人生

2019.03.04

第2節気雨水(2月19日から3月4日ごろ)そろそろ春?

2節気  雨水(2月19日から3月4日ごろ)

既に3月になる。みぞれや小雪の多かった数週間前に比べると雨の降る日
が多くなってきた。確かに季節は雨水へと移りつつある。
まだ寒い日もあるが、少しづつ暖かさの断片が周りを覆うような日も
増えてきた。湖面の色も暗い群青の色から少しずつ淡い緑のまざった
青へ変化して川面もまた軽やかな幾筋もの線を描きながら流れて行く。
梅の蕾は緩み7分ほどまでに咲いている。だが、暁春の風は冬の冷たさ
を持って庭の木々を縮ませている。
目の先には、灰色の空を後景にしてこれも灰色の比良山が幾筋かの雪影
を乗せて佇んでいる。まだ比良の山並みは冬の衣装をまとっているが、
春の心地よさにその雪影を消しつつある。
ある朝、モノクロ一色の世界に少し赤みが差し始め、天空を覆いつくしている
雲をこじ開けるが如く僅かな朝陽がその峰を照らす。薄灰色の中に春の暖かさが
忍び寄り、冬の重さも軽くなる。
メジロであろうか、その尾を小刻みに震えさせながらピンクに染まり始めた
梅の木を縫うように飛び跳ねる。小鳥の飛ぶ空に薄き羽衣のような雲が
ゆっくりと湖の方へ流れて行った。春を含んだ弱い風が鳥たちを包むように
頬を撫ぜ、左から右へと吹き抜けていく。

季節をよく現しているのに、二十四節気と言うのがある。
雪が雨になり、氷がとけて川へと流れだす頃となり、街ではあちらこちらで
梅の花が咲き、風景を薄紅色に染める。春の香りが漂い始める。
二十四節気は立春から始まるのだが、今は二番目の雨水である。
その最後の候に、草木萌動(そうもくめばえいずる)2月28日頃、
草木が芽吹き始める頃とある。催花雨、草の芽が萌え出すことを
「草萌え」(くさもえ)とも言い、また、木々についても木の芽起こし、
木の芽萌やしとも言う。
春の七草や菜花、多くの山菜がその色どりを増すころでもある。
フキノトウ、ヤブカンゾウ、ギシギシ、ノビルなどの和え物、てんぷらの
顔が眼にちらつく。

二十四節気は、中国の戦国時代の頃に太陰暦による季節のズレを正し、
季節を春夏秋冬の四等区分にするために考案された区分手法の一つで、
一年を十二の「中気」と十二の「節気」に分類し、それらに季節を表す
名前がつけられている。
なお、日本では、江戸時代の頃に用いられた暦から採用されたが、
元々二十四節気は、中国の気候を元に名づけられたものであって、
日本の気候とは合わない名称や時期もあるとの事。そのため、それを
補足するために二十四節気のほかに土用、八十八夜、入梅、半夏生、
二百十日などの「雑節」と呼ばれる季節の区分けを取りいれたのが、
日本の旧暦となっている。
季節区分(各季節の始期)立春・立夏・立秋・立冬で、気温では、
小暑・大暑・処暑・小寒・大寒となる。気象では、雨水・白露・寒露・
霜降・小雪・大雪となり、物候の表現では、啓蟄・清明・小満。
さらに、農事では、穀雨・芒種となる。
特に 雨水、啓蟄、小満、穀雨、芒種には納得感がある。草花の成長、
農作業の動きが何と無く伝わってくるからだ。
冷雨が少しづつ暖かさを増し、虫や人々に次への活動の源となっていくのだ。

東北を旅した柳田國男の文章からは、春の情景がよく伝わってくる。
「ようやくに迎えたる若春の喜びは、南の人のすぐれたる空想をさえも
超越する。例えば、奥羽の所々の田舎では、碧く輝いた大空の下に、
風は柔らかく水の流れは音高く、家にはじっとしておられぬような日
が少し続くと、ありとあらゆる庭の木が一斉に花を開き、その花盛り
が一どきに押し寄せてくる。春の労作はこの快い天地の中で始まるので、
袖を垂れて遊ぶような日とては一日もなく、惜しいと感歎している暇
もないうちに艶麗な野山の姿は次第にしだいに成長して、白くどんより
した薄霞の中に、桑は伸び麦は熟していき、やがて閑古鳥がしきりに
啼いて水田苗代の支度を急がせる」(雪国の春より)
この地は東北ほどの春の喜びは感じえないが、日本の原風景を求める中
では、水に対する関心、水への尊敬の念は、「日本文化の一つの特色」
であることが肌に強く伝わる。
特に、このあたりは比良山系の水が湧き水として流れ出し、それが細い水糸
をなし、小川のせせらぎと形作っていく。その水が幾重にも重なりあい
ながら、あるものは神社の若水となり、また住む人の生活水となりやがて
琵琶湖に注ぎ込む。以前は、かわとと呼ばれる水の引き込みが各家の横に
しつられ、様々に生きる糧に使われた。
石畳の村道を歩いていると、懐かしい音が聞こえてきた。
あかりをつけましょ ぼんぼりに お花をあげましょ 桃の花 五人ばやしの 
笛太鼓 今日はたのしい ひな祭り お内裏様(ダイリサマ)と おひな様
二人ならんで すまし顔 お嫁にいらした ねえさまに よく似た官女(カンジョ)
の白い顔、、、、、。
屋根瓦のある二階建ての古風なたたずまいの家からそれは流れ出ていた。
雨水、それはひな祭りの季節だ。歌の文句はともかくそのノンビリとした
テンポに合わせて少しづつ春が歩み寄ってきている。
「雛人形は、宮中の殿上人の装束(平安装束)を模している」そんな言葉
がふと思い出される。その時代から都人に愛された地、琵琶湖と比良山系の
自然が織りなす絶景は今も変わらない。

2019.03.01

西近江路紀行34 郷土料理を味わう

西近江路紀行34 郷土料理を味わう

琵琶湖には、素晴らしい湖魚に対する食文化があり、これを支える食材としての
魚が生息している。まさに琵琶湖にしかない独特の食文化でもある。
全国、画一的な食文化と冷凍品による土地固有の味わい文化の衰退が進んで
いる中、その土地にしかない、しかも、その土地に行かなければ味わえない食べ物など、
稀な存在である。琵琶湖の湖性が生み出した、食文化の発信は、湖の湖と共に
生きる誇りを、外向けには琵琶湖に対するあこがれを醸しだすことになる。
更には、地域の野菜とのコラボレーションも郷土料理として多い。

琵琶湖では、畑の産物と琵琶湖の産物を併せた料理が多数伝えられている。
よくあるのが、スジエビと大豆を甘辛く煮き合わせた「エビ豆」であろう。
この他に、大豆と魚を炊き合わせた料理には「イサザ豆」「ウロリ豆」「ヒウオ豆」等
が広く食されている。米どころ近江では、水田の畔に豆を植えることが広く行われていた。
「**豆」は、この豆と、琵琶湖の魚が合わさり生まれた料理なのだろう。
この食文化は、琵琶湖の漁師の多くが農業にたずさわり、農民が漁業を行うという
伝統に根ざしている。更には、野菜との組み合わせでは、「ジュンジュン」と称される
料理が広く食されている。「ジュンジュン」とは「すき焼き」のことである。
「牛のジュンジュン」は無論「カシワのジュンジュン」のような肉類の他に、ウナギ、
イサザ、ナマズ、コイ等々、多くの湖魚がジュンジュンとして食され、多量の野菜と
共に煮込まれる。
また他の地域に比して、琵琶湖では、コアユの仔魚である「ヒウオ」、「ビワヨシノボリ」
の仔魚である「ウロリ」、ハスの稚魚である「ハスゴ」等が盛んに捕られ消費される。
さらに、イサザ、スゴモロコ、コアユのような小型の魚も盛んに漁獲され利用
されている。このような小型の魚を集中的に利用する食文化も、琵琶湖の特徴であろうし、
伝統的な調理技術に「ナレズシ」がある。塩漬けした魚を御飯に合わせて乳酸発酵させた
食品で、現在の日本人が愛してやまない「スシ」の原型の食である。
そしてその代表がフナズシである。 
以上のように、琵琶湖には、実に多様な湖魚に対する食文化が生まれ、継承され、
商品として売られたり、一般家庭の郷土料理として生きている。
琵琶湖八珍は湖魚文化を知ってもらう一つの手段でもある。


琵琶湖八珍
琵琶湖にはこの豊かな湖の魚を扱った特有の食文化がある。
琵琶湖にいる約80種の魚が生息していると言う。その湖魚のブランド
「琵琶湖八珍」に、ビワマス、コアユ、ニゴロブナなど8種の魚介類が選ばれた。
ハス、ホンモロコ、イサザ、ビワヨシノボリ、スジエビがある。
選ばれた8種のうち5種が琵琶湖固有種で料亭から家庭料理まで広く親しまれている。
なお、ウナギ、アユ(大アユ)、シジミなども料理の素材として使われている。
この志賀周辺でも和邇や北小松、さらに堅田の港では、数が少なくなったものの、
これら八珍のいくつかを今でも獲っているので、湖魚の専門店もあり、様々な料理で
それを味わう事が出来る。
また、琵琶湖八珍の中で、「コアユ」「イサザ」「ビワヨシノボリ」「ハス」
「スジエビ」などは、佃煮(甘露煮)などとして、全国に流通している。
「鮒鮨」の材料としての「ニゴロブナ」は加工品としても有名でもある。
今では、「ニゴロブナ」や「ビワマス」に「ホンモロコ」は、滋賀県に住んでいても
滅多に口に入らない高級魚になっている。

少しこれらを紹介すると、
1)「ニゴロブナ」は鮒鮨(ふなずし)に使われるが、近年は産卵場所の減少や
ブラックバスやブルーギルなど外来魚の食害によって稚魚が食べられ漁獲高
は激減している。鮒鮨はなれずし(現在のお寿司の元)であり、その匂いで受けつけにくい。
現に滋賀県に来て求めたものを、途中駅で開けて「腐っている」と捨てられたという、
笑えない話がある。食べ慣れれば、日本酒にこれだけ合う肴はないと思うほど、
深みのある味をしているが、贈答用だと30cmほどの子持ちで1万円ほどと結構高い。
2)「ビワマス」は「ヤマメ」の陸封タイプで、海に出ると「サクラマス」になる。成魚になると
70cm以上になり、その刺身はトロのように舌に絡まる味わいがある。今が最盛期であるが、
「ニゴロブナ」と同じく、中々漁で確保するのは、難しく養殖されたものが主流となっている。
今日はあるところで久しぶりにビワマスを食した。刺身は相変わらず美味しかったが、
燻製風にするとまた違う味になると言う。
3)「ホンモロコ」は京料理に用いられる高級魚になっており、琵琶湖の貴婦人
の名に恥じことなく、その白焼きは絶品と評判である。
昔は、バケツにいっぱい釣れていたが、外来魚の食害のため最盛期の1/10以下
になっているとのこと。
4)「イサザ」は、琵琶湖固有のハゼの一種で、昔からなぜか獲れなくなる時期がある
ことから、漢字も「魚」偏に「少」と書いて「いさざ」と読ませている。
佃煮の他「じゅんじゅん」という鍋で食べられることが多く、白身でありながら濃い味付け
に負けない独特の風味があり、湖魚のなかでもファンが多数いる。
イサザ漁は、主に冬季に沖(ちゅう)びき網で行われる。これは、長いロープの先端に
取り付けた網で底を引きずり、イカリで固定した船へ巻き上げるという、底びき網の一種。
湖底から獲られたイサザは、水面に出ると水圧の関係で、お腹を上にした状態で浮き
上がってくるので、それをすばやく網ですくいとる。
一時はまるでとれなかった時期があり、「幻の魚」といわれていたほどであり、
ここ数年で少し漁獲が盛り返してきた。
イサザは、大豆と煮た「イサザ豆」や佃煮のほか、すき焼き風に煮た「じゅんじゅん」と
いう料理でよく食べられる。「ネギと油あげ、麩を入れ、醤油と砂糖で甘辛く煮る」のもよい。
「イサザは、白身の淡泊な味でおいしく、特に秋から1月頃のものは、骨も柔らかくておいしい」
と言われている。
5)氷魚(ひうお)
冬だけにとれる特産品であり、氷魚(ひうお)と言われる鮎の稚魚で、大きさは3~6cmくらい。
体が氷のように透き通っているため、「氷魚」と呼ばれている。氷魚は、釜揚げにするのが一般的。
「しらす」のように熱を加えると白くなり、身はしっとりしていて、舌触りは滑らか。
そこはかとなく鮎とわかる繊細な味わいは、琵琶湖の冬の味覚として愛されている。
釜揚げのほかにも、かき揚げや佃煮などでも食されている。
氷魚が主に水揚げされるのは、12月から3月頃まで。透き通っている氷魚は、
やがてウロコができ、体型も変化し、5月頃には小鮎(コアユ)と呼ばれる
ようになる。以前に近くの和邇漁港に行った時は、料理店などの専門業者に交じり、
近所の主婦数人が氷魚漁から帰る船を待ちわびている。自宅で釜揚げにするのだそうだ。
湖近くに住む人だけの贅沢な楽しみであろう。
漁船が帰港し、甲板に設けられた水槽の中には透明な氷魚が元気に泳いでいる。
すぐに漁港でハカリにかけられ、次から次へ、キロ単位でまたたくまに引き取られていく。
30年くらい前とは比べ物にならないそうだ。当時は、船いっぱいにとれた」と言う。

