人生

2018.04.07

ある里の春

この里では春は土から来る。肌寒さが畑に立つ人の心を揺する。暮れに植えた大麦の葉が
融けはじめた雪の間から顔を出し、春の光の中で微笑んでいる。村人もその顔を見てほっこりする。
まだ寒さを帯びた風が茶色と白の斑な地面を撫ぜ、彼方こちらから湧き出ている水と立ち上る
薄い蒸気を巻き込みながら湖へと流れ落ちていく。湖は薄黄色や薄紅の光を混じり合わせた
霞に曖昧な丸さの朝日を抱きかかえ静かな面を保っている。朝日が斜めから射し込む中を
いくつもの影がその大地を踏みしめ、麦たちのその小さな命を慈しむように単調な作業を
繰り返していく。太い影、小柄な影が劔の山から遠ざかるように湖へと向かい、踏みしめる
足影に、ザクザクという音が混じり込んでいく。しばらくするとその影は湖の霞に浮かぶように
横一線に立ち現れ、また御山に一定のリズムを持って向かっていく。朝日を背にした大小
幾つもの影は、その連なりを時折まだ残る雪の塊に足並みを乱し、四方から掛け合いの
声が響き渡る。足元をただ見つめ歩を進める者、時に薄い綿状の雲に目を上げては
踏み進むもの、何か心配事があるように首を振りながら踏むもの、様々な姿態が
様々な影を落とし畑を一つの線を成して進む。朝の仕事が、それは軍隊の攻め入る姿にも似て、
続いていく。

御山からゆっくりとした足どりで降りてくる風もはたと止まって、土は暖かくその日のすべてを
受け、思う存分その熱を地中へと伝えわたす。その刺激は冬を大過なく過ごしてきた虫や
木の根にも春の到来を告げていく。田圃に並び立つ榛の木もまだ葉も出ないうちに
地味な紅紫の蕾を目立たたぬように少しづつ色づけている。地中の虫たちの中でも
その慌て者は微かな土の盛り上がりにその姿を見せる。蟻が土手の荒く拡がった土の
縁に顔を見せ黒く小さな触角を休むことなく動かし、春の香りを嗅ぐかのように穴の
周辺を動き回る。

春の光をすべてのものが受け止める。そこに新しい命が芽生えまた村人を支えもする。
村の女たちもまた忙しくなる。雑木林や山端の近くに足を運ぶ。春の旬菜を摘み、その
食膳をにぎわすのだ。雑木林にも幾つもの人影が見え隠れしてる。うず高く積もった
枯葉とすべての葉を落とした裸の木々が女たちの姿を明瞭に映し出す。
腰をかがめてひたすら枯葉と茶色の地面に目を据えているもの、二人ならんで喋りながら
時に枯葉色の中に見えた緑の葉を竹編みの籠に入れていくもの、若い女房に採った
野草の食べ方を教えているもの、繁った草もなく、何の遮りもないただ立ち並ぶ幹だけが
光に映えた空間に女たちの姿が動き回る。それは里に下りてきた熊や猪を思い起こさせる。
まだ枯草色が占めるが、若芽の緑がその中に小さな彩を見せている。緑と薄黄色の蕾の
ようなフキノトウがわずかに残った雪の白さに浮き出ている。
少し奥に入ると、白く小さな花の群落が小川に沿って伸びている。二リンソウは暖かい白さ
がある。咲き乱れるその中で春の声を聞く。雜木林も変容を始めていた。枯葉を押しのける
ように其處此處に緑の葉が散在し、顔をのぞかせ春の様子をうかがっている。立ち枯れた
芒や麦の茎が丸裸となったクヌギやコナラの木の間に寄り添うように立ち並び、己の最後の
姿を日の中に晒しているが、その傍では黄色の色鮮やかなタンポポが降り注ぐ日の中に
しっかりと大きな葉を下ろしてる。雑木林の隙間を縫うように鳥たちが飛び交い、様々な音律
を奏でていく。その声とまだ残る枯草のかさかさという音に合し、女たちも自然の恵みを採り続ける。
少し奥の湿ったところにギシギシの葉が見えた。老婆がそれを採りあげ、若い女房に何かを教えている。

刈田はまだ眠ったままだ。雪解けの水が稲の白く枯れ切った切り株のまわりにいくつもの
水溜りを作っている。水溜りが空の青さを写し取り、それがピースの抜けたパズルの未完成品
のように所々に黒い土を見せている。しかし、田圃のあぜ道はすでに緑の衣装を着けた様に
様々な野草の中で緑のフレームを作り上げている。村人はあぜ道をゆっくりと踏みしめ歩き、
冬に弱った土盛りや崩れ落ちた畦を丁寧に修復をしていく。泥にまみれた手と足がタビラコ、
つくしやスギナに褐色の色を残しつつも照り始めた日の中でやがて薄茶色に変色しながらも
彼らの仕事はそこに満足の微笑みが見えるまで続く。中腰の曲げた身体を時にまっすぐにし
小さな吐息を吐きながら、老人は折を見てあぜ道に座り込み、のこぎり葉の真ん中から茎を
直立に伸ばしたタンポポの健やかな姿に見入る。若者は汗ばんだ顔を手で拭い、その影が
紅赤に帯びるまで止めることはない。彼らを励ますのは、ほのかな蒸気を見せて流れる湧き水
の流れの音だ。だが、田圃に引き込まれる水はまだその役目を果たさないまま道の脇から
ごぼごぼという音を立てつつ所在なさげに小川を通り、湖へと白い糸引きを見せつつ流れ行く。
それを見下ろす榛の木もまだ葉をつけるまでには至っていない。あぜ道に佇む村人は思う。
風が暖かみを見せ、劔の山もせり上がる緑色が中腹まで至ると、籾種が水の張られた水田
を突き上げるように萌出てくる様を、そして大麦の畑がその若い穂波をその柔らかな風に
揺らし波打つ絨毯の様を見せていることを。自然との闘いと共生が循環を巡らしてまた
彼らの前に現れてくる。

村の間近も色づいた。雪の間にひっそりと見えていた小さな緑の葉が一面に拡がり、すでに
黄色く色づく蕾となって、日の強い東側では、黄色の薄絹に覆われたかのように菜の花が
石垣に沿って彩を放っている。時折降る細く緩やかな雨に促されるのか、その黄色を更に
強め見る人に春を告げる。村人が自作している小さな畑には、春キャベツ、菜花、明日葉、
が一畝ごとに濃い緑、黄色みある緑、薄緑を注がれる光に映えている。
冬を過ごしたナズナが線香のような細い薹をもたげてその先に米粒に似た花をつけている。
黒く盛られた畝に薄茶色の玉ねぎが見えている。数人の老婆が玉ねぎ取りながら畝の
雑草を取っている。少し腰をかがめ丸くなった身体を左右に揺らし土の香りとともに玉ねぎを
引き抜いていく。雑草たちも春の光の中、己らの存在を誇示したいのであろう。しかし、
その皺とあかぎれの見える手は彼らに容赦しない。次第に黒く艶のある畝と一直線に
並んでいる玉ねぎだけがそこに残る。

雪が融け込んでいた雨にも温かさが育ち、彼らの細く緩やかな滴りは多くの草木にとっては
育ての親となる。木の芽起こしの雨だ。夜の密やかな闇を音もなく降り注ぎ、また薄青さと
灰色の入り混じった空から見えないほどの細い雨を降らしていく。まだ山端の奥、谷の
せせらぎの傍、家の軒下に残る雪、すでに泥を帯び白き純白さを失った、を消し去っていく。
黒く何も身に着けていない殺風景な木立にその雫がしみ込み、また大地に葉を広げる雑草や
野草にも雨が柔らかくその発育を促す。若くしなやかな葉が木々に戯れ、地上の葉は次第に
大地に映る影を黒く大きく広げていく。空からのエネルギーは地上の生物、植物に均等に注ぎ、
新しい命と力を与えていく。それは人に対しても同じだ。多くの人は、その内より湧き上がる
興奮と喜びに冬に味わった苦痛と萎んだ心、身体に決別を宣言する。

若者や子供たちは光の注ぐ野や山に出かけ、老いたるものは日差し溢れる庭や縁側で
終日を過ごす。男たちは畑や湖で日々の生業を自然の循環に合してこなしていく。女たちも
また家事や畑仕事を中心に日々にその身を委ねる。老いたるものも同じだ。
そしてその身を動かし自然の中で生きることが彼らの役目であることを理解している。
村はそのように動き、長き時に合わせ生きて来た。

