人生

2018.12.06

秋と冬のせめぎ合い小雪の頃

小雪(11月22日から12月6日ごろ)

近くの小さな山は錦繍を迎えている。クヌギ、コナラの薄褐色
と混じり合いながら赤、黄色、薄紅、幾つもの秋の色が乱れ散り
京小紋の色使い、金糸黄糸土糸緑糸に紡がれた錦の織りにも
似た派手さを見せて、ついこの間まで我が物顔に占められていた
緑のこれも黄緑や、深緑、浅い緑の森に代わって、黄昏の中に
浮かんでいる。私は、この景観を薄雲の夕刻に見るのが好きだ。
晴れた日の光の強さはこの色合いを黒くはっきりとした縁に見せるため、
何か不細工な感じがした。そこへ行くと、薄雲から射しこむ光が
黄昏模様の淡い情景を後景に見せるのは、女性の美しさと細やかな
心根が包み込むようでいて、何とも風情がある。
さらに、秋の深まりはこんもりした小さな丘の上に1つだけ立っている
公孫樹に見る。数週間前に黄色い葉群れに被われていたその小さな
公孫樹はすでに葉を落とし、灰色の白い幹の枝たちが四方へと
伸びていた。それは、すべての衣服を剥ぎ取られ、恥ずかしさに
打ちひしがれている少女の様を黄色に敷き詰められた落ち葉の上に
見せていた。
秋はこうして終わっていくのか、そんな想いが心をかすめた。

久しぶりに刈田を歩いた。遠くに薄紫の煙がゆっくりとたなびき湖へと
流れていく。煙は休耕田の雑草を焼いているのか、細く長く立ち上り
薄紫から鼠色に薄まりながらやがて薄い霞となって湖に消えた。
この香ばしい香りを嗅ぐと秋の終わりを鼻、眼、耳、さらに枯れた
稲穂の穂先を触ることで感じられた。
幼いころは、この刈田を走り回り友達と遊んだものだった。最近は、
この野焼きを禁止しろと言う連中がいるという。洗濯物に煤がつくとか
環境に良くないなどと言うようだが、日本の香りはますます
消えて行くのだろうか。
田圃の中を直線的な黒い筋が先まで伸びていた。まだ残り火があるの
だろう。わずかに赤い舌のような焔が時折、黒く焦げた線列にチロリと
現れる。そのずっと先に紅葉の衣をまとった比良の山並みが青磁の
ような滑らかな空の下に立っていた。

我が家の金柑も黄色味を増している。今年は氷砂糖を交互に詰めた金柑
シロップを味わった。早めに枝を落としたこともあって、数はそれほど
多くない。昨年はジャムだった。毎年1月にかけて黄色い点描が深緑
に浮かぶ。少し前に役割を終えた紫式部の細い枝が余計に目立った。
久しぶりの比良おろしと時雨が里を秋から冬へと導いている。琵琶湖も
灰色が多く水墨画の趣の日々が続いた。晴れた日の情景もよいが、
この淡い薄墨の世界もまた老いたものの心根を現しているようで、
何故か楽しみな想いが強い。これも年のせいか。
山茶花と椿、区別して見た事もないため、そのピンクや赤を愛でるだけで
どちらでもよい。でも、花が首を斬られたようにボロリと落ちている姿は
好きではない。でも、いずれも周辺を歩くと目立つ季節になってきた。
また、これらの中には寒椿もあるのだろう。あまり深く考えずに
その色と姿形を味わう。
何かの本に(多分、吾輩は猫の一文かも?)、人間の悪い癖に何でもすぐに
分類し、分けたがると、吾輩が言う文があったような気がする。たしかに、
分類しようが花の本質は変わることはない、私もそうしたい。

2018.12.01

西近江路紀行31 生活と文化

西近江路紀行31 生活と文化

西近江路紀行も今回でとりあえず終りとなるが、最後に少し
宗教と生活、文化について志賀町史を中心に概説しよう。
見る、感じるを深めるためにも、この地域の生活、風土を少し
ながらでも理解しておくことが肝要である。