郷土料理の色々
湖魚や山菜が素材として多く使われるが、四季に沿って、少し上げて行こう。

春は、モロコ焼き、セリのごま和え、わらびの酢の物、鮒ずし、手長エビのかき揚げ、
シジミと大豆煮、イタドリの煮つけ など
夏は、はず魚田、小鮎の山椒煮、ゴリ煮、なかよし豆、小鮎のてんぷら、みょうが寿司 など
秋は、エビ豆、あめのうおご飯、むかがご飯、干しズイキとエビ煮、ぜいたく煮 など
冬は、いさざ煮、いさざのなれ寿司、カボチャのゆり根あん、かち豆、氷魚のゆず酢、鴨とクレソン鍋 など
いずれも湖魚や山菜、野菜を上手く組み合わせている。

山菜について
万葉集にはいろいろな山菜・野草が歌われている。昔から食材として身近にあったのであろう。
山上億良の「瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ‥」などは有名ですが、
この他にも「醤酢に 蒜搗き合てて鯛願う 吾にな見えそ水葱の羹」
「春日野に 煙立つ見ゆ乙女らし 春野のうはぎつみて煮らしも」などの歌が
ある。蒜はニンニクやノビルなどのことで、うはぎはヨメナ。
さらに百人一首には「かくとだに えはやいぶきのさしも草 さしも知らじな 燃ゆる思いを」
(藤原実方朝臣)といった歌もあり、さしも草とはヨモギのこと。
山菜は日本の伝統的な文化であり、その由来として万葉集の中にもうかがい知ること
ができる。そして歳月を経ても、この地域には多くの山菜や野草が里山周辺に多くあり、
食文化の一端を成している。
フキ、ミツバ、セリ、ワラビ、ウド、ヤマノイモ、サンショウ、ジュンサイ、ヨメナ、アザミ、
ギシギシやイタドリ、アザミ、チシャ、ニガナ、カラシナ、ワサビ、ナズナ、ゴギョウ、
ハコベ、ノカンゾウ、コゴミ、ゆきのした、たらの芽、みつば、日本すみれ、ゼンマイ などがある。
単独の調理としても和え物が多くあり、酢味噌和え、マヨネーズ和えなど色々と。
一番はてんぷらであろう。
多くは茹でて下処理後、冷蔵庫で冷やし、お浸しに カツオブシをまぶし醤油をかけると
サッパリ味で美味しい。赤味噌・砂糖・酢を合わせ良くかき混ぜたタレなどもあるようだ。

「西近江路紀行30の郷土を味わう」と合わせて読んでもらうと湖魚のことを含めて
もう少し深く感じられるかもしれない。

2019.02.18

第1節気 立春(2月4日から18日ごろ)

第1節気 立春(2月4日から18日ごろ)

二十四節気は「立春(りっしゅん)」からはじまる。春は「山笑う」季節
というが、まだこの時期、その微笑を見ることは難しい。
しかし、時は人、そして猫や犬たちも待たずしてそろそろ立春と呼ばれる
季節へと 進んでいる。だが、寒い、春寒、余寒のごとくでもある。
我が家の庭の梅の木、その天を突く新しき槍の青き枝には小さな豆の
ようなピンクの蕾がひしめき合あいやがて来る己が出番を待っている。
少し前に手を入れた木々は、夫々の想いと姿で、春の匂いを醸成しつつある。
白い六枚の花びらに黄色の花冠の艶やかな水仙の花が凛とした風情を見せていた。
また梅ノ木に並び立つ金柑の樹は黄色のウズラの卵ほどの実が連なり顔を見せている。

比良の山並は、まだ白さが目立つ。しかし、山の斜面はほぼ東に向いている。
直線的に琵琶湖となだれ込む色模様もすぐに緑が濃くなるのであろう。
山の頂はまだ冬だが春と冬のせめぎあいが始まってもいるような趣が垣間見える。
今日は風が強い。これからは比良おろしという名前があるように、3月まで強烈な
北風が比良の山並みから吹きおろしてくる、東風、春あらしだ。
この高台から湖を見渡せば、薄青く光る湖面に白い波が逆立ち白いまだら
模様を見せている。それは一刻も同じ姿ではなく、時に青く光る平板な面だが、
一瞬のちに白い波片があわ立つように現われる。対岸の島や緑の湖辺は白く
茫洋とした霞がかかり、湖と対岸は切れ目なき一体化を成す。
こんな歌がある。
におの海霞める沖に立つ波を花にぞ見する比良の山風   藤原為忠
まさに、この情景に感じ入ったことを詠み上げた、そんな感じがする。

久しぶりに湖辺を歩く。
長く白い砂地が左から右へと大きな湾曲を描きながら延びている。
湾曲に沿ってまばらではあるが松林も続いている。沖にはえり漁の
仕掛け棒が水面から何十本となく突き出し、自然の中のくびきでも
しているようだ。砂浜に向かってゆっくりとした波長をもってさざなみ
が寄せている。たゆた寄せるその姿に春が乗っている。
5メートルほど先には、数10羽の鳥たちが薄青く霞んだ空とややくすんだ
色合いの青を持つ湖面に浮き沈んでいる。あるものはえり漁の仕掛け棒
の上で 羽を休め、何羽かの鳥たちは遊び興じているようでもある。
2羽のコガモが 連れ立って水面をゆっくりと進んでいる。やがて彼らも
ここを離れ、次の住まいへと向かうのであろう。
春は人も、鳥も新しい旅立ちの季節だ。
だが、風景は画巻や額のようにいつでも同じ顔はしていない。 まず第一に
時代がこれを変化させる。我々の一生涯でも行き合わせた季節、 雨雪の
彩色は勿論として、空に動く雲の量、風の方向などはことごとくその姿
を左右する。私も20年ほど前に見た時の感触と今この砂浜に立つ心根
は大いに違った。それは時代の空気であり、己が経てきた時の皺、心の襞
の変化でもある。場合によっては、これらに対面した本人のその時の心持、
万物それぞれが個々の瞬間の遭遇であって、だからまた生活 とつながり、
変化することの面白さがそこにある。
徒然草19段、折節のうつりかはるこそ、ものごとにあはれなれ。
「もののあはれは秋こそまされ」と人ごとにいふめれど、それもさるものにて、
今一きは心もうきたつものは、春の気色にこそあめれ。鳥の声などもことの外
に春めきて、のどやかなる日影に、墻根の草萌えいづるころより、
やや春ふかく霞みわたりて、花もやうやう気色だつほどこそあれ、
折しも雨風うちつづきて、心あわたたしく散り過ぎぬ。
青葉になり行くまで、よろづにただ心をのみぞ悩ます。花橘は名にこそ負へれ、
なほ梅の匂ひにぞ、いにしへの事も立ちかへり恋しう思ひ出でらるる。
山吹のきよげに、藤のおぼつかなきさましたる、すべて、思ひ捨てがたき
こと多し。
庭で「ツツピーン ツツピーン」という少し長閑なさえずり、ヤマガラだ。
梅の木と金柑を縫うように脇腹の褐色と頭と喉の黒い色が見え隠れしている。
やがてここにもウグイス、シジュウカラ、ホオジロなどが飛び移ってくる。
鳥もまた春を心にのせている。
氷魚 小鮎 ウグイ アマゴ ヤマメ ワカサギ、湖魚や清流に群れ騒ぐ川魚
が美味しく食べられる、郷土料理の工夫がさらに活きる。雪解けの春の湧水は
研ぎ澄まされた透明感にあふれている。多くの生き物がこの清き水に命を育む。

2019.02.02

大寒、寒さに身を縮める

24節気  大寒(1月20日から2月3日ごろ)

1月26日吹雪いた。幾つもの雪風が舞っていた。ゆっくりと遮るもののない
世界から白い抜け毛のような姿で落ちてくるもの、横滑りに粉雪となって窓辺
を駆け抜けるもの、小さな白い虫が群れ飛び不可測な動きを見せる雪煙、
庭の裸木を揺すり押し倒そうとする風の強い息ぶき、ゴーと轟き、すっと
後ろに引くように止まる風、すべてが一瞬にその姿を変じ、顕現させる。
人はただその音、雪の舞いに呆然と見つめるのみ、猫たちはここぞとばかり
ストーブにしがみ付き、ただただ寝入るだけのものもいる。
突然雲が押しのけられ青い空が顔を出す。弱い陽が白き世界にすっと流れる。
消える雪たち、真っ白に輝きわたる屋根に日が溶ける。
そして又吹雪きわたる光景に変容する。その気まぐれに人々は戸惑うだけ、
猫は寝入るだけ。

大寒、そろそろ節気という流れも最後となり、春の兆しか?
しかし、昨日からまた雪が降り出し、比良の山も湖も灰色と白く舞う雪の花に
ひっそりと見え隠れする。
南天の赤い実が薄い雪端に見えた。金柑の実も白と緑の葉に散らばり飛んでいる。
春隣と言う言葉があるそうだ、美しい言葉だ。陽に力が湧いてくる、そんな気分
の言葉だが、まだ少し先のようだ。今日は恵方巻を食して寝休日としゃれようか、
もっとも毎日が休日だが。
彼にとって、この季節、二つの情景がいつもその心によみがえってくる。
白く輝く光りを浴びた湖面は三角錐の八幡山と皿を伏せた沖島の島影を
浮き立たせ、細かな波状のつらなりが丸く輝く月の下で揺れかかっている。
雲一つ無い闇天の空に神々しく輝く満月がその様をのぞき見ている。
山と空、水、沖舟にさす影、羽衣のひだと思わす波のはしり、それが墨絵の
趣で眼前にあった。 彼は、凍えそうな手に己が息を吐きかけ、闇に身を置いていた。
湖水は寂寞として何も言わず、橋を渡る赤いいくつもの筋のみが消えては
またその姿を現していた。 さらには、湖に薄く舞い落ちる雪の切片が月光に
染められ、金粉をまいている ように湖水の面に踊っていた。
湖面も月光に染められ飛び跳ねる小鮎の銀の鱗となってひろがり、
雪が休みなく降り続いている。
だが、月が雲にかき消されるとそこは暗闇と化し、何もない。
それは、静寂とある意味甘美の世界でもあった。
むかしの彼であれば、それは苦痛の世界であったろうが、今は違った。
そこに永遠にいたいとも思った。いつの間にか横に猫のソラがいた。
その眼の中に、今見た彼の情景が映っている。