2018.04.02

春の短描

私は明け行く朝の光の中にいた。
まだ白さが半分ほど残る山並みが橙色に色づきはじめ、薄暗い蒼さに太い毛筆で描いた
尾根の緩やかな曲線が次第に溶け込んでいく、その姿に見入っていた。空の白さが
増すにつれて山並みもその荘厳さを失い、平板な何の変哲もない朝の情景に成り
下がっていく様を、肌に寄せる寒さを感じつつ、その喜びを急速に胸の内に押し込め、
この朝の自分の行動を馬鹿々々しく思った。
まだ外は、冬の情景に張るが忍び込んでくるような状態であったし、春はその隙を縫うか
のようにわずかな微笑を見せているだけであった。期待の高まりが、私の思う以上に
失望を大きくした。大きく息を吸い込み一気に吐き出す、まるで坂を全速力で上がろうと
あがく機関車のように、仕草でかじかんだ手を温めようとした。そこには望み叶わなかった
想いの色が灰色となってその白さを濁らせた。40代も終わりを迎える彼にとっては、
春は微妙な感じの肌合いになりつつあった。父親がよく言っていた「50の歳ともなると、
何故か秋の憂いと寂しさに惹かれるようになるものだ」、その言葉が耳から入り込み
腹を通ってまた喉元から吐き出される、何も付け加えられず、消化もされずに、
その感情をそのままで空気をなぞった。秋の色と春の色が微妙に混じり合い、私の心を
揺らしている。

しかし、いま心の天秤は春に傾きかけていた。それは秋色が老いという影に近づくという
潜在的な怖れと春を楽しんできた心の惰性の成せることからだったかもしれない。
今朝の馬鹿げた行動はそれを確かめたいという心根から生じていた、と私は考えた。
春の持つ生命の息吹き、秋の持っている心の安寧、いずれもが魅力的ではあるものの、
とふと私は足を止める。本当にそうなのだろうか。

そして、春と呼ばれる日々を思い起こしていく。春は立春から始まるとされている。
2月の初めだ。それは、東風と言い、春風が吹き出し頃というが、寒風はまだ凄まじく
周囲をかける。比良おろしに雪がまじあい、今年の冬は中々に寒さが厳しかった。
福井など北陸は過去最高の積雪で3メートルを超す地域もあった。こちらは大寒ほどの
雪はなかったが、寒さはどこでも変わらない。庭の梅の木も蕾が多く顔を出しているが、
寒そうに首を縮めていた。そろそろ見かけるメジロにも出会ていない。今年は例年より
2,3度低いそうだ。この時期、魚氷に上がる、の通り「春寒、余寒」の呼び名を思い
起こす日々が続いた。「冬過ぎ去りてもいまだ春寒し、遠くにあり」の言葉がよく似合う。

だが、3月初めの声が聞こえると、さすがにここ1週間ほどは暖かさが感じられる。
比良の山の雪も薄くなった。頂の付近にはまだ残るものの、緑の色が少し深くなった
ようにも見える。降る雪も雨となって地を潤していく。この時期の雨を「木の芽起こしの雨」、
「催華雨さいかう」ともいうそうだ。
近くの田圃の切り株にも春の気配が近づいた。対岸の守山の公園には菜の花が咲き
はじめた。春キャベツが美味しいころだが、今年の雪の多さが災いして野菜が高い。
菜花が売られていた。葉は柔らかく緑が鮮やかで春を告げる旬の緑黄色の野菜だ。
ほろ苦さがあるが、栄養満点の野菜だ。やはり春の心は食に傾くのだろうか。

湖の景色が薄ぼんやりとたなびいている。霞が出ていた。霧とは違う定義だそうだ。
薄ぼんやりとたなびく様が霞、目の前に深く立ち込める霧とは違うかもしれないが、
「立ち上る」場合は霧という。もっとも、見る人にとってはどちらでもよいが。
だが、私の感性にもこの言葉使いは何故か似合う。

さすがに暖かさが身体を潤す。梅の蕾もふくらみが増し、そこはかとない佇まいを
見せはじめた。よく見るとその薄ピンクの蕾が群れ騒ぐ中に1つ2つと花弁を開き白い
細毛に小さな黄色い帽子を付けて見せている。そぼ降る雨に打たれて翌日もまた
1つその姿を見出した。さらに進めば、春の兆しがようよう見えてくる。いまは冬の残照と
春の温もりがせめぎ合い、その力を競っている。庭の梅も蕾から花に変身するもの、
まだ固くその身を閉じているもの、お互いに相手を見る素振りで華を開く時期を
見計らっている。琵琶湖も澄んだ空気に対岸の伊吹の山並みを見せることもあれば、
霞の中に薄白く茫洋とした蒼さが拡がることもある。田の色も黒く畝となって春の日差し
を帯び始め、場所によっては、その茶褐色の色を田の一面に張り出ている。

旬菜をまじえた料理を味わった。鰆の西京漬け、こごみのてんぷら、鯛の造り、筍ご飯、
鱒桜寿司などなど、春が口からも感じられた。わらび、ぜんまいの新芽も味わえるだろう。
「菜虫蝶と化す」と言われるが、それもまた身近に感じられる。やはり春は捨てたものではない。
薄くなった雪を押しのけるように顔を出す早春の山菜は、ふきのとう、オレンジ色の八重咲の
花がきれいなヤブカンゾウ、にりんそうの白い花が咲き乱れる群落、更にせり、なずな、
春の7草をてんぷらや味噌あえにしたのが目に浮かぶ。
やがて山端の薄い緑が濃くなり始めると、ハハコグサ、ハコベ、セイヨウカラシナ、ノビル
(にらに似ている)、タネツケバナ、さらにヨモギ、セイヨウアブラナ、ギシギシ、スイバ、
セイヨウタンポポ、ハルノノゲシ(ぎざぎざの葉に黄色の花)、クレソン、などが、まだ眠りの
見える田圃のあぜ、河原の土手にその姿を見せる。

しかし、時には冬の残り香を嗅ぐことにもなる。夜の寒さはまだ続くし、比良の山並みにも
小さな雪帽子もあり、時にその白き絹ずれが中腹まで這いおりてくる日もある。
冬の澄み切った空気以上にその透明感を増す秋のそれであり、琵琶湖の青の深さでもある。
そこに秋の深さを知る。茫洋とした中に見えない未来を感じるか、透徹した光景と
精神の穏やかさに自身の姿を見切り、その先に存在の有無を知る。
春と秋、並び立つ2つにいまだ戸惑い悩む私がいた。

春分が見えると、いわゆる春だ。梅が満開だ。ピンクの花びらがぱっと開き我が人生
謳歌の時となる。褐色の幹や枝を覆い隠し、不細工だった褐色の庭が萌え、彩が彼方此方
から漏れ出てくる。

男2人が所在なさげに浜辺に立っている。遠く霞の中に沖島がゆらりと浮かんでいた。
松林が白砂の上に無数の短い影を投げかけている。3月も末になると、比良八講という
行事が執り行われる。琵琶湖の春はここから始まる。比良の山並みを這うように吹き
下りてくる風は荒々しい風神のごとく木々を押し曲げ、ガラス戸を叩き、また時には湖上の
舟を揺らし波に揉む。しかし、今日はその勢いは全く影を潜め林になびく幟は静かに首を
垂れている。うずたかく積まれた杉の枝の祭壇は日光の中で白く輝き、その周りを多くの
人影が風に揺られるかのように左へなびいたと思うとまた右へと戻ってきた。
2人はその無作為な動きと青空と砂浜の間を行き来するどこか浮き立ったざわめきの中にいた。
「春は通り過ぎたような天気だな。暑いわ。まだ行列は来ないのか」
彼は湖辺で水に親しむ子供たちを見て嘆息の一声を発した。子供が投げた石が見えない
航跡を残して湖に3つほどの飛沫を見せた。ポンポンという音が風音の間を縫って聞こえた。
皆の顔が一斉に左へと向いた。重く地を這うような読経が松林の影を払いのけ、
それが空中を舞い始めた。紫や黄色の袈裟が1つの流れとなりそれに続いて白い装束に
金剛棒の響きをのせた修験者が一呼吸遅れてその白い影を見せた。

読経と見物人たちのざわめきが混じり合い消し合うかのように松林の先、護摩壇へと動いていく。
「ようやく来たか」
私は少し安堵した。春が形を見せたのだ。風がその後を追うように動いた。見上げれば、
比良の山並みが笑っている。多くの人にとって、春が一番好まれるのだろう。
また私の心根に秋の静けさが寄ってきたが、護摩壇から立ち上り始めた白煙が少し黒さを
まじえて人々の顔をなぜ上がっていき、歓喜する声にそれは押し戻された。白煙の底に
ちらりと赤みをさす、それは蛇が獲物を前に赤い舌を動かしていくに似て、その凄みを
更に周りへと舐めつくす。10数人の僧たちが唱える読経が立ち上る煙に力を与える
かのように、その厚さを増し、渦巻く様は天に昇る龍の姿形に変貌しつつあった。
比良の山並みと青白く映える湖、白く輝く太陽はその太く巻き上がる煙に紛れ、天を
駆け上がろうとする龍に道を開けるかのごとき光景を見せていた。

