人生

2017.11.14

西近江路(旧志賀町)をゆく その序

今、私はJR湖西線小野駅の前に立っている。ここも30年ほど前までは、琵琶湖を
見下ろせる緩やかな丘陵地帯であったのであろう。だが、今はその痕跡すら残っていない。
大きなロータリーが2つあり、そこから見えるのは、70、80坪の家並みが続いたいる。
その合間を縫うような形で小山が2つほど見える。古代には、これから向かう北国海道
と呼ばれる京都と敦賀を結ぶ道があった。そして、この地を支配していた和邇部氏や
小野氏の古墳が琵琶湖を望むような形で多く作られた。更には、小野氏の隆盛を感じさせる
幾つかの神社が今も健在である。遠く望む比良の一千メートル級の山並みは秋の訪れを
松、杉の常緑の中に黄色味のブナやオオナラの広葉樹とが微妙な彩となりがゴブラン織り
のような姿を見せはじめるのもこのころだ。
しかし、約30年以上前に開発が進められたこの周辺は4600戸ほどの街並みとなり、
かっての自然はすべて脇に押しやれら、僅かな古墳周辺の雑木林や湖辺に細長く残る
葦原のみのどこにでもある住宅地となった。

西近江路は、大津から敦賀までの街道を示すが、大陸と京都を結ぶ重要な道でもあり、
古代から整備されていた。また旧志賀町は、その街道の一部でもあり、小野から北小松
までの情景、生活風景には、幸いというべきか、まだその残り香が各地区の片隅や伝統行事
という形で散在し、地区の人々に守られ慈しまれている。それはちょっと奥深い小さな神社を
流れる湧水であったり、語り告げられた説話として時に表現されたり、苔むした石垣
の存在であったりもする。歴史の積み重ねの中で捨て去られたり、埋没したものもあろうが、
小野から南方面のいわゆる開発され尽くした地域では、まだ密やかな存在を受け継いでいる
ものさえもが、その多くは時の中、「人間の幸せ」という名分の中に消し去られつつもある。

しかし、北小松までの比良山系と琵琶湖に挟まれたこの地方をぶらぶらと足に任せて歩く
小さな紀行から、まだまだ小さな見どころ、隠れた地域で語り継がれた来たもの、数百年の
時にもかかわらず残っている自然のあり様を見いだせた。それは二十四節気という季節の
変わりごとを描いた農事暦の移ろいが身近に感ぜられることからも分かった。更には、古老
と言われる人々にもそれがある。司馬遼太郎が「街道をゆく」で、その第一回をこの地域を
選んだのが納得できる。琵琶湖に沿う形で伸びる比良山系、山歩きが苦手な私であるが、
千メートルを超える山並みは自然の描画を様々季節、一瞬間の間にもその変化の多様な
琵琶湖の多様多彩な姿形と調和し、時には反駁しながら描いてくれる。湖の群青、満月に光り
輝く黄金色の水面、四季の折り目を見せてくれる葉群の濃淡の緑、秋の赤、黄色、橙の変化する
葉たち、白雪の頂を持つ比良の山並みと透き通る蒼さの中にさざ波を見せる湖面、時には
それらの色凡てが入り混じり濃厚な自然の有色の景観を織りなしていく。
更に少し奥へと足を延ばせば、大小の不揃いな田んぼが緩やかな傾斜を持った小さな丘
を這うように並び「田毎の月」を楽しめる棚田もある。歌川広重が描いた「信濃 更科
田毎月 鏡台山」さながらの景色がある。小さいながらもこの地は日本の原風景を抱えている。
それはアスファルトジャングル化した都会ではありえない自然の癒しであり恵みでもある。

それらのどれか、もしくはすべてに魅かれたのであろうか、琵琶湖を取り巻く近江の文学は
100冊以上もあり、多くの作家の心の襞に触れてきた。例えば、井上靖は「夜の声」「星と祭」等多く
の作品をこの近江を中心に描いている。また、白洲正子や司馬遼太郎の紀行文に描かれる
多くの神社仏閣の存在や琵琶湖を中心とした生活情景は今もまだ息づいている。
商業化されるには、派手さがなく、多くの景観もその規模が小さくそこに住む人にさえあまり知られて
いない存在でもあった。しかし、いまだ人の手が加わらない古代以降の日本的情景が残っている
のもこの地域だ。ここは、その想いを味わいながらゆっくりと歩き、己や知り合いに想いを
深めるには最適の場所でもある。
そして、その第一歩をこの小野から始める。
この静かな住宅地を脳裏からすべて消し去り、都人が訪れ詠ったという歌が「志賀町史」
にある。それを思い出しつつ小さな旅を始めたい。
以下は志賀町史の「志賀の四季」にある。歌心は無けれど、これあの歌以外でも
多くの都人が詠ったという四季時折の歌にその情景が浮かぶ。
そしてそれはまだこれから漂遊する地域でも見られるはずである。自然は頑強に
この地を守ってきた。

「恵慶集」に旧暦10月に比良を訪れた時に詠んだ9首の歌がある。
比良の山 もみじは夜の間 いかならむ 峰の上風 打ちしきり吹く
人住まず 隣絶えたる 山里に 寝覚めの鹿の 声のみぞする
岸近く 残れる菊は 霜ならで 波をさへこそ しのぐべらなれ
見る人も 沖の荒波 うとけれど わざと馴れいる 鴛(おし)かたつかも 
磯触(いそふり)に さわぐ波だに 高ければ 峰の木の葉も いまは残らじ
唐錦(からにしき) あはなる糸に よりければ 山水にこそ 乱るべらなれ
もみぢゆえ み山ほとりに 宿とりて 夜の嵐に しづ心なし
氷だに まだ山水に むすばねど 比良の高嶺は 雪降りにけり
よどみなく 波路に通ふ 海女(あま)舟は いづこを宿と さして行くらむ
これらの歌は、晩秋から初冬にかけての琵琶湖と比良山地からなる景観の微妙な
季節の移り変わりを、見事に表現している。散っていく紅葉に心を痛めながら
山で鳴く鹿の声、湖岸の菊、波にただよう水鳥や漁をする舟に思いをよせつつ、
比良の山の冠雪から確かな冬の到来をつげている。そして、冬の到来を予感させる
山から吹く強い風により、紅葉が散り終えた事を示唆している。これらの歌が
作られてから焼く1000年の歳月が過ぎているが、現在でも11月頃になると
比良では同じ様な景色が見られる。

2017.11.10

ライフサイクル最後のステージを迎え、2000年代を振り返る

書斎から見る外の景色が少しづつ黒い幕を押しやるように目の前にその朧げな形を
見せつつある。比良の稜線がその強さを増しつつ青味がかった空に太く琵琶湖に
沿ってなだらかな曲線を描きはじめる。薄い雲片がやや赤味を帯びて比良の山並みに
集い、里山の黒味の緑もその艶ある緑に一段と深めていく。
思えば、すでに老年期を越した私にとっても、D.レビンソンの言う「児童期と青年期
(0~22歳)」にも見えてくる。また、琵琶湖が赤く照り映えはじめ、比良の山並み
が濃厚な蜜柑色に彩られる情景もその力強さから同じ「児童期と青年期(0~22歳)」
に感じる時もある。人の心は無常だ。目の前の情景が同じであってもそれを感じる心に
変化があると見るもの、感じるものへの心根に残る姿も変わる。