時折り天から舞い落ちる雪の精、朝のしじまのなかで見た時は、道路を薄布が
覆うような細雪であったが、その白い薄片はやがて大きな粒状を成しボタン雪
となった。
「津軽恋女」という歌に「7つの雪」というのが歌われている。
「津軽の女よ
ねぶた祭の行きずり戯れか
過ぎた夜の匂いを抱いて 
帰れと叫ぶ岩木川 降り積もる雪雪雪また雪よ
津軽には七つの 雪が降るとか
こな雪 つぶ雪 わた雪 ざらめ雪 みず雪 かた雪 春待つ氷雪
津軽の海よ 三味がゆさぶるじょんがら聞こえるよ
嘆き唄か 人恋う唄か 胸のすきまに しみてくる 降り積もる雪雪雪また雪よ
津軽には七つの 雪が降るとか
こな雪 つぶ雪 わた雪 ざらめ雪 みず雪 かた雪 春待つ氷雪
降り積もる雪雪雪また雪よ
津軽には七つの 雪が降るとか こな雪 つぶ雪 わた雪 ざらめ雪
みず雪 かた雪 春待つ氷雪」
だが、ここではそれほど多彩な雪は見られないし、思いなせない。
そんな考えが浮かぶほどの今日の雪だ。

ボタン雪、それが風に揺られことはなく、ほぼ垂直に天から地へと落ちてくる。
1時間もすると家の周辺は白く輝く光が満ち、ただ平板な白い地面となった。
すでに、10センチほどの雪の絨毯が庭を被っている。ソラが飛び出したものの、
雪の中にはまり大慌てで出ようとするが、目の前はただただ白い壁が続くのみ、
彼にとっては初めてに近い経験であるが、若さが彼を雪へと誘うのか。
助けての叫びに、わたしもまたかの顔で抱きかかえに行く。
だが、犬のルナは違った。
元来寒さには強い犬種でもあり、自分の顔が沈むほどの深さの中に飛び出し、
白く深く伸びた雪原のごとき広場をはね飛びながら遊んでいる。
梅ノ木もその枝枝を白き雪帽子で着飾り、他の草花はすでに影形なく、映え光る
白の世界に埋没している。
薄いベールの先に見えていた比良の山並みも薄墨の壁紙がはられたように彼の視線
から消し去られた。われわれはただ水滴がこぼれ落ちる窓ガラスの中で、ひっそりと
この情景に見入るのみだ。
だが、この辺りを北国と呼ぶには、雪の中に数か月も閉じ込められる「北国の人」には
大いに失礼だ。その想いを柳田國男は「雪国の春」の中でうまく綴っている。
「故郷の春と題して、しばしば描かれるわれわれの胸の絵は、自分等真っ先に
日の良く当たる赤土の岡、小松まじりのつつじの色、雲雀が子を育てる麦畑の
陽炎、里には石垣のタンポポすみれ、神の森の大掛かりな藤の紫、今日から
明日への題目も際立たずに、いつの間にか花の色が淡くなり、木蔭が多くなって
行く姿であったが、この休息ともまた退屈とも名づくべき春の暮れの心持は、
ただ旅行してみただけでは、おそらく北国の人たちには味わいえなかったであろう。
北国でなくとも、京都などはもう北の限りで、わずか数里離れたいわゆる比叡
の山蔭になると、すでに雪高き谷間の庵である。それから嶺を超え湖を
少し隔てた土地には、冬ごもりをせねばならぬ村里が多かった。
丹波雪国積もらぬさきに
つれておでやれうす雪に
という盆踊りの歌もあった。これを聞いても山の冬の静けさ寂しさが考えられる。
日本海の水域に属する低地は、一円に雪のために交通が難しくなる。伊予にすみ
慣れた土居得能之一党が越前に落ちていこうとして木の目峠の山路で、悲惨な
最後を遂げたという物語は、「太平記」を読んだ者の永く忘れえない印象である。
総体に北国を行脚する人々は、冬のまだ深くならぬうちに、何とかして、身を
入れるだけの隠れ家を見つけて、そこに平穏に一季を送ろうとした。
そうして春の帰ってくるのを待ち焦がれていたのである。
越後当たりの大百姓にはこうした臨時の家族が珍しくはなかったらしい。、、、
汽車の八方に通じている国としては、日本のように雪の多く降る国も珍しいであろう。
それがいたるところ深い谷をさかのぼり、山の屏風を突き抜けているゆえに、かの、
黄昏や又ひとり行く雪の人の句のごとく、おりおり往還に立ってじっと眺めている
ような場合が多かったのである。停車場には時として暖国から来た家族が住んでいる。
雪の底の生活に飽き飽きした若い人などが、何という目的もなしに、鍬をふるって
庭前の雪を掘り、土の色を見ようとしたという話もある。鳥などは食に飢えている
ために、こと簡単な方法で捕らえられた。二、三日も降り続いた後の朝に、一尺
か二尺四方の黒い土の肌を出しておくと、何のえさも囮もなくてそれだけで
ヒヨドリやツグミが下りてくる」
彼はこの一節を読みながら、ストーブの前を占拠している猫たちの顔を一睨み
した。ソラなぞは堂々と腹と隠すべきものまでさらして寝ていた。

大寒は、一月二十日ごろ、寒さが最も厳しくなるころである。「暦便覧」では
「冷ゆることの至りて甚だしきときなれば也」と説明している。
そして、初めの五日ほどを「款冬華」(ふきのはなさく)、「水沢腹堅」
(さわみずこおりつめる)、最後に「鶏始乳」(にわとりはじめてとやにつく)
と昔の人はこの季節を細かく言い表している。
朝の空は青一色、そこに櫛で梳いたような雲がたなびき、木立の向こうには、
いまなお細い月が消え残っている。前夜の雪がまだその残滓を残し、街は白く
輝いていた。朝の寒さの中、街の一番奥にある丘の上に彼はいた。
まるで雪に埋もれる木々のごとく立ち尽くしていた。
彼はまたこの季節を迎え春を感じ始めることに安堵した。
だが、彼の頭は茫洋とした果てしない過去のつなぎの中にいた。広々と視界
の開けた自然な中に立ったいま、彼はふたたびある場所と次の場所との
中間地点にあって、頭には、様々な情景がなんの束縛もなく去来していく。
この数十年のあいだ考えまいとして抑えつけて来た過去のもろもろが解き放たれ
彼の中を駆け巡っている。おかげで、いま彼の頭の中では様々な情景がけたたましく
さえずりながら、独特の騒々しいエネルギーを発していた。
夜来よりの雪の残り香であろう小さな宝石の雫を光り輝かせる丘の上の桜の木。
この自然が描く一幅の浮世絵の中をあこがれの目で眺め、自分の素足が柔らかな
草花に沈むところを想像した。横をほとばしる水が鞭となって空気を打ち破りながら
ときおり陽の光を捉えてきらめき流れて行く。
黒くむき出した野原の中に、赤く燃え映えた花が一群を成していた。
ハート形をした柄の長い葉には白斑があり、伸びた花茎に篝火をたいているように
白い雪原にその赤さを誇っているようだ。シクラメンだった。
まだ若かった頃聞いたあの歌が思い出される。
「、、、うす紅色(べにいろ)の シクラメンほどまぶしいものはない
恋する時の 君のようです 木もれ陽あびた 君を抱(いだ)けば
淋しささえも おきざりにして 愛がいつのまにか 歩き始めました、、、、」
ある人に言わせると、「シクラメンのようなかほり」で、奥さんを
思っての歌だともいう。寒いなかに一刻の温かさが心を過ぎる。
若きときの一瞬の時間が切り取られ、この琵琶湖と比良の山並みとの対比
に過去の自分の過ごした日々を思った。

西近江路紀行33 古墳探訪

西近江路紀行33 古墳探訪

琵琶湖の周辺は古代人の活動が盛んであったのだろう。
湖東、湖南、そしてこの湖西、古墳が多く散在している。
古代、この地域は敦賀と京都、奈良への陸路、水路の重要地域
でもあり、和邇部氏、小野氏などの有力豪族が支配していた地域でもある。
このため、琵琶湖を望む比良のすそ野には、多くの古墳がある。

白洲正子「近江山河抄」に以下の記述がある。
「国道沿いの道風神社の手前を左に入ると、そのとっつきの山懐
の丘の上に、大きな古墳群が見出される。妹子の墓と呼ばれる
唐臼山古墳は、この丘の尾根つづきにあり、老松の根元に
石室が露出し、大きな石がるいるいと重なっているのは、
みるからに凄まじい風景である。が、そこからの眺めは
すばらしく、真野の入り江を眼下にのぞみ、その向こうには
三上山から湖東の連山、湖水に浮かぶ沖つ島もみえ、目近に
比叡山がそびえる景色は、思わず嘆息を発していしまう。
その一番奥にあるのが、大塚山古墳で、いずれなにがしの命の
奥津城に違いないが、背後には、比良山がのしかかるように迫り、
無言のうちに彼らが経てきた歴史を語っている。」
しかし、多くの古墳は山の中腹などにあり、ちょっと足を伸ばして、
と言う風情ではない。また、何基かの石の室が笹や野草の中に口を開けている、
そのような光景に佇むといつも虚しさが湧いてくる。
「なぜ、俺は此処にいる?」、と。
1枚岩で作られた石室に足を踏み入れる。かって皆から敬われた
人々の最後の場所、黄泉へ通じると信じられていた入り口、死後の世界
を信じていた証の場所、1000数百年を経た過去の場所、時の移ろい
を形に見せる。心の空洞に何かが忍び込む。体感の鋭い人は何かを
感じられるかもしれない。
少しながら気楽に探訪できるのは、石神古墳群、ゼニワラ古墳、
唐臼山古墳であろうか。他のは、形が残っていないものも多い。

ちなみに、旧志賀町史が参考になる。
①北小松古墳群
遺跡の立地は比良山系の尾根筋を山系の北から数えて2つ目となる尾根筋
最先端から一段と下がった低位に位置する山塊の先端近くに主に分布する。
AからCと北の支群の4つのグループが見られる。計12基の古墳がある。
概ね、主体部は横穴式石室からなり、長さは4メートルほど高さは2メートル弱
と想定さる。出土品には須恵器と鉄釘があった。
石室などはしっかりとしている。
②南船路古墳群
南船路の集落から天川を隔てた西南西の丘陵裾野にある。総計7基の古墳
がある。多くは径7,8メートルの円墳で、主体部は横穴式石室からなり、
高さは2メートル弱と想定される。
③天皇神社古墳群
天皇神社の境内にある。3基ほどの古墳があるが、高さ1メートル強の円墳。
④石神古墳群
小野神社と道風神社の中間にあり、眺望のよい場所である。4基の古墳
からなる。主体部は横穴式石室からなり、一番大きな4号墳は直径15
メートルほどの墳丘である。天井石は1石で高さは3メートルほどあり、
比較的高い。家形石棺が出土しているが、須恵器と土師器に刀の小片があった。
鉄滓も採取された。大きさなどからも有力豪族(小野氏?)の墓と思われる。