2人は満足げにその情景に見入り、煙り巻く護摩壇を取り囲む人々と一体となっていた。
「これが湖畔の春か」
ぽつりと砂に落とすような声がした。

近くの喫茶店に2人はいた。先ほどまでいた松林が青い線を木々の間に見せながら
かなり先まで伸びている。目の前の道を満足そうな趣の人々が三々五々と駅の方へと流れていく。
「やはり春は一番いいね」
彼はコーヒーを口に当てながらそう言った。私は黙って少し翳りの見える比良の山並み
を見ていた。霞みにその山肌がおぼろに見える。中腹までせり上がった緑がまだ残る
クヌギやコナラの褐色の色と混ざり合い春と冬のせめぎ合いをしている。
だが、それもあとわずかだ。もう1ヶ月もすれば、山は緑が占拠し、夏に向けてその深さを増していく。
不意にその色が暗転した。想いの中に秋が現れた。芒の穂波が吹き下りる風に逆らうこと
なく右に傾いている。透きとおる空の青さに金色に輝き、すでに緑の強さを失った山並みを
遮るように日を一身に浴びていた。私のそのさざめきにいた。
大きく開いた鼻腔から秋の様々な香りが一気に流れ込んできた。刈り田の香ばしい香り、
薄紫に彩られた煙が吐き出す枯れ葉を焼く匂い、そこに割り込むように冷気を含んだ清涼な空気、
それは春の香りとは対極にある。制御しきれない生き物の力ではなく、自然からのすべての
力を与えられ自己完結したという満足の心根の香りだった。

「親父が1年前の今頃死んでね。その時に思ったんだ。春に死は似合わないとね。
老いて死に行くものにとって周りがどんな季節かなんて気にしないだろうけど、
残りそれを見届けるものは違うよな。それにふさわしいのは秋だよ」
私は少し驚いた。思えば、私が秋を好きになったきっかけは父の死だった。
それも秋が四方を深く支配している時期であった。父の家は山端の木々に抱かれる様に
静かにたたずんでいた。久しぶりの帰郷であったが、家は茅葺きにそのままの姿を保ち、
白木にしつられた棺を開けて見た時の父の白く穏やかな顔が煤で黒くなった柱や梁に
映えてひどく美しく見えた。出棺の前の一時、枯葉に覆われた雑木林を1人で歩きまわった。
かさかさという枯葉を踏み鎮める音と、葉の落ちた木々から射し込む薄日の橙や
黄色味を帯びた光、その間を囀り飛び渡る鳥たちの声、それらが一体となって私を
数10年前の世界へと引き込んだ。褐色の艶やかな肌に柔和な笑いを見せていた父がいた。
それにまとわりつき時に枯葉にうずまるような仕草を盛んに繰り返す私がいた。
遠くで母が何かを叫んでいた。だが、その透き通った空気にまず母が消えた。
そして今父は声なき身体となって棺に身を横たえている。哀しみより心の安らかさ、
雑木林の秋が私を癒してくれた。

「俺は、やはり秋が好きだな、心の安らぎが得られる。特にこの歳、このような世の中ではね。特にね」
春に傾きかけた心根を内に閉じ込めた。
「親父の時の想いはあるが、まだ俺は春がいいね。このわき立つような空気と人が
醸し出す生への想いは捨てきれないね。まあ、死がなんとなく俺の周りに見えたら考えが
変わるかもしれないけどね」
私は冷めたコーヒーを一気に飲み干した。その苦さが彼の言葉とともに心に落ちた。

循環する季節と人の心根、時は直線的な歩みのようでいて、そうではない。
それは己の歳の積み重ねとともに、強固に私の心に棲みついてきた。
1年後にも同じ思いが私を離れずに少し色褪せたような色合いで私の心を彩っている。
それは、棚の上にそのまま置き忘れられ、埃を被った茶碗のようでもある。
循環は人に安心と安寧を与える。それを味わえるのが老いの特権でもあり、
直線的時の流れを堪能できるのが若さの強みである。春は生がわき目もふらずに
ただ進むだけのものにとっての季節なのだ。秋は過去の己を見、少し先の我が身を
見ることに喜びを見出すものの季節だ。
私はやはり秋が好きなのだ。

2018.03.19

取り残された老人たち 続き

翌朝、少し二日酔いの頭を抱えながら散歩に出た。晩秋の朝は空気が透明だ。
足元からかさかさという小気味よい音調が聞こえてくる。銀杏並木の銀杏の葉も
半分ながら美しい黄色の模様を見せている。黄色の世界とその途切れた合間に
顔を出す葉の落ちた枝がまるで老人のやせ細り干からびて皺の寄った腕に見える
その寂しげな姿に快い銀杏の調べとともに喜悦と寂寥の想いを感じる。

暫く歩くと急な坂の向こうに湖が静かな面立ちでこちらを見ている。湖の手前の街並み、
細い波縞を見せる湖、更に対岸の薄緑に映えた山の幾つかの影のような立ち姿、
その奥に頂を白く輝かせている山並み、それらが一つのキャンバスとなって優雅な
自然画を作り出している。時にその情景を勘違いする。それが道を遮る一枚の絵画と
思わせるからだ。そしてその絵の中に窮屈そうな姿勢で歩いている人影を見る。
横に介添えのためであろうか、お婆さんがしきりに彼に何かを言っている。
時にその二人連れをよく見るが、その光景にほっとする自分がいた。母は早くに死に、
父は元気に自転車に乗っていた時に車にはねられて帰らぬ人となった。
介護すべき年寄りが早くに自分の周りから消えていた。しかし、最近はあの光景は自分の
それではないかと思うことが多くなった。「老醜」という言葉が苦みを持って胃から口へと
せり上がってくる。それは、自分にとって、死と同じだ、と思ってきた。

それは果てしない砂漠を歩くかごとき思いで、何時頃かという時間感覚さえ分からなくなる
ほどの長さを持っていた。では、死とはどういうものなのだ。昨夜の酔いの中での色々な
ことがあの焼き鳥や囲炉裏の薄い煙の中に浮かんできた。誰かが、死んだらどうなるのだ
と少し感傷的な気持ちを酔いの中に吐露した。皆の頭に半年前に心臓発作に倒れ、
二日後に帰らぬ人となったZの丸坊主の顔が浮かんでいた。誰もがその想い起こす
時間には差があるだろうが、白い棺の中に横たわり、白衣をまとった自分を見ている。
またそれを棺の黒枠が邪魔だと思いつつ下から見上げる自分を思っているかもしれない。
死とはその程度のものと思う自分がいた。

昨夜の焼き鳥や安酒の匂いが湖を渡ってきた風に消えたころ、少し汗ばんだ気持ちが
我が身を反転させた。湖から家まではかなり急な坂道がある。そこを太陽に背を押される
ように上り始める。足の苦しみが少しづつ腰から胸、そして頭へとその歩みの高まりごとに
せり上がってくる。二十年以上の不可解な想いが浮かんでくる。「なぜ、こう苦しんでまで
湖まで歩いてくるのか」と。

家の扉が油の切れた不細工な音を上げる。そこは死の世界の入り口のような趣を持って
彼を出迎える。疲れ切った身体を一番手前の椅子に預ける。二十畳ほどのリビングに
どんと据えられた大きなテーブルが斜めから射しこむ朝日の影を黒く太い線を床に
描いている。かって、さざめく五人の声、五人の猫たちの鳴き声、時には口をカチカチと
歯音でなく犬、更にはボリュームいっぱいのテレビの音、小宇宙の如き小うるさい
世界がそこにあった。しかし、時の流れは音もなく流れ、先ずは一,二人と息子が消え、
猫たちも二人が消えて行った。さらにまた一人息子が消え、猫も最後の一人となった。
そして二年前、最後の人であった妻も遠くへと逝った。犬も消え、この老人が一人
まだ残っている。

彼の目の前には、ビロード様な真っ赤な花と艶やかな深緑の葉を持った薔薇が一輪あり、
大きな樫の木のテーブルで焔のような姿形を見せている。そのプリザードフラワーの
薔薇は半年ほどその姿を変えずに、彼のコーヒーを飲む時の伴侶のようでもある。
いつまでも変わらずに保ち続けるその姿に彼は一種の憧憬を持っていた。時には、
朝日の射しこむ白い光の中でそれを味わい、やがてポーチに長く赤く引く光が見え
始まってもそれに見入っていることもあった。
そこでは、時が止まっていた。

時に、妻が横でにこやかな微笑を見せているときもあった。彼は思い出す。主治医に
「亡くなった」といわれたが、その手がまだ温かく柔らかな手であったことを、そして妻は
「死に行く」のだとも思った。たしかに納棺された彼女の手は冷たく硬かったが、これが
彼女の死とは思えなかった。人は生まれ落ちた時から死に向かうと聞いたときの気持ちが
蘇った。生と死を明確に分けることは出来ない。そんな単純な思考とは思えない。
現に傍には、妻の呼吸が、匂いが漂い、一緒にコーヒーを味わっている。死に行くものの
妻は生という中にまだいる。それは、彼の心の中に同居している生かもしれない。
だが、それを感ずる人間にとってどうでも良いことなのかもしれない。
死が外生的な事象であってもそれが内生的な事象と全く同期化している必要はない。
外生的な死を認めても内生的な死が己に存在するのであれば、その死ですべてが
終わったとは言えない。冷めていくコーヒの薄く消えかかった香ばしさと湯気が彼を
見つめている。