日本には、古くから山岳を神霊、祖霊の住む世界とする観念がある。
白山信仰、富士信仰などは、その代表的なものであろうか。
水や稲作を支配する霊は山に籠り、生を受けるのも、死んでいく
のも、山であった。超自然的な神霊が籠る霊山と認識された
「七高山」の1つである比良山にも、比良山岳信仰が盛んであった。
北比良のダンダ坊遺跡、高島鵜川の長法寺遺跡、大物の歓喜時
遺跡、栗原の大教寺野遺跡などがある。
しかし、仏教の浸透が深まるに連れて、天台宗の本山系、真言系
の当山系などのように、宗教集団を形成していった。
朝廷は、近江国に妙法寺と景勝時の建立を認め、官寺とした。
最澄の天台宗と空海の真言宗は、朝廷から公認され、特に、
天台宗の勢力拡大にともない比良山地はその修行地となり、
多くの寺院が建てられた。
その様子は、「近江国比良荘絵図」でも山中に歓喜寺、法喜寺、
長法寺などが描かれている。
比良八講についても、「北比良村天神縁起絵巻」に、そのときの様子が
書かれている。また、「日次紀事」にも以下の様な記述がある。
「比良の八講 江州比良明神の社 古今曰く 比叡山の僧徒、
法華八講を修むこの日湖上多く烈風し、故に往来の船は急時
非ずんば即ち出ず」
比良山岳信仰の名残は、山ろくの神社にも残っている。
北小松の樹下神社、北比良の天満神社では、菅原道真を祭神
としている。しかし、本願寺の蓮如が8代宗主になると、浄土真宗
が近江では、急激な広がりを見せる。浄土宗は、阿弥陀仏に念仏
を唱えれば、誰でも極楽浄土にいけると説いた。蓮如は、その
布教に対して、木像よりも絵像、絵像よりも、十字名号(紺地の
絹布に帰命尽十万無碍光如来の十字を書いたもの)を重視した。
この地域での真宗の基盤は、堅田本福寺であった。
浄土真宗が拡大した要因の一つに、2回の大飢饉がある。寛喜と
寛正の大飢饉である。12世紀以降には、鉄製農具が普及して
いたが、天候不順に対しては無力であった。
また、名主層の分化、作人の自立化、などが進み、集約した
村落共同体の「惣村」が結成されるようになった。
慢性的な飢饉のため、米を常食とすることは少なかったが、
一日三食の習慣が定着し,衣服も木綿が主となった。

志賀の文化、芸術
比良の雪世界と山嵐の存在は、文学他にも、影響している。
万葉集では、
楽浪(さざなみ)の比良山嵐の海吹けば釣する海人の袖反
(かえ)る見ゆ
また、西行と寂然との和歌のやりとりでも、
大原は比良の高嶺の近ければ雪ふるほどを思ひこそやれ
おもえただ都にてだに袖冴えし比良の高嶺の雪のけしきを
とある。
この雪の様を描いたのが「比良の暮雪」として近江八景で、
有名である。また、春の季節には、
ひらの山はあふみ海のちかければ浪と花との見ゆるなるべし
花さそう比良の山嵐吹きにけりこぎゆく舟の踏みゆるまで
風わたるこすえのをとはさひしくてこまつかおきにやとる月影

鎌倉時代以降は、旅を目的とした古代北陸道としての活用が高まり、
多くの歌人が名勝や情景に歌を綴った。

浄土真宗の浸透は、平安、鎌倉時代と更に進み、広範な支持を
民衆に受ける。しかも、阿弥陀如来信仰のような極楽浄土への道
を説く教義では、仏像、仏画も盛んに作られている。この地域では、
西岸寺の阿弥陀如来立像(和邇中)
上品寺の阿弥陀三尊像と地蔵菩薩立像(小野)
いずれもメリハリのきいた明確な表情をした鎌倉時代の作品である。
安養寺の本尊である阿弥陀如来立像(木戸)と銅像の阿弥陀三尊像がある。
大物薬師堂の本尊像である阿弥陀如来像がある。
徳勝寺の薬師堂に安置されている釈迦如来座像がある。(北小松)
などがある。

さらに古代に思いを馳せれば、
万葉集に、
「山見れば 高く貴し 川見れば さやけく清し 水門(みなと)
なす 海も広し」

これを「海」から「湖(うみ)」とすれば、ここ、さざなみの里
志賀でもある。文明のあり難さを十分に、感じた昨今としては、
伊勢神宮など、自然の豊かな場所での自然循環の中で、自給自足
という伝統を守っている人々の智慧を活用したいもの。

志賀町史第1巻では、
かって滋賀県は、近江国と呼ばれた。「近つ淡海の国」である。
静岡県の西部を浜名湖にちなんで「遠つ淡海の国」と呼ぶが、
それに対して近江国は、琵琶湖によってその名がついた。
古代の湖西地方には2つの特徴がある。交通の要所である
ことと鉄の産地であることである。ともに、ヤマト王権や
ヤマト国家の中心が、奈良盆地や大阪平野にあったことと関係する。

近江は、日本列島における水上及び陸上の交通路の要であったと
言える。まず陸路から述べよう。旧いヤマト国家の時代には、
近江は「北」の国、海路で「越」(北陸地方)につうじる国と
見られていた。ならの平城京の時代には、東山道・北陸道の2つの
幹線道路(官道)が近江をとおっていた。実際には、伊勢湾がいまより
もはるかに深く湾入し、三重県桑名郡多度町と愛知県津島市との間の
渡しが難所であったため、東海道の諸国を往還する人も、しばしば
近江をとおって不破関(岐阜県不破郡関ヶ原町)を越えた。
官道には国家が管理する交通の拠点「駅(うまや)」が置かれ、
常時、緊急事態の通信連絡に備えていた。

志賀町域の古代の特徴は、なんと言っても、ヤマト政権・ヤマト王権
の中心地と北陸地方とを結ぶ大動脈が通っていたことである。
奈良盆地から後のなら街道を北上し、逢坂山をこえて湖西に入り、
小野、和邇などを経て音羽(高島郡高島町)あたりにでる。そのあと
上古賀(高島郡安曇川町)・追分などをとおって水坂峠(高島郡今津町)
を越え、若狭を回って鶴賀に至った。この道をとおる人は極めて多く
当時最大の豪族和邇部氏が運営する休息や宿泊の施設もたくさん
おかれていたはずである。
ヤマトの文化に触れることもあったので、早くから開けていたが、
それよりも北陸地方、特に、若狭・越前とのつながりが強かった
こと、それが当地の一番大きな特徴である。