なお、志賀町史第1巻には、以下の記述もある。
「本町域の比良山麓製鉄遺跡群を構成する多くの遺跡の共通する大きな
特徴の一つは、そのなかに木瓜原型の遺跡を含まないことである。
木瓜原遺跡では一つの谷筋に一基の精錬炉だけではなく、大鍛冶場や
小鍛冶場を備え、製錬から精錬へ、さらには鉄器素材もしくは鉄器生産まで、
いわば鉄鉱石から鉄器が作られるまでのおおよそ全工程が処理されていた。
しかし、この一遺跡単一炉分散分布型地域では、大鍛冶、小鍛冶に不可欠な
たたら精錬のための送風口であるふいごの羽口が出土しないことが多い。
本町域でもその採集はない。山麓山間部での製錬の後、得られた製品である
鉄の塊は手軽に運び出せるように適度の大きさに割られ、集落内の鍛冶工房で、
脱炭、鉄器生産の作業がなされる。小野の石神古墳群三号墳の鉄滓も
そのような工程で出来たものである。
しかし、この古墳時代には、粉砕されないままで、河内や大和に運ばれ、
そこで脱炭、鉄器生産がなされるといった流通形態をとる場合も
多くあった。、、、、」
⑤石釜古墳群
和邇川沿いの井の尻橋付近にあり、琵琶湖をまじかに見れる場所ではない。
南北2つの支群からなり、総計で7基の古墳がある。直径5メートルから
19メートルほどのものもある円墳である。
⑥から⑩まではいずれも曼荼羅山を囲むようにして、築造されている。
⑥ヨウ古墳群
曼荼羅山の北にあり、ゴルフ場と和邇川の中間に位置する。3基の古墳
からなる。直径22メートルほどの円墳の1号機をはじめ結構大きい。
⑦前間田古墳群
曼荼羅山の北裾とヨウ古墳群との中間にある後期古墳群である。3基の
古墳からなる。直径が10メートル前後のものであり、規模的には大きくない。
⑧曼陀羅山北古墳群
小野朝日と緑町の中間、曼荼羅山の尾根に築造されている。眼下に和邇川
河口や琵琶湖、対岸の湖東も見える場所である。5つの古墳からなる。
直径は10から20メートルほどの円墳であり、主体部は横穴式石室に
なっている。
⑨大塚山北古墳群
曼荼羅山の尾根筋上のなだらかな頂部に築造された3基からなる古墳群である。
いずれも直径10数メートルの円墳である。
⑩ゼニワラ古墳
曼荼羅山北寄りの東に位置し、丘陵の尾根筋に占める単独の古墳である。
直径は20メートル、横穴式の石室で何枚かの岩で積み重ねられている。
出土には須恵器があった。
⑪唐臼山古墳
小野妹子公園の中にあり、前方後円墳の崩れたものではないかとの推測もある。
墳丘は南北18メートル、東西20メートルほどあり、大きめの古墳と
みられる。
⑫小野不二ケ谷古墳群
滋賀丘陵の尾根筋上部で傾斜変換点を創り下降する交点に位置する。
2つの古墳からなり、集落の間に築造されているため、その集落で祭祀
されてきた集落間の一体化が考えられる。3点の土器を含め、幾つかの
遺物がでている。
⑭和邇大塚山古墳
ゼニワラ古墳の近くにあり、前方後円墳を成している。琵琶湖が広く望め、
その規模は全長72メートルほどある。盗掘があり、その原型を推し量る
のは厳しい。副葬品としては、鏡一面、刀剣三点、甲冑一点、鉄斧二点などがある。
⑮小野神社古墳群
小野神社本殿の北脇にある。2基の古墳からなるが、小野神社の敷地整備
に伴い、その規模は不明。主体部は箱式石棺と思われる。
以前には、石棺が他に5基あったといわれるが、確認できない。
⑯道風神社古墳群
道風神社本殿のすぐ西側に古墳がある。2基の円墳があり、直径は20
メートルほど、であるが具体的な形は不明。
さらに、小野駅の近くに真野古墳も確認された。

2019.01.26

冬の琵琶湖に立つ

冬の琵琶湖に立つ

足元に揺らぐ橋板の乾いた響き
頬を刺す風の飛翔身体を射し抜き水面へと流れる
天と地を緩やかに動く我が身、眼の届くものもまた上下の仕草
砂に舞う犬たちの点描の黒影、跳ねて飛ぶ灰色の砂粒
寄せて凍える裸木の小枝、骸骨の如き腕に絡まり踊る葦わらたち
微かな朝の陽に水跡の囁かな輪の連なり
漏れる息の薄く小さな水煙のその短命な存在
漂い群れる水鳥、白、茶褐色の木の葉舟の趣
エリの仕掛け棒の凛然たる強さ、その先の朧な薄雲の塊
生の静寂と死の喧騒

鋼鉄の輝きの満月に黒白の世界
銀砂の小雪が舞い薄絹の白さに小鮎の銀鱗揺れる様の水面
八幡山、三上山、黒き連なりが冴えた空気に浮かぶ
何百の亡霊の如き松並木と湧き上がる波たちの囁き
何千年と変わらぬ姿の光景は黙したまま語らず
生き人、死者、亡者の嘆きに冬が透徹した眼を向ける
行き交う人影が月影の彷徨いその身を嘆く
闇は人の本性を隠し剥きださせる
溶けこむ身体に己の心までも存在を失う罪びと
何百々の神の標にその身を厭う
何百々の小賢しく寄せる波にその身を沈ませ祈る
ここは彼岸の里
湖は癒しの場所、生霊の地
月下の明るさに身を清め己が信じる道をただ進む
生き方は何億あれど己は1つ、湖はそれを教授する


2019.01.20

小寒を思う

小寒(1月5日から1月19日ころ)

小正月、地域の神社、今年の豊作祈願や悪魔祓い、吉凶占いなどが行われる。
どんど焼き、巫女による奉納の舞い、小さいながら100年以上も続く神事もある。
そんな祭事にたまたま出くわすと何か得をした気持ちになる。
人間はやはり感情の動物だ。
比良の山並みは白いカーテンにおおわれ、その姿を隠したままだ。白い絹帯
のつらなりは湖辺までつづきそのまま重く沈みこんだ湖面へと消え去っていく。
ヤナ漁の仕掛け棒が薄墨の平板な面から細く黒い影を無数に突き出している。
カモメが数羽、その針先のような上で首をすくめじっとこの寒さに耐えているようだ。
普段は死地のごとき褐色の雑木の群れ、ポツリポツリと点在する農具小屋や
家並みもまた、延々と続く白き世界の中でひっそりとたたずんでいるだけだ。
平板につづく白帯の連なり、その下に眠っている大地がたんぼなのか畑なのか
区別がつかない。小さな池と雑木林も雪に閉ざされ、晩秋に落ち葉を踏みしめ
猫たちと歩き回ったことがうそのようだ。雪を踏みしめて一歩一歩慎重に
進んでも足を取られてしまうほど、雪は深く、己の歩みを笑っているようでもある。
コナラの林、太い幹から伸びた枝枝は、雪の重さに耐えかねて苦しそうにうなだれている。
枯草に覆われていた数日前とは一変していた。
ここにも、雪が枯草や小さな雑草たちを隠し、消し去っていた。狐の足跡が一筋、
木々の間を縫うようにくっきりとその黒点を林の奥へと続かせている。
空も大地もすべてが白い。その静寂に一人立つ。生あるものがわれ一人の世界だ。
真っ白になった頭の中では、次第に時間がゆっくりと昔へと戻り始める。
春のその冷えた空気が残る中で、小さな花たちが芽吹き、白や黄色、赤などの
色の点描を見せはじめる頃、林のなかに小さな生命が湧きだす。夏の強い日差しに
ほっと息をつく
休息のひと時、秋の終わりころの陽だまりの暖かさを感じた。落ち葉の上を
かさかさと音を立ててかけ走るオオオサムシ。彼はいま朽木の中で、どのように
して眠っているのだろうか。紅葉したツタの葉で、重ね合わせた手のひらの上に、
あごを乗せて物思いにふけっていたアマガエルは、土くれの中に無事隠れる
ことができただろうか。小さな動物や虫たち、植物たちのことが、頭の中
を駆け巡る。雪の中で春を待つホソミオツネントンボを見たことがある。
脚で枝をしっかりつかんで体を固定し、体をピンと張って小枝に見せていた。
その力強さに思わず見とれた。
「冬草も 見えぬ雪野の 白鷺は おのが姿に 身をかくしけり」
道元の詩とされる。冬の枯草も見えないほどに降り積もった白一色の雪野原にいる
白鷺は、おのれの姿の白さの中に身を隠しているのだ、というほどの
意味というが、この歌の題が「礼拝」とされている。
よくわからない。そんなことが浮かぶ世界でもある。
庭の白一色のなかに、白い六枚の花びらに黄色の花冠の艶やかな水仙の花が
凛とした風情で顔を出している。この水仙の黄色一点が白さのすべての存在を
示している。近くの生け垣は濃いピンクの花びらが周囲を押しのけるように
咲き誇っている。山茶花だ。椿と見分けるのは難しいが、落下した花びらを
見るとよく分かる。ぽとりとその音を見せるように花びらが塊となって、
首が落ちるがごとく、落ちているのは椿だ。山茶花は赤い絨毯を敷き詰めたように
地面を赤く覆っている。だから椿の花を見るのは好まない。
自分の首がすっと落ちていく、そんな様だから。
どんど焼き 橙色の火が滑らかに小竹や笹を伝い白い煙を巻き上げて行く。
松飾や門松も焼く。その火に顔を火照らして新しい年をあらためて感じる。
田の神、山の神、新年を祝いおりてきた神々もそろそろ守るべき自然に帰っていく、
白く龍を思わせるたなびきに今年の安寧を願う。
正月の慌ただしさも薄れ、5日から節分(立春の前日)までを
「寒(かん。寒中・寒の内とも)」と言い、この日を「寒の入り」とも言う。
更には、「芹乃栄」(せりすなわちさかう)「水泉動」(しみずあたたかをふくむ)
「雉始」(きじはじめてなく)とその風情も少しづつ変化していく。
例えば、芹乃栄(せりすなわちさかう)
一月の初め、セリが盛んに生育する頃であり、冷たい沢の水辺で育つセリは
春の七草のひとつとしても知られているし、一月七日に無病息災を願って
食べる「七草粥」にも入れられる。

我が家でも七草粥を食べる。今年は風邪でかなり調子を落としてる主人に
とって、絶好の御膳となった。そんなこともあり、少し七草粥の由来を
述べてみる。
春の七草といって、七草粥を食べる一月七日は「人日(じんじつ)の節句」
という五節句のひとつだそうだ。
五節句とは?
 1年に5回ある季節の節目の日(節日)のことで
 1月7日(人日)、3月3日(上巳)、5月5日(端午)
 7月7日(七夕)、9月9日(重陽)を指している。
古来日本には、雪の間から芽を出した若菜を摘む「若菜摘み」という風習があり、
唐の時代には、人日の日に七種類の野菜を入れた汁物、「七種菜羹
(ななしゅさいのかん)」を食べて、無病息災を祈った。さらに、平安時代
になると中国の風習や行事が、多く日本に伝わり、「若菜摘み」と「七種菜羹」
の風習が交わって「七草粥」が食べられるようになったという。
そして、江戸時代になると、幕府が「人日の日」を「人日の節句」として
五節句の1つと定め、これによって「一月七日に七草粥を食べる」という風習が、
民衆に広がり定着した、と言われてる。
七草粥の具材になる「春の七草」は春の七草とは、
芹(せり)=「競り勝つ」
 解熱効果や胃を丈夫にする効果、整腸作用、利尿作用、
 食欲増進、血圧降下作用など、様々な効果がある。
薺(なずな)=「撫でて汚れを除く」
 別名をぺんぺん草という。
 利尿作用や解毒作用、止血作用を持ち、
 胃腸障害やむくみにも効果があるとされている。
御形(ごぎょう)=「仏体」
母子草(ハハコグサ)のこと。痰や咳に効果があり、のどの痛みもやわらげてくれる。
繁縷(はこべら)=「反映がはびこる」
 はこべとも呼ばれ、昔から腹痛薬として用いられており、胃炎に効果がある。
 歯槽膿漏にも効果があるそうだ。
仏の座(ほとけのざ)=「仏の安座」
 一般的に、子鬼田平子(こおにたびらこ)を指し、胃を健康にし、食欲増進、歯痛にも効果がある。
菘(すずな)=「神を呼ぶ鈴」
 蕪(かぶ)のこと。 胃腸を整え、消化を促進し、しもやけやそばかすにも効果がある。
蘿蔔(すずしろ)=「汚れのない清白」
 大根のこと。風邪予防や美肌効果に優れている。

