人生

2018.08.18

西近江路紀行16 自然との協奏

西近江路紀行16 自然との協奏

西近江路を少し奥へ迂回すると、比良の自然、思うがままに書き綴れる。
湖水を見て、鳥の声を聞き、野辺の草花を触り、森の匂いを嗅ぎ、
せせらぎの水を味わう、五感のすべてに自然が語り掛けてくる。
見慣れた風景ではあるが、朝日の中に、夕陽に、二十四節気の自然の趣に
人も自然も輝きわき立つ。

春の季節では、自然界に新たな成長の季節が訪れるころである。
松尾芭蕉も詠んでいる。
山々にかこまれた春の琵琶湖の大観を一句に納めたものとして、
「四方より花吹き入れて鳰の海」、春の琵琶湖である。
木々や草花はいっせいに華やかな色彩とかおりをまき散らし、トチノキの
枝は小刻みに震えながら、円錐形の花キャンドルを支えていた。
白いヤマニンジンの花笠が道端をびっしりと覆っている。つるバラが
庭塀を這いあがり、深紅のシャクヤクがテッシュペパーのような花弁
開いている。りんごの木は花びらを振り落としはじめ、その後にビーズ
のような小さな実をのぞかせている。

また、少し奥へと入れば、比良山系の自然の作品、精神風土の名残にも
会える。比良山系は、千メートル以上の山々が連なっており、冬の雪景色
(比良の暮雪と言われているが)、春のみずみずしい青さ、秋の紅葉と常緑の緑
のパッチワーク的な山肌、夏の深い緑と多面的な顔を持っている。
ここは、山岳信仰の場でもあり、今は廃墟と化しているが、比良三千坊と
呼ばれた寺院、修行場の跡も含め、修養の場としても最適であったのだろう。
森に入れば、その一端を味わえるのではないだろうか。

比良山系に「日本の滝百選」にも選ばれている名瀑である八淵(やつぶち)
の滝がある。比良最高峰・武奈ヶ岳の北東に端を発する鴨川源流にかかる名瀑
として有名。その名前のとおり、八つの淵(滝)があり、下流から、魚止の滝、
障子の滝、唐戸の滝、大摺鉢、小摺鉢、屏風の滝、貴船の滝、七遍返しの滝と
なっている。八つの中でも、障子の滝と貴船の滝は大きくスリルに富んでおり、
夏には、その滝めぐりは清涼感の漂う、気持ちのよい山歩きとなる。
だが、冬には違う味わいもできる。真冬には数10センチとなる雪の中の
雪白な美しさと身を絞める寒さが生きていることへの証左を見せてくれる。
夏から秋の初めに集落を歩くと、細い石畳が続き、石で囲まれた3面水路を
水が踊りながら下へと流れていく情景によく出会う。
側壁の石にその煌めくしぶきがはね何十という黒い水あとを残すが、それは
暑さの中で、すぐに消える。苔にかかりその緑色を一段と輝かせるが、
それも一瞬のこととて、すぐに黄色味を帯びた苔の帯に変わる。

この志賀も含め、近江は書く者にとって、多くの熱情を与えるようだ。
以前にも、書いたが、近江を中心に描かれた小説は100冊以上もあるようだ。
井上靖が描いた「夜の声」という小説がある。
この退廃していく社会を憂い、交通事故で神経のおかしくなった主人公を通して
その危機を救える場所として近江を描いている。
神からのご託宣で文明と言う魔物と闘うが、自分はそのために刺客に狙われている
と思い込んでいる。魔物の犯してない場所を探して、近江塩津、大浦、海津、
安曇川から朽木へと向う。朽木村でその場所を見つける。
「ああ、ここだけは魔物たちの毒気に侵されていない、と鏡史郎は思った。
小鳥の声と、川瀬の音と、川霧とに迎えられて、朝はやってくる。漆黒の
闇と、高い星星に飾られて、夜は訪れる。、、さゆりはここで育って行く。
、、、レジャーなどという奇妙なことは考えない安曇乙女として成長していく。
とはいえ、冬は雪に包まれてしまうかもしれない。が、雪もいいだろう。
比良の山はそこにある。、、、さゆりは悲しい事は悲しいと感ずる乙女になる。
本当の美しいことが何であるかを知る乙女になる。風の音から、川の流れから、
比良の雪から、そうしたことを教わる。人を恋することも知る。季節季節
の訪れが、木立ちの芽生えが、夏の夕暮れが、秋白い雲の流れが、さゆりに
恋することを教える。テレビや映画から教わったりはしない」
舞台は朽木としているが、この比良地域も同じだ。井上靖が願望する
自然がまだ多くみられる。

さらには、比良のしゃくなげ(井上靖)詩集北国からもその情景が読み取れる。
「むかし写真画報と言う雑誌で、比良のしゃくなげの写真を見たことがある。
そこははるか眼下に鏡のような湖面の一部が望まれる北比良山系の頂で、
あの香り高く白い高山植物の群落が、その急峻な斜面を美しくおおっていた。
その写真を見たとき、私はいつか自分が、人の世の生活の疲労と悲しみを
リュックいっぱいに詰め、まなかいに立つ比良の稜線を仰ぎながら、
湖畔の小さな軽便鉄道にゆられ、この美しい山嶺の一角に辿りつく日が
あるであろう事を、ひそかに心に期して疑わなかった。絶望と孤独の日、
必ずや自分はこの山に登るであろうと。
それから恐らく10年になるだろうが、私はいまだに比良のしゃくなげを
知らない。忘れていたわけではない。年々歳々、その高い峯の白い花を瞼に
描く機会は私に多くなっている。ただあの比良の峯の頂き、香り高い花の群落
のもとで、星に顔を向けて眠る己が眠りを想うと、その時の自分の姿の
持つ、幸とか不幸とかに無縁な、ひたすらなる悲しみのようなものに触れると、
なぜか、下界のいかなる絶望も、いかなる孤独も、なお猥雑なくだらなぬものに
思えてくるのであった。」
多くの開発と言う行為の中には、自然への畏敬と尊敬の念が欠落していることが
多く、我々の知らないうちに自然がその生命を終えて行くことが見られる。
比良と琵琶湖の織り成す清々しい魅力を次代へと伝えて行く必要がある。

2018.08.12

西近江路紀行15 湖西の鉄と古代豪族

西近江路紀行15 湖西の鉄と古代豪族

古代の湖西の地方には、2つの特徴がある。
交通の要所であることと鉄の産地であることである。ともに、
ヤマト政権やヤマト国家の中心が、奈良盆地や大阪平野に
あったことに関係する。
古代近江は鉄を生産する国である。
湖西や湖北が特に深くかかわっていた。大津市瀬田付近に
近江における国家的地方支配の拠点が置かれていたことにより、
七世紀末以後には大津市や草津市等の湖南地方に製鉄所が
営まれるが、それよりも古くから湖北、湖西では鉄生産が
おこなわれていた。技術が飛躍的に向上するのは五世紀後半であろう。
それを説明するには、この時期の日本史の全体の流れを
みわたさなければならない。
鉄は、武具、工具、農具などを作るのになくてはならない。
それだけではなく、稲や麻布と並んで代表的な等価交換物としても
通用していたばかりか、威光と信望とを現す力をもつものとされていた。
権力の世界でも生産の次元でも、すでに四世紀代に鉄の需要は高かった。
当時の製鉄方法の詳細はまだよくわかっていないが、原始的な
製鉄は古くからおこなわれていた。
しかし、ヤマト政権にかかわる政治の世界で大量に使われた鉄は、
大半が朝鮮半島洛東江河口の金海の市場で塩などと交換され輸入
されてた慶尚道の鉄延であったとみられる。三世紀なかばのことを
書いた魏志東夷伝に、慶尚道地方の「国は鉄を出す。韓、わい、
倭皆従いてこれを取る」とある。ところが、五世紀の初頭以来、
朝鮮半島北部の強大な国家の高句麗は、軍隊を朝鮮半島の南部
まで駐屯させ、金海の鉄市場まで介入したことから、鉄の輸入が
難しくなった。五世紀なかごろにヤマト政権に結びつく西日本の
有力首長の軍隊が朝鮮半島で活動するのは、鉄の本格的な国産化
を必要とする時代となっていたことを示す、という。

古代の豪族たち、和邇部氏と小野氏
農耕経済を中心とする弥生文化が急速な発展をとげ、全国的に鉄器
が行き渡るようになると、農産物の生産量が増大して経済力が強まり、
民衆と司祭者、つまり首長との生活水準の隔たりが大きくなる。
各地に豪族が発生し、それらの統一に向かって原始的な国家の形態
へと発展していく。それがヤマト政権として更なる発展拡大していった。
鉄器は県、矛、鏃などの武具として生産される一方、農耕具として発達し、
農作物の大幅な増大に寄与していって。日本書記にも、依網よきみの池、
反折さかおりの池などの用水掘りの構築が進んだと記述されている。
多くの古墳にも、鉄器の副葬品が増えてくる。
鉄が武器となり、農耕具としてその活用が高まるのは、それなりの集団
が形成されているからである。この周辺では、和邇部氏と小野氏を考えておく
必要がある。
1)和邇部氏
志賀町域を中心に湖西中部を支配していた。ヤマト王権の「和邇臣」に所属し、
ヤマト王権と親密な関係があった。和邇臣は奈良県天理市和邇を中心に
奈良盆地東北地域を幾つかの親族集団で支配していた巨大豪族であり、
社会的な職能集団でもあった。和邇部氏は後に春日氏に名を変えた。
和邇部氏が奈良を中心とするヤマト王権にいた和邇氏と結びついたのは、
和邇大塚山古墳時代の4世紀後半であり、比良山系の餅鉄などから鉄素材
を生産し、和邇氏配下の鍛冶師集団に供給していた。
中央の和邇氏も和邇部氏と同様に、呪的な能力を持つ女系であり、
その立場を利用して、和邇部氏は、滋賀郡の郡司長官となったり、和邇氏は、
ヤマト王権での地位を高めたと思われる。