20年ほど前にここに移り住んだ2000年代「中年期(40~65歳)」には、朝の湖
の情景に自分の想いを馳せていた。確かに今眼前の情景が自身の世界でもあった。
人のライフサイクルについては、他にも色々な考えがあるが、例えば中国の古代思想
「五行説」には、少年期(~19歳)は黒い冬(玄冬)、 青年期(20歳~)は 青い春
(青春)、中年期(40歳~)赤い夏(朱夏)、老年期(60歳~)は、白い秋(白秋)
ともある。各段階の境目には5年間の「過渡期」がある。少年期は「厳しい冬」、老年期は
「人生の収穫を楽しむ秋」ということになる。老年期となった今、この朝の情景は憧れ
の1つになりつつある。

2000年代、90年後半に始まったネットバブルの狂騒であったが、2000年
には早くも消えつつあった。アメリカのそれとは違い、中身が伴なっていなかった。
さらには、2001年9月11日のテロという名の惨劇であった。それからの世界は
流動性が一層増したようにも見える。また、日本でもその社会全体の動きは、最新の
厚生労働白書を見ると面白い。ここでは、若者の仕事に関する意識は2000年を境に
大きく変化したことを言っている。日本社会の本質的転換点だったのかもしれない。
厚生労働省は2013年9月に厚生労働白書を公表した。そのテーマは「若者の意識」
で、若年層の雇用環境や職業意識などについて様々な考察が行われている。
その中で、働く目的に関する長期的な調査の結果が非常に興味深い内容となっている。
新入社員に対して働く目的を尋ねたところ、2000年までは一貫して5%程度しか
なかった「社会のために役に立ちたい」という項目が2000年を境に急増、
2012年には15%まで上昇した。また「楽しい生活をしたい」という項目も
2000年を境に急上昇し40%とトップになっている。
これに対して「経済的に豊かな生活を送りたい」「自分の能力をためす生き方を
したい」という項目は、逆に2000年を境に低下し、現在は20%程度まで落ち
込んでいる。最近の若者が賃金にはこだわらず「社会の役に立ちたい」「楽しく仕事を
したい」という傾向を強く持っていることは、各種調査などですでに明らかになっている。
だが2000年を境にこうした意識の変化が急激に進んだという事実は、長期的な統計
を見ないとわからないものである。
2000年代こうした日本の閉塞感が顕在化してきた年といえるのかもしれない。
老年期となって狭い出窓の先にある風景は変わらないかのようであるが、中年期の頃
自身には見えていなかった。
例えば、2000年前後には、ベンチャー企業ブームがあったり、構造改革の機運が高ま
るなど、日本の高い成長にまだ大きな期待が寄せられ私自身も多くのビジネスの仕掛けを
していた。

人のライフサイクルもその環境変化に大きく左右される。
特にその顕著な例が2000年前後から急激に社会に浸透はじめたインターネットの
影響であろう。「フラットな世界」という本にその概要が描かれている。
1990年代後半からのインターネットの進化を踏まえて、トーマス・フリードマン
が2005年に発刊している。そしてこの世界は更に深化している。
グローバリゼーションが広まり、世界がフラット化しつつある要素には、10項目
があると言っている。フリードマンの指摘は更に深化して社会、政治、経済まで
大きく変わりつつある。

D.レビンソンの言う私が過ごした2000年代「中年期(40~65歳)」もその
埒外ではなかった。ビジネスの世界では、50歳後半はすでに老年期とみなされ、
「年寄り不要論」が喧伝されていた。
しかし、60歳後半の人間になった老人として我が自然から感じることもある。
それは、満月の光に輝きを持って横たわる琵琶湖を見る時だ。
泉鏡花の瓔珞品(ようらくぽん)にその情景がうかがわれるが、
「水を切る船端の波の走るのが、銀を落とすと、白い瑠璃の階きざはしが、
星を鏤めてきらきらと月の下へ揺れかかって、神女の、月宮殿に朝する
姿がありありと拝まれると申します。」「霜のように輝いて、自分の影の
映るのが、あたらしいほど甲板。湖水はただ渺茫として、水や空、南無竹生島
は墨絵のよう。御堂の棟と思い当たり、影が差し、月が染みて、羽衣のひだを
みるような、、、、、、、、、
と夜の湖水を表現している。まさにその光景が見えるのだ。
老年期という時期を迎えてもこの光り輝く情景はそれを見る眼を持つ者にとって
朝の力強い情景にも見えるのだ。
それをこの地の自然がそれを教えてくれている。

2017.10.27

台風の来た日

ここに移り住んで20年、これほどの風が吹き荒れた記憶はない。
元々このあたりは「比良おろし」と言って時には、電車まで止めてしまうほどの
風が好き放題に森や雑木林、家々を撫でまわしていくのだが、今回のはだいぶ
様相が違った。
前日から家を揺らしつづけている。
家全体がその風の凄さに悲鳴を上げていた。夕刻から始まった風は一夜明けても
止むことなく、周囲の家や街を取り囲むように生い茂る雑木林を左右に前後に
こねりまわしている。
眠りが浅くなると、その耳をほじくり返すように頭の奥まで、侵入してくる。
朝5時半ごろでああろうか、起きて机に座ると、まだ大きな暗闇がすべてを
隠し覆っていた。何も見えない暗闇というのは、これか。変な納得感の中で、
暫くはぽつねんと机に座っているだけだった。
突然、眼の間の暗闇が裂けた。その先には、比良の山並みの薄く見える頂に
黒く重たそうな雲がずしりとした威容で乗っていた。比良そのものがその
重さに悲鳴を上げている姿にも見えた。
やがて、薄明るい世界が暗闇を追い払っていった。

だが、いつもみる世界と何か違うと私の心が囁いている。
よく見れば、街灯を含め、すべての人工の光が見えていない。停電が起きていた。
時折、光の筋がゆっくりと流れていく。車で仕事に出かける人なのであろうか。
だが、それ以上の変化、それ以下の変かも起きない。無音と無明の世界のみだ。

停電は、その後も続き、西日が周囲を、台風の爪痕を四方に残した、赤く染める
ようになっても、続いた。やがて、赤や橙色光が薄暗闇に抱き込まれる時
となっても、変わらず、我が家は闇が支配していった。わずかの懐中電灯と
蝋燭の光の中で、息を殺すかのような時間が始まった。蝋燭の火影が天井に
不規則な影を揺らめかせている。これも楽しいものだという心と食事が
まだまだという肉体的な要求が微妙に揺れ出す。
突然、家の中が光に満ち溢れる。
先ほどまでの感傷はどこか遠くへと飛んで行っていた。

2017.10.26

1970年代を振り返る

70年代、個人生活が会社生活とほとんど同期し、それが当たり前の姿となった
始まりかもしれない。今ここで当時を振りかえれば、この時代が、我が人生終結
までの経緯を決めたようにも思われる。
風姿花伝という能芸の奥義を書いた本に面白い言葉があった。
「24、5歳ころ、一期の芸能の定まる初め也」と。
能と単なる1技術者、サラリーマンとは比較すべきことすらおかしいが、この1行
を見た時、「そんなものか」と思った記憶がよみがえった。