冬でも主人の眼を愛でてくれるこの二つの花があるというのも、さらに彼をして
堕落的な姿にさせているのだろう。
透き通ったガラス戸が庭のさむさを遮り切りのどかな部屋のぬくもりにうつつを
ぬかし、過ごす冬の日々である。
また、裸をさらしたような枯枝の木々が多い中、金柑の樹は冬になるとその存在感が
増して見える。
梅の木ほど目立たないが、我が家がここに移ってすぐに梅と金柑の機を植えた。
梅のピンクと金柑の黄色がなんとなく気に入ったからだ。
さして大きな理由はなかった。
まだ20年ほどであるから、いずれも老樹とは言えないが、梅の木はその姿形、
幹の斑の模様や木肌の濃い褐色は老樹の趣となっている。だが、金柑はその幹の
濃い緑、花の艶やかな映え具合から壮年の力強さを感じる。
金柑の木は、白く小さな花をつける。それらが、緑濃い葉群の中に白点となり、
その小さく可憐な姿を見せると、庭に落ち着きがただよう。
多くは、2回ほど実をつけるというが、我が家では、12月ぐらいから1月まで
につける実が多い。ピンポン玉を2回りほど小さくした黄色の映える実だ。
冬の彩の失せた中に黄色い玉がたわわに実る様は中々に見ごたえがある。
固く少し棘のある葉は、小さな白い花とその熟れた実をを守るかのような硬さと
頑固さがある。主人も実をとるとなるとちょっとした覚悟が必要であった。
ママがジャムや甘露煮をよく作っていた。風邪やのどにいいという。
甘露煮を美味しく作るコツはゆでこぼしての渋み抜きと種抜きだが、
ちと面倒でだんだん作る回数も減ってきた。

神棚の飾りも神社へ返し、何とはなく寂しい。鏡餅を切って、おしるこで
舌鼓、美味しかった。さらなる寒さに耐える日々を迎える。

2019.01.18

西近江路紀行32冬を行くその3

23節気 小寒
正月の慌ただしさも薄れ、いわゆる小寒の季節、一月五日ごろ
からとなる。暦の上で寒さが最も厳しくなる時期の前半であり、
「暦便覧」では「冬至より一陽起こる故に陰気に逆らふ故、
益々冷える也」と説明している。
この日から節分(立春の前日)までを「寒(かん。寒中・寒の内とも)」
と言い、この日を「寒の入り」とも言う。更には、「芹乃栄」
(せりすなわちさかう)「水泉動」(しみずあたたかをふくむ)
「雉始」(きじはじめてなく)とその風情も少しづつ変化していく。
例えば、芹乃栄(せりすなわちさかう)一月の初め、セリが
盛んに生育する頃であり、冷たい沢の水辺で育つセリは
春の七草のひとつとしても知られているし、一月七日に無病息災
を願って食べる「七草粥」にも入れられる。

我が家でも七草粥を食べる。今年は風邪でかなり調子を落としてる
主人にとって、絶好の御膳となった。そんなこともあり、少し七草粥
の由来を述べてみる。
春の七草といって、七草粥を食べる一月七日は「人日(じんじつ)
の節句」という五節句のひとつだそうだ。
五節句とは?
 1年に5回ある季節の節目の日(節日)のことで
 1月7日(人日)、3月3日(上巳)、5月5日(端午)
 7月7日(七夕)、9月9日(重陽)を指している。
古来日本には、雪の間から芽を出した若菜を摘む「若菜摘み」
という風習があり、唐の時代には、人日の日に七種類の野菜を
入れた汁物、「七種菜羹(ななしゅさいのかん)」を食べて、
無病息災を祈った。さらに、平安時代になると中国の風習や行事が、
多く日本に伝わり、「若菜摘み」と「七種菜羹」の風習が交わって
「七草粥」が食べられるようになったという。
そして、江戸時代になると、幕府が「人日の日」を「人日の節句」
として五節句の1つと定め、これによって「一月七日に七草粥を
食べる」という風習が、民衆に広がり定着した、と言われてる。

七草粥の具材になる「春の七草」は春の七草とは、
芹(せり)=「競り勝つ」
 解熱効果や胃を丈夫にする効果、整腸作用、利尿作用、
 食欲増進、血圧降下作用など、様々な効果がある。
薺(なずな)=「撫でて汚れを除く」
 別名をぺんぺん草という。
 利尿作用や解毒作用、止血作用を持ち、
 胃腸障害やむくみにも効果があるとされている。
御形(ごぎょう)=「仏体」
 母子草(ハハコグサ)のこと。痰や咳に効果があり、のどの痛み
もやわらげてくれる。
繁縷(はこべら)=「反映がはびこる」
 はこべとも呼ばれ、昔から腹痛薬として用いられており、胃炎に効果がある。
 歯槽膿漏にも効果があるそうだ。
仏の座(ほとけのざ)=「仏の安座」
 一般的に、子鬼田平子(こおにたびらこ)を指し、胃を健康にし、
食欲増進、歯痛にも効果がある。
菘(すずな)=「神を呼ぶ鈴」
 蕪(かぶ)のこと。 胃腸を整え、消化を促進し、しもやけや
そばかすにも効果がある。
蘿蔔(すずしろ)=「汚れのない清白」
 大根のこと。風邪予防や美肌効果に優れている。

お陰で、主人の風邪もだいぶ良くなった。
この地域でも場所によっては、七草全部を入れずに粥にするところも
あるそうだ。
雪が深くなるところは食材を得るのが難しいからだろう。
我が家も家人も猫たちも皆、大きなガラス戸をから外を見ること
が多くなる。冬は春ほどの華やかさがなくなるが、それでも、
クロッカスと水仙はお気に入りである。特に、今、庭先に見える
クロッカスには、少女のあどけなさと雪の中でも凛然と咲く強さを感じ、
彼が好きな花である。紫の手毬のような中に白い線が数本見える。
五、六ほどの花が雪の白さの中から抜け出したようにこちらに顔を
向けている。更に、眼を少し先に転じれば、道路向こうの庭には、
白と黄色の配色のある水仙が可憐に咲いている。毎年他の草花が枯れる
頃になると、芽を出してこの時期に花が咲き始める。細身の身体がなよと緩やかな
婉曲を見せ、白や黄色の花弁をみるに、北斎の描く美人画にも思えてくる。
冬でも主人の眼を愛でてくれるこの二つの花があるというのも、さらに彼
をして堕落的な姿にさせているのだろう。
透き通ったガラス戸が庭のさむさを遮り切りのどかな部屋のぬくもりに
うつつをぬかし、過ごす冬の日々である。
また、裸をさらしたような枯枝の木々が多い中、金柑の樹は冬になると
その存在感が増して見える。

梅の木ほど目立たないが、我が家がここに移ってすぐに梅と金柑の機を植えた。
梅のピンクと金柑の黄色がなんとなく気に入ったからだ。
さして大きな理由はなかった。
まだ17年ほどであるから、いずれも老樹とは言えないが、梅の木はその姿形、
幹の斑の模様や木肌の濃い褐色は老樹の趣となっている。だが、金柑はその
幹の濃い緑、花の艶やかな映え具合から壮年の力強さを感じる。
金柑の木は、白く小さな花をつける。それらが、緑濃い葉群の中に白点となり、
その小さく可憐な姿を見せると、庭に落ち着きがただよう。
多くは、2回ほど実をつけるというが、我が家では、12月ぐらいから
1月までにつける実が多い。ピンポン玉を2回りほど小さくした黄色
の映える実だ。冬の彩の失せた中に黄色い玉がたわわに実る様は
中々に見ごたえがある。
固く少し棘のある葉は、小さな白い花とその熟れた実をを守るか
のような硬さと頑固さがある。主人も実をとるとなるとちょっとした
覚悟が必要であった。
ママがジャムや甘露煮をよく作っていた。風邪やのどにいいという。
甘露煮を美味しく作るコツはゆでこぼしての渋み抜きと種抜きだが、
ちと面倒でだんだん作る回数も減ってきた。
以前、ママの友達が湖東の老舗和菓子のきんかん大福をもらった。
甘さ控えめの白あんと甘露煮した金柑の程よい苦味・酸味がマッチした
不思議なおいしさであった。もち米は地元でとれた最高級の羽二重糯
(はぶたえ)で、柔らかくなりすぎないように工夫しているのが美味しさ
の秘訣と聞いた。梅は実が意外とつかないので、春の心の癒しだが、
金柑は冬の身体の癒しだ。今日もまた痛めた喉に金柑のジャムがゆっくり
と流れ落ちていく。

久しぶりの白い季節だ。
比良の山並みは白いカーテンにおおわれ、その姿を隠したままだ。
庭の白一色のなかに、白い六枚の花びらに黄色の花冠の艶やかな水仙の花
が凛とした風情で顔を出している。
この水仙の黄色一点が白さのすべての存在を示している。
白帯のつらなりは湖辺までつづきそのまま重く沈みこんだ湖面へと
消え去っていく。
ヤナ漁の仕掛け棒が薄墨の平板な面から細く黒い影を無数に突き出している。
カモメが数羽、その針先のような上で首をすくめじっとこの寒さに耐えているようだ。
普段は死地のごとき褐色の雑木の群れ、ポツリポツリと点在する農具小屋
や家並みもまた、延々と続く白き世界の中でひっそりとたたずんでいるだけだ。
平板につづく白帯のるらなり、その下の大地がたんぼなのか畑なのか区別
がつかない。
ため池あとの雑木林も雪に閉ざされ、晩秋に落ち葉を踏みしめ猫たちと
歩き回ったことがうそのようだ。

雪を踏みしめて一歩一歩慎重に進んでも足を取られてしまうほど、雪は深く、
己の歩みを笑っているようでもある。クスノキの林、太い幹から伸びた枝枝は、
雪の重さに耐えかねて苦しそうにうなだれている。枯草に覆われていた
数日前とは一変していた。ここにも、雪が枯草や小さな雑草たちを隠し、
消し去っていた。狐の足跡が一筋、木々の間を縫うようにくっきりとその
黒点を林の奥へと続かせている。
空も大地もすべてが白い。その静寂に一人立つ。生あるものがわれ一人の
世界だ。真っ白になった頭の中では、次第に時間がゆっくりと昔へと
戻り始める。
春のその冷えた空気が残る中で、小さな花たちが芽吹き、白や黄色、
赤などの色の点描を見せはじめる頃、林のなかに小さな生命が湧きだす。
夏の強い日差しにほっと息をつく休息のひと時、秋の終わりころの
陽だまりの暖かさを感じた。落ち葉の上をかさかさと音を立ててかけ
走るオオオサムシ。彼はいま朽木の中で、どのようにして眠っている
のだろうか。紅葉したツタの葉で、重ね合わせた手のひらの上に、
あごを乗せて物思いにふけっていたアマガエルは、土くれの中に
無事隠れることができただろうか。小さな動物や虫たち、植物たちの
ことが、頭の中を駆け巡る。
雪の中で春を待つホソミオツネントンボを見たことがある。脚で枝
をしっかりつかんで体を固定し、体をピンと張って小枝に見せていた。
その力強さに思わず見とれた。
「冬草も 見えぬ雪野の 白鷺は おのが姿に 身をかくしけり」
道元の和歌とされる。冬の枯草も見えないほどに降り積もった白一色
の雪野原にいる白鷺は、おのれの姿の白さの中に身を隠しているのだ、
というほどの意味というが、この歌の題が「礼拝」とされている。
よくわからない。そんなことが浮かぶ世界でもある。

24節気  大寒
大寒、そろそろ節気という流れも最後となり、春の兆し。
しかし、昨日からまた雪が降り出し、比良の山も湖も灰色と白く舞う雪の
花にひっそりと見え隠れする。
彼にとって、この季節、二つの情景がいつもその心によみがえってくる。
白く輝く光りを浴びた湖面は三角錐の八幡山と皿を伏せた沖島の島影を
浮き立たせ、細かな波状のつらなりが丸く輝く月の下で揺れかかっている。
雲一つ無い闇天の空に神々しく輝く満月がその様をのぞき見ている。
山と空、水、沖舟にさす影、羽衣のひだと思わす波のはしり、それが
墨絵の 趣で眼前にあった。 彼は、凍えそうな手に己が息を吐きかけ、
闇に身を置いていた。 湖水は寂寞として何も言わず、橋を渡る赤い
いくつもの筋のみが消えては またその姿を現していた。
さらには、湖に薄く舞い落ちる雪の切片が月光に染められ、金粉を
まいている ように湖水の面に踊っていた。湖面も月光に染められ金波
がひろがる上に 雪が休みなく降り続いている。
だが、月が雲にかき消されるとそこは暗闇と化し、何もない。
それは、静寂とある意味甘美の世界でもあった。
むかしの彼であれば、それは苦痛の世界であったろうが、今は違った。
そこに永遠にいたいとも思った。いつの間にか横に猫のチャトがいた。
その眼の中に、今見た彼の情景が映っている。