以下の記述は、和邇部氏が鉄素材を運んだルートの想定としても面白い。
和邇氏は、琵琶湖沿岸に栄え、朝貢するカニを奉納する事を仕事としていた。
そのルートは、敦賀から琵琶湖湖北岸にでて、湖の西岸を通り山科を経て、
椿井大塚山古墳のある京都府相楽郡に至り、大和に入るというものであった
という。それは、若狭湾→琵琶湖→瀬田川→宇治川→木津川の水運を
利用した経路だった。
琵琶湖西岸には、和邇浜という地名が残っている。
椿井大塚山古墳の被葬者は木津川水系を統治するものであり、和邇氏一門か
または服属する族長と思われる。
そのルートは、カニを奉納するだけのものではなかった。

2)小野神社
和邇部氏も、製鉄に関係していたようであるが、小野氏の小野神社の
祭神である「米餅搗大使主命(たかねつきおおおみ)は、元来、鍛冶師
の神であり、鉄素材(タガネ)を小割にして、和邇部氏の後、和邇臣
配下の鍛冶師に供給していたと思われる。「鏨着」の場合、タガネは
金属や石を割ったり彫ったりする道具である。
「鏨着タガネツキ」の用字が「鏨衝 たがねつき」に通じるとすれば、
神名はタガネで鉄を断ち切る人の意味になる。ただ、遅くとも
平安時代の初めには餅搗の神と思われていたとされる。

米餅搗大使主命(たかねつきここで言う「たかね」は鉄のことも指しており、
この辺一体が、鉄を生産していたことに関係があるのかもしれない。
火が信仰の対象となったり、古事記や日本書紀にあるように剣が
その伝説となったり、代表的な金屋子信仰にあるように鉄に対する
信仰はあったはずであり、この地では、小野神社がそれの役割となった
気もする。

3)日本の神話の中には、製鉄についての事跡が、しばしば伝えられている。
古事記によれば、天照大神が天岩屋戸にこもられたとき、思金神の発案で、
「天金山の鉄を取りて、鍛人天津麻羅を求め来て、伊斯許理度売命
いしこりどめのみことに科せて、鏡を作らしめ」ており、同じような
ことが「日本書記ではもう少しくわしく「石凝姥をもって治工となし
天香山の金を採りて日矛を作らしめ、また真名鹿の皮を全剥にはぎて、
天羽ぶきに作る。これを用いて作り奉れる神は、是即ち紀伊国に座す
日前神なり」とあって、技術的にかなり具体的になっている。

この天羽ぶきの記載からすると弥生期の製鉄はすでに吹子を使用する
ほどに進歩し、粗末な溶解炉もあったと想像できる。
弥生期より古墳期ごろまでの製鉄は、山間の沢のような場所で自然通風
に依存して天候の良い日を選び、砂鉄を集積したうえで何日も薪を
燃やし続け、ごく粗雑な鉧塊を造っていた。そしてこれをふたたび
火中にいれて赤め、打ったり、叩いたりして、小さな鉄製品を造る
というきわめて原始的な方法であったのだろう。
日本書紀の中には、鹿の一枚皮でふいごを造り使用したことを
あたかも見ていたかのように述べてもいる。
この比良山系にも、何条もの煙が山間より立ち上り、琵琶湖や比良の
高嶺に立ち昇っていたのであろう。

2018.08.04

西近江路紀行14 古地図から見るこの里

西近江路紀行14 古地図から見るこの里

少し前に志賀地域の古地図の展示があった。
古くは室町時代から明治まで、この地の様子を見ていくのは面白い。
志賀は幕府の直轄領から比叡山の社領、大名の所領と入り乱れていたので、
境界争いや水利争いで権利を主張するものとして多く作られたのであろう。
古文書の多くもその裁判や幕府からの裁定に関するものも多い様だ。
また、いさざ漁村々絵図(いさざ漁に関する絵図で、琵琶湖に接する志賀町域
の村々の位置がわかる)にもあるように琵琶湖の恵みを受けていたという
姿も垣間見られる。更には、湖に面した村々には「舟入」の記述も多くあり、
今はそのほとんどが埋め立てられたりして消えているが、湖とのつながりの
強さを示すものだ。

わたしの家の周辺の様子もよくわかる。
和邇中村絵図がそうだ。
牛頭天皇社(天皇神社)内の摂社や神宮寺、南東の集落域、北西の権現山
までが描きこまれており、現在の榎の碑のあたりに榎(一里塚)を示す
木も描かれている。
もっとも、我が家は天皇神社の北東にある山を削ってできた住宅地であり、
絵図には存在しない。
小野村絵図には、小野村の集落域を白色、北国海道を赤色で示し、
周辺に樹木に覆われた小野神社・小野道風神社・小野篁神社のほか、
山並みを描いている。
小野妹子伝承で知られる地域の江戸時代の様子を知る格好の絵図なのだろう。
今も大きく変わっていない。
この地域の特徴に相給村落がある。これは1つの村に複数の領主がいた
という。
北小松村絵図天保2年(1831)にそれが描かれている。
天保2年、北小松村(幕府領)の一部が堀田家領(下野国佐野藩)として
編入された際に村役人から佐野藩に提出された絵図の写し。
北国海道(赤色)の東西に広がる北小松村の屋敷地を中心に描いた絵図で、
「御料」が幕府領を示し、それ以外が佐野藩領だと考えられます。
モザイク状に領地(領主)が入り組む「相給村落(あいきゅうそんらく)」
の様子が見られる。
境界争いに関係する地図も少なくない。比良庄絵図は弘安3年(1280)、
小松庄・音羽庄と比良新庄の境目争論の際に作成され、永和2年(1376)
の争論で再び使用された絵図。上(西)に比良山系、下(東)に
琵琶湖、右(北)を三尾川、左(南)を木戸庄とする構図で、
山川、建物を描いている。
北小松、南小松、北比良村絵図では、その裏書などからその地域
を領有していたものが分かる。田畑、荒場、入相山などの明細を
書き入れている。これら絵図の目的の多くは、各荘との境界を
明確にするものであったようで、直接関係が少ない山の名前では、
違いがある場合が少なくない。境界争いや水利権争いでは、
どの時代でも、これらの絵図を基本として、使っているようであり、
境界近くの正確性が求められていた。

しかし、この地域の古文書を読む限り、境界はもちろん、それぞれの
取れ高もあいまいな点が多い。琵琶湖の水位が上がって荒れ地となったもの、
水害で耕作が無理になった土地、これらを上手く奉行所に認めさせ
年貢を如何に少なくしてもらうか、古文書の端々にそれが臭い出てくるようだ。
境界争いでは、「小松荘と音羽、比良荘」との争いや「木戸荘と比良荘
との葛川」「和邇荘と龍華荘との境界争い」など多くあるようであり、
大津や京都の奉行所への訴状や延暦寺などに残る古文書からも
それが覗える。
また、中世の時代以後書かれた「正徳絵図、寛文絵図」でも、現在
使われている地名とは違う点も多くあり、地図の正確性も、書いたとき
の絵師にもよるのでろうが、少しづつズレがある。正確性を高めるのは、
伊能忠敬の全国的に実施した測量地図となる。
しかし、土地の正確性は増すものの、「和邇荘と龍華荘」の様な昔あった
とされる龍華寺の存在を示すのがその地域の伝聞であったり、縁起、
伝承の一般民衆に関わる世界が具体的な境界争いになる場合は、
その解決は中々に難しい。
しかし、これらの地図を見ていると村々の様子や琵琶湖とのつながり
など地域の顔が見えてくるようだ。川の氾濫や野獣から守るための
石垣(しし垣)、大掛かりな百閒堤の普請等も見られる。
慶長と延宝の検地によって村高と村域が成立し、江戸時代には
18の村が成立したが、その村の古地図がすべてあるということは
素晴らしいことだ。

2018.07.29

西近江路紀行13 琵琶湖は生活と文化の原点

西近江路紀行13 琵琶湖は生活と文化の原点

古代から近世へとこの地域の特徴つけていたのは、敦賀などから来る
大陸文化や物産の中継的役割と琵琶湖を中心とした経済と食文化の存在であろう。
それは志賀町史に描かれた内容からでもよくわかる。
今は遺跡となった塩津港には最盛期1千隻以上の丸子船が集まり、さすがの湖も
白く塗られたと言われている。今はその面影さえないが、この志賀の地域
でも船と人の往来の盛んなことを言われている。今は、和邇港と北小松港の
2つが港の姿を残し、漁業もおこなわれているが、木戸も含め、当時の
状況を知ることも今この地に住む人間にとって重要ではないだろうか。

「本町地域での陸路と水路の集落にも、役割が出てくる。
陸路でもあり、各荘園の中心集落としては、
南小松、大物、荒川、木戸、八屋戸、南船路、和邇中、小野があった。
これらの中でも、木戸荘は中心的な荘園であった。
水路、漁業の中心としては、
北小松、北比良、南比良、和邇の北浜、中浜、南浜があった。
和邇は、天皇神社含め多くの遺跡があり、堅田や坂本と並んで湖西
における重要な浜津であり、古代北陸道の駅家もあった。
古代の駅家がその後の中心的な集落になる事例は多くある。
現在の和邇今宿が和邇宿であったことが考えられる。