庭の木が一斉に左へ傾いた。ごうという音が大きなガラス戸を揺るがし、流れ去って行く。
枯葉が数枚錐もみのような運動を見せ、そのガラス戸に当たるとそのまま張り付き残った。
いくつもの枯葉が私をのぞき見ている。斜めに首をかしげる様な仕草、直立不動の一寸
の乱れなき兵隊の整列のように、そして転寝の私の姿のままに、様々な姿形を直線的に
伸びる光に浮き上がらせている。私は所在なさげにそれに見入っている。
春から夏へ、秋へといつもの変わらない日々が変わらずに過ぎ去った。生ぬるい日、
格別な苦痛も苦悩も心配さえない日、絶望もない日々だった。悪い日と言えば、寝不足の
せいでひどく頭痛があったことぐらいだ。テレビの映像も右から左へと流れる川のように
私の心の襞に一片の傷も喜びも残さず、流れすぎていく。

少し前であれば、この平板な単調な日々を、これこそ究極の幸福だ、と言い切ったものだが、
今はそれに苦痛さえ感じる。しかし、いつごろからか時間という感覚が薄れ行き、それに
幸福感を感じる自分がいた。椅子に座り、ふと気づくと時計は12時を指していたり、
何かの音を聞いてまた時計を見ると短針が5時のところにあったり、やがて時計を
見ることさえなくなった。そこに嬉しささえ覚えた。日の明るさが私の時間感覚を占め始めた。
起きることが陽の強さを感じるままになる。やがて部屋が日に満ち、それが弱くなり、
薄赤や橙の色を帯び始める。そして拡がる闇に追われるように夜の食事となる。
曇りの日は少し厄介だ。光の変化が感じられないと私はテーブルに座ったままで夜の
暗闇をむかえる。そんな時、時間もまた私と同様に死んでいる。死ぬべき連れが1人
増えたのだ。

またある停電の夜、私は不思議な感覚を覚えた。その日も朝からテーブルに座っていたが、
夜になって街の明かりがすべて消えた。時間が無くなったような生活でそれがいつまで
続くのかという心配はなかったが、その日は一向に周囲の家並みを見ても明るさが
戻ってこない。指の感覚はあるものの、それが本当に指なのか目で確認することが出来ない。
座っている椅子の感覚はあるが、それが本当に椅子なのかわからない。どのくらい経った
のかもわからない時、少しづつ身体が周囲の闇の中に溶けだしていく。指が溶け、
足が氷が溶ける時のように少しづつ闇に吸収されていく。心は生きている感覚を
保っているが、身体は徐々に自分から離れ、青白く光る心がそこから遊離して部屋の中
を彷徨い始めたのを見た。この青白いものはどこに行くのだ。そんな気持ちに囚われた。

俺はこのまま死の世界に吸い込まれるのか、生まれ変わって別な人生を生きられるのか、
そんな淡い期待と想いが頭の中を浮遊していた。「もう十分に生きた。死んでも悔いは
ない」と息子たちに言ったときの晴れがましい顔が浮かんだ。
しかし、徐々に体が震えはじめた。溶け行く体なのだからそんなはずはないと思いつつ、
身体は制御できない機械のように勝手に振動、震えを起こし、やがてテーブルも震えた。
「俺はまだ死にたくないのだ」そんな本音が体から滲み出し、彼の偽りの懺悔をさせている
ようでもあった。昨夜のAとCの顔が浮かんだ。彼らを羨んだ。俺には、この無音と暗闇の
世界で生きていく自信はない。

夫婦というものが、たとえそれが形だけ、偽りのものであっても傍に誰かがいるということは
幸せなことなのだ。だが、彼らはそれが幸せだとは思っていない。幸せもさらには、
時間も己の心の世界で作り上げるものだ。
突然光が彼を包み込んだ。ガラス戸の中に真っ白な髪に薄くなった眉毛と腫上ったまぶたの
男がいた。その彼はテーブルにしっかりとしがみ付き、地獄からの使いにでも抗うような
姿勢でもう1人の老人と向かい合ったままだった。
やがて彼はゆっくりとテーブルに、それは枯れ木がその根元から折れ、庭に倒れるかのように、
うつ伏せに倒れ込んだ。その傍には、妻が微笑みながら彼の薄く白くなった頭を静かに
撫でていた。彼の顔もまた幸せそうな微笑に包まれていた。

2018.03.03

星になった猫その2

また、ある時には突然神の話をし始めた。
「遠い昔、本居宣長という人が「古事記伝」に「神」の定義を記したという。
「さて凡て迦微(かみ)とは、古御典等(いにしえのみふみども)に見えたる天地の
諸の神たちを始めて、其を祀れる社に坐す御霊をも申し、又人はさらにも云わず、
鳥獣木草のたぐひ海山など、其余何にまれ、尋(よの)常ならずすぐれたる徳の
ありて、可畏き物を迦微とは云ふなり、(すぐれたるとは、尊きこと善きこと、
功しきことなどの、優れたるのみを云に非ず、悪きもの奇(あや)しきものなども、
よにすぐれて可畏(かしこ)きをば、神と云なり、さて人の中の神は、先づ
かけまくもかしこき天皇は、御世々々みな神に坐すこと、申すもさらなり、其は
遠つ神とも申して、凡人とは遥に遠く、尊く可畏く坐しますが故なり、かくて
次々にも神なる人、古も今もあることなり、又天の下にうけばりてこそあらね、
一國一里一家の内につきても、ほどほどに神なる人あるぞかし、さて神代の
神たちも、多くは其代の人にして、其代の人は皆神なりし故に、神代とは云なり、
又人ならぬ物には、雷は常にも鳴る神神鳴りなど云へば、さらにもいはず、
龍樹靈狐などのたぐひも、すぐれてあやしき物にて、可畏ければ神なり、
,,,,,,,,,,,,

又虎をも狼をも神と云ること、書紀万葉などに見え、又桃子(もも)に
意富加牟都美命((おおかむつみのみこと)と云名を賜ひ、御頸玉(みくびたま)
を御倉板擧(みくらたなの)神と申せしたぐひ、又磐根木株艸葉
(いわねこのたちかやのかきば)のよく言語したぐひなども、皆神なり、さて又
海山などを神と云ることも多し、そは其の御霊の神を云に非ずて、直に其の海をも
山をもさして云り、此れもいとかしこき物なるがゆゑなり、)抑迦微は如此く種々にて、
貴きもあり賤しきもあり、強きもあり弱きもあり、善きもあり悪きもありて、心も行も
そのさまざまに随ひて、とりどりにしあれば(貴き賤きにも、段々多くして、
最賤き神の中には、徳すくなくて、凡人にも負るさへあり、かの狐など、怪きわざをなす
ことは、いかにかしこく巧なる人も、かけて及ぶべきに非ず、まことに神なれども、
常に狗などにすら制せらるばかりの、微(いやし)き獣なるをや、されど然るたぐひの、
いと賤き神のうへをのみ見て、いかなる神といへども、理を以て向ふには、
可畏きこと無しと思ふは、高きいやしき威力の、いたく差(たが)ひあることを、
わきまへざるひがことなり、)大かた一むきに定めては論ひがたき物に
なむありける」(「古事記伝」三)より」

猫はその話に興味を持った。「誰でも神であり、神になれる」それが呪文のように彼の
頭を支配した。見えぬ世界、明日の世界を見通すことが己の神としての証であり、
万人をこの汚れきった穢い世界から解き放つことが使命であると確信した。
独断と偏見に満ちた世界から身を隠し、聖霊無垢な身体とならねばとの想いが日増し
に強くなった。もっと歳を重ねれば、老人の話していた猫多羅天女になるのでは
という怖れも感じていた。
若い猫は春の光に触れ、夏と秋の空気に生きモノとしてのエネルギーを発散し
始めていた。それは冬になってさらに増した。彼の毛並みからは冬の寒さに
負けない温かな空気が漏れ出していた。そして少しづつ自分の意思が育っていった。