今年は雪が多い。朝のしじまのなかで見た時は、道路を薄布が覆う
ような細雪であったが、その白い薄片はやがて大きな粒状を成し
ボタン雪となった。
「津軽恋女」という歌に「7つの雪」というのが歌われている。
「津軽の女よ
ねぶた祭の行きずり戯れか
過ぎた夜の匂いを抱いて 
帰れと叫ぶ岩木川 降り積もる雪雪雪また雪よ
津軽には七つの 雪が降るとか
こな雪 つぶ雪 わた雪 ざらめ雪 みず雪 かた雪 春待つ氷雪
津軽の海よ 三味がゆさぶるじょんがら聞こえるよ
嘆き唄か 人恋う唄か 胸のすきまに しみてくる 降り積もる雪雪雪
また雪よ 津軽には七つの 雪が降るとか
こな雪 つぶ雪 わた雪 ざらめ雪 みず雪 かた雪 春待つ氷雪
降り積もる雪雪雪また雪よ
津軽には七つの 雪が降るとか こな雪 つぶ雪 わた雪 ざらめ雪
みず雪 かた雪 春待つ氷雪」
だが、ここではそれほど多彩な雪は見られないし、思いなせない。
そんな考えが浮かぶほどの今日の雪だ。

ボタン雪、それが風に揺られことはなく、ほぼ垂直に天から地へと
落ちてくる。1時間もすると家の周辺は白く輝く光が満ち、ただ平板な
白い地面となった。すでに、40センチほどの雪の絨毯が庭を被っている。
猫のライが飛び出したものの、雪の中にはまり大慌てで出ようとするが、
目の前はただただ白い壁が続くのみ、彼にとっては何回も経験している
はずであるが、相変わらず懲りない男である。
助けての叫びに、わたしもまたかの顔で抱きかかえに行く。だが、
犬のルナは違った。
元来寒さには強い犬種でもあり、自分の顔が沈むほどの深さの中に飛び出し、
白く深く伸びた雪原のごとき広場をはね飛びながら遊んでいる。
梅ノ木もその枝枝を白き雪帽子で着飾り、他の草花はすでに影形なく、
映え光る白の世界に埋没している。
薄いベールの先に見えていた比良の山並みも薄墨の壁紙がはられたように
彼の視線から消し去られた。われわれはただ水滴がこぼれ落ちる窓ガラスの
中で、ひっそりとこの情景に見入るのみだ。
だが、この辺りを北国と呼ぶには、雪の中に数か月も閉じ込められる
「北国の人」には大いに失礼だ。その想いを柳田國男は「雪国の春」の
中でうまく綴っている。
「故郷の春と題して、しばしば描かれるわれわれの胸の絵は、自分等
真っ先に日の良く当たる赤土の岡、小松まじりのつつじの色、雲雀が
子を育てる麦畑の陽炎、里には石垣のタンポポすみれ、神の森の大掛かりな
藤の紫、今日から明日への題目も際立たずに、いつの間にか花の色が淡くなり、
木蔭が多くなって行く姿であったが、この休息ともまた退屈とも
名づくべき春の暮れの心持は、ただ旅行してみただけでは、おそらく
北国の人たちには味わいえなかったであろう。北国でなくとも、
京都などはもう北の限りで、わずか数里離れたいわゆる比叡の山蔭に
なると、すでに雪高き谷間の庵である。それから嶺を超え湖を少し
隔てた土地には、冬ごもりをせねばならぬ村里が多かった。
丹波雪国積もらぬさきにつれておでやれうす雪に
という盆踊りの歌もあった。これを聞いても山の冬の静けさ寂しさ
が考えられる。日本海の水域に属する低地は、一円に雪のために交通
が難しくなる。伊予にすみ慣れた土居得能之一党が越前に落ちていこう
として木の目峠の山路で、悲惨な最後を遂げたという物語は、
「太平記」を読んだ者の永く忘れえない印象である。
総体に北国を行脚する人々は、冬のまだ深くならぬうちに、何とかして、
身を入れるだけの隠れ家を見つけて、そこに平穏に一季を送ろうとした。
そうして春の帰ってくるのを待ち焦がれていたのである。越後当たり
の大百姓にはこうした臨時の家族が珍しくはなかったらしい。、、、
汽車の八方に通じている国としては、日本のように雪の多く降る国も
珍しいであろう。それがいたるところ深い谷をさかのぼり、山の屏風
を突き抜けているゆえに、かの、黄昏や又ひとり行く雪の人の句のごとく、
おりおり往還に立ってじっと眺めているような場合が多かったのである。
停車場には時として暖国から来た家族が住んでいる。
雪の底の生活に飽き飽きした若い人などが、何という目的もなしに、鍬を
ふるって庭前の雪を掘り、土の色を見ようとしたという話もある。
鳥などは食に飢えているために、こと簡単な方法で捕らえられた。
二、三日も降り続いた後の朝に、一尺か二尺四方の黒い土の肌を出しておくと、
何のえさも囮もなくてそれだけでヒヨドリやツグミが下りてくる」
彼はこの一節を読みながら、ストーブの前を占拠している五人の猫たちの
顔を一睨みした。チャトなぞは堂々と腹と隠すべきものまでさらして寝ていた。

大寒は、一月二十日ごろ、寒さが最も厳しくなるころである。
「暦便覧」では「冷ゆることの至りて甚だしきときなれば也」と説明している。
そして、初めの五日ほどを「款冬華」(ふきのはなさく)、「水沢腹堅」
(さわみずこおりつめる)、最後に「鶏始乳」(にわとりはじめてとやにつく)
と昔の人はこの季節を細かく言い表している。
朝の空は青一色、そこに櫛で梳いたような雲がたなびき、木立の向こうには、
いまなお細い月が消え残っている。前夜の雪がまだその残滓を残し、街は白く
輝いていた。朝の寒さの中、街の一番奥にある丘の上に彼はいた。
まるで雪に埋もれる木々のごとく立ち尽くしていた。
主人はまたこの季節を迎え春を感じ始めることに安堵した。
だが、彼の頭は茫洋とした果てしない過去のつなぎの中にいた。広々と
視界の開けた自然な中に立ったいま、彼はふたたびある場所と次の場所
との中間地点にあって、頭には、様々な情景がなんの束縛もなく去来していく。
この数十年のあいだ考えまいとして抑えつけて来た過去のもろもろが
解き放たれ彼の中を駆け巡っている。おかげで、いま彼の頭の中では
様々な情景がけたたましくさえずりながら、独特の騒々しいエネルギー
を発していた。
夜来よりの雪の残り香であろう小さな宝石の雫を光り輝かせる丘の上
の桜の木。この自然が描く一幅の浮世絵の中をあこがれの目で眺め、
自分の素足が柔らかな草花に沈むところを想像した。横をほとばしる水
が鞭となって空気を打ち破りながらときおり陽の光を捉えてきらめき
流れて行く。
黒くむき出した野原の中に、赤く燃え映えた花が一群を成していた。
ハート形をした柄の長い葉には白斑があり、伸びた花茎に篝火を
たいているように白い雪原にその赤さを誇っているようだ。
シクラメンだった。まだ若かった頃聞いたあの歌が思い出される。
「、、、うす紅色(べにいろ)の シクラメンほどまぶしいものはない
恋する時の 君のようです 木もれ陽あびた 君を抱(いだ)けば
淋しささえも おきざりにして 愛がいつのまにか 歩き始めました
、、、、」
ある人に言わせると、「シクラメンのようなかほり」で、奥さんを
思っての歌だともいう。
寒いなかに一刻の温かさが心を過ぎる。

眼の前に広がる白く平坦な世界は、昔、関東を訪れた時の情景を
思い起こさせた。遠くに霞むように筑波の山が見え隠れするが、
それが時間を経ようとそのままの大きさで眼前に見えている。
冬のこの関東の平野は寂しい。
稲はぎの残る刈田にも、桑畑の枯れた桑の枝にも、またその間の目
に滲む緑を敷いた冬菜畑にも、沼の赤みを帯びた刈れ葦や蒲の穂にも、
粉雪は音もなく降っていたが、積もるほどではなかった。
関西の人間にとって、一時間乗っても、山並みがまったく現れない
この茫漠とした平板な景色は想像できない。電柱が一本二本とわずか
の雪をその肌につけ、後ろへ後ろへと流れていくが、過ぎゆく白く
光る真綿の地と遠くかすむような筑波の山影は変わらずそのままである。
その単調が彼らを苛立たせる。車窓にかかる雪は、目に見えるほどの
水滴にも及ばないで消えた。空が水のように白んでくると思うと、
そこから希薄な日がさしてきた。
雪はその日ざしの中で、ますます軽く、灰のように漂った。いたる
ところに、枯れた芒が微風にそよいでいた。弱日を受けてそのしなだれた
穂の和毛が弱く光った。
野の果ての防風林は霞んでいたが、空の遠くに一箇所澄んだ青があって、
そこに空の池が出来ていた。それは実にしんとした情景だった。
電車の動揺と重い瞼とが、その景色を歪ませ、攪拌しているかもしれない
けれど、彼は、こんな鋭利な光景は久しぶりのような気がした。
しかもそこには人の影は一つもなかった。また少し空がひらけて、
薄日の中に雪が舞っていたが、田んぼのあぜ道の傍らの藪の中から
数羽の雀が飛び立った。古びた駅舎の横にある松並木に混じる桜の
冬木には青苔が生え、藪に混じる白梅の一本がその紅色の花を昼下がり
の弱い日差しの中で、鮮明に見せていた。
若きときの一瞬の時間が切り取られ、この琵琶湖と比良の山並みとの
対比に過去の自分の過ごした日々を思った。

泉鏡花の瓔珞品(ようらくぽん)がある。
琵琶湖の夜の美しさに魅了された主人公が何度となく琵琶湖を訪れる。
天人石を探したり、夢の中で鮒になったり、無限の世界を体感する。
冬の透徹した寒さと空気感がこの記述には一番ふさわしいと思っている。
「水を切る船端の波の走るのが、銀を落とすと、白い瑠璃の階きざはしが、
星を鏤めてきらきらと月の下へ揺れかかって、神女の、月宮殿に朝する
姿がありありと拝まれると申します。」「霜のように輝いて、自分の影の
映るのが、あたらしいほど甲板。湖水はただ渺茫として、水や空、
南無竹生島は墨絵のよう。御堂の棟と思い当たり、影が差し、月が染みて、
羽衣のひだをみるような、、、」と夜の湖水を表現している。
瓔珞は仏像の胸や頭を飾る飾り。石山や彦根、竹生島などが背景にある。
更には、
「前後に松葉重なって、宿の形は影も留めず、深き翠みどりを一面に、眼界
唯限りなき漣さざなみなり。この処によずるまで、手を縋り、かつ足を支えた、
幹から幹、枝から枝、一足ずつ上るにつれて、何処より寄することもなく、
れん艶たる波、白帆をのせて背に近づき、躑躅を浮かべて肩に迫り、倒さかさまに
藤を宿したが、石の上に、立ち直って、今や正に、目の下に望まれた、
これなん日の本の一個所を、琵琶にくぎった水である。
妙なるかな、近江の国。卯月の末の八つ下がり、月白く、山の薄紅、松の梢に
藤をかけ、山は翠の黒髪長く、霞は里に裳もすそを曳いて、そよそよとある風の調べは、
湖の琵琶を奏づるのである。」

