苦痛も苦悩も心配さえない日、絶望もない日々だった。悪い日と言えば、寝不足の
せいでひどく頭痛があったことぐらいだ。テレビの映像も右から左へと流れる川のように
私の心の襞に一片の傷も喜びも残さず、流れすぎていく。

少し前であれば、この平板な単調な日々を、これこそ究極の幸福だ、と言い切ったものだが、
今はそれに苦痛さえ感じる。しかし、いつごろからか時間という感覚が薄れ行き、それに
幸福感を感じる自分がいた。椅子に座り、ふと気づくと時計は12時を指していたり、
何かの音を聞いてまた時計を見ると短針が5時のところにあったり、やがて時計を
見ることさえなくなった。そこに嬉しささえ覚えた。日の明るさが私の時間感覚を占め始めた。
起きることが陽の強さを感じるままになる。やがて部屋が日に満ち、それが弱くなり、
薄赤や橙の色を帯び始める。そして拡がる闇に追われるように夜の食事となる。
曇りの日は少し厄介だ。光の変化が感じられないと私はテーブルに座ったままで夜の
暗闇をむかえる。そんな時、時間もまた私と同様に死んでいる。死ぬべき連れが1人
増えたのだ。

またある停電の夜、私は不思議な感覚を覚えた。その日も朝からテーブルに座っていたが、
夜になって街の明かりがすべて消えた。時間が無くなったような生活でそれがいつまで
続くのかという心配はなかったが、その日は一向に周囲の家並みを見ても明るさが
戻ってこない。指の感覚はあるものの、それが本当に指なのか目で確認することが出来ない。
座っている椅子の感覚はあるが、それが本当に椅子なのかわからない。どのくらい経った
のかもわからない時、少しづつ身体が周囲の闇の中に溶けだしていく。指が溶け、
足が氷が溶ける時のように少しづつ闇に吸収されていく。心は生きている感覚を
保っているが、身体は徐々に自分から離れ、青白く光る心がそこから遊離して部屋の中
を彷徨い始めたのを見た。この青白いものはどこに行くのだ。そんな気持ちに囚われた。

俺はこのまま死の世界に吸い込まれるのか、生まれ変わって別な人生を生きられるのか、
そんな淡い期待と想いが頭の中を浮遊していた。「もう十分に生きた。死んでも悔いは
ない」と息子たちに言ったときの晴れがましい顔が浮かんだ。
しかし、徐々に体が震えはじめた。溶け行く体なのだからそんなはずはないと思いつつ、
身体は制御できない機械のように勝手に振動、震えを起こし、やがてテーブルも震えた。
「俺はまだ死にたくないのだ」そんな本音が体から滲み出し、彼の偽りの懺悔をさせている
ようでもあった。昨夜のAとCの顔が浮かんだ。彼らを羨んだ。俺には、この無音と暗闇の
世界で生きていく自信はない。

夫婦というものが、たとえそれが形だけ、偽りのものであっても傍に誰かがいるということは
幸せなことなのだ。だが、彼らはそれが幸せだとは思っていない。幸せもさらには、
時間も己の心の世界で作り上げるものだ。
突然光が彼を包み込んだ。ガラス戸の中に真っ白な髪に薄くなった眉毛と腫上ったまぶたの
男がいた。その彼はテーブルにしっかりとしがみ付き、地獄からの使いにでも抗うような
姿勢でもう1人の老人と向かい合ったままだった。
やがて彼はゆっくりとテーブルに、それは枯れ木がその根元から折れ、庭に倒れるかのように、
うつ伏せに倒れ込んだ。その傍には、妻が微笑みながら彼の薄く白くなった頭を静かに
撫でていた。彼の顔もまた幸せそうな微笑に包まれていた。

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