だが、この時代世の中は不安な影があちらこちらに見えた。しかし、今80歳前後の方は、
「心の郷愁」を強く感じる時代でもあったのでは、と思う。

あの60年、70年安保闘争の激しさは小さかったこともあり、他人事のような、
ただ日々の流れの中の一つに過ぎなかった。三里塚闘争も含め60年代の不安、不定
の時代、そして自身が過ごした20代の70年代の華々しさとも無縁の世界であった。
この不安な時代の中に身を置いた友人もいたが、その後の彼らが今ある日本の
姿をどれほど変えたかは、分からない。然しながら、1968年は時代の節目で
あったのだろう。ベトナム戦争のリアルな映像が世界を席巻する中で、学生を中心とする
若者たちが自分たちと国家の関係に疑問を強く抱きはじめた。フランスのパリの五月革命、
アメリカの大学封鎖、日本でも東大封鎖に見られた学生運動の活発化、など世界で若者
たちがデモや学校封鎖、一般のストなどが実行されていた。
それは60年安保、70年安保闘争の延長の意味合いもあったのだろうが、60年安保
では、国民の政府への抵抗であり、六十万人を超す人がデモに参加し、この騒乱の中、
岸内閣は解散となり、国民の意識も変化し始めたようだった。
しかし、68年の東大での学生運動は強制的な排除となって、挫折した。
さらには、1972年のあさま山荘での連合赤軍の内部闘争での殺人や内ゲバの凄惨さ
がテレビで報道され、その無差別な行動が明らかになり、デモや学生運動への嫌悪
が高まった。日頃、政治などに関係ないと思っていた私も社会の渦の中にいたが、
それにに一種の不気味さと嫌悪感を持ったものだ。70年安保も一応の高まりを見せたが、
60年ほどの熱意も薄れ、70年半ばからは、社会的な拒否意識が強くなった。
だが、最近またデモや抗議活動への意識が高まっているという。大きな起点は福島原発
事故への原発反対運動であり、2015年からの安部政権による憲法改正への動きに
対する反対運動である。これには、60年、70年安保を十分昇華しきれなかった
高齢者グループと原発反対からネットワーク化された若者たちのグループ
(たとえばシールズ)の二つの年代層が大きくかかわってきているという。
振り返れば、68年の学生運動、70年安保ともに関係なしと決め込み、
ただ目の前の仕事にのみ全力を尽くしていた自分がいた。個人的にはやはり
政治に絡むのは、好きではない。その思いが最近のシニアグループのこの
ような活動への共感が不十分なのであろう。

阿久悠が書いた本の一節に面白い話があった。
沢田研二が歌った「時の過ぎ行くままに」では、チョット耳の痛い話の一節がある。

「ベビーブームで生まれた団塊の世代の人口が一番多い。学生時代に、世界
同時革命、などのスローガンを掲げて社会の矛盾を突いていた人が、社会に出た
とたん、直行でマイホーム型人間になってしまったように見える。結局、
「革命だ、革命だ」と大騒ぎした人たちが、会社のため、家族のためにと
人一倍身を削って働くことになった。世界革命と叫んで闘争したあの騒ぎは
何処へ行ってしまったのか」
あの男たちの気概は何処へ行ってしまったのか。
あの静まり方は大騒ぎした後にむなしさが残るようなそんな感じに似ていた。
私を含め、多くの若者がこのような社会の波の中で、自分を見つけるのに精一杯
だった時代でもある。
、、、、、、、、、
あなたはすっかり 疲れてしまい
生きていることさえ いやだと泣いた
壊れたピアノで 思い出の歌
片手で弾いては ためいきついた

時の過ぎ行くままに この身をまかせ
男と女が ただよいながら、、、、、」
「時の過ぎ行くままに」にこのような想いがあることは知らなかったが、
あらためてこの歌詞を見ると納得感がある。
しかし、平成も三十年ほどになり、昭和は消えつつある。
個人の脳裏からさらには社会の記憶から、私の記憶からもわずかな断片
としてしか残っていない。時代は変わりつつある。
また、心の奥底には、「彼らの発していたエネルギー、熱波」への憧れも
のぞかれる。先ほどの高齢者グループは「過去への悔悟とこの憧れを
体現したいと思っているのであろうか。心の中で70年代に戻り消化不良
のままのエネルギーを発散したいのであろうか。

そんな心情を「されど われらが日々(柴田翔)」の一節が上手く描いている。

「しかし、仕事を持つということは学生の頃考えていたのとは、随分違うことで
した。初めは、考えていた通りに日々が流れると思われました。会社から帰ると、
ほっとした気持ちになってこれからが自分の時間だと、のびのびと本をめくったり、
レコードをかけて過ごしました。3か月の見習い期間、そして半年が、そうして
過ぎました。ところが、やがて1つの仕事を受け持たされ、責任を持たされる
ようになりました。すると次第に仕事が、自由なはずの自分の時間まで食い込んで
きたのです。学生の頃は、就職しても、仕事は仕事、自分の時間は自分の時間、
自分の生活はその後者の中にあると割り切るつもりでした。
ですが、実際に仕事を持ってみると、仕事と生活を分けることは全く不可能、
というよりはむしろ、仕事こそが生活の実体になっていくのです。
それは義務である仕事が自由であるべき自分の時間を食いつぶすという意味
ではなく、自分の生活の中に仕事が占める意味が変わっていく
ということなんです。一口に言えば、僕の場合、仕事が面白くなり、仕事
こそが生きがいとなってきたのです。
それは全く矛盾でした。自分の犯した裏切りとなれ合っていくために、一生、
二流の地位の中で平穏な生活を送ろうと思い定めていたはずの僕が、次第に
仕事の魅力に取りつかれていったのです。
しかし、僕はその矛盾に長く苦しみませんでした。」
また、こんな文もある。
「私ははじめて自分がもう1人で生きることに堪えられないことに気づいた。
かっては、誰とも自分を決定的に結び受けないことに、ひそかな自由を
誇ってさえいた私だったが、年をとったというには、あまりにも、若い
年齢だが、やはり年を取ったのだろう。私たち世代は、きっと老いやすい
世代なのだ。その老い方は様々であろうとしても。」

ここでは、昔同志であった人々の思いを「自殺の遺書」として読む中に
出てくるのですが、文中の「俺は裏切り者だ」という言葉のすべてに
彼らの思いがこもっているようにも見える。さらには、「死」と「老い」
が20歳前後の彼らに当たり前のように心内にあったようだ。当時全体の
若者がそうだとは思っていないが、このような意識を持った若者が今の時代
いるのであろうか。老人と言われる世代でも、何故か「老い」は物理的な
肉体だけのモノとの意識の中で、「死」は忘れ去られているのでは、という疑問
さえ湧いてくる。

わたし個人としては、「心の郷愁」よりも当時の人々が放っていたあろう
「そのエネルギー」に魅力を感じざるを得ない。さらに、「死と老い」は一体となって
心内に忍ぶようにもなっている。それは、自身の積み重なってきた時間のせいなのかも
知れないが、社会の中で生きている以上にそれに影響されつつあることも事実だ。
1970年代、懐かしき我が若き時代と郷愁に浸るだけでよいのか、近頃、そんな想いが
強くなっている。

2017.10.14

変わり行くもの

今は朝の5時半ごろであろうか、まだ闇の力が朝の明るさに優っているようだ。
私の書斎は北向きだが、大きな出窓の向こうに比良の山並みが、時の暗く重い雲に
隠れていたり、朝霧の中に緩やかな稜線が薄黒く浮かんでいたり、薄青く広がる空に
太くやや緑がかった線を浮かび上がらせている。
だが、朝の変化ははやい。数分前まで、ただただ薄青く拡がっていた平板な空は、
薄絹の雲が左端に顔を出したと思っているうちにすべての空にかかってきた。また
ある朝は、櫛で梳いたように白く薄くたなびいていた雲がまずその下辺りを薄桃色
で染まったと思っていたら、ふと顔を上げた数分後先には、橙色や薄い紫、数色の
色が混然一体となり、無垢な処女から妖艶な女に変身していた。それが、ゆっくりと
東にいるはずの琵琶湖にしなを作る趣で向かい流れていく。
さらに30分後にはすでに比良の山並みの朝の顔は薄墨雲に覆いかぶされていた。
わずかな時の流れに翻弄される自分がいた。自然という「変わり行くもの」を
必然とする情景の中で、今の私は嬉しさに満ちている。