「和邇のみなと文化(似内 惠子氏)」にもその記述がある。
「近世前後の海上輸送
琵琶湖で旅客および物資の輸送に用いられてきたのは丸子船と呼ばれる
和船であった。丸子船は丸船、丸木船とも呼ばれ船型の一つである。
丸子船は丸木を縦に半分割ったような形で、側板を丸味をもたせて
つなぎ合わせた船のことである。船の大きさによって積み込む量が
異なっていた。大きなものは400石積から小さいものは6石積まで
あったが、100石積前後が最も多かった。
堅田にある湖族の展示館に模型と写真がある。
琵琶湖ではこの丸子船以外に、ひらた船と呼ばれる底の平で細長い形
をした船も使われていた。これは当初は物資輸送に使用されていたが、
船奉行が設置され、登録制になって湖上の物資や旅客の輪送が禁止
されてからは、もっぱら農家の自家用に使われた。
丸子船の構造で最も特徴的なのは「おも木」である。多くの和船には、
おも木といわれる部分は存在するが、大木を二つ割にして、そのまま取り付ける
という例は他にない。素材は主に「槇の木」で作られた。船体のほとんどは
槇の木であるが、「おも木」には杉や檜が使われていた。おも木は船の側面
に合わせ、木を曲げて取り付ける。
湖東地区では江戸時代から水産業が盛んで、和邇の沖手繰網や小松などの
氷魚網のように、幕府からその使用免許を得ているものもあった。
明治11年(1878)には南浜でイサザ・エビ・アメ・ハス・アユ、中浜では
ヒウオ氷魚(アユの稚魚)・エビ、小野ではアユ、北比良でヒウオなどの
漁獲があり、それぞれ近村あるいは大津方面へ出荷されていた。
旧和邇村では、明治24年(1891)に35戸が漁業に従事しており、
3戸の専業を除いて他はすべて農業との兼業で、これら全部がめいめい
漁船や漁具を所有して、ヒウオ・アユなどを獲り、当時の価格にして
3,766円の収入を得ていた。
また、北小松の小アユ飴煮はその特異な風味で知られている。」

さらに、志賀町史より古代の状況を概観する。
「水上交通路であるが、敦賀港と琵琶湖とを結ぶ山道は、平安時代
以後は海津へと出る「7里半越え」が最も栄える。塩津に出る「5里半
越え」は古くは湖東の陸路を通る人々が主に利用した。
琵琶湖の湖上交通のいちばん重要な津は、若狭を経由する「9里半越え」
で到着する勝野津(高島郡高島町)であった。湖上を運送する場合は、
塩津から勝野津を経て、湖西の湖岸沖をとおって大津に向かうことに
なっていた。古来、比良の湊がおかれ、北陸地方との交易を中心に水運
にも従事。中世には比良八庄とよばれ、小松荘と木戸荘がその中心
であったという。和邇と言う地名は、丸船(丸小船)が多い場所と言う
意味に由来していると思われる。つまり、和邇とは船のことを意味する
と解釈できる。または、和邇と言う地名から、古代海族とされる比良一族は、
和邇一族と呼ばれていたのかも知れない。または、和邇部氏との同族関係
から比良が和邇になったのかもしれない。」

なお、志賀町史などの記述から、1651年の丸船(丸小船)改帳によれば、
和邇38艘、木戸25艘、南比良23艘、南小松14艘、北小松33艘と
言う記録があり、 明治11年の調査では、和邇南浜でイサザ・エビ・ハス・アユ、
北比良でヒウオ、北小松でシジミなどの漁獲があったと言う。
現在でもこれらの湖魚は量的には少なくなったとはいえ、大きな差異は
ないようであるし、志賀の郷土料理としても地元でこれらの湖魚を使った
料理が伝承されている。煮物、刺身さらにはなれずしとして多様な魚の食文化が
歴史の中で育まれていった。
更には、北小松の古史には、昭和の初めまでこれらの丸子船を使って割り木
(燃料用の薪)や小柴を大津へ輸送して商売をしていたという記録もある。
比良山系の成す木々は木戸から北小松と燃料用として広く恩恵していた。
女性たちの小柴刈り取りだけでも生計が成り立っていたという。それらは
湖を通じて大津や対岸の各地へ積み出されていた。

また、文化の交流という点では、都人が琵琶湖と比良山系の景観の美しさに
魅かれ訪問することが多かったようであるが、民間でも、例えば、満月の
夜の明るさを利用して安土など対岸の地域と祭りを行うなどの十五日祭があり、
湖上を行くことの便利さを利用した活動が見られた。
更に、後年になれば、多くの小説に琵琶湖を中心とした情景や人のならいが
描かれている。
満月に光り輝く湖面の美しさは水墨画と言えども描き切れないモノクロの見事な
世界である。この情景を見れば、黒い色と言えども、万象深遠の深さを描きうる
ということがよくわかる。
以前にもあげた泉鏡花の瓔珞品(ようらくぽん)
琵琶湖の夜の美しさに魅了された主人公が何度となく琵琶湖を訪れる。
天人石を探したり、夢の中で鮒になったり、無限の世界を体感する。
「水を切る船端の波の走るのが、銀を落とすと、白い瑠璃の階きざはしが、
星を鏤めてきらきらと月の下へ揺れかかって、神女の、月宮殿に朝する
姿がありありと拝まれると申します。」「霜のように輝いて、自分の影の
映るのが、あたらしいほど甲板。湖水はただ渺茫として、水や空、南無竹生島
は墨絵のよう。御堂の棟と思い当たり、影が差し、月が染みて、羽衣のひだを
みるような、、、」と夜の湖水を表現している。
瓔珞は仏像の胸や頭を飾る飾り。石山や彦根、竹生島などが背景にある。
更には、
「前後に松葉重なって、宿の形は影も留めず、深き翠みどりを一面に、眼界
唯限りなき漣さざなみなり。この処によずるまで、手を縋り、かつ足を支えた、
幹から幹、枝から枝、一足ずつ上るにつれて、何処より寄することもなく、
れん艶たる波、白帆をのせて背に近づき、躑躅を浮かべて肩に迫り、倒さかさまに
藤を宿したが、石の上に、立ち直って、今や正に、目の下に望まれた、これなん
日の本の一個所を、琵琶にくぎった水である。
妙なるかな、近江の国。卯月の末の八つ下がり、月白く、山の薄紅、松の梢に
藤をかけ、山は翠の黒髪長く、霞は里に裳もすそを曳いて、そよそよとある風の
調べは、湖の琵琶を奏づるのである。」

更には、田山花袋の「湖のほとり」
「湖水でとれるヒガイ、若鮎、蜆の汁、そういうもので私たちは午飯をすましたが、
昼ややすぎて餓を覚えつつあったときには、殊に一層の美味を感じた。
私たちはやがて再び汽船に乗った。少し酔った顔を風に吹かせながら、潤い湖上
を東から西へと横切っていく感じはなんとも言われなかった。、、、、
湖上から見た大津の町は、いかにも趣きに富んでいた。白亜と瓦甍、その間を
縫った楊柳の緑、その上に緩やかに靡いている逢坂山の丘陵、それも汽船の
進むに連れて次第に遠く、比叡、比良の翠らんをその前に見る様になる頃には
唐崎の根を張った松も蓮や志賀の都の址も、明智佐馬之助の自害した阪本の
城の位置もそれとさやかに差す事が出来るようになった。」
ほぼ湖の沿岸全域を訪れ、同行者との会話や蕎麦やビールなどの食べ物関係の
記述が多く、雑感的な仄々とした味わいがある。
また、田山花袋の文にもあるように湖魚はその味わいに透明感があり、古くから
天皇への献上も行われていた。
「鰉ヒガイ」はその名の示すように明治天皇をはじめ多くの高貴な方々が好んで
食したことからこの名がついたとある。また鮎もまた朝廷への献上品でもあり、
その香りの良さから香魚ともいわれた。7月前後の鮎は香りもよく味もさっぱりして
抜群だ。琵琶湖は食文化への影響としても大きかった。ここでは2つほど事例
をあげたが、このように志賀を含め、琵琶湖と周辺の情景や食について描いた本は、
100冊近くはあるようだ。
これは、湖上交易により育まれてきた文化がその背景にもあるのだろう。

しかし、同じく「和邇のみなと文化(似内 惠子氏)」に記述されている以下の文も
注意を向けるべきなのかもしれない。
以下記述、
3)交易により育ってきた「みなと文化」
(1)交易・運行制度
琵琶湖は、中世から様々な利権が交錯し、紛争を生んできた。特に漁業権と船の輸送権
については、諸浦同士の争いが絶えなかった。
それを統制するための諸制度の中で、特に重要な大津百艘船・船奉行の制度を中心に、
琵琶湖の交易・運行制度について解説する。
これらの制度は琵琶湖全域に及び、和邇もその影響下にあった。
大津百艘船(おおつひゃくそうぶね)とは
大坂に城を築いた豊臣秀吉は、北国-琵琶湖-大津-伏見-大坂のラインに
重きを置いた。当時大津港に船が少ないのを見て、近くの港から百艘の船
を集め「大津百艘船」とよぶ船持仲間を創設したのである。
五力条からなる定書を発し、そのなかで大津港の百般船以外にはすべて
の荷物・旅人を乗せないという特権を与えた。
天正15年2月16日に浅野長吉が下した高札は次のようなもので、近世
を通じて大津百艘船の特権として認められていく。


一、 当津荷物・諸旅人、いりふねにのせましき事、
一、 当所へ役義つかまつらさる舟に、荷物・旅人のせましき事、
一、 他浦にてくしふねにとられ候ハ、此方へ可申上候、かたく可申付事、
一、 くじふねにめしつかい候とき、あけおろしの儀、せんとう共仕ましき事、
一、 家中の者下にて舟めしつかい候儀、曲事候、もし舟つかい候ハんと申もの候ハ、
此方へ申上候事、
右之旨相そむくともがらあらハ可加成敗者也、
天正十五年二月十六日 弾正少弼(花押)