特に彼は夜が好きであった。猫は夜目もあまり効かず野生の動物の多い所へは
出向かないものだが、彼はむしろ、昼間に猫たちと顔を合わすことが苦手であった。
それぞれの縄張り争い、牝猫の取り合い、単なる喧嘩、そのすべてを毛嫌いした。
それを少しでも避けるためには昼間は老人の横で夢の世界に入っていたかった。
多くの猫がたえず寝ているのには理由がある。彼らは、日頃の自分の想いや
願望を夢の中で実現させている。嫌な近所の猫や悪さをする人間たちに夢の中で
仕返しをしているのだ。現実の世界で彼よりはるかに大きい体の猫や人間に
対して時の大きくなったり、また別な日には俊敏な身のこなしの猫になったりして
相手を打ち負かす。その時に見せる彼らの哀願の姿に満足する。夢の中では、
何でも出来た。天に上り神のごとく振る舞うことに生きがいを感じる者、空を自由に
飛びまわりその快感に酔いしれるもの、綺麗な牝猫と一緒になって生まれた自分
の子をかわいがるもの、だが、眠りから覚めた時の失望感は夢の中の大きさに
反比例して彼らをまた夢へ音と誘い込む。それは、アヘンや麻薬によって徐々に
身を滅ぼし行く人間の姿にも似ていた。彼は他の猫とは少し違っていた。
夢の中の自分に嫌悪した。失望もした。

しかし、ある日ふと気が付いた。彼の上に黒く拡がる世界があり、そこに瞬く多くの
星がいることを、そして何故か彼を呼ぶ声が聞こえてきた。何故、俺はこの小さな
忙しい世界に生まれたのだ、と思った。大きくその丸い姿を絶えず変化させている月
という星は何と幸せな奴だとも思った。同時に、そのやせ細った時の姿やどこかに
掻き消えた時には、その不幸に喜びを覚えた。特に冬は今まで隠れていた星たち
を地上の彼にさらすかのように何倍にも数を増やして彼の上に立ち現われさせた。
その不可思議な力を羨望もした。
あの空の星になれば、神にもなれる。そんな想いが一段と強まった。

そんな折、山の麓の農家に住んでいるという物知りの老猫に出会った。彼は、すでに
三十年以上も生きていた。彼は人間の持つ知識と知恵なるものに興味を持ち、会うたびに
その知恵を彼に教えた。星たちの話もその一つであった。それは彼に大いなる興味を
持たせた。また、彼の話す人間たちの昔話は、彼に想像力という別な力も与えた。
天上にいる神という存在や凡ての草木、川や湖、には神が宿り、星たちにもそれぞれの
神がいるという。だが、彼にはそのどれ一つも見えなかったし、触ることも出来なかった。
老人はただただ座ったり横になっていたりするだけで彼に何も与えない。姉も笑うだけで
直ぐに立ち去る。そんな毎日が続くが、彼の思いはただ時の波間に漂う漂流者の如く、
一年、二年と春の温かさ、夏の暑さ、秋の涼しさ、冬の寒さが繰り返すだけで
当てのない日々の中で過ぎていった。その間でも、老人は相も変わらず無為な毎日を
過ごしつづけている。そしていつしかあの優しかった息子のことは忘れ、人間とは
このような怠惰な動物なのかと考えた。そして三年目、俺は人間よりも優れていた
神なるものと思い始めていた。しかし、物知りの老猫は彼をきつく叱った。
それでは人間と代わることがない。ただ、お前が天に上り星になりたいのであれば、
自分の影を食らいなさいと、と言った。影がお前をこの地に未練を残させ、
たえず目の前のことに執着させていた。彼は悩んだ。その方法が分からなかった。
老猫に再び問うた。
「どうすれば、影をくらうことができる」のかと。老猫はいとも簡単そうに彼に言った。
近いうちに太陽が昼間に消える時がある。人間が皆既日食と呼ぶ時だ。その時、
地上を支配する自然のすべての力は弱くなり、影を食らうことができる。やがてその時が来た。
かれは老猫の言う通りにした。太陽が元に戻っても、彼の影は消えたままであった。

その日は凍てつくような寒さの夜であった。細く光る弦月の光を浴びて山端を囲む緑は
底深く見えた。星の群れが信じられないほどの数で黒く抜けた空の上に輝き、空はますます
夜の色を深めていく。静寂と銀砂の輝きが見事な調和を成して彼の周りにあった。
彼の仰いだ先には、天の川がその悠々たる流れを見せ、少しでも気を緩めると体が
ふうと浮き上がっていくようだった。山の頂まで上がると、天の川が一段とその明るさを
強め、彼をひとすくいし、その流れにその身体を沈めてくれた。あたり一面が光に
満ち溢れ大きな球体の群れが夜の緑と暗闇の大地を包み取るほどにすぐそこに
降りてきていた。目がくらみ何も見えなくなった。恐ろしいほどの強さを感じた。
自分の姿が大地から天の川へ写し取られ、無数の星が銀砂の輝きをそのままに
1つ1つ見えるばかりでなく、澄み渡る天の川の底なしの深さにただ無感覚に存在する
自分がいた。

蒼い球体が目の前に浮いていた。光りの細かな網に覆われている蒼い球体、
地球であった。その網は橙や黄色、赤紫の色が点滅し生き物のような鼓動さえ
感じられる。すでに先ほどまでいた頂は蒼い球体の中に沈み、青白い光と薄ピンクを
帯びた雲の中に消えていた。
ぽっかりと空いた穴のような暗く沈んでいる表面、白く輝き平板な姿を見せる
だけのところ、それは砂漠だった。それらはゆっくりと彼の前から動いていく。
気が付けば砂漠を黒いものが彼と同じ速度で進んでいた。よく見れば、自分の
影であった。失った影が独り歩きして、表面を、地上を歩きまわっていた。
蒼い球体は彼の前から次第に遠のき、やがて小さな光となった。
大地に川がその流れを作り、川辺に多くの生きモノを育むように天の川も様々な
星や星の群れを作り出していた。赤や黄色味を帯びた小さな花一輪の如き
プロキシマ・ケンタウリの星や光り輝く渦を形成しているアンドロメダ銀河、
さんかく座銀河、おとめ座銀河団、おおぐま座銀河、ろ座銀河団、しし座銀河、
かじき座銀河が時にその優雅な姿を見せつつ彼の横をゆっくりと過ぎていく。

それは彼が地上で見ていた姿を遥かに凌駕し、想像のできないほどの多さと
大きさを持っていた。既に彼もまたその中のごくごく小さな星となっていた。
暗闇と光る球体の間を彼はいつまでも漂流を続けた。それは終わりなき旅であった。
彼は失望していた。地上で老猫から聞いたときの熱い感情は薄れ、この変化
なき時間を呪った。彼は地球という小さな星のことを思い起こすことが多くなった。
時折、あの老人の変わらぬ姿形が何故か思い浮かんだ。老人の放っていた
優しさと温かさに包まれいた時の心地よさが黒く輝くこの雲上の世界でも感じられる。
そして思い至った。老人こそが神ではなかったのか。神がどんな姿をしているかも知らず、
ただ目に見えぬものへの憧れ、未知なるものへの期待から発した願望が如何に無意味
なものであったか。あの老人は、日々変わり行く世界の中で己を全うしながらも、
たえずその中に見える智慧を感受しようとしていた。絶えることなきその行為こそが
彼を現存の彼ではなく一歩進んだ彼にしていた。理の世界へと彼を導いていた。

2018.03.02

星になった猫その1

その猫は息子を亡くした老人に飼われていた。飼われていたというよりも老人の
傍で過ごしていた。老人は息子が死んで以来他の人間とは一切口を利かず、日がな
一日、ただ遠くを見つめているだけの生活を送っていた。世話は近くにいる姉が
していたが、元来丈夫な老人は、毎日の食事だけを持ってくればよかった。
猫は、息子が路地の奥で段ボールに入れられていたのをたまたま見つけ、不憫に
思い家で飼ったのだった。優しい息子は慣れないながら、生まれたての彼の食事から
排泄の世話までした。だが、その彼も猫がまだ数か月しか経たないうちに交通事故
で死んだ。幸い猫好きであった彼の姉が老人の傍から離れない仔猫を哀れんで、
食事だけは老人の食事を持ってくるときにおいてくれた。猫も老人の傍で、これも
日がな一日寝ていればよかった。老人は春には縁側で咲く花を愛でて1日を満足し、
夏は風通しの良い木陰の下で風音を聞きながら日がな天と山の緑に感激し、秋は
実りの穂で揺れ動く畑の脇でその香りを嗅いでいた。やがて木枯らしが吹き始めると
炬燵に埋もれるようにちょこなんと座ったままで風の音に耳をそばだてた。彼は木枯らしの
強弱のある音が好きだった。白く映えわたる障子に映る葉影に目を添え、その葉擦れの
音に聞き耳を立てる。天を揺らし地上を駆け抜け木々にぶち当たって違う方向へと
流れ去るその音の変化に身体を左右に揺らす。それは風が老人を動かしている様
にも見えた。若い猫も炬燵の上で老人と向き合い香箱を作る。老人と猫とも、双方
動かないでじっとしている。冬はその光景が春の兆しが見えるまで続く。時折、老人が
障子を少し開けると雪が銀箔のごとく庭に舞い、四方の木々を白く染め上げていくのが
見える。老人は目を細め、頬を少し緩めてそれに見入っている。