日々に「変わり行くもの」をその両眼が開いた瞬間から感じつつ「変わり行くもの」
を必然とする自然の中で一日の生を受けられたという幸せだ。

ある病院の夜で思うことがあった。
「変わり行くもの」、人の老い、街の風景、当たり前のことだが、ここ数年の自身の
まわりで起こったこと、起こったことを後に知ったこと、などなど、色々と考え
合わせるとやはり「変わり行くもの」という簡素だが深い(と勝手に思っているが)
この言葉が自身の心に大きな部分を占めるようになってきたと思う様になってきた。

「変わり行くもの」、当たり前のことだが、少し自身の心の襞を切ってみる。何か
今までと違うものが、見えてきた。ここ三年ほどに鋭角な三角形の塊だったものが
丸く柔らかい塊となって納まっていた。
経緯はともかくわたし的には、小学生の頃から「無常感」という、当時はその意味
や言葉さえ知らなかった漠たる心根がその形を変えつつも残っている。

先ずは、病院での何気ない想いからそれは始まった。
病院も三年の間に、然も数か月もいると、不思議な親しみが増えてくる。
当然、病人がいるわけだし、来るための必要性に迫られるのだから、普通に
訪れた人はあまり良い気持ちの良い場所とは思えない。
しかし、ここに来るからには、何かの必然性があり、それも避けられない目的と
必然性がそうさせている訳だが、「変わり行くもの」という意識がぼんやりと
しかも確かにわいてきた。仏教に「不染汚」という言葉があるが、60年以上の
垢や沁みを取り除く機会があれば、様々な色でかすみ始めている眼、肌が
感じる素直な心とでもいうのだろうか、受け取る何かに違いが出て来ていた。

時間が純粋に時間だけになって、それ以外何も痕跡を残さず時間に深みも
普段の何分の一の重みを与えないのが病院であろう。
だが、少し私は違っていた。

今、私は、暗く幅広の病院の廊下に立っている。
この一角に場所を与えられて四十日ほどとなった。ひとの意識とは面白いもので、
日を追うごとに、同じ情景を見ているはずだが、心的視覚的にも、「変わり行くもの」
が芽生えていく、3年前とは違いそれを強く感じる。

何かの本で、「風景の経験」という言葉があった。人が営んでいる情景、空間は
固定化されたものではなく時の流れを基底に周囲の情景と感じあい、触れあいながら
変化していくものなのだ。それは人の心の内も同じだ。
この暗闇に立つ自分は、内的な「風景の経験」をしているのかもしれない。

看護師さんの患者さん確認のためのパソコンが。仄明るい点滅灯となって静かに
置いてある。はじめは、異様な感じをもって、むしろ、怖さが先に立ったが、
今見るそれは言いようのない安心感を与える。「変わり行くもの」がすでに内に
形成され、更に増殖を続けていた。
夜の病院は、「黒の象徴」の場所かもしれない。ある意味死後に直結した場所
でもあり、死と隣り合わせであり、様々な病魔と闘う人々の暗鬱たる闇が主体と
なっている場所でもある。それは、昼の看護士さんの白衣、先生の白衣、廊下や
壁の白さと対を成しているようだ。
今は、今いるこの暗闇の世界がその白さを強調した場所よりも自身の感覚に
極めて強く同期を始めていた。

ふと、その暗闇に佇みながら「死後の世界」とはどんなものなのだろうと
思ってみる。源信の「往生要集」などに明細に描かれている悪鬼や閻魔が
いるような場所なのだろうか。それとも、今眼前に見える何の変哲もない
場所なのだろうか。往生要集にある絵図は、誰が描いた世界なのだ。
さらに、同様のものに「チベットの死者の書」というのがある。これには、
何十人もの神が出てきて、死者から遊離した心(パラドゥ、中有と呼ばれる)
を六道世界のどこかに輪廻させる。そこは赤、黄色、青、灰色などの極めて
色彩豊かなところで活動しているという。死後も「変わり行くもの」を
必要としているのだろう。

わたし的には、病院の暗闇で感じた「変わり行くもの」を形として残し、
今見ているこの朝の「変わり行くもの」の情景が毎日静かに味わえることに
感謝していきたい。

2017.10.10

人と猫の関係

今回は、「人と猫の関係」を少し書いてみたい。

猫族と付き合って20年余り、彼らと付き合うほど、その行動に興味が増すばかりだ。
そして、犬にしろ、猫にしろ、なぜこれほどの長い時間、人間たちとパートナ-として
過ごせてきたのであろうか。
夏目漱石、大佛次郎、内田百聞、谷崎潤一郎、三島由紀夫 保坂和志、平出隆等など
猫好きな作家を上げればきりがない。
我が家でも、先ずは、トトという三毛猫、次には、ナナ、チャト、ライ、レト、ハナコ
らの家猫を中心にノロ、太郎、ジュニア、クロ、などの外猫が多数現れ、去っていった。

もっとも、我が家の猫たちは皆、野良猫だった。野良猫たちも生を受けるとすぐに、
自立の生活を強いられる。数か月は親子ともども、よく近所や庭先を仲良く歩き回って
いるのは見るが、車にはねられたり、深手を負った猫を見かけると「生き抜く」
ことの厳しさをあらためて感じる。そんな想いがどこかにあるのだろうか、20年前は
我が家のだれかが、いつも間にか仔猫と同居していた。

猫は犬よりも強い。我が家に集まる猫たちも、ちょっとした病気や怪我も自身の持つ力で
治してしまう。野性としての本能がどこかに息づいているからだろ。ノロという外猫は、
顔の右半分に大怪我をしていたが、数か月後にはいつもの調子で現れたし、びっこを
引いて現れ10日ほど我が家のポーチの下の猫用の段ボールで食べ物をもらいながらも
少し歩けるようになったら、また消えた。その逞しさは感心するだけだ。
その点、犬は中々に親離れしないように見える。病気やケガに弱くすぐに泣きついてくる。
さらには、猫たちを見ていると、その行動や姿、顔かたち、特にその眼の変幻自在さは、
一種の神秘さえ漂わせる。
これは、少し猫への買い被りもあるかもしれないが。
たとえば、古代エジプトでは「猫は神聖な存在」あり、猫は神であったということにも
関係してくるのだろう。だが、その反面、中世ヨーロッパでは猫は魔女の部下でもあった
ともいう。猫は良きにつけ、悪しきにつけても人間の行動思考とは別の超自然的な生体
とも考えられていたのであろう。
それが、多くの小説作りの要因ともなった。
人間に近い場所にいるが、人間とは一線を画する存在、そのように考えると漠然とした
猫たちとの付き合いも何か理解できる。