琵琶湖を中心とするその交易の多さは、多くの経済的政治的仕組みを作り
上げているが、江戸時代までは堅田や湖北のみなと中心の文化の醸成も
同時に進んでいる。これは、倉敷や尾道などの海上交易で豊かな街を
作り上げていった地域と似たような状況であろう。
それを考えれば、やはり琵琶湖は大きい。しかし、それも明治以降の
大きな変化には呑み込まれていった。残念ながらわれわれはその遺構に
懐かしさを覚えるだけだ。

2018.07.23

西近江路紀行12 北小松周辺

西近江路紀行12 北小松周辺

鎌倉時代以降になると、京都と東国を往還する人々も多くなってくる。
京都の公家たちも、鎌倉幕府の要請やみずから鎌倉幕府との人脈を求めて
鎌倉へ下向していった。また、東国への旅が一般化すると、諸国の大寺社
や歌枕を実際に見聞しに行く者たちも増えていった。
「宋雅道すがらの記」を記した飛鳥井雅縁もそんな一人である。
宋雅とは出家後の号、飛鳥井家は和歌,蹴鞠の家として知られ、家祖雅経
の頃から幕府、武家との関係が親密であり、雅縁も足利義満の信任が
非常に厚かった。そんな雅縁が越前国気比大社参詣に出立したのが、
応永三十四年2月23日、70歳の時である。
実は、この紀行文も旅から帰った後、将軍義教より旅で詠んだ和歌がある
だろとまとめの要請があって記したものである。旅の路順は湖西を船で
進んでいたようで、日吉大社を遥拝し、堅田を過ぎて、真野の浦、湖上
より伊吹山を眺め、比良の宿に宿泊している。そこで、比良の海や
わか年浪の七十を八十のみなとにかけて見る哉と自分の年齢をかけた
和歌を詠んでいる。翌日は小松を通っている。小松の松原を目の当たり
にして、小松と言う所を見れば名にたちてまことにはるかなる松原あり
我が身今老木なりとも小松原ことの葉かはす友とたに見よ同じく
長寿を保つ松原に呼びかけるような和歌である。次は、白鬚、ここでも、
神の名もけふしらひけの宮柱立よる老の浪をたすけよ
と、長寿をまもるという白鬚神社に自分の老いを託している。
そして、竹生島を船上より眺め、今津、海津、そこから山道をとって、
29日には気比大社に詣で、参籠して3月17日に帰京している。

将軍などの見聞旅行に随行の記録もある。
冷泉為広が細川政元の諸国名所巡検の同行記録では、
出立は延徳3年京を山中越えで坂本へ、比叡辻宝泉寺に宿泊。翌日は船
に乗り湖上を行った。東に鏡山、三上山、西に比良山,和邇崎を見ながら
の通航であった。そして、船中であるが和邇で昼の休みを取っている。
次に映ったのが、比良あたりの松である。
ヒラノ流松宿あり向天神ヤウカウトテ松原中に葉白き松二本アリ
「向天神」とは現在も北比良に鎮座する天満神社のことであろう。
「ヤウカウ」は影向で、「近江国與地志略」などにいう、社建立の際
に生じたという神体的な要素を持つ松のことである。

また、小松のところでは、「コノ所ニワウハイノ瀧ト伝瀧アリ、麓に天神マシマス」
として「ワウハイ、楊梅瀧」について記している。
コノ瀧については、「近江国與地志略」でも、
・楊梅瀧  小松山にあり、小松山はその高さ4町半あり。瀧は山の八分
より流る。瀧つぼ五間四方許、たきはば上にて三間、中にては四間,下にては
亦三間ばかり、この瀧、長さ二十間、はばは三間許、水は西の方より流れて
東へ出、曲折して南へ落、白布を引きがごとし、故にあるひは布引の瀧といふ。
瀧の辺り,岩に苔生じ,小松繁茂し、甚だ壮観なり。
とみえ、近世には名所となっていたことがわかるが、冷泉為広の時代にもすでに
注目に値する名勝であったらしいことがうかがえる。そして、一向は湖上の旅
を続け陸路で敦賀,武生と進み、越中,越後をめぐり4月28日に京都へ
帰っている。

北小松には、柴刈の時に唄う囃し歌がある。
昔は、柴と米とは生活するのに一番大切なもので、「米炭の資」と言って生活に
大切なものと言う喩えもあった。
「柴刈りうた」
山へ行くならわし誘とくれ
山はよいとこ気が晴れて
涼みむき上げて花一越えて
どんどと下がれば畑の小場
大滝小滝は唄で越す
どんどと下がればしたえ松
したえ松からかきの小場までも
まだも待つのか弁当箱

北小松を含め、柴や枯れ木は当時重要なエネルギーであり、小松の港等を
中心に大津や対岸の村々に運ばれたのであろう。この囃子歌はその名残でもある。
「小松の歴史」という本には、近代のこの地域の生活の様子の一端が
描かれているが、それは志賀地域全体の生活の姿でもあったのだろう。
「電気もない、ガスもない、石油もない大正初期までは薪炭や小柴は夜の
燈火であり、熱源であり暖源でもあった。、、、、
山林資源は、早馬で駆け回る位ともいわれるくらい採伐枝、間引き、下草刈り
に専念し、小柴、薪炭、建築用材として伐り出し、小柴、割り木は、燈煮暖
の火源でもあった。「ニケ山」と称する女の人の小柴刈「ダンド刈」という
小柴刈は6束の小柴で十分生活が維持できた。
蚕を養い、麻を作り、これを織り小柴や木材を伐りだしても運搬の困難な奥山、
高山は一木も生えさせないように、村内総出の木引作業の総出で、大草原化
してこのこの青草を刈り帰り、牛の飼料と寝藁にして堆肥化し、余分は高島郡
の農家に刈り権を売却した。
木材を伐り出し、石材を切り出し、南小松は藻を刈り肥料とし、稲作りは何とか
自給できた。衣服も綿以外はほとんど自活、漁業収入、山林、木材、薪炭収入は、
生活外の収入となり、住みよい土地であった。、、、、
北陸より京都に、また近江各地より集められる物資を積んだ白帆が万帆で、
さしも広い琵琶湖を埋め尽くしていたと古老の幼児時代を思い出す。」
だが、徳永真一郎の「琵琶湖に命をかけて」にも描かれているように、
大雨による琵琶湖周辺の田畑の被害は大きく、彼らは絶えずそれに悩まされていた。
「少し雨が降り続くと、すぐに琵琶湖の水かさがふえ、魔物のように泥水が
這い上がってきて、湖岸一帯の田畑は、忽ち水の底に沈むのだ。それが隔年
ごとに起こるのだ。大雨が降っても、すぐに水込になることはない。
「後込7日」といって、7日後に水位が最高潮に達する。それを見計らって
朝早くから夕方遅くまでみんなが交代で水車を踏んで、排水に汗を流さねば
ならなかった。」

さらに、少し山側にそれると、徳勝寺(大津市北小松)の境内に咲く枝垂桜
があり、種徳禅寺は「弘法大師堂」は安産祈願を司り、庭園は、大きな
坐禅台があり、枯れ池と大きな石橋、池端の雪見灯篭、小ぶりの山灯篭
が配置されている。琵琶湖の景観が素晴らしい。また、種徳寺には、隣村
との境界争いで、江戸まで直訴におよんだ村人53人の碑石「種徳寺七代寿王和尚建之 
享保二年二月」がある。
八月一七日には、碑前で北小松五ケ寺の住職による供養が行われる。
江戸時代の直訴に対する厳しさを知るものだ。
この争論は、「鵜川山境争論」として200年余りも隣村との入会山をめぐって
のモノとして有名であり、最初の自伝書として明治までよく読まれていた
新井白石の「折りたく柴の記」にもその記述がある。

小松漁港を出ると再び国道と合流する。この付近から比良山地と湖が
接近している。道は湖の際を通り、やがて志賀町と高島町の境をなす鵜川
にさしかかる。このあたりは、かって鵜を使っていたところから川名と
旧村名のその名がついたといわれている。
西近江路はさらに続くが志賀の街はここまでだ。  (完)

2018.07.15

西近江路紀行11 北小松

西近江路紀行11 北小松

国道のすぐ横に大きな石碑と石の鳥居が悠然と立っている。
北小松の樹下神社である。湖から続く参道を行くと、境内社には、
比較的大きな社務所があり、天滿宮、金比羅宮、大髭神社が仲良く
一線に鎮座している。本殿の前には石造りの社があり、天保時代の
石燈籠など8基ほどあり、この神社への信仰の篤さを感じる。
珍しいのは大きな石をくり抜いたであろう石棺や緑の縞が明瞭に
出ている2メートルほどの守山石。
この地域の石文化の一端が感じられる。湧水も豊富であり、3箇所
ほどの湧き口からは絶えることなくなく流れ、竜神像の口からも出ている。
神社の鳥居を湖へと向い、北小松の集落に入る。ここは、伊藤城跡
(小松城跡)といわれ、集落をめぐる石の水路が城下の面影を見せる。
戦国期の土豪である伊藤氏の館城、平地の城館跡の余韻を残している。
現在の北小松集落の中に位置し、「民部屋敷」「吉兵衛屋敷」
「斎兵衛屋敷」と呼ばれる伝承地があるが、十分な形ではない。
集落は湖岸にほど近く、かっては水路が集落内をめぐりこの城館
も直接水運を利用したであろうし、その水路が防御的な役割を演じて
いたであろうと思われる。集落を歩くと、幾重にも伸びている溝や
石垣の造りは堅牢で苔生したその姿からは、何百年の時を感じる。
旧小松郵便局の前の道は堀を埋めたもので、その向かいの「吉兵衛屋敷」
の道沿いには、土塁の上に欅が6,7本あったと言われているし、
民部屋敷にも前栽の一部になっている土塁の残欠があり、モチの木
が植えられている。土塁には門があり、跳ね橋で夜は上げていたと
伝えられる。