ある時、老人が猫に言った。
「お前もそろそろ人間の言葉を理解できるはずじゃ。わしの言葉を時に聞いておくのも
お前に役に立つはずじゃ」
それから老人は気の向いたときに、猫に昔話や神様の話を聞かせた。
「昔、越後の弥彦神社の末社に猫多羅天女(みゃうたらてんにょ)の髪というものがあった。
これには言い伝えがある。佐渡ヶ島の雑太郡小沢に一人暮らしの老婆がいた。
腰は曲がり足は弱り、畑を作って生活するのにも難渋する様子だった。ある夏の夕方、
裏山に上がり涼んでいたところ、一匹の老いた猫が現れた。見慣れない猫だったが
老婆に寄ってきて足元に戯れた。「これでも食うかい」。老婆は昼の残りの飯一握りをやった。
猫は旨そうにそれを平らげた。 翌日。
「こう暑いと参ってしまうよ」
また山の上で涼んでいたところ、あの猫が現れた。
「今日はもう飯は無いよ」
すると猫、しばらく老婆を見ていたかと思うと、砂の上に臥し転んで、あっちへころころ、
こっちへころころ、さまざまに不思議な遊びを始めた。そのさまがとても面白かったので、
老婆は立ち上がると、砂の上に転がり、猫を真似てみた。
「おお、涼しいじゃないか。心地よい心地よい」
しばらく同じように転げ回っていたが、不意に猫は立ち去って行った。
老婆は砂を払いながら、
「また来なよ」と言うと山を下りた。
「なんだか身が軽くなったような気がするよ」
その翌日も山の上に行ってみた。すると既に猫がいて、転がり始めた。老婆も砂の上に
臥し転び始めた。小一時間もすると猫はまた不意に立ち上がりどこへともなく去って行った。
老婆は立ち上がって驚いた。腰は伸び、足も強くなったように感じた。
「これはどうしたことかね」
村人たちは浮かれて下りる老婆の様子を不思議そうに眺めた。
また翌日、さらに翌日と何日も何日も老婆は山に上っては、猫と戯れた。まるで
取り憑かれたかのように砂の上を転げ回り、そのたびに肌の皺はなくなり、歯は生え揃い、
目も良くなり、若返って行った。
「婆さん、毎晩どこへ行ってるんだね。」
行きがかりの村人が声をかけても、にやにやと笑うだけで、まるで飛ぶように山道を走り去った。
これはおかしいということになり、遠縁にあたる男が老婆のもとを訪ねた。
「婆さん・・・それはどういうことだい」
男は絶句した。目の前に現れた老婆は壮年のごとく若返っていたが、目はらんらんと
輝き、歯は鋭く、爪も長く尖り、
「どうにもこうにも楽でしょうがないよ。」と言った。
男にひとしきり猫のことを説明すると、頭をかいた。すると、白髪の束がわさっと抜け落ちた。
「それは化け猫だ。婆さん魅入られたんだよ。一緒に家へ行こう」
「なんだって、あれを悪く言うのかい!こんなに元気にしてくれて、私や感謝してるんだ」
「お前なぞ何もしてくれやしなかったじゃないか。私は爺さん亡くしてそれはそれは大変だった。
毎日が辛くて辛くて、早くお迎えが来てくれないかと神さんにお祈りしてた。それが」
落ちた髪の毛の下にはびっしり細かい毛が生え、目元にはみるみるうちに隈取りが現れてきた。
「今はもう何も辛いことはない。何も食べなくても元気がわいてくる。もう今にでも空にとびあがれそうだ」
と言うと縁先から外へ駆け出した。男は止めようとして縋るが、怪力で振りほどかれた。
老婆は地を蹴った。そしてぽーんと飛び上がると、山やま、家いえの上を跳ねていった。

村人たちは肝を潰した。
「婆さんをなんとかしなければ、今に悪さをするに違いない」
「そうだ。婆さんはもう化け猫に取り込まれちまったんだから」
「捕まえてぶち殺してしまえ」
村人たちは大きな網をこしらえ、天高く掲げて捕らえようとするが、婆はさらに高く飛び、
大笑いしながら跳ねて行った。
「家で待ち構えよう」
夜になり老婆が家に戻ってきたのを確認すると、村人たちは火をつけた。
えんらえんらと燃え上がる家の中から、修羅の形相の老婆が現れた。
「私は何もしていないのに、なぜこのようなことをするか」
半ば猫と化した凄まじい姿に見る村人みな驚き、気絶する者もいた。老婆は火をもの
ともせず家から出ると、地を蹴って虚空へ飛び、消え去った。
すると空一面雷動し始めた。土砂降りになり村人は散り散りに逃げた。
山は片端より崩れ川の数々ははんらんし、洪水で家々は流され畑は潰されていった。
村はおろか島中が大荒れとなった。朝には見るも無惨な景色が拡がった。
朝日さす雲間に巨大に膨れ上がった化け猫婆の顔が現れた。婆はさらに大きくなり、
佐渡ケ島の空を覆い尽くした。
「もはや島に用は無いわ」
大音を轟かせると、毛だらけの右手を上空に伸ばした。それは海を越えて越後の空
まで到達した。やがて雲を一ひねりしては各地に雷雨を落としてまわり、侍もただただ
恐れうろたえるばかり。弥彦山あたりの里人、かねてより「妙多羅天女」を信仰していたが、
天空に拡がる婆とそのふるまいを見てこれは天女の怒りであると確信した。
里人の頼みを受けた社の神主、
「まさしく猫多羅天女(ミャウタラテンニョ)である。髪の毛を取り寄せて崇めん」
と託宣し、佐渡のかの地より取り寄せるよう指示した。果たして婆の親族が髪の毛を保存
していることがわかり、何とか取り寄せて社にまつり祈ると、天空の婆は俄かに
すーっと姿を薄くし、やがて消えた。以後その姿を見た者はいない。
ただ、年に一度、佐渡ヶ島じゅうを揺るがす雷鳴が轟くようになった。
これは猫多羅天女のせいだとされた。
どうだ、猫もなり様に寄っては神の如き存在になることもある。だが、その力をどう使うかは
その猫次第じゃ」と言ってまた寝てしまった。

2018.02.22

ライフサイクル最後のステージを迎え、2000年代を振り返る。

書斎から見る外の景色が少しづつ黒い幕を押しやるように目の前にその朧げな形を
見せつつある。比良の稜線がその強さを増しつつ青味がかった空に太く琵琶湖に
沿ってなだらかな曲線を描きはじめる。薄い雲片がやや赤味を帯びて比良の山並みに
集い、里山の黒味の緑もその艶ある緑に一段と深めていく。
思えば、すでに老年期を越した私にとっても、D.レビンソンの言う「児童期と青年期
(0~22歳)」にも見えてくる。また、琵琶湖が赤く照り映えはじめ、比良の山並み
が濃厚な蜜柑色に彩られる情景もその力強さから同じ「児童期と青年期(0~22歳)」
に感じる時もある。人の心は無常だ。目の前の情景が同じであってもそれを感じる心に
変化があると見るもの、感じるものへの心根に残る姿も変わる。

20年ほど前にここに移り住んだ2000年代「中年期(40~65歳)」には、朝の湖
の情景に自分の想いを馳せていた。確かに今眼前の情景が自身の世界でもあった。
人のライフサイクルについては、他にも色々な考えがあるが、例えば中国の古代思想
「五行説」には、少年期(~19歳)は黒い冬(玄冬)、 青年期(20歳~)は 青い春
(青春)、中年期(40歳~)赤い夏(朱夏)、老年期(60歳~)は、白い秋(白秋)
ともある。各段階の境目には5年間の「過渡期」がある。少年期は「厳しい冬」、老年期は
「人生の収穫を楽しむ秋」ということになる。老年期となった今、この朝の情景は憧れ
の1つになりつつある。

2000年代、90年後半に始まったネットバブルの狂騒であったが、2000年
には早くも消えつつあった。アメリカのそれとは違い、中身が伴なっていなかった。
さらには、2001年9月11日のテロという名の惨劇であった。それからの世界は
流動性が一層増したようにも見える。また、日本でもその社会全体の動きは、最新の
厚生労働白書を見ると面白い。ここでは、若者の仕事に関する意識は2000年を境に
大きく変化したことを言っている。日本社会の本質的転換点だったのかもしれない。
厚生労働省は2013年9月に厚生労働白書を公表した。そのテーマは「若者の意識」
で、若年層の雇用環境や職業意識などについて様々な考察が行われている。