更に最近の人の心に関する変化も大きいと思う。
「現代人とたましい」とよく言われる「人間の心と身体」の客観的な区別、分離化
であり、あえて言えば、身体を固体化するという近代科学の悪弊なのかもしれない。
すなわち、近代化科学は「たましい」の存在を否定し、すべての物事を明確に区別する。
心と身体を1つの連続体として考えることが少なくなった。もちろん、信仰、宗教が
その役割の一端を担うべきであるが、その役割はますます矮小化され、単なる生活行動
の過程とさえなっている。

いま、仔猫を中心とした猫ブームと言われている。
しかし、写真やブログ、facebookの彼らからは、この離反された「心と身体」の
積極的なつながりは感じられない。
一瞬切り取った仔猫の顔や仕草にそれを求めること自体に無理があるはずだが、
それはわたしだけの妄想なのか。
しかしながら、どういう訳か猫たちは、人間にとって、「たましいの顕現」に
なりやすいようだ。もっとも、そこまで考えている人がどの程度いるのか、
判断できないが。
特に、猫たちをこよなく愛する小説家の文章からは、そこに描かれた猫たちを
通じてその背後に存在する(または、作家たちが作りあげた)「たましい」に触発
されることが少なくない。

わたしの好きな猫と人との交流を描いたものに「どうぶつ帖(幸田 文)」がある。
どうぶつ帖、というタイトルが示す通り、作者自身の人生に関わった犬や猫、
さまざまな動物たちが細やかで豊かな観察によって生き生きと描かれている。
犬や猫と暮らしている人、暮らしたことがある人なら多いに共感し、その温かさを
共有できる。動物たちの素晴らしい描写の中に、人々の暮らしぶりや日本の四季、
自然の趣きが心に染み込んでくる。

ここの「こがらし」は好き文章だ。それを是非、味わって欲しい。

「ちょこなんとすわって、木枯らしを聞いている様子である。風の来る方をよけて。
少し頭をををかしげているからそう見えるので、本当は風を聞いていないかもしれない。
火なし火鉢の猫板のうえに、おすめす不明の婆さんの猫が鼻面をこちらに向けて
香箱を作っている。婆さんと猫と、双方動かないでじっとしている。暗い電燈はしかし、
できるだけよく婆さんと猫をてらしているから、ぼろ綿入れ婆さんのふくらみからも、
毛づやの悪い猫の背みねからも、生きているものの持つラジウムみたいな放射が、
ときどききらりと発散するのが映る。まだ暮れて間もないのに、うちなかもうちの外も
夜深いようにしずまってこがらしは空高く行くようであり、地を擦って行くようでもあり、
風の来た時だけ、あたり一面が音になる。あらしは、さ、さ、さ、さあと遠くから
駆け寄って来て、この屋根に来るとひと際高く、ざあっと過ぎる。
しきりの障子がふうと膨らんで、がたがたと揺らぐと、ぼやっとしなびる。隅にあけた
猫くぐりの1とコマでは通し切れないほどの隙間風が、内の中へ侵入する。
障子の紙は煤でけばだった古ものにもかかわらずまだ風を孕むだけの性が残っている
と見える。阻まれて勢いを殺がれても、風はなお無遠慮に部屋を通って、ばあさんと
猫をこする。猫は普通うしろから風に吹かれるのを好まないものだが、
この黒猫は知らん顔をしている。それでもさすがに、できるだけ毛を寝かせて皮膚を
守っている。ばあさんは風の通るたびに、風に圧されて息もできないといったふうだが、
表情は平安で苦しそうではない。
間拍子を切って正しく、あらしは吹き送って来、吹き去っていく。、、、、
猫は香箱の中で折っていた前脚を立てると、猫板の上で身を震わせて伸びを
しておいて、ぽんと畳へ降りた。降りたそこで、できるだけ高く背中を持ち上げると
もう1つ伸びをした。みていて、ばあさんはもういつものような平安な顔に
かえって、むしろ微笑していた。
「おまえももういつの間にか人の言葉がしゃべれるようになっていたんだね」
猫は黙っていた。」

他にも、「猫の客(平出 隆)」のその詩的描写には、参るだけだ。
上手いですね。

2017.10.01

止まる一刻の歩みの優雅さと果てしない苦悶


すでにこのガラス窓から眺める景色も1ヶ月を過ぎた。なだらかな丘陵如き比叡の山、
遠く薄いピンクに染まった比良の山並み、右手には薄青く朝日になめらかな湖面を見せる
琵琶湖、時が流れていないのでは、そんな風情だ。だが、眼を凝らしてみると卵型の
雲、櫛を梳いた細くたなびく雲、橙色にその下腹を染めている雲しょうの群れ、日々に
その違いのわずかの変容が見て取れる。時はこの鈍感、無為な人間にも流れている。

しかし、時の止まりはない。その流れの速さが以上に遅いだけだ。そして、その止まっている
如き速さに与えられた恩寵を感じるのは、それを受け取った人間のみに許される
行為だ。
私も60数年、ただ時間を泳いできたという行為に対して、2度もの恩寵を与えられた
気分でこの数10メートル高い天上界にいる。
そうは言うものの、この場には時という存在が無いようにも思える。
それは「善たる幸い」というべきか、迫りくる悪たる行為の1つであるのか、単なる
衆生の我が身ではわからない。

「止まる」という行為を多くの人には苦痛だという話もある。それは、人間本来の行動
にとっては、悪なのかもしれない。「時間は人の心にあるもの」といった童話作家がいたが、
この「止まる一刻の歩み」の中に置かれるとその納得感がジワリと上がってくる。
過去の高度成長時代には、「止まる」ことさえ悪と思われた。
「止まる」勇気さえもが持ち得なかった。

3年前の同じ病気の時、病気前と同じように歩いたり、動いたりしていた時のこと。
その見る景色がひどく違って見えたことに気づいた。どこか不明瞭な情景が鋭角な姿を
見せ小さな道のわずかな亀裂や小刻みなノコギリ葉の1つ1つがわたしに迫ってきた。
日頃茫洋と見える琵琶湖の白い波立ちさえもが、幾多の泡立ちを巻き込んだ大波にも
見えた。「時の流れに合わせ、受け取る感覚」も変化していた。それは、一幅の水墨画の
安らぎに匹敵する感情だった。「生きている」という感覚が体を支配した。

タル・ベン・シャハーがポジティブ心理をベースに自身の実践行動についていくつかの
面白い指摘をしている。26項目にもわたるが、その中でも「止まる一刻の歩みの優雅さ」
に関して、

① 人間関係を見直す
流れ行く時の中では、付き合う人をどこまで理解しているか、疑問が多い。
「ふと立ち止まった刹那に見せる人の隠れた側面を知ることが出来るかもしれない。

② 自由な時間を造る
  時の流れから離れると多くの人は、疎外感を感じる。同時に周囲に流され、思考さえも
  漠とした何かに迎合し、停止状態にある自分もまたいる。

③ 自分のスタイルを再確認する
流れの中に浮遊することでは、確認ができない。ただの漂流物と同じだ。

④ 自分の解釈を変える。
人とは環境や周囲の思惑に左右される弱い生物だ。それ故か、頑迷に自分に固執する。

上記の4つを実践したとしても、この悩める老醜に欠けたピースが明確に提示されるか、
ふとひらめくのか、は分からない。
答えを得ずに、死地に向かうかもしれない。

止まるという行為に置かれた人の多くは、強制的、半自由の状態にある。
わたしの周囲も怨嗟と苦悶、そしてわずかの明日への希望が渦巻き、静かな波動を
見せながら消えてはまた現れる。そんな日常の繰り返しが普通だ。
動と生は人の営みの中では避けられない必然の行為だ。