前述の司馬遼太郎の「街道をゆく」では、
「北小松の家々の軒は低く、紅殻格子が古び、厠の扉までが紅殻が
塗られて、その赤は須田国太郎の色調のようであった。それが粉雪に
よく映えてこういう漁村がであったならばどんなに懐かしいだろうと
思った。、、、、私の足元に、溝がある。
水がわずかに流れている。村の中のこの水は堅牢に石囲いされていて、
おそらく何百年経つに相違ないほどに石の面が磨耗していた。
石垣や石積みの上手さは、湖西の特徴の1つである。山の水がわずかな
距離を走って湖に落ちる。その水走りの傾斜面に田畑が広がっている
のだが、ところがこの付近の川は眼に見えない。
この村の中の溝を除いては、皆暗渠になっているのである。この地方の
言葉では、この田園の暗渠をショウズヌキという」とある。
いまでも、それらは残っている。

この志賀周辺には、15か所ほどの城跡があるという。半分が山城であり、
あとは昔の村ごとに湖辺近くに建っていたようだ。だが、今はいずれも
その影すら見えない。ほとんどが織田信長の比叡山攻めのときに消えた。
交通の要路としての重要性を示すものだが、北小松と比良の平城跡以外は
その残香さえない。
さらに、この北小松を含め、志賀には、14箇所ほどの鉄生産の場所がある。
もっとも、多くはすでにその残骸さえ確認できないが、集落の手前の山麓
には、今でもその鉄の残滓を掘り出せる。小さな名所にでもなれば、と思うが。

「志賀町製鉄関連遺跡 遺跡詳細分布調査報告書(1997)より
平成6年から8年の調査では、14基の製鉄遺跡が確認されたという。
北から北小松の賤山北側遺跡、滝山遺跡、山田地蔵谷遺跡、南小松の
オクビ山遺跡、谷之口遺跡、弁天神社遺跡、北比良の後山畦倉遺跡、
南比良の天神山金糞峠入り口遺跡、大物の九僧ケ谷遺跡、守山の金刀比羅神社
遺跡、北船路の福谷川遺跡、栗原の二口遺跡、和邇中の金糞遺跡、
小野のタタラ谷遺跡である。
更に総括として、
「各遺跡での炉の数は鉄滓の分布状態から見て、1基を原則としている。
比良山麓の各河川ごとに営まれた製鉄遺跡は谷ごとに1基のみの築造を原則
としていたようで、炉の位置より上流での谷筋の樹木の伐採による炭の生産
も炉操業に伴う不可欠の作業であった。下流での生活、環境面の影響も考慮
されたのか、1谷間、1河川での操業は、1基のみを原則として2基以上
の操業はなかったと判断される。各遺跡間の距離が500もしくは750
メートルとかなり均一的であり、おそらく山麓の半永久的な荒廃を避け、
その効率化も図ったとも考えられる」。
北小松以外でも、このいくつかの遺構では、赤さびた鉄滓が探し出すことが
出来るが、民家に近いという点では北小松が最適かもしれない。枯葉の中を
夢を追いながら1千年以上前の残り香を嗅げる、素晴らしいことかもしれない。

集落の外れには、小松漁港がある。志賀町史では、「北小松、北比良、南比良、
和邇の北浜、中浜、南浜があった。和邇は、天皇神社含め多くの遺跡があり、
堅田や坂本と並んで湖西における重要な浜津であった」とあるが、今も港
として残っているのは、和邇とこの小松漁港だけだ。また、小松漁港も石造り
の防波堤や港周辺の様々な造りに石が上手く使われており、近世からの時代
の趣を残しているのだ。

漁港を出て、さらに北へと進むと、左側の比良山系に一筋の滝を見ること
が出来る。この滝は、天文23年(1554年)に足利13代将軍義輝が
比良小松に遊んだ時に「楊梅の滝」と名付けたと伝えられている。
「楊梅」とは、高さ十数mにもなる「ヤマモモ」の木を意味し、山中を
堂々と流れ落ちる滝の水柱をその大木にたとえて、「楊梅の滝」と名付け
られたといわれている。この「楊梅の滝」は、県下一の落差を誇る滝で、
雄滝、薬研滝、雌滝の三段に分かれ、落差は雄滝で40m、薬研の滝で
21m、雌滝で15mほどあり、合わせて76mになる。湖上船や
JR湖西線の車窓など遠くからでも眺める事が出来、その遠景は白布を
垂れかけたように見える事から「白布の滝」や「布引の滝」とも
呼ばれている。この滝への道の途中には、苔むした石碑が
あり、「涼しさや 一足づつに瀧の音」と刻まれている。多くの旅人が
ここを訪れたのであろう。
少し前までは色々な品種の桜が植えてあり、春になると桃色、白に
わずかな朱がさしているもの、紫色の花や形の違う花などその艶やかさ
を競ったというが、今その面影はない。
雄滝の主は大蛇で、山頂付近の小女郎には雌の大蛇という昔話も
あったそうだ。
また、この滝を更に登ったところには、昔氷室があり、冬に切り出した
氷を保存していたとも言われている。平清盛が熱病に罹った時には、
このあたりの氷を運んだといういつ伝承もある。

江戸時代の享保19年に編纂された「近江興地志略」には「滝壺5間四方
ばかり滝の辺、岩に苔生じ小松繁茂し、甚だ壮観なり」とあり、滝の状況
を記すとともに、比良山系のなかでも景勝地の1つであった事を示している。
揚梅の滝への道は、北小松の集落の外れが登り口になっている。
その道筋に楊梅滝道の道標があるが、それには児童文学者の巌谷小波の
「涼しやひとあしごとに滝の音」の句が刻まれている。

2018.07.08

西近江路紀行10 比良と小松ま

西近江路紀行10 比良と小松まで

比良や南小松の周辺に拡がる森のたたずまい、志賀の魅力を
感じて移り住む人も多い様だ。

ある陶芸家と木工作家、画家の想いを聞くと、それがよく分かる
・ある陶芸作家の想いより
琵琶湖の自然は「インスピレーションの源」である。
眼下に琵琶湖が一望できる工房からは、毎日異なった「空の青」
と「湖の青」が広がっている。この風景が作品に大きく影響している。
琵琶湖の白波に感動しては青磁に白い線を入れ、命の源である
「水」を表現する。
大自然と対話を繰り返しながら作品作りを進めた。
作品は徐々に評価され始めたが、まだ失敗を繰り返すことも多く、
技法に限界を感じかけていた2005年、日本伝統工芸展に
出品した作品が、宮内庁買い上げとなった。「何か大きな力」
が自分を後押ししてくれるように感じました。
これからも人に力を与えられるものを作りたい。
願わくば、焼き物への関心が低い人へも」

・桶職人と言うよりか、木の工芸家の方は、
比良工房で製作している桶は、大きな檜などの原木から作り
上げていきます。材木屋さんから丸太で届いた木は、割る
のにも一苦労。小さなぐいのみも、おひつも、まずはこの
作業から始める。
大人がしゃがんだ高さほども直径がある木か形を創って行きます。
ここまで育つのに、どれくらいの年数がかかったのでしょう。
「樹齢と同じ年数使える桶を作れ」祖父の言葉です。
そして、この志賀の自然環境が私の作品つくりには欠かせない
もであり、京都からこの地に来た成果であります。

この2人の想いと同じ様な自然に魅了された人々が志賀の北部
に居を構え、地域の中で、自身の作品などを創作し、見せること
になどで日々の生活を営んでいる。
例えば、
歴史や文化、伝統をになって代々暮らし続けてきた者、この地
に魅せられ移住してきた者、ギャラリー・工房を構え創作活動
する者。さまざまな人々が手をとりあって、元気な比良を発信
することを目的にして、普段は公開していない作家の工房や
アトリエを開放したり、ギャラリーなどでは地域にちなんだ
展示をしたり、他にも比良の子供たちの絵画展や比良にゆかり
のある作家たちの作品展、一般参加型のスケッチ大会、歴史散策、
里山コンサートなどを催している。
菓子工房、カフェ、地元食材のお弁当の美味しい店、アウトドア
の店、幾つかの陶芸家の店、庭工房、日用品の工房、アンティーク
ハウス、アトリエ、など琵琶湖と比良山系にはさまれ、人々の
暮らしと自然が融合した地域の作品やもてなしをしている。
びわ湖に比良山脈がせまる細長い土地、それがこの比良。
そこには雑木林があり、里山の生活もある。
今では珍しくなったしし垣といって獣と人間が住み分けをする
ために作られた石垣も残されているような土地なのだ。

琵琶湖周辺でも、湖西と湖北は、まだ古きよき日本の原風景を残している。
更には、生活の中に琵琶湖と比良の山並が滑り込んで、その古さ
と新しさの調和を活かしている場所でもある。多くの古代文化の
遺跡や古墳など形あるものは、数百年の時により、消え去り埋没
したかもしれないが、人をベースとする文化は継続して残っていくし、
その自然も他に比べて生きている。