その中で、働く目的に関する長期的な調査の結果が非常に興味深い内容となっている。
新入社員に対して働く目的を尋ねたところ、2000年までは一貫して5%程度しか
なかった「社会のために役に立ちたい」という項目が2000年を境に急増、
2012年には15%まで上昇した。また「楽しい生活をしたい」という項目も
2000年を境に急上昇し40%とトップになっている。
これに対して「経済的に豊かな生活を送りたい」「自分の能力をためす生き方を
したい」という項目は、逆に2000年を境に低下し、現在は20%程度まで落ち
込んでいる。最近の若者が賃金にはこだわらず「社会の役に立ちたい」「楽しく仕事を
したい」という傾向を強く持っていることは、各種調査などですでに明らかになっている。
だが2000年を境にこうした意識の変化が急激に進んだという事実は、長期的な統計
を見ないとわからないものである。

2000年代こうした日本の閉塞感が顕在化してきた年といえるのかもしれない。
老年期となって狭い出窓の先にある風景は変わらないかのようであるが、中年期の頃
自身には見えていなかった。
例えば、2000年前後には、ベンチャー企業ブームがあったり、構造改革の機運が高ま
るなど、日本の高い成長にまだ大きな期待が寄せられ私自身も多くのビジネスの仕掛けを
していた。

人のライフサイクルもその環境変化に大きく左右される。
特にその顕著な例が2000年前後から急激に社会に浸透はじめたインターネットの
影響であろう。「フラットな世界」という本にその概要が描かれている。
1990年代後半からのインターネットの進化を踏まえて、トーマス・フリードマン
が2005年に発刊している。そしてこの世界は更に深化している。
グローバリゼーションが広まり、世界がフラット化しつつある要素には、10項目
があると言っている。フリードマンの指摘は更に深化して社会、政治、経済まで
大きく変わりつつある。

D.レビンソンの言う私が過ごした2000年代「中年期(40~65歳)」もその
埒外ではなかった。ビジネスの世界では、50歳後半はすでに老年期とみなされ、
「年寄り不要論」が喧伝されていた。
しかし、60歳後半の人間になった老人として我が自然から感じることもある。
それは、満月の光に輝きを持って横たわる琵琶湖を見る時だ。
泉鏡花の瓔珞品(ようらくぽん)にその情景がうかがわれるが、
「水を切る船端の波の走るのが、銀を落とすと、白い瑠璃の階きざはしが、
星を鏤めてきらきらと月の下へ揺れかかって、神女の、月宮殿に朝する
姿がありありと拝まれると申します。」「霜のように輝いて、自分の影の
映るのが、あたらしいほど甲板。湖水はただ渺茫として、水や空、南無竹生島
は墨絵のよう。御堂の棟と思い当たり、影が差し、月が染みて、羽衣のひだを
みるような、、、、、、、、、
と夜の湖水を表現している。まさにその光景が見えるのだ。
老年期という時期を迎えてもこの光り輝く情景はそれを見る眼を持つ者にとって
朝の力強い情景にも見えるのだ。
それをこの地の自然がそれを教えてくれている。

2018.01.14

不思議な世界その4

しかし、その動きは突然止まる。
一瞬の静寂が四方を取り巻くが、それも束の間にまた動き出す。初めはその急激な動と静に
その場に立ち尽くしたままであったが、やがてそれがい体のリズムを持っていることで安心した。
だが、それも一刻のことで赤く照り映える光の中で先端の球状が崩れて網目状の袋のような形
になっていく。小さな粒子がその袋に集まり透明な袋、それはまるで薄透明のゴムの袋が
膨らんだ形で、となっていく。その袋が伸び切った管の彼方こちらで作られていく。まるで、
子を宿した母の如き優しさが周囲の空気を柔らかくしていく。彼らの子供が胞子となってさらに
その命を次へと受けつなぐための行為を私はそのただ中で見ているのだ。

黄色や灰色に彩られたカタホコリやウリホコリが周囲の草の幹を這い上がり始めるのが見えた。
自分たちの子供たちを風に乗せて如何にと奥へ広げるかを考えているようでもある。
だが、考えてみると彼らは生物ではない。この知恵は何処から来ているのだ、目まぐるしく
変化する彼らの動きは私に混乱と驚きを与えていくばかりだ。
赤い世界がその色を失いつつある中で、私はしばらく休むことにした。
これ以上の変化に身体も頭も順応できなくなっていた。

同じ背丈の茸の群生があった、不思議な気分だ。その中で横になると茶褐色の笠の下で
寝ているような気分になった。小さな胞子が銀粉を巻くように薄暗がりの僅かな光に
映えて舞っている。それは雀たちが何かの拍子に一斉に秋の刈田の上を群れ飛びまわる
雲蝦の如き姿にも似ていた。わずかの空気の流れに反応して時に渦を巻き、また広く網
のように拡がり、更に一筋の黒糸となって天に向かって伸びていく、様々な形を成して
やがて地上へと煌めきを帯びて舞い落ちてきた。その中でわたしは深く沈んだ。

暗い闇が私を包み、さらに深い眠りの世界へと誘っていった。生暖かな感触が私を包んでいた。
見れば、黄色の網のような群れが周囲の茸を包み始めていた。彼らはあるものは
キノコの太い幹をよじ登り、笠まで達するとそれもまた黄色の網で包んでいく。
私は彼らに嫌われたのであろう。私を避けるように黄色の世界が茸の林を覆い始めていた。
暫くすると茸は融けはじめ、ぶつぶつといった音を立てながら崩れ平板な塊になった。
カタホコリが摂食し、その成長を早めている。思わず私は身震いをした。
もし彼らの好みが私に向けられていれば、私も同じように黄色の網となり、やがて死骸と
なってこの地の一部になっていたかもしれない。既に先ほど見た茸の群生は
跡形もなく消え去り、黄色の平板な世界に変容していた。

2018.01.04

不思議な世界その3

しかし、目の前で起きていることを見た途端、その考えに疑問を持たざるを得なかった。
石灰化した骨が見えた。頭蓋骨の大きさから考えると鼠のようだ。でも、今の私には
象ほどの大きさに見える。その白く映えた塊に微妙な動きを見せる粘着のあるものが
蠢いている。単に自分たちを増殖させるだけでなく、動物の遺体を弔う菌もいると聞いた。
トムライカビは動物遺体の跡やその周辺の土壌にいる。彼らは、霊媒を受けた神の
担い手のような厳かな姿をしており、立ち上がった菌糸の先端が膨らみ、不規則に
空中で揺れ、時に白く輝く。その姿は、まるでその生き物の死を弔うかのように萌えたち
祈っているように見えた。しばし私は茫然とそこに立ったままだった。

その姿は神に祈りを捧げ、その魂を天に召すかのように僅かに射しこむ光に向かう。
思わず私も額ずき彼らの所作に合し、合掌した。少し暗闇が迫ってきた中を当てもなく
歩いていると、不可思議なものに出会った。そこには、同じような3つの菌筋が石の横、
枯葉の下、更には盛り上がった赤色の土に沿って奥へと伸びている。そのどれもが、
先へ先へと己が触手を伸ばすかのように動いていた。私は彼らが何を目指しているのか、
興味を持ちじっと次の行動を見守った。やがてまず、石を避けようと動いていた触手が
徐々にその動きを緩め止まってしまった。その間に、残りの2つは少し速度を速め
ながらさらに奥へと進んでいく。2つはまるで競争をするかのように互いを意識し、
その幹のような紫の管を赤地に這わせ、またまだら模様に変色しつつある葉の間を
縫うように伸ばしていくのだ。私は分かった、彼らの目指すものが少し先にある虫の
死骸であることを。

彼らがそれをどう見つけ、餌として見分けているのかは分からないが、2つがそこに行きつく
ための果敢なる努力をしていることがその動きの活発さでもわかった。
だが、競争の結果は明瞭であった。葉の下を縫うように進んでいた1筋は少しづつその
餌が遠のいていくのをしたのであろうか。これもまた徐々にその速度が落ちて、やがて
その動きを止めた。

不思議にも思える光景だ。まるで餌が見えるような動きと相手の行動の予測ができる
ような動きである。彼らには餌を見分ける能力とそれに早くいけるかの判断力があるの
だろうか。知性ある生物なのだろうか。更には、先ほどまで活動していた残りの2本の管
は急速にやせ細って消えてしまった。僅かに紫色の痕跡がその辿った跡に微かな粒子を
残しているだけだ。つまり彼らは餌への最短な道筋を見つけられるのだろう。
私はただ唖然と行きついた太い紫の管を見つめていた。そこでまた鼠の死骸をきれいな
白骨にしてくれるのであろう。

まわりは黒く沈み始めた。やがての夕刻となる。青く澄み透った空が地平線に近い所から
茜色に染まって青が茜の広がりに徐々に蝕まれていくとそれらの色が融け合い、薄墨
となってその変容を助長していく。私の周りも、透明な白く輝く世界が赤色の塗装で
塗り込められるかのように薄く輝く赤の世界から濃密な赤へと変わり行く。
そして、その赤い世界は彼らをも変身させていく。先ほどまでゆっくりと時を刻んでいた
紫の管や灰色の細管は急激な変化を見せはじめる。透き通った管を流れていた粒状物質は
その速度を一挙に早めていく。
それは人の急激な運動を起こした時の血液の流れにも似て、ドクンドクンという心臓の高まり
の音を聞くようでもあった。