そして、「止まる一刻の歩みの優雅さ」ここそが、「本来あるべきその人を見出す」
神からのある一瞬の恩寵でもあるはずだ。
しかし、時とは何だろう。時の流れをどう感じ、どこにピースの一片を形作れば
酔いのだろう。
我々は、朝起きて鏡に立った時に見る顔や周囲の活動が何も変わらず、そこに
あるのが、当たり前の行為、日常と思っている。そこに安心と安寧を感じるものだ。

ここに、あるモザイク図がある。だが、その一片にわずかでも欠落であると分かった時、
その小さな欠片でさえ、ひどく心を悩ませる。至極当然として受け入れてきたことの
変化は思う以上に大きいものだ。
朝、夕刻のいずれの行為でも同じだ。これが契機となって、「止まる一刻の歩みの
優雅さ」が始まる。白地のモザイクに赤い微小な点、黒のそれに白い白点、
黄色の面に紫のいびつな楕円、それらが、はめ込まれ、全く違う様相を
見せた時、わたしは変わる。
しかし、それが何かは未だ掴めない。

それを捉えるのが、「止まる一刻の歩みの優雅さ」を与えられた今なのかもしれない。
迎えつつある「残日の日々」に「何が残せるのか、何を残さねばならない」
のかを考えさせてくれる至福の時なのかもしれない。
しかし、生きるという所作の中では、そう単純には行かない。
台風の過ぎ去った後の櫛を梳いた薄雲とまだ半濁の色を残す青空の下に、明るさを
持ち直した人々の影が無統制に思えるかごとく動き回っているが、そこに
「時間静止の欠片」もない。

そんな茫漠とした想いを大きな窓框から見下ろしている老人が1人いるだけだ。
「老い」とは不思議なものだ。
「身体の老い」以上に「心の老い」は、「止まる一刻の歩みの優雅さ」に強い不釣り合い
を与える。それは、異常なほどの重さゆえに片方に振り切られた無様な
天秤にも似ている。
この重き形のないものは何だろう。この数年、彼を煩わしてきたはまらぬピース
にも見えた。
敢えて言えば、このピースを我が心の中にはめ込んだとき、新しい己が
生まれるのかもしれない。
それを見出すのが、「止まる一刻の歩みの優雅さ」に期待されることなのだ。

そんな想いに浸っている瞬間にも、時の流れが目の間に現れる。
灰色の分厚い雲が、比叡のやや平らな緑に覆われた山並みを押しつぶすように
琵琶湖へとたなびき過ぎ去る。
しかし、そこもまた不愛想な灰色だけの世界だ。何もない。

神の恩寵か、悪魔の成せる仕儀か、60年以上病院という存在さえも気に
していなかったこの身体が2度の類稀の訪問となった。
眼下のコンクリートの無機質な光景と甍の波が数段の階を見せ、糸筋の
雨に打たれている。一瞬赤く薄い雲の帯が比叡の山並みに色を添えたが、
それも漆黒迫る山肌に消えた。緩やかながら時は流れていく。
黒粒の人影がわずかに動き回っている。空白の思考では、それ以上は
何も見えない。

わたしの探し求めるピースは、この変わり行く中で見出せるのだろうか。

2017.09.01

わたし的自己

最近、自分とは、自己とはなんだろう、と思うことが多い。
絶対的な自己なぞ存在しない。でも、多くの人はそう思っていない。
わたしもその1人でもあるのだが。
すでに棺桶に片足を踏み入れたような人間が思うべきことではないようにも
思うが、そのような状況となりつつある人間だからこそ考えるべきこと
かもしれないと1人納得することもある。

たとえば、ユングなどが提唱する心理学の中に集団的無意識というのがある。
古代から受け継がれてきた自分が意識していない、もしくは意識することが難しい、
だが、己を統制しようとする意識だ。日頃感じたり、思ったりしている自分とは
違う自分、自己がいる。その感覚が強まるほど自己の存在さえ怪しくなる。

自己を知るという点では、まずは、ユング以降の心理学であり、もう1つが
宗教的な立場での自己の存在認識なのかもしれない。
社会の中での自己、個人と個として人としての自己は別な領域で併存してきた。
だが、インターネットという社会を変容させつつある時代では、その共存が
求められる。個の、自己の埋没を許している限りは新しいこの社会の中では、
集団的無意識的な世界に生きる自己になってしまう。

道元は、「自己の捉え方を自己が事物を対象として認識する認識主体としてではなく、
存在者それ自身の「自己」として捉えること良しとしている。単純にそこにある
自体では、自己ではないと言っている。「自己」とは行為的、能動的に存在する
個々の存在者の自己なのである。
そういう風に考えると、この60数年自分に自己があったのか、そう思う昨今だ。
ただただ自身の種を次へつなぐための中継的役割の日々だったのか。

そんな中、気になるのが、輪廻転生であり、いわゆる生まれ変わりだ。
肉体としての個の継続はなくなるが、心の継続は何代となく永久不滅に進んでいく
という考え方だ。
求められる「自己の確立」ということもあるが、「死」に伴い自己がどうなるのか、
という点も気になる。

江戸時代の国学者・平田篤胤が、ある奇妙な男の話を残している。
小谷田勝五郎という、この男、科学では解明できないある記憶を持っていた。
江戸時代、中野村にいる源蔵の息子として勝五郎は生まれた。
そしてそれが起こったのは、勝五郎が八つになったある夜のことだった。一緒に眠っ
ている祖母に、このような話をし始めた。
「おれの本当の名前は藤蔵なんだよ」
 そして更に、このように述べたという。
「昔は程久保村に住んでいた」
「父親の名前は久兵で母親の名前はおしずという」
「でも父親はおれが生まれてすぐ死んだ」
「おれもすぐ死んだ」
「だからこの家の母親のお腹に入って、また生まれてきたんだ」

まさに輪廻転生。この奇妙な話だけでなく、勝五郎は死後の世界のことまで語った。
最初は半信半疑だった祖母もその話があまりにも具体的であったことから、村
の集まりの際に村人たちに語ることにした。
その結果、十五年前の程久保村の状況と酷似することが分かった。程久保村の人間が
噂を聞きつけて勝五郎の元へやってきたのだが、話は更に信憑性を帯びていった。

行ったことのない、そもそも名前さえ何故知っているかも分からない程久保村のこと
を、勝五郎は詳しく答えた。そればかりか、昔の自分だと豪語した藤蔵は本当に存在し
た。そして藤蔵の家の様子までさらりと答えた。
驚いた村人たちは勝五郎を程久保村へつれていった。すると勝五郎は、藤蔵が死んで
から変化した町並みについては「こうではなかった、こういうものだった」と、ずばり
言い当てたという。
藤蔵は文化四年二月四日に、勝五郎は明治二年十二月四日になくなった。この二人の
墓は、今でも残っている。

小谷田勝五郎。彼は本当に、輪廻転生をしたのだろうか?
この場合、当人にとって、どちらが「真の自己」となるのであろうか。
われわれは職業を代えても、私は私と思うだろう。住居を代えても、私には変わりはない。
しかし、そのようにして自分にそなわっているすべてを次々と棄ててしまって、そこに
「自分」というものが残るのだろうか。自己というものはあるのだろうか。
さらに、自己の認識が己の記憶の連続の結果だとすれば、認知症の様なもしくは記憶欠落の
人の場合のような不連続の認識しかできない場合は、自己は存在するのであろうか。