さらに、このあたりから満月の夜に琵琶湖を見回した光景が泉鏡花の
「瓔珞品ようらくぽん」の一節に幻影的に描かれている。
もっとも、この情景は琵琶湖の東側から臨んだものであるが、
満月の夜、雄松崎や小松の浜辺からの光景も同じように鑑賞できる。
「琵琶湖の夜の美しさに魅了された主人公が何度となく琵琶湖を訪れる。
天人石を探したり、夢の中で鮒になったり、無限の世界を体感する。
「水を切る船端の波の走るのが、銀を落とすと、白い瑠璃の階きざはしが、
星を鏤めてきらきらと月の下へ揺れかかって、神女の、月宮殿に朝する
姿がありありと拝まれると申します。」「霜のように輝いて、自分の影の
映るのが、あたらしいほど甲板。湖水はただ渺茫として、水や空、
南無竹生島は墨絵のよう。御堂の棟と思い当たり、影が差し、月が
染みて、羽衣のひだをみるような、、、」と夜の湖水を表現している。
瓔珞は仏像の胸や頭を飾る飾り。石山や彦根、竹生島などが背景にある。
更には、
「前後に松葉重なって、宿の形は影も留めず、深き翠みどりを一面に、
眼界唯限りなき漣さざなみなり。この処によずるまで、手を縋り、
かつ足を支えた、幹から幹、枝から枝、一足ずつ上るにつれて、
何処より寄することもなく、れん艶たる波、白帆をのせて背に近づき、
躑躅を浮かべて肩に迫り、倒さかさまに藤を宿したが、石の上に、
立ち直って、今や正に、目の下に望まれた、これなん日の本の一
個所を、琵琶にくぎった水である。
妙なるかな、近江の国。卯月の末の八つ下がり、月白く、山の薄紅、
松の梢に藤をかけ、山は翠の黒髪長く、霞は里に裳もすそを曳いて、
そよそよとある風の調べは、湖の琵琶を奏づるのである。」
だが、ある人に言わせると、冬の夜の琵琶湖の満月が好きだ、という。

昨日からまた雪が降り出し、比良の山も湖も灰色と白く舞う雪の花に
ひっそりと見え隠れする。
白く輝く光りを浴びた湖面は三角錐の八幡山と皿を伏せた沖島の島影を
浮き立たせ、細かな波状のつらなりが丸く輝く月の下で揺れかかっている。
雲一つ無い闇天の空に神々しく輝く満月がその様をのぞき見ている。
山と空、水、沖舟にさす影、羽衣のひだと思わす波のはしり、それが
墨絵の趣で眼前にある。
彼は、凍えそうな手に己が息を吐きかけ、闇に身を置いていた。
湖水は寂寞として何も言わず、橋を渡る赤いいくつもの筋のみが
消えてはまたその緩やかに伸びる赤い帯を現していた。
さらには、湖北の雪の残り香であろう雪の切片が湖に薄く舞い落ち
月光に染められ、銀砂をまいているように湖水の面に踊っていた。
湖面も月光に染められ銀色の波がひろがる上に小雪が舞い落ちている。
だが、月が雲にかき消されると平板な重く澱んだ水面となり、
すべてが凡庸な湖の世界となる。
いずれにしろ、四季の中で満月に出会うことがこの地をあらためて
記憶にとどめることになる。

西近江路は、楊梅の滝に水源を持つ滝川を越え、樹下神社の前辺りで
国道と分岐する。右側の狭い旧街道に入る。旧街道には、北小松の
集落の家並みが細長く続き、道の左に溝をとるなど街道の面影を
よくとどめている。
この集落の右側には、すぐに琵琶湖に接し、古くから小松津とよばれ、
湖上輸送の船着場として知られる。「堀川後百首」にも「さざなみや
小松にたちて見渡せば、みほの岬に田鶴むれてなく」の歌がある。
そして北小松は水陸の輸送の便に恵まれ、明治13年当時は船63隻
旅籠が七軒もあった。

2018.07.01

西近江路紀行9 南小松

西近江路紀行9 南小松

「比良の山嵐が吹き降りる湖岸に眼をやると、近江国與地志略
には、比良北小松崎 則比良川の下流の崎なり。往古よりふるき
松二株有り。湖上の舟の上下のめあてにす」と、
その由緒を記す小松崎がある。現在の近江舞子、雄松崎付近
にあたるのであろう。
この小松崎も大嘗祭の屏風歌に詠みこまれるほどの歌枕であった。
六条天皇の大嘗祭の折には、平安時代後期の代表的な歌人である
藤原俊成が悠紀方の屏風歌を勤め、梅原山、長沢池、玉蔭井と
ともに小松崎を詠んでいる。
「子ねの日して小松が崎をけふみればはるかに千代の影ぞ浮かべる」
子の日の遊びをして小松が崎を今日みると、はるかに遠く千代
までも栄える松の影が浮かんでいる。というのが、和歌の主旨で、
天皇の千代の代を言祝いだ和歌である。
子の日の遊びと言うのは、正月の初の子の日に小松を引き、若葉を
摘んだりして、邪気を避け、長寿を祈った行事である。
小松崎と小松引きとが上手く掛けられている。
松を含む地名自体、めでたいとされたのであろう。

また、平安時代後期の歌人としても、似顔絵の先駆者としても
著名な藤原隆信も小松崎を「風わたるこすえのをとはさひしくて
こまつかおきにやとる月影」と詠んでいる。
この和歌には、こまつというところをまかりてみれは、まことに
ちいさきまつはらおもしろく見わたされるに、月いとあかきを
なかめいたしてという詞書が記されており、隆信が実際に
小松崎を訪れて詠んだ歌であることが察せられる。
隆信の和歌が小松を訪れて詠んだ和歌ならば,小松に住む人
にあてた和歌もあった。
「人のこ松というところに侍りしに、雪のいたうふりふりしかば、
つかしし、朝ほらけおもひやるかなほどもなくこ松は雪に
うづもれぬらむ」
作者の右馬内侍は平安時代中期の歌壇で活躍した女流歌人、
小松に近づく雪の季節に対して、そこに住む友人をおもんばかる
気持がよくあらわれている。
小松あたりの冬の厳しさは有名であったと察せられる。

道を少し山側にとると、石燈籠と石の大きな鳥居に導かれ、
八幡神社へと入る。古来より西近江路の交通の要衝としての志賀
周辺は様々な道標があった。
そんな中ででも、白髪神社の道標が7つほど現存している。
古来白鬚神社への信仰は厚く、京都から遙か遠い当社まで数多く
の都人たちも参拝した。その人たちを導くための道標が、
街道の随所に立てられていた。
現在その存在が確認されているのは、7箇所(すべて大津市)で、
建てられた年代は天保7年、どの道標も表に「白鬚神社大明神」
とその下に距離(土に埋まって見えないものが多い)、左側面に
「京都寿永講」の銘、右側面に建てられた「天保七年」が刻まれている。
二百数十年の歳月を経て、すでに散逸してしまったものもあろうと
思われるが、ここに残されている道標は、すべて地元の方の温かい
真心によって今日まで受け継がれてきたものであり、その最後の
道標が南小松八幡神社の参道の手前にある。

これ等の道標と同じように、この地域は今もなお共有の古文書、
絵図、歴史資料をはじめとする地域の文化財が大切に守り
伝えられている。さらに、地域の自然景観などの変遷をたどる
うえで重要な古地図が各地域併せて約600点以上も残されている。
これ等により急峻な山並みが琵琶湖まで迫る志賀の地形と河川の
氾濫などによる自然変化とそれに対する住民の知恵がよくわかる。
例えば、四つ子川の氾濫を防ぐために作った百閒堤や村を囲う
ように作られたしし垣の存在、土砂の堆積による天井川などの
地形変化などが見られる。大物村の山側には、百閒堤が明記されて
おり、さらに点在するしし垣がこの大物以外でも多く存在していた。
また、10数港もあった漁業のための港や舟入の存在を明記した
絵図などもある。舟入に限らずそのほとんどはすでに時の流れの
中で、消え去り、伝承や古文書の中に見られる。
だが、これ等はまた古くから文化が育ち栄えたという証でもある。
ここには、近世から都人が親しんだ「探勝的景観」と古地図に
見られるような「生活的景観」がうまく調和し、現在でもなお
我々に他にはない自然との共生をもたらしている。
西近江の周辺を歩くだけでも100年以上も前の絵地図の片鱗が
見受けられるのも楽しみの1つかもしれない。

八幡神社は、南小松の山手にあり、京都の石清水八幡宮と同じ時代
に建てられた。木村新太郎氏の古文書によれば、六十三代天皇
冷泉院の時代に当地の夜民牧右馬大師と言うものが八幡宮の霊夢
を見たとのこと。そのお告げでは「我、機縁によってこの地に
棲まんと欲す」と語り、浜辺に珠を埋められる。大師が直ぐに
目を覚まし夢に出た浜辺に向うと大光が現れ、夢のとおり聖像
があり、水中に飛び込み引き上げ、この場所に祠を建てて祀った
のが始まりとされる。祭神は応神天皇、創祀年代は不明だが、
古来、南小松の産土神であり、往古より日吉大神と白鬚大神の
両神使が往復ごとに当社の林中にて休憩したと云われ、当社と
日吉・白鬚三神の幽契のある所と畏敬されている。春の祭礼
(四月下旬)には、神輿をお旅所まで担ぎ、野村太鼓奉納や
子供神輿が出る。また、この辺りは野村と呼ばれ、特に自家栽培
のお茶が美味しい。八朔祭(9月1日)が行われ、夜7時ごろ
からは奉納相撲が開催される。
八幡神社の狛犬は、明治15年に雌(右)、明治 17 年に雄(左)
(名工中野甚八作)が作られ、県下では一番大きいといわれており、
体長180センチ弱だが、左右違い、そのたてがみや大きな眼
が印象的だ。また、神社の横を流れる水は裏の念仏山の湧水を
引き入れたもので透明な光となって神社の周辺を流れる。