この世界は、秋でも春でもない。冬の琵琶湖に佇むとそれがよく分かる。

2019.01.12

西近江路紀行32 冬を行くその2

西近江路紀行32 冬を行くその2

22節気 冬至
冬至にもなると本格的な冬の装いとなる。比良の山並みの顔も絶えず変える。
大雪の末候となるころ、頂の白さが映え、ピンク色が雲を染め、薄雲と
太針の常緑樹の影が白地の山麓に浮かび上がってくる。数週間前の中腹の
緑と落葉樹の橙がまだ厚く色なし数色の緞通の趣はすでにない。数時間も
すると、頂の後ろから湧き上がってくる黒雲は急激に山肌を隠し単調な
薄黒い壁になる。
そしてこの街も初雪が山から下りてくる。3日ほどわた雪、粉雪、ぼたん雪、
が舞い散ってくる。東北では7色の雪があるというがここでは3色ほどか。
そしてわずか数センチの雪にも根をあげる。大晦日の朝から神社の多くは
注連縄や輪飾り、場所では門松などを飾り、祭神への感謝を、各家の年神
とともに、伝える。やはり氏神への感謝が大事と思うが、有名神社へ行く
ものが多いのは残念だ。
小野、和邇、栗原、木戸、守山、比良、小松等この地域は多くの神社があり、
その社叢の影を感じ、雪に足を踏みしめて参るのも、せめての地域への感謝
かもしれない。

今でも神社ごとに注連縄を編んで飾る処もあるが、世話人の高齢化などで
中々に難しくなっている。その形状も大根締め、ゴボウ締め、輪飾りなど
があるが、御霊代(みたましろ)・依り代(よりしろ)として神がここに
宿る印である。古神道においては、神域はすなわち常世(とこよ)であり、
俗世は現実社会を意味する現世(うつしよ)であり、注連縄はこの二つ
の世界の端境や結界を表し、場所によっては禁足地の印にもなる。
だが、そうもいかないのが現実だ。

「暦便覧」では「日南の限りを行て、日の短きの至りなれば也」と説明
している。日照時間が減り、夏至と反対に夜が最も長く昼が短い日。
冬至にかぼちゃを食べるのは 風邪を引かない、金運を祈願するという
ような意味があるそうだ。
・乃東生(なつかれくさしょうず)12月22日頃夏枯草が芽をだす頃。
夏至の「乃東枯」に対応し、うつぼ草を表しているという。
・麋角解(さわしかのつのおつる)12月27日頃
鹿の角が落ちる頃。「麋」は大鹿のことで、古い角を落として生え変わる。
・雪下出麦(ゆきわたりてむぎのびる)1月1日頃
雪の下で麦が芽をだす頃。浮き上がった芽を踏む「麦踏み」は日本独特
の風習だ。
むかしは、元旦の日を浴びながら、黒く浮きだった土をしっかりと
踏み込んでいた年寄の姿が見えたものだ。
初茜(初日直前の茜空。夜の暗がりから白み、明るみ、茜に染まる
東雲しののめの空。
近くの農家の年寄がよく言っていた。
冬至によく食べたのが、冬至がゆとかぼちゃだった。冬至がゆは小豆を
入れたおかゆのことで、小豆の赤が太陽を意味する魔除けの色で、
冬至に食べて厄祓いをするそうだ。
かぼちゃは栄養豊富で長期保存がきくことから、冬の栄養補給になり、
冬至に食べたのだ。
また、冬至には「ん」のつくものを食べると「運」が呼びこめると
いわれているともいう。にんじん、だいこん、れんこん、うどん、
ぎんなん、きんかん......など、「ん」のつくものを運盛り といって
縁起をかついでいたこともあるようだ。最近はこのような話をあまり聞かない。
豊富な野菜や健康志向のレシピ、栄養剤、味覚ある冬料理、などこの
素朴な料理に注意を向けることは失われつつある。
だが、人がその風土に合わせ生きる力として数100年も培ってきた
知恵を忘れるべきではない、と彼は思いつつカボチャ料理を妻に頼んだ。

薄灰色のとばりが湖面まで垂れ下がり、灰色の水面を覆う形で琵琶湖がいた。
その上には、わずかに残る力を振り絞るが如き姿で朝日がわずかな形を
見せている。
既に比良山には、頂上を雪の切れ切れが白く大きく張り付き広がっている。
こちらも薄墨の背景に浮かぶ山水画の風情を見せている。
彼は坂をゆっくりと、その歩みを確認する仕草で下りて行く。肩に白い粉
がかかるがすぐに消えた。雪か、と思った。昨日よりもその寒さは一段
と厳しくなり、全ての動作がを油の切れた機械の様を見せている。
夏、秋と華麗な姿を見せていた家々の草花もすでに消え去ったり、
残り香を見せるものは、茶褐色と灰色の世界をなし、彼の気持を一段
と落ち込ませる。目はじに黒く深い緑に黄色の点描が見えた。
小さな赤子のこぶしほどの黄色い実が小ぶりの葉を押しのけるように
実っていた。柚子の木が一つ、彼の背丈を超す大きさにその直立した姿
を見せている。
数日前に柚子の風呂をした記憶がよみがえる。知り合いが大きな段ボール箱
に入れて持ってきたのだ。

むかしは、冬至の翌日から日が延びるため、この日は陰の極みとし、
翌日から再び陽にかえると考えられてきた。それを「一陽来復」といい、
この日を境に運が向くとされていた。厄払いするための禊(みそぎ)
として身を清めるということから柚子風呂は冬の代名詞のようなものだ。
冬が旬の柚子は香りも強く、強い香りのもとには邪気がおこらないと
いう考えもあったのであろう。
身体の芯に迫り溶け込むような感触を今日も味わいたい、思わず体が
ほてるのを感じた。
茶色に広く広がる枯野のそば、ただぼーとして、動きのない雑木を
見つめる。こんなとき、真っ白になった頭の中では、次第に時間が
遡りはじめる。霧が少しづつ晴れてくるように雑木林のなかは、
小さな生命にあふれていたころの様子が蘇ってくる。
秋の終わりころの陽だまりがススキの柔らかい穂先の下で波打っていた。
まだわずかの緑を残した落ち葉の上をかさかさと音を立ててかけ走る
オオオサムシ。彼はいま黒ずんだ朽木の中で、どのようにして眠って
いるのだろうか。紅葉したツタの葉で、重ね合わせた手のひらの上に、
あごを乗せて物思いにふけっていたアマガエルは、土くれの中で春の
暖かさをまっているのだろう。
雪の中で春を待つホソミオツネントンボを見たことがある。脚で
枝をしっかりつかんで体を固定し、体をピンと張って小枝に見せていた。
その力強さに思わず見とれた。
実に他愛のないことが、頭の中を駆け巡る。生き物たちのことが無性
に恋しくなるのは、すべてが無に見える果てしない枯草の世界から少し
でも逃げ出そうとする意識がそうさせている。時間は逆に廻り、晩春
から初秋へ、そして夏の終わりから真夏へと記憶が引き戻されていく。

冬至は、1月4日ごろまでだから、正月も入る。
この時期、里も忙しい。この地域は、神社や寺が多い。地域の人々は、
それぞれの氏神に参り、掃き清めや注連縄の張り直しに勤しむ。注連縄
には地域独特の張り方もあるようで、中々に味わいもある。例えば、
栗原集落の最奥近くにこの水分神社は鎮座しているが、広く長い参道
の中間点あたりの勧請木に青竹を渡し勧請縄が掛けられている。
湖東で見慣れている縄とは少し造形が変わっていて、何本有るのかも
わからない程多くの子縄が垂れ下がりそれぞれに御幣とシキミの小枝がつけられている。
神社に多くあるのは、ごぼう締めと言われるごぼうのような
形をした注連縄だ。正月の注連縄は左へねじる「左綯い(ひだりない)」
で特別なものになっており、飾るときは太い方を向かって右にするという。
これは、神様から見たときに(人と逆)元の太い部分が神聖とされる左側
になるようにするためだ。
太い注連縄を輪にした玉飾りもある。前垂れ、ウラジロ(清廉潔白・長寿)、
紙垂(しで:神様の降臨を表す)、ユズリハ(子孫繁栄)、ダイダイ(家運隆盛)、
海老(長寿)、扇(末広がり)など、様々な縁起物をつけた注連飾りだ。

また、それほど大きくはなくとも鐘楼のあるお寺が地域には少なくない。
響き渡る鐘の音にあわせ、こんな思いも持った日々もあった。
白く輝く光りを浴びた湖面は三角錐の八幡山と皿を伏せた沖島の島影を
浮き立たせ、細かな波状のつらなりが丸く輝く月の下で揺れかかっている。
雲1つ無い闇天の空に神々しく輝く満月がその様をのぞき見ている。
山と空、水、沖舟にさす影、羽衣のひだと思わす波のはしり、それが
墨絵の趣で眼前にあった。

彼は、凍えそうな手に己が息を吐きかけ、闇に身を置いていた。
湖水は寂寞として何も言わず、橋を渡る赤いいくつもの筋のみが
消えてはまたその姿を現していた。さらには、湖に薄く舞い落ちる雪の
切片が月光に染められ、金粉をまいているように湖水の面に踊っていた。
湖面も月光に染められ金波がひろがる上に雪が休みなく降り続いている。
だが、月が雲にかき消されるとそこは暗闇と化し、何もない。
それは、静寂とある意味甘美の世界でもあった。
むかしの彼であれば、それは苦痛の世界であったろうが、今は違った。
そこに永遠にいたいとも思った。だが、そんな思いもはるか昔の感傷となった。

「雑煮」は、年神様の魂が宿った餅を食べるための料理で、食べることで
年神様からその年の生命力が与えられるとされていたと聞くが、それも
今は単なる元旦恒例の食事と化している。我が家の雑煮はすまし汁のもの
と白みそ仕立ての2つが食膳にならぶ。私が関東であり、妻が京都である
からだ。主人の権威の衰え(もっともはじめからそういうものはなかった
かもしれないが)を感じる1つの行事でもある。
妻は絶対に白みその雑煮と主張し、それに息子たちが合している。
すまし汁の雑煮は、私1人が寂しく食べるのみだ。
雑煮は地方色豊かなものだが、我が家の味は全国版だ。
大きく分けて関西風と関東風があり、関西風は白味噌仕立てで丸餅を
焼かないで煮るスタイル、丸餅なのは鏡餅を模しているからだといわれている。
関東風は醤油仕立てのすまし汁に角餅を焼いて入れるスタイル、武家社会では
「味噌をつける」はしくじるという意味なので、味噌は使わなかったそうだ。
丸める手間がない角餅で、焼いて膨らみ丸くなると解釈するという。
全国的にはすまし汁のお雑煮が多いというが、参勤交代で全国に江戸文化
が伝わったからだそうだ。
私向けの雑煮はいわゆる関東風で、醤油仕立てのすまし汁に、小松菜、
大根、人参、ねぎ、椎茸、鶏肉を入れるが、白みその雑煮にはあまり
具材は入れない。もっとも、少し前からは具材は私の雑煮と同じように
なってきたが。
この地域でも多いのは、白みそに丸餅の雑煮のようだ。
丸餅に親がしら(赤ズイキの親芋)を丸のまんま1つ入れるという。
親がしらには、「親が頭(かしら)になる」といういわれがあるからだそうだ。
むかしは、雑煮の餅を元旦は1個、2日目は2個、3日目は3個と、
日を追って増やして食べたという。
増やすことによって家の繁栄を願ったからだ。
また、お節料理は琵琶湖に近い地域と山側にある地域では、その具材
がだいぶ違っていたという。湖にちかいところでは、湖魚の料理が多く、
山側では、野菜料理が主であった。
ごまめ、黒豆煮、柿なます、椎茸煮、里芋煮、飾りニンジン、栗きんとん
などが陶器のお重箱に綺麗に咲き乱れている。