中々に考えさせられる話だ。ユングの集めた心理学的症例の中にも、似たような
事例が書かれている。

更に、自己を深く求める道元の様な場合でも、その教えの中には、
道元禅師の言葉の中で最もよく知られているものの一つで、この言葉に続くのは、
仏道をならふというふは、自己をならふなり。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。

「仏道をならう」ことは、「自己を究明する」ことであり、ここでいう「自己」は
本来の自分自身という。そのためには、「自己を忘れれ」ばいい。
ここの「自己」は、自意識的自我。
「自己を忘れる」ためには、「万法に証せられれ」ばいい。
「万法に証せられる」ためには、「自己の身心及び他己の身心を脱落させれれ」ばいい、
といっている。つまり、自分と自分以外のすべて、つまり宇宙全体は一体であると
いう意識に目覚めること。大分理解を越え始めるが、なんとなくわかる。
だが、ここでは自己の認識を確立した人が対象なのであろう。
「仏道をならう」ということは言い換えれば「さとりの境地に至る」ということなのだが、
そのためには、自己をならいなさい。「ならいなさい」ということは、究明しなさいと
いうこと。禅の目的は「己事究明」にあるとされている。自分の内的世界を掘り
下げなさいということです。自分の内的世界を掘り下げるためには、「自己を忘れなさ
い」といっている。ここがちょっと難しい。

「自己」というものはふしぎなものである。だれもがまるで自明なこととして「自己」
という言葉を用いているが、われわればどれほど「自己」を知っているだろうか。
インドの説話に次のような話がある。
ある旅人が空き家で一夜を明かしていると、一匹の鬼が死骸を担いでそこへやってくる。
そこへもう一匹の鬼が来て死骸の取り合いになるが、いったいどちらのものなのかを
聞いてみようと、旅人に尋ねかける。旅人は恐ろしかったが仕方なく、前の鬼が
担いできたというと、あとの鬼が怒って旅人の手を引き抜いて床に投げつけた。
前の鬼は同情して死骸の手を持ってきて代わりにつけてくれた。あとの鬼は怒って、
足を抜くと、また前の鬼が死骸の足をくっつける。このようにして旅人と死骸の
体がすっかり入れ替わってしまった。二匹の鬼はそこで争いをやめて、死骸を
半分づつ喰って出て行ってしまった。驚いたのは旅人である。今ここに生きている
自分は、いったいほんとうの自分であろうかと考えだすとわけがわからなくなって
しまうのである。

この話は「自己」ということの不可解さをうまく言い表している。このように考えだすと
全く分からなくなる。ここでは体のことになっているが、輪廻転生では心の継続を言っている。
身体が社会との境界であるならば、転生した体と転生前から存在する心との差異は
どう埋められるのだろうか。
生きているときの自己、さらには死後の自己、考えれば考えるほど、闇が深まる。

2017.08.25

わたし的死への想い3

谷川俊太郎「灰色の表現」の一部、生と死についての語り掛けを詠んでみたい。
これもまた「死生観」の1つとしても読める。
「どんなに豊穣な生も、本当の生であったためしはない。
一点の翳もない生の中に、目に見えぬ微少な死が隠れていて、それは
常に生の構造そのものである。
生は死を敵視せぬどころか、むしろ生は生ゆえに死を生み、死をはぐくむ
と理解される。
存在のその瞬間から生はすでに、死へと生き始めているのだ。
だが死への長い過程に、どれだけの老いの諧調を経過するとしても、
生は全い死に化するその瞬間まで、生であることをやめはしない。
たとえ生の属性とは考えられていないもの、
たとえば腐敗、たとえば病等によって冒されているとしても、
生は老いの仮面のかげで輝いている。
生が物にかえる時は一瞬だ。
その一瞬に生は跡形もなく霧消し、全い(またい)死が立ち現れる。
だが――
どんなに不毛な死も、本当の死であったためしはない。
一点の輝きもない死の中に、目に見えぬ微少な生は、自己複製子の
ように隠れていて、それは常に死の構造そのものである。
存在のその瞬間から死はすでに、生へと生き始めている……」

納棺師青木新門さんという方の言葉も考えさせられる言葉だ。
「長い間、私たちは死を忌むべきものとして、日常生活から切り離して隠し、
見えないところに遠ざけてきました。だから本当の意味で、死の実感に乏しい。
頭の中で想像しているだけなので、極端に美化したり、おそれたりするのでしょう。
わたしは、その傾向に疑問を感じています。
30代半ばで納棺師になり、3000体近い遺体と接してきました。
死体に白衣を着せ、髪や顔を整えて納棺する仕事でした。
、、、、、、
出会う遺体はみなそれぞれに美しかった。正確に言えば、死を通して、生きていること
の素晴らしさを教えてくれました。寿命が延びても、いつか必ず死ぬ。死から目を
そらしては生きてられない。
ありのままの死に姿を見てきたことで、それに気づくことが出来ました。
、、、、、、、、
いつの頃から、ぶよぶよとした遺体が増えてきました。延命治療を受けてきた方が
多いようです。わたしには、死を受け入れず、自然に逆らった結果のようにも感じられます。
死期を悟って、死を受け入れたと思える人の遺体は、みな枯れ木のようで、そして柔らかな
笑顔をしています。亡くなる直前まで自宅などそれぞれの居場所で、それまでと変わらぬ
日々を過ごしてきた人の多くがそうだった気がします。体や心が死ぬ時を知り、
食べ物や水分を取らなくなり、そして死ぬ。それが自然な姿なのではないか。
今、そういう死に姿は少ない。医師は1分1秒でも長く生かすことを使命だと思っているし、
家族は少しでも長く生きることが重要だとばかりに「頑張って」と繰り返す。
本人が死について思うことや、気持ちは聞かない。生命維持に必要な機械のモニター
ばかり見つめ、死にゆく本人を見ていない。大切なことを見逃してきたのです。」

考えてみるべき言葉だ。既にわたしも前期高齢者だ。「死」が以前よりも迫っているはずだが、
わたしも家族もその意識は少ない。3年前の大病の時、心を一瞬通り過ぎたが、それも
3か月後退院すると遠い過去の想いとなった。死が目前にしっかりと見えた時にしか
考えられないのであろうか。だが、その時は手遅れだ。

わたしの家には、猫が概ね5人、この20年ほどいたが、今は2人となり、そのうちの1人は、
20歳となり、他の2人との喧嘩で急激に老化した。そして8月7日午前2時に他界した。
この家に連れてきたときはまだ本当に小さくて、排便から食事の世話まで見たものだが、
そのやんちゃぶりは、悪戯好きの小学生の女の子と言う感じだった。そして彼女は
身軽で、食事の時に食物をつまんで高くかざすと跳び上がって家族を喜ばしたものだった。
数ヶ月も経つと非常に表情が鮮やかとなり、口元や、小鼻の運動や、息遣いなどで
心持の変化を表す事は、人間と少しも変わらなかった。なかんずくそのぱっちりと
した大きな眼は、いつも生き生きとよくよく動いて甘える時、いたずらをするとき、
物に狙いをつける時、どんな時でも愛くるしさを失わなかったが、一番可笑しかった
のは怒るときで、先輩の三毛猫の4分の1もない小さな身体をしているくせに
やはり猫並みに背を丸くして毛を逆立て、尻尾をピンと跳ね上げながら、足を
踏ん張ってぐっと睨む恰好といったら子供が大人の真似をしているようで、皆が
その姿に喝さいを送ったものだ。
また外猫も含めれば、20人以上が我が家に接してきたと思うが、死に直面できたのは、
2人だけであった。その2人は今、我が家の庭の猫の置物の下で眠っている。それは、
わたしが薄情だったのか、猫たちがそれを望まなかったのか、いずれにしろ後悔の残る
20年ではあった。
そんなとき、「100万回生きた猫」という本を見た。犬についての話や本も色々と
あるのだろうが、最近色々な本や記事を読んでいると、猫に関する本が特に多いのでは、
と思っている。この本は絵本であり、小説や随筆の類とだいぶ違うが、内容はそれらに
優るとも劣らないものだ。人生をよく語っている。難しい書物から何かを得ようというのは、
素晴らしいことだが、この絵本でもその深さは変わらない。ある意味、以前紹介した
時間の考えを分かりやすく描いた「モモ」と相通じるものがある。
100万回も生き、王様や船乗り、お婆さんなどに仕えたと言い、生きることに傲慢に
なったとらねこがいた。
だが、彼も人の子?猫の子であった。ある日白い猫に恋してから変わった。