道は、南小松の集落をあとに国道と合流して北へと進む。志賀は
急峻な比良山系の麓にあり、幾筋もの川が琵琶湖へと下っている。
それらが田畑や家々に水の恵みを与えていることもあるが、一方では、
その土砂の流れが様々な景観をも作り出している。その1つが
天井川だ。国道を北小松へと向かう途中に家棟川が国道の上を
流れている。他には、大谷川や四つ子川でも見られる。
さらに、釈迦岳、堂満岳のすそ野は緑深く里まで伸びており、一片の
緑の世界を眺めることが出来る。しかも、この緑深き里には、
外から移住してきたこの地に憧れを持つ多くの人が居を構えている。
だが、その様子はここからは計り知れない。
時間が許すのであれば、雑木林の中にひっそりとたたずむその
個性ある家並みと人々の声を聞くのも、この地を感じる1つでもある。

2018.06.24

西近江路紀行8 比良

西近江路紀行8 比良

大物をすぎると道は、ほぼまっすぐに北へ延び、右側には
琵琶湖岸に位置する南比良、北比良の集落を見下ろす事が出来る。
この湖岸線は比良浦、比良湊とよばれ、「新拾遺集」の
「ふけゆけば嵐やさえてさざ波の比良の湊に千鳥鳴くなり」
をはじめ、多くの詩歌が詠まれている。
さらには、木戸には、宿駅跡と石垣近くに常夜燈があり、
守山の旧街道の横に地蔵菩薩とともに道標がある。大物の
旧街道横に二つほど残っており、白髭神社への道標とともに
それらを味わって歩くのもよい。

比良湊については、志賀町史にも以下の様な記述がある。
「古来、比良の湊がおかれ、北陸地方との交易を中心に水運にも
従事していた。中世には比良八庄とよばれ、小松荘と木戸荘が
その中心であったという。、、、
比良湊は万葉集にも見られる。ほかにも、「比良の浦の海人」
が詠まれ、「日本書紀」斉明天皇5年三月条には、「天皇近江の
平浦に幸す」ということがあった。万葉集巻三(二七四)には、
わが船は比良(ひら)の湊(みなと)に漕ぎ泊(は)てむ沖へな
離(さか)りさ夜更(よふ)けにけり
(わが乗る船は比良の湊に船泊りしよう。沖へは離れてゆくな。
夜も更けて来たことだ)。
高市連黒人(たけちのむらじくろひと)が旅先で詠んだ八首の
歌のうちの一首がある。
この時代、海は異界との境目だと信じられていた。また、
夜は悪しき魔物たちが最も活発に活動する時間だとも
考えられていたようで、そんな魔物たちの活発に活動する
夜の時間が近づいてくる前に「湊に船泊りしよう(湊へ戻ろう)」
と言霊として詠うことで、黒人は夜を前に動揺する自分自身
の心を鎮めようとしたのであろう。

また港近くの福田寺(浄土真宗 北比良)には、蓮如が北陸に
向かうためにここに立ち寄った時に渡った橋を蓮如橋と呼んでいる。
近くには、比良観音堂があり、天満天神の本地仏十一面観音がある。
十一面観音を祀る寺として創建された。北比良城跡の石碑もある。

比良周辺は、城跡の15ほどあるが、形を残しているものはない。
さらに神社仏閣が多くある。その寺院宗派には、天台真盛宗、
浄土宗、浄土真宗、臨済宗、日蓮宗などがある。
いずれも寺院の規模は小さく、本殿と鳥居、拝殿、御輿庫、
などの付属建物で構成される。
とくに、拝殿は三間もしくは二間の正方形平面で入母屋造り、
桧皮葺(ひわだぶき)である。街道沿いには、多くの寺や寺院
の瓦屋根が見受けられる。
すこし、列記しておくと、西福寺(浄土真宗 北比良)、福田寺
(浄土真宗 北比良)、本立寺(真宗 南比良)超専寺(浄土真宗
大物)は覚如上人や蓮如上人がこの寺を参詣された。
さらに長栄寺(日蓮宗 大物)、萬福寺(真宗 荒川)、西方寺
(浄土宗 木戸)、安養寺(浄土宗 木戸)、正覚寺(真宗 木戸)、
光明寺(浄土宗 北船路)、西福寺(天台真盛宗 守山)など
比良三千坊と言われた名残りなのであろう。

さらに街道の脇には神社も多くあり、樹下神社(北小松)、八幡神社
(南小松)、天満神社(北比良)、樹下神社(南比良)、妙義神社は
比良三千坊と称され、この地が山岳信仰の中心地の1つであった
事を偲ばせる神社である。湯島神社(荒川)、樹下神社(木戸)
十禅師権現社と称し、コノモトさんとも呼ばれていた。五か村
の氏神である。若宮神社(守山)、金毘羅神社、八所神社(北船路)、
八所神社(南船路)などまさに軒を連ねる状態だ。

福田寺から湖に向かうと、そぐら浜がある。そぐら浜から北へ
延びる浜辺一帯を「ジョネンバ」と呼び、かっては石屋小屋
(石きり加工場)が軒を連ね、浜辺では氷魚、ハス、モロコなどの
地引網が盛んに行われていた。今はその面影はなく一部を児童公園
となっているジョネンバから南側のそぐら浜辺りは上納する
年貢米や特産の石材、木材、薪、および壁土、葦、瓦などの集積場で、
これらの保管する蔵が集まっていたが、いまはその跡すらない。
そぐら浜 という地名は、当時、交易で運ばれて来た物資を保管・
保存するための蔵が、立ち並んでいたことから付けられたという。
ちなみに、そぐらは、「総蔵」からきていると言われている。
ここの常夜灯は、大きく立派な造りだ。湖上が交易に使われていた
頃に、船主や船頭衆によって航行の安全を祈願して建てられたもの。
昔は毎年、当番が四国の金比羅宮に、航行の安全祈願に参拝
したことから、常夜灯のびわ湖側には、「金比羅大権現」とう文字が、
刻まれている。

道は、湖岸から参道が続く天満宮社の前を通り、坂道を登るように
して水のない比良川をわたる。この比良川の下流にあたるところは、
大きな三角州が形成され、その中に内湖をだいている。
内湖と琵琶湖の間には細長い浜が数キロも続く。比良山系から流し
出された白い砂と緑の松とが好対照をみせ、独特の景観をみせている。
古くから西近江路の景勝地として知られていた。
昭和25年選定の琵琶湖八景では、「雄松崎の白汀」とよばれ、
近年でも琵琶湖随一の水泳場として最もにぎわうところである。
白くのびやかに砂地が湖に緩やかな曲線を描き、やや緑の深い
数百本の松がそれに沿っている。まさに白砂清松の趣が強い。
さらには、湖国に春の訪れを告げる法要「比良八講(ひらはっこう)」
が例年三月二十六日にこの浜で営まれ、修行を積んだ僧侶や
修験者らが、比良山系から取水した「法水」を湖面に注ぎ、
物故者の供養や湖上安全を祈願する。

この法要は、法華八講(ほっけはっこう)という天台宗の試験
を兼ねた大切な法要で、この法要のころに寒気がぶり返し、
突風が吹いて琵琶湖が大荒れになる。これをこの周辺の人は
「比良八荒(ひらはっこう)」と呼んで、この日を「比良の八荒、
荒れじまい」の日とした。この法要が終わると湖国にも
本格的な春が訪れる、と言われている。
護摩供(ごまぐ)法要が営まれ、その煙が龍の如く立ち昇る様を
少し記述する。

その日3月26日例年の風もなく、穏やかな日和である。
近江舞子は白く長い砂浜と幾重にも重なるように伸びている松林
に静かな時間を重ねていた。冬の間は、この砂の白さも侘しさ
が増すが、比良山系の山に雪が消えるこの頃になると一挙に
明るさを取り戻す。山々もここから見ると蓬莱山、武奈岳など
が何層にも重なり合い和邇から見える景観よりも変化に富んだ
顔を見せる。その幾層もの連なりには微かな雪化粧が残って
いるものの、すでに木々の緑がそのほとんどを支配し始めている。
浜への途中には、子供たちの声とともに和太鼓の激しい響き
が鳴り響いていた。その響きにあわせてやや凹凸のある道
を進んでいくと、左手に紅白の幕が風に揺られるように手招き
していた。そして、松林の切れたその光を帯びた先に護摩法要
のための杉の枝を積み上げた小山が見えた。小山といっても
二メートルのほどの高さのものであるが、周囲をしめ縄で仕切られ、
祭壇が置かれており、比良八講の四字がたなびく幟とともに
目の前に大きく浮かんでいる。護摩壇の先には、蒼い湖が広がり
沖島の黒い姿が見えている。陽射しはこれら全てに容赦なく
注ぎ込まれ、更なるエネルギーを与えているようにも感じられる。
やがて、法螺貝とそれに先導された僧や行者が念仏を唱える音、
人のざわつきの音、道を踏みしめる音などの様々な音が横を
緩やかな風とともに通り過ぎていく。そして、それに連なる祈祷
を受ける人々の一団が思い思いの歩みで現われる。背筋をキチン
と伸ばし、ただ一直線に護摩法要の祭壇を見ている老人、
数人で談笑しながら歩む中年の女性たち、孫と手を携えている
老婆、各人各様の想いが明るく差し込む木洩れ陽の中で踊っている
ようだ。