つづく

2019.01.05

西近江路紀行32 冬を行くその1

西近江路紀行32 冬を行くその1

大雪、冬至にもなると本格的な冬の装いとなる。比良の山並み
の顔も絶えず変える。大雪の末候となるころ、頂の白さが映え、
ピンク色が雲を染め、薄雲と太針の常緑樹の影が白地の山麓に
浮かび上がってくる。数週間前の中腹の緑と落葉樹の橙がまだ
厚く色なし数色の緞通の趣はすでにない。数時間もすると、
頂の後ろから湧き上がってくる黒雲は急激に山肌を隠し単調な
薄黒い壁になる。時には、薄い雲の群れを背景に虹が山麓から
放たれて湖へとその7色を見せて懸け橋を作ることもある。
また、比良の山並みにかかる小雨が里を覆うが、湖の南は光に
充ち、中天の陽はその半分を照らす。雲と雨と太陽、見る限り
の世界にそれらが共存する。時に風が主役ともなる。比良の山並み
の頭を隠すような黒雲が瞬く間に現れ、雲が足早に里に駆け下りる。
強い風がわずかに木々と共にしていた黄色に錆色の葉たちを
打ち払い、里の木々の多くは南へとそのこうべを傾げる。琵琶湖
と比良の山並みのモノトーンの世界は、静かに時を過ごすには
格好の場所でもある。白く輝く山々がその白きすそ野を湖まで
指し伸ばし、満ちた月に黒く輝き拡がる湖面に溶け込んでいく。
対岸の沖島や長命寺山の起伏もまた同様に白く映える雪の平板な面
を月明かりに冴えわたる金色のさざ波に呑み込まれる。
冬の満月は、穿ち煌めく星たちとともに透き通る暗闇に瓔珞品の
世界を見せる。闇の絶景、数百本の松の並木からのぞくのもよし、
薄白く伸びわたる砂浜に影を作りつつ見るのも、この時期の楽しみだ。

北風
比良の山の冬の息ぶき、北風だ
頂きに膨らみ冬の力を漲らせている
その吹きは常緑や数えるほどの錆色の葉を抱き込み駆け下りていく
コナラ、クヌギ、ナラガシワ、一斉にこうべを垂れてやり過ごす
秋の雲が冬の雲になる。重く沈んだ黒雲が湖を睨む
里の子の頬は赤く燃え、なぜわたる風に身を震わす
湖は舟に牙をむき、漁師たちを岸に留まさせる
舞い散る雪がすべての光景を包み込み、やがて白銀の里となる
白砂の輝きは湖をモノトーンの景色に変え、死をも暗示する

歌川広重の傑作とされる保永堂版比良暮雪は、この比良の荒々しさ
がよく表現されており、他のとは一味違い、冬景色と比良の力強さ
を上手く調和させている。雪に埋もれた小さな村を呑み込むほど
の猛々しさで迫る比良の山並み、都では北の鬼門として恐れられた
霊山でもある。右下の青く描かれた琵琶湖畔と対比され一層の
激しさが感じられる。
紀行文の作者たちの多くは、不思議とこの地の冬の情景を愛するようだ。
司馬遼太郎の「街道をゆく」でも堅田からの志賀を抜けて行く時
の冬の情景を北小松の描写とともにある種の感慨を含めて記述
している。又、井上靖の「比良のしゃくなげ」や瀬戸内晴美の
{比叡}も冬景色の描写が素晴らしい。琵琶湖と比良の山並みの
モノトーンが彼らの心根のどこかを触発するのかもしれない。
小雪から大寒までの情景を見て欲しい。

小雪(しょうせつ)は、二十四節気の第20の季節。11月22日
ごろとなり、この地域では寒さを感じるこのごろである。
木々を彩っていた葉が雨に濡れて落ちる頃となり、山間部では
その雨が雪に変わり始める秋から冬への移り目の時期でもある。
この日から、次の節気の大雪前日までであり、わずかながら雪が
降り始めるころともなり、比良の山並にも白いものが見え始める。
「暦便覧」では「冷ゆるが故に雨も雪と也てくだるが故也」
と説明している。この頃から初春までに育った椎茸は冬茹(どんこ)と
呼ばれる。寒い空気にさらされて育つため、肉厚で身が締まり、
味が濃厚となる。我が家の下の街では、そろそろ郷の料理としても、
冬の味わいに入る。
ビワマスのご飯、いさざのじゅんじゅん鍋、氷魚のおすましや釜揚げなど
白菜や大根も加え、冬の味覚が本格的になる。
七十二候にもあるが、
・虹蔵不見(にじかくれてみえず)11月22日頃
陽の光も弱まり、虹を見かけなくなる頃。「蔵」には潜むという意味がある。
・朔風払葉(きたかぜこのはをはらう)11月27日頃
北風が木の葉を吹き払う頃。「朔風」は北の風という意味で、木枯らしをさす。
・橘始黄(たちばなはじめてきばむ)12月2日頃
橘の実が黄色く色づき始める頃。常緑樹の橘は、永遠の象徴とされている。
コナラ、クヌギなどの落葉樹も橙や黄色の色づきを比良の中腹を賑わせる。
このころ、比良の中腹には虹が多くかかる。薄雲を後景にして
直線的に天へと七つの色を伸ばし、時には比良の山と琵琶湖をつなぐ
七色の架け橋ともなる。地上のいろどりが消えかかるものの、
天上には新たな色が登場する。

11月初めには「山茶始開」とあるが、山茶花はこの頃から家々に
垣根や通り道に咲く。幾株かの山茶花だが、冬だというのに揃って
花ざかり、小さい庭を明るくしている。椿も好きで、白玉椿、
光悦椿、からはじめて黒椿まで持っているが、椿の花は霜に弱く、
純白のものなど一夜で、なさけない姿になる。
一々霜よけしてやるわけにもいかない。山茶花はそれに比べると強く、
散りつくしてもう終わったと思っていると、また、小さい蕾を
持って沢山に咲く。その可憐な姿がなんともいえない。白い花に
紅を少し差したようなのは、昭和はじめの日本娘のようにつつましく
感じられて私は好きである。現代の若い女性を感じさせる山茶花はない。
人間のほうが花よりあくどく装飾過剰である。
家から通りにである露地の一軒に、このはなが咲くのを美しいと
年々に思って眺めている。白一色の八重のものも、冬の厳しさに
つりあって見事である。近くの大きな家の庭にこの木の花の咲いた
ときに見に行くと、白川砂を敷いた地面にこの花びらが一面に
散っている。黙って静かに白い花びらが宙を軽くこぼれてくる様は、
この季節でも温かくほっこりする。

21節気 大雪
大雪(たいせつ)は、二十四節気で12月7日ごろ。期間としての
意味もあり、この日から、次の節気の冬至前日までである。雪が
激しく降り始めるころであり、「暦便覧」では「雪いよいよ降り
重ねる折からなれば也」と説明している。
山だけでなく平野にも降雪のある季節。寒さが日増しに厳しくなってゆく。
・閉塞成冬(そらさむくふゆとなる)12月7日頃
空が閉ざされ真冬となる。空をふさぐかのように重苦しい空が
真冬の空。琵琶湖の水もその重苦しさを増す。
・熊蟄穴(くまあなにこもる)12月12日頃
熊が穴に入って冬ごもりする頃。何も食べずに過ごすため、秋に
食いだめをする。
・さけ魚群(さけのうおむらがる)12月17日頃
鮭が群がって川を上る頃。川で生まれた鮭は、海を回遊し故郷の
川へ帰り来る。鰤などの冬の魚の漁が盛んになり、熊が冬眠に入り、
我が家の南天の実が赤く色付きはじめる。

比良山も頂の白き斑が大きな白布となり、その稜線をくっきりと見せる。
右には、遠く微かに鈴鹿の山並がどこか頼りなげに薄く延びている。
眼を左へと緩やかに転じていく。三上山の形のよい山姿が静かな
湖面の先に浮かび上がる。その横には八幡山と沖島が深い緑の衣に
包まれるように横たわっている。更にその横奥には、御嶽山を
初めとする木曾の山並が薄く横長に伏せており、その前にはその
削られた山肌が痛々しい伊吹の山が悄然と立っている。全てが
琵琶湖の蒼さを照らし出すように薄明るさの中にあった。
だが、一転空に眼を向ければ、冬にしか見られない素晴らしい
舞台があった。遥か上には、櫛を梳いたような雲が幾筋もその
軽やかな形を見せている。その下には、繭がその固い形をほぐす
ような雲がふわりと浮き伊吹の上からゆっくりと比良の山に
向って流れ来る。
さらに、しっかりとした二本の飛行機雲を切り取る様に、その下
をやや黒味のある雲がこれも比良に向かい素早い流れで和邇に
向うように流れ来るのであった。ここから見える空は平板として
その奥深さを知る事は出来ない。しかし、いくつもの雲の流れ
がその空の深さを示すようにお互いを遮ることなく流れすぎていく。
久しぶりに見る、感じる空の景観であった。

この季節、よく虹が出る。比良山の端から一直線に天に昇るが如く
7つの色がくっきりとした輪郭を保ちながら、やがて大きな弧を描き
琵琶湖の水に消えていく。ときには、半円の虹が和邇の港あたりから
和邇川の流れに合わすかのように冬枯れした田畑の上を7つの彩色を
施した薄い絹布となり、黒く立ちすくむ松林の中に消えて行く。
しかし、その落ちる先に行っても、虹は姿を隠すか如くそこにはいない。
川端康成の小説に「虹いくたび」と言うのがあるが、主人公の3人姉妹
の生への美しさとはかなさを虹に重ねて書いたものであり、
「生まれて、生きて死ぬ
 生まれて、生きて死ぬ
 いくたびの繰り返し
 人も虫も花も 虹も
 この世に生まれ出るものはすべて
 生きねばならぬ 死なねばならぬ
 理屈ではなく
 そう決まっているのだから
 いくたびのつまづきは
 いくたびの希望だから
 やがてくる死のために
 生きねばならぬ 輝いて
 生きねばならぬ」
琵琶湖で「彦根をすぎて米原のあいだ」見た琵琶湖の虹が良く出てくる。
更には、八日市から愛知川に向う近江鉄道に乗ると川端が感じていた
であろう故郷の気配があったのではないだろうか。一瞬の優美さと
儚さを感じるのが虹なのかもしれない。

さらにこのころになると、風向きが北西となり、比良の山並みに
対して垂直にぶつかるような季節風になってしまう。そのため、強力な
寒気団が居座ると、大量の雪を吐き続ける怪物と化す。
だが、山ろくで猛威をふるった風は琵琶湖に行きつくまでには、
湿気をだしきり、軽く透明な空気となって、何もなかったような
穏やかさを取り戻す。
もっとも、比良おろしと言って、冬から春先までは猛烈な風が麓を
駆け抜ける。
また、司馬遼太郎がその第1巻でも感じ入っているようだが、湖西
を車で行くと、志賀にさしかかったあたりから景色が雪国の様相に
急変することに驚かされるだろう。
天候は時間を追って変わり、大津市内では何事もないような天候
がこのあたりでは、雪や氷雨と太陽が絶え間なく入れ替わりつづける。

最近、我が家の周りでもストーブで冬を過ごす家が多くなった。
街を歩けば、点々と少し灰色がかった煙が直立した煙突から吐き
出されている。まだ残る「煤の文化」への回帰なのだろうか、
もっとも最近は昔を懐かしむというより、環境保全という名目も
多く聞かれる。しかし、人々は炎に魅了され続けてきたという
原初的な想いも強いようだ。常に、不思議な色合いを発し、姿を
変え、時に激しくめらめらと、時にゆらゆらたおやかに燃えるさまに、
人々は安らぎを覚えてきた。炎の揺らめきは五感に訴えかける何か、
それは遠い昔に人々が持っていた本能に引き込まれているのかもしれない。
この地域は昭和30年代まで割り木を木材燃料として湖辺周辺
に供給していた。割り木には、クヌギ、コナラ(ホソ)、ナラガシワ
(ギンボソ)、が良いとされ、火付きが良く長く燃えるからだそうだ。
これらを上木じょうぎと言い、桜、ハンノキ、栗などの軽い木
は雑木というそうだ。
燃料としての木々にも歴史はあった。

火を使い始めた、その時から日本人は煤とともに暮らしてきた。
この煤の国では毎年暮れ、降り積もった家中の煤を払い清めた。
これが煤払いである。一家総出の行事のはずだが、主だけはお役を
免れることがあったという。これを「煤逃げ」。「逃げ」であるから、
どこかへ姿をくらますのである。
戦後、電化が進むにつれて煤は人の前から姿を消し始めた。そして、
「煤逃げ」の季節でもあるこの時期も寒さだけが心に染み込むだけ
のことになった。
こんな和歌がよくあう季節でもある。 
・吹き迷う雲をさまりし夕なぎに 比良の高ねの雪を見るかな   為美
・夕づく日比良の高ねを眺むれば くるるともなき雪の白妙    元恒

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