短い文章とその絵が素晴らしい。猫は死に飼い主は大いに悲しむ。100万人を悲しませた。
しかし、「猫は死ぬのなんか平気だったのです。」とある。
猫は白い猫と、たくさんの子ネコを、自分よりも、好きなくらいだった。
絵を見ると野原の中央にとらねこと白猫が寄り添っており、その周囲で
子ネコたちが楽しそうに遊んでいる。彼の眼はもう昔の様な鋭くはない。
子ネコたちは大きくなり、それぞれどこかに行ってしまった。仔猫の成長に
満足し、夫婦の猫は大分年老いたにしろ、ゆったりとして生きていた。
「猫は、白い猫と一緒に、いつまでも、生きていたいと思いました」
しかし、白い猫はとらねこの隣で静かに動かなくなり、死んでしまった。
「猫ははじめてなきました。夜になって、朝になって、また夜になって、
朝になって、猫は100万回もなきました。」そのうち、彼は泣き止み、
白猫の隣で、静かに動かなくなった。
最後のシーンは野原で遠くに家が見える。ここには猫の姿はない。
「猫はもう、けっして生き返りませんでした。」

輪廻転生という難しい言葉はともかく、死への畏怖や恐怖はここにはない。
愛する妻のそばでは、生も死も関係ないのだろう。生きていても添い遂げ、
死んでも添い遂げる。
今、わたしの横で本を読んでいる妻の横顔をそっとみる。白い猫ととらねこのように
なれるのか、わたしには自信がない。

2017.08.11

わたし的死への想い2

河合隼雄の「影の現象学」に最近の死生観の変化と死による自己変容の可能性が
書かれている。これ等からは、「死」を肉体的な面から見ることのほかにも、精神的
心的面でも考えていくことの必要性をが問うている。

「われわれは生きていることが「死につつある」ことをよく忘れてしまっている。
彼は、古代人や中世人が死を自然の一部とみて、死の固有の意義をその世界観
の中にうまく取り入れていることを指摘し、それに反して現代人は「死」の
取扱い方があまりにも偏っているために、死に対する過度の恐怖感などを起こし、
人間を極度に不幸な状態に陥れていると述べている。
たしかに、古代人や中世人は彼らの世界観の中に、象徴的で可視的な「死の位置」
を定めているのである。これについて、樋口は「このような現代人の死に対する
考え方は、更に現代人の誤っている素朴な肉体感とも関連を持っている。現代人の
多くは自分の肉体は無限に直線的に発展しづつけると素朴に考えている。
したがって、死は現代人にとって、いつも「経験しないなにか」であり、生の延長
上にしかなく、結局、死は経験せずにすむものという直線的な死生観を信じていると
指摘する。
、、、、、、、、、、、
わたしは海から釣り上げられた魚である。
それをつり上げた海岸にいる男、それは私だった。
エサで私を誘い、そして釣り糸を引いたのは私だった。
私は下へ、深く、戻りたいと願う。
しかし、陸にいる男は容赦しない。
私の少年時代は砂の上で死んだ。
それは大きな手の中で横たわっている。
その手が糸を引き、針を外す。
そしてわたしを料理するように妻に渡す。

この詩では、とらわれ、死に導かれるのは魚であるわたしであり、それをつり上げ
料理するのも私である、として表現されている。「少年時代は砂の上に死んだ」という
言葉が示されているように、少年から成人へと変化するとき、その人はひとつの
死の体験をしなければならない。通過儀礼の基本的な構造を支える死と再生の
パトスがここに詩として詠われている。影は自我の死を要請する。それがうまく
死と再生の過程として発展するとき、そこには人格の成長が認められる。
しかしながら、自我の死はそのまま、その人の肉体の死につながるときさえある。
このような危険性を含んでいるだけに、自我はときに影の方を死に追いやるときがある。
われわれは夢の中でときに殺人を犯したり、他人の死を体験するが、その相手が
われわれの影の像であることが多い。そのときは、影は殺され、一度無意識に沈み新たな
形態をとって自我に受け入れやすいものとなって再登場してくるであろう。」

自身の人生に「死」の位置づけが明確ではない現代では、道元の正法眼蔵生死の巻にある言葉は
考えるに値するのかもしれない。
「生死の中に仏あれば生死なし。また曰く、生死の中に中に仏なければ生死に
まどわず」生死は、生と死という2つを論じているのではない。
仏教では、生死は、生き死にのあるこの煩悩の現世を言っている。
生死の中には、元々、仏がある。すなわち、絶対的な真実を
掴んでいればすでに、現世を越えている事となり、今更、
生きる死ぬと言うことを迷う必要はない。逆に、生も死も
只それだけの事実で、ことさら悟りや救いがある訳でもない
と観念していれば、生だ死だと騒ぐ必要もない。

そして、
「生より死にうつると心うるは、これあやまり也。生は、ひと時のくらいにて、
すでにさきあり、のちあり。」

生と死は、分けて考えてはいけない。その事実を事実として徹底的に受け入れること。
先ほどの道元が詠んだ歌の境地でもある。
生きていると言うことは、死と比べて生きているといことではない。そこには、
絶対的な今しかない。

死を迎える心とは、
「生きたらばただこれ生、滅来たらばこれ滅にむかいてつかうべし。
いとうことなかれ、ねがことなかれ」
我々は、既に、生と死の中にいる。それであれば、いまさら、死や死後の成仏を願う
こともない。生の中にいて、生以外のものを願うことはできないし、死の中にいて
死以外のこともありえない。

元々、生きている日々は、最後の死へ近づく日々でもある。
「健康、健康と騒ぎ立てる」が、要するに、生きていることが本人にとって、一番
悪いのかもしれない。
達するべき己の境地とは、
「ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいえに投げ入れて、仏のかたより
おこなわれて、これにしたがいもていくとき、ちからももいれず、こころもついや
さずして、生死をはなれ、仏となる。」
全部の自分を捨ててしまう時、本当の真相が露わになり、それが、人間を向こうから
明らかにしてくれる。だから、力んでしまうことはない。そのまま生死を離れ、
仏となることが出来る。大事なのは、ただわが身、その心をも、放ちそして
忘れること。

だが、わたしには、まだまだ不明だ。これは、頭で多分理解することに問題が
あるのかもしれない。体感することだ、しかし体感するには己の力不足あり。
このジレンマにどうしようもない自分を知ることになる。

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