そこには、信仰の重苦しさは感じられないけど、明るさがあった。
法螺貝が止み一つの静寂が訪れ、次へと続き僧や修験者の
読経が始まり、やがて阿闍梨(あじゃり)の祈祷となる。
阿闍梨の読経する声は一つのリズムとなり、護摩法要の祭壇を
包み込み、その声が一段と高まり、水との共生をあらためて
想いの中に沸き立たせていく。その声が参列する人の上を流れ、
蒼い空の下でやや霞を増した比良の山並に吸い込まれていく頃、
護摩木を湛えた杉の小山に火がかけられいく。杉の小山から
吐き出される煙はその強さと濃さを増しながら青き天空へと
消えて行くが、その煙が徐々に渦を巻き、龍が天空を駆け上がる
が如き姿となっていくのだ。さらに燃え上がる炎は渦となり巻き
上がりながら舞う煙と一体となって龍の姿をさらに強大で
荒ぶる生き物として現出させ、ゴーと言う音ともに比良の山並み
に向かってかけ上がる。ここに護摩法要は最高潮となり、
周りを取り巻く人々も跪き般若心経を唱え始める。

2018.06.17

西近江路紀行7 荒川大物

西近江路紀行7 荒川大物

木戸の集落をすぎると、国道161号と合流し、荒川の集落から大物の家並みに入る。
この集落には、歴史的に有名な二つの寺院がある。一つは右側の道を下った所にある
超専寺であり、親鸞が流罪となり越後に向かうとき大物の三浦義忠が一考を泊めた。
そのとき、各地から親鸞を慕って多くの人がきて、義忠も親鸞の人柄に惚れ、
出家した。これにより「明空」の縫合を授かった。
このため、親鸞ゆかりの旧跡とみられ、参拝者も多い。
また、左側の道を登れば、薬師堂がある。
江戸時代には四つ子川、大谷川が大雨のたびに氾濫を起こし、特に大物の村に多大な
被害を与えた。このため、大物、荒川村には堤が何回となく作られ、水との闘いが
あった。古地図には、そのような石垣の提が集落を囲むように描かれている。特に、
四つ子川の百閒堤は今もその頼もしい姿を見せている。もし、寄り道するようであれば、
この百閒堤を見るのも楽しい。

この周辺の情景を少し小説に書いたその1節、
「湖から吹き渡ってくるわずかの風のすずとした装いを感じながら歩を進める。
大谷川の水音が聞こえるほどになると、道の集落側に堤防のような幾重にも石積み
をなして、数百メートルほど続いていた。乾いた土の褐色の道が先まで続き、
二人はゆっくりと進んだ。苔むした石の一つ一つが時代の流れを感じさせる。
この地域、昔はあちらこちらにしし垣や堤防があり、集落の出入り口にもなっていたが、
今は石の柱がわずかにその姿をとどめている。しし垣の役目にもなっていたのであろう
二メートルの高さで集落の周囲を囲むような形になっている。大谷川などの氾濫に
備えて江戸時代には水防ぎの石垣としてその役目を果たしていた。
ドロが邪魔くさそうにそんな話をしていたが、彼はその石垣に飛び上がると悠然と
歩き始めた。チャトは少し考えたが、やめにした。彼のジャンプ力では、厳しいと思ったからだ。
この大谷川の上流には、湯島の地に弁財天が祀られた湯島神社がある。
昔この地域は大谷川の氾濫が多々あり、竹生島の宝厳寺から弁財天の分霊を
いただき、祀ったという、ドロが石垣の上からまたそのような説明をした。結構話好きな猫なのだ。
以前に見た百閒堤と合わせ、この辺は水との戦いの場所でもあったのだろう。
茶畑からひょっこり白い猫が立ち現われ、その黒めの長いまなざし二人に向けたが、
これも愛想なく消えた。黒ずんだ茶の葉と千地たる光こもれる林、神社を押し込むような
小さな森、野辺の草叢、色調豊かな緑の世界だが、それ以外は石が主役のようだ。
川に沿って、下り始めると今まで目はじにあった琵琶湖が正面に来た。
平板とした青の中に三筋ほどの白い線が右から左へと航跡を残し、沖島の上には櫛
を梳いたような薄雲が数条航跡に合すかのようにたなびいている。」

さらに以下で「新近江名所図会 大規模治水工事の歴史」という記事からその
様子を垣間見てみる。
「平成25年(2013)10月15・16日に滋賀県を通過した台風26号は、県内各地に多くの
被害をもたらしました。大津市北小松の北比良山系から楊梅滝(第116回)を
経て流れ下る滝川も、JR湖西線の鉄橋付近で氾濫し、周辺の別荘地は床下まで
浸水しました。JR湖西線蓬莱駅付近から北小松駅付近にかけては、比良山系と
琵琶湖に挟まれた狭隘な地形で、山地から流れ出る大小の河川が小規模で急な
扇状地を形成しています。過去に幾多の被害に見舞われた集落は、扇状地の扇頂部の
斜面と湖岸に沿った平坦地に集まっています。こういった洪水や干ばつ被害から集落を
守った江戸時代の大規模な治水工事の歴史遺産を、訪ねてみることにしましょう。
百間堤
 JR湖西線志賀駅から線路に沿う道を高島市方向に1kmほど進むと、大物(だいもつ)
の集落に入ります。集落内の道を山手(西側)に進んで国道161号を越え、湖西道路志賀
バイパスの下をくぐり抜けます。山手の別荘地帯には進まず、右折して志賀バイパス
の側道を高島市方向に進み、左折して山に向かう林道に入ります。坂道をしばらく登ると
突然左手に巨大な石塁群が姿を現します。この石塁が四ツ子川の百間堤(ひゃっけんつつみ)です。
「大物区有文書」や『近江国滋賀郡誌』(宇野健一1979)・『志賀町むかし話』(志賀町
教育委員会1985)などによると、四ツ子川が嘉永5年(1852)7月22日卯刻(現在の暦で
いうと9月6日朝6時頃)に暴風雨で大規模に氾濫し、下流の田畑や人家数戸が流失
する被害が出ました。四ツ子川は集落の上側(西側)で左折して流れているため、
それまでも暴風雨や大雨でしばしば洪水を起こしていて、下流の集落や田畑に被害を
もたらしていました。そのため、住民は藩への上納米の減額をたびたび役所に願い出ていました。
そこで、当時大物村を治めていた宮川藩(現在の長浜市宮司町に所在)の藩主堀田正誠は、
水害防止のために一大石積み工事を起こすことにしました。若狭国から石積み名人の
「佐吉」を呼び寄せて棟梁とし、人夫は近郷の百姓の男女に日当として男米1升、女米5合
で出仕させました。1m前後の巨石を用いて長さ百間(約180m、ただし実測では約200mあります)、
天場幅十間(約18m)、高さ五~三間(5.5~9m)の大堤を、5年8ヵ月の歳月をかけて完成させました。
百間堤は崩壊することなく現在でも当時の姿をとどめ、その迫力には驚かされます。
また、下流の生活用水や水田の水源用に堤を横断して造られた水路は、石造建築の強さ
と優しさが表れています。百間堤に続く下流部の堤は女堤(おなごつつみ)とよばれ、女性でも
運べる程度の石で造られています。
こうもり穴出口
JR蓬莱駅から県道558号を北に進み、八屋戸の交差点を左折して山手(西側)の守山集落に
入ります。玄関先に守山石(蓬莱産付近でのみ産出する縞模様を持つチャート)の庭石
が据えられた民家が並ぶ細い道路をぬけ、やがて蓬莱山への登山道となる車道を進みます。
集落を抜けると、車道は山腹を横断する湖西道路の下をくぐり抜け、山腹の山荘住宅に
向かう道と山頂に向かう山道に分かれます。この山道の右手に「こうもり穴」とよばれる
トンネルがありました。
湖西道路の建設工事に先立ち、昭和59年(1984)に周辺の発掘調査が行われました
(滋賀県教育委員会・財団法人滋賀県文化財保護協会1986『国道161号線バイパス・湖西
道路関係遺跡調査報告Ⅲ 木戸・荒川坊遺跡 こうもり穴遺跡』)。山道にそって斜面を
さかのぼるように、長さ約310mのトンネルが見つかりました。そのうちの約245m分は完全な
トンネルで、ひと1人がかろうじて立って歩けるほどの幅と高さでした。トンネルの内部は
所々にロウソクを立てたと思われる穴や窪みもありましたが、土器などの人工遺物
は見つかりませんでした。
地元の住民もこの「こうもり穴」の存在は知っていましたが、いつ掘られたのか、その由来
や何のためトンネルなのか、地元の古文書にも残されていませんでした。現在では、
山腹を貫く長さ300m以上のこの謎のトンネルは、江戸時代終わり頃に水不足を解消する
ために掘られた隧道と推定されています。『志賀町むかし話』には、「水不足の守山の、
水探し事業のために掘られたもの」と記されています。平成4年(199
2)頃までは中を歩くことができたようですが、現在ではトンネル入口(西側)は埋まって
しまったようです。唯一、トンネル出口(東側)の痕跡が、湖西道路の下に残されています。
山中の歓喜寺薬師堂
百間堤のある四ツ子川の谷をはさんだ西の尾根の中腹に、平安時代に最澄が開基した
と伝えられている歓喜寺(かんきじ)の薬師堂がひっそりとたたずんでいます。
お堂に向かって左手には斜面を切り開いて平地を造成し、石垣や堀切で区切られたいくつかの
郭や庭園跡が残されていて、繁栄した様子がうかがえます。歓喜寺は、元亀3年(1572)の
元亀争乱で焼失してしまいますが、文禄元年(1592)に村人が薬師像を土中から見つけたため、
薬師堂が建立されたとされ、今日に至っています。また、薬師堂の東側山頂には歓喜寺城跡
も残されています。」

この地域は水との闘いの地域でもあった。

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