2017.12.23

不思議な世界その2

そんな私の思惑とは別に目の前に出現したアメーバはすごい勢いで接合し、更に核分裂を起こし、
徐々にその姿を整えていった。糸状の変形体がまた隣の変形体に絡みつき、大きな糸状の
塊になっていく。その横では、それらが小さな頭を持つ子ダコの姿形に変身を始めていた。
あるものは黄色の光を帯びて朽木のの周りを徐々に黄色へと変身させている。私の足元では、
子ダコがさらに寄り集まって積み重なりあいながら白い球形となっていく。
これは多分、マンジュウドロホコリという粘菌だ。

斜めに射しこんでくる光を追うかのように日に映えたその輪には、茶色に細かく切り刻まれた
上に白い滴が点滅する花園が出来ていた。クビナガホコリというそうだが、確かにそうだ。
思わずそれに手を差し伸べると微妙な震えを見せた。生物ではないはずだが、その仕草は
無垢の少女の趣を持っている。スポットライトを浴びてその光の強さと自身の裸身を
さらしているという恥辱の想いが私の心を痛める。それは生物、無生物を超えた感情でもあった。
視覚対象の如何に関わらず、私自身が過去に感じた、例えば恋人の姿であったり、想いを
寄せていた人の無理強いな姿態への哀切な、想いでもあった。

この世界に入り込んで数か月、身体に変調を感じ始めていた。時間の感覚が徐々に長く
なっていく。もっとも、時間間隔は今のような分刻みの社会的な動きに適合するために作られた
ものであり、絶対的な時間は存在しない。ある人の一刻と他の人の一刻は同じではない。
時間はその個体が持つ独自の行動の早さであるとともに、相対的な社会的なつながりの
手段でもある。
私の前では、ヤリミダレホコリが褐色の太い糸を何重にも重ねながら徐々に下へと
伸ばしている。それはちょうど蕎麦をゆで上げざるに入れる様にも似ている。
やがて彼らは地上に辿りつくと次の植生する樹々へと向かい始めた。既に目の前は、
褐色のカーテンが数メートルにわたって、私の歩む先を拒むかのように覆っている。
触ってみるとその先端がぽとりと落ちた。意外とやわな奴と思ったが、その切れ端は
地面をミミズのように這い初めやがて小さな枝にまとわりついた。
その生命力、根性は確かなようだ。わずかな空気の流れが頬をかすめていく。
その微妙な動きに合すように青い球状に白い脚が一本あるタマジクホコリは地を這うような形
でゆっくりと流れすぎる。ふわりと浮き上がったままで球状の頭を少し前かがみにして
小さな流れを起こしている。

ふと、彼らはモノなのだろうか、私の知らない手段で生きている何かの生物なのであろうか、
大いなる疑問がわいてくる。生きたシステムでは様々な機能を発揮し、取り巻く環境を
センシングして、情報を処理し、移動したり、エネルギーを代謝したり、生殖したり、恒常性
を維持したり、身体を形作り感染症にに防御していくはずだ。
また、粘菌は様々な化学物質に反応するという。これは「味覚」を持っているともいえる。
さらには、臭覚、視覚、触角などの機能も持つ。まるでこの地を天上から見下ろし、
支配しているような巨大な欅の木があった。そしてその根元は金色のムシホコリが
何重もの枝分かれを起こしながら人間の神経体のような広がりを更に進めている。
彼らの拡散する速さは意外と早い。もし、彼らが私に興味を持ち、まとわりついたら、
思わず数歩後ろに下がって彼らの様子を見る。

粘菌の変形体は巨大なアメーバ様生物で入り組んだ形態や構造がそれほど発達
していないが、近くでその動く音、その吐く息、動く様を見ていると、「生きモノ」と「物
」との境目にいるというが、「生きモノ」としか思えない。

2017.12.17

不可思議な世界

彼が彼らと初めて会ったのは、雑木林の中、もう少し具体的言うと、朽ちたクヌギのゴツゴツとした
木肌の上に見たピンク色が鮮やかな楕円形の卵と思われるものだった。それが、灰色に変わりつつ
ある粗い表層をピンク色に変貌させていた。よく見れば、それらの近くには、薄紫の小さな粒子が
お互いを寄せ合うような姿形でびっしりとへばりつくように幹の半分を支配していた。
「粘菌」との出会いだ。

キノコ状、網目状、昆虫の卵状、蜂の巣状、その形はまさに千差万別であり、その色も赤、黄色、
紫、白色等多様な彩で見ているだけでも楽しさが増す。
それ以来、彼の姿を雑木林や花壇、公園で見かけることが多くなった。
たしかにお望みのものはあたらこちらにいた。-木の上、-落ち葉の上や裏、-薮の下の腐植樹皮の裏 、
樹皮を剥がした内皮の上などその小さな自分たちの世界を守っていた。

ある朝、わたしが目を覚ますとそこには不可思議な世界が拡がっていた。
朽ちた大きなクヌギが幹に黒々とした大きな穴を作り、暗黒の世界が目の前にぽっかりと口を開けて
私を招き入れようとしている。そんな様が手に取れた。私はそのまま、その穴に足を入れたが、
すぐにやめた。誰か意地の悪いのが、私の行動を試しているように思った。上を見上げれば、
遥か上、天空と呼びそうな空が青白く見える。周りのクヌギの若い木や杉の綺麗に並び立った木々
が一直線に上へと伸び、それがその青い空に丸い空間を形作っていた。

数歩後ずさりをして振り返れば、積み重なった枯葉の間に白い毛先が無数にある球形の綿毛に
似たものが見える。さらに、小片の幹の木皮が枯葉と乾いた土を覆う様に無数な散らばりを見せ、
そのどの木片からも明太子をごく小さくしたような人肌色の楕円球状のモノが直立に立ち並んでいる。
よくよくそれを見れば、昨夜私がその色艶や形に興味をもった「コウツボホコリ」という粘菌の一種
であることが分かった。粘菌もその種類は多様で、木の上にいるもの、死んだ昆虫などの身体に
生息するもの、じめじめした湿気の多い場所で育つものなどが炒ろと聞いた。
今のここには、枯葉など腐敗させ、成長していく粘菌たちの住家直であろう。小さな赤松の倒木の
上には黄色のムシホコリが網目をかけたように倒木を包み込んでいる。

一瞬それが、ピクリと動き網全体が拡がったように見えたが、多分、それは錯覚であろう。
彼らは一日に数ミリしか動かないのだから。すでに茶褐色と白く浮き出たまだら模様の枯葉を
くぐったり飛び乗ったりして先へと進む。なめこのようなヒョウタンケホコリの群生が木漏れ日の中
に茶色の艶のある姿を見せているが、周囲にはねばねの汁がしみ出し、歩くのは少し難しそうなので、
回り道をする。しかし、粘菌はこの地表の凡てにあるようで、特に小さなキノコ状のウルワシモジホコリ、
コシアカモジホコリ、キノウエモジホコリ、チョウチンホコリ、クモノスホコリ、ムラサキアミホコリなど
が行く手を阻むかのように林立している。色は概ね白系統が多いが、中にはウルワシモジホコリ
のように紫色が強い印象的なものもある。

空気の流れを感じた。人が感じるほどの強さはないが、わたしの身体を撫で、かびた匂い、
甘酸っぱい匂い、それらが入り混じった何とも形容しようのないものがすり抜けていく。
足元に小さな無数の影が私を抜き去って行く。それは朝霧の極めて小さな粒子に見えたが、
水滴のような透明さは持っておらず、あるところでは濃密な膜となって周囲を閉じ込め、別な場所では、
薄く拡散した粒子が荒く漂い、木綿の生地の様となって若い細木を包み込んでいる。
その変わり身の早さは尋常でなく、一刻も休むことなく、私の上に降り注いだかと思うと、
あっという間に吹き上がり木立の間を巧みに抜けながら蒼く光る中天の彼方へと消えた。
掌に残ったのは、柔らかな膜におおわれた円筒形のような灰色の胞子であった。

よく見れば、足元やすでに黒褐色となった枯葉の上に数層の厚みとなっている。
周囲は、灰色と褐色の土、枯葉の黒い色がまだら模様を作り出していた。だが、その模様も
時を経るに連れて、灰色のベールがその広がりを急速に強めている。だが、そのベールも
すぐに動き始め、表面が崩れ始め、ベールの破れたところから糸状のひげがまっすぐに
伸びていく。その速さは植物の若芽の伸長に似て見ていても気持ちの良いものだ。
黒い染みのような無様なところからゆらりゆらりと白く光る糸が暗さの増した林の中わずかの
光を拾いその存在を誇示するかのように伸びる。私はその不思議な美しさに思わず見とれていた。
新しい命?の誕生ななのでろうか。しかし、学者は粘菌は生物ではないという。単なる物質が
集まったシステムなのだ。

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