次に水上交通路であるが、敦賀港と琵琶湖とを結ぶ山道は、平安時代
以後は海津へと出る「7里半越え」が最も栄える。塩津に出る「5里半
越え」は古くは湖東の陸路を通る人々が主に利用した。
琵琶湖の湖上交通のいちばん重要な津は、若狭を経由する「9里半越え」
で到着する勝野津(高島郡高島町)であった。湖上を運送する場合は、
塩津から勝野津を経て、湖西の湖岸沖をとおって大津に向かうことに
なっていた。
その後は、瀬田川、宇治川、また木津川、淀川を使う水上交通路である。
この交通路は、5世紀後半には、開かれていた。6世紀後半からは国家
管理となった。その頃湖南の要港は、唐崎の南の方の「志賀津」(現在
の唐崎、西大津)であった。そこから京都府設楽郡の木津や大阪の難波津
に下っていった。船は再び琵琶湖に戻すのだが、「狭狭波山に控き引した」
とある(日本書紀)。宇治川、瀬田川の急流は、崖っぷちで足場が悪く、
とても船を引いてさかのぼることなど出来ない。そのため、巨椋池の
6地蔵あたりから山科川に入って船を引き、四ノ宮付近で陸揚げし、
逢坂山をこえて琵琶湖に戻していたのである。

この水上交通路の運営には、船大工や船頭などのほか、多くの人々の
労働が必要である。本町域の古代の人々も多数駆り出されたことであろう。
この様な労働は、無償ではなかったので、6世紀前半以前は、湖西北部
の「製鉄王」がその費用を支出していたと思われる。6世紀後半に国営
となってからは、「ミヤケ制支配」によってまかなわれた。「ミヤケ制
支配」とは、国家の企画で開拓した水田の経営と結びついた、労働力
と必要現物との国家的調達システムである。近江のミヤケの水田は
ほとんどが湖東に開拓されたが、その小作料としての収入は湖西の
交通労働者にも使われた。

以上のように、古代の近江は、日本海と瀬戸内海とを連絡する、本州横断の
「道の国」であった。その道が旧志賀町とその沖合いを通っていたのである。
この楽浪(さざなみ)の里は、当時としては、経済的にも、政治的にも、
非常に重要な地域であったのだ。

「木戸の歴史めぐり」というかっての木戸村の村史の序文からは、
短いながらこの地に住む人々の自然との関わり、その思いが
伝わってくる。
自分の眼前に、神秘の謎を秘め、朝日夕陽に照らされて、神々しく輝く
偉大な母なる琵琶湖。琵琶湖が、木戸からでは一望でき、他の町村では
味わえないよさがある。
湖面に波一つなく、朝の静寂を破り、あかね雲とともに、母なる琵琶湖の
対岸の彼方より上り来る、こうごうしい朝日に向かい、手を合わすたびに
「ああ、ありがたい。今日も一日、幸せでありますように。」と祈る、
このすがすがしいひととき、この偉大なる母なる琵琶湖も、風が吹きくれば、
きばをむき、三角波を立て、悪魔のようにおそいかかり、鏡のような静かなる
湖も、荒れ狂い、尊い人命を奪い去る事もある。

時は移ろい、柳田や白洲の著作の中でも、ただ静かな湖岸の
地域の認識が強い。残念ではあるが、時は、全てを変えていく。

ほんの40年ほど前までは岸で洗濯をしたり、野菜を洗ったりしたもので、
湖は、地元のものにとってはそれこそ家の一部、生きていく上での
家族といってもいいほど親しみのある存在だった。
だが、人間の求める便利さや効率性のため、広い道路や遠浅の
砂浜は埋められ、湖辺はコンクリートと言う無粋なもので
固められ、湖と人々の関係は薄くなってしまった。朝や黄昏に
一歩踏み出せば逢えたさざ波や浜辺の鳥たちがひどく遠い存在となった。
日常的に体を支配してきた波のさざめきを失った人々は、不安でもあった。
長く人の心のなかに溶け込んだ潤沢な湖は、日常から離れ、
人の心根からも遠くなり、昔の語り草のような存在となった。
洗濯や野菜を洗うために湖に突き出しておかれた「橋板」も
ほとんど姿を消した。そこで交わされた日常も消えた。

この西近江路を歩きながらも、今の景観とかってあったであろう情景
を思い起こしつつ味わってもらいたい。

2018.11.22

西近江路紀行30 郷土の味

西近江路紀行30 郷土の味

この里の郷土料理は、琵琶湖と比良の山の恵み、そしてこの情景を
眼で味わえるのも1つの料理かもしれない。

山菜も湖魚も、季節によってその姿を変える。味も変える。
そこに人々の自然を愛し、人を愛する心が育まれる。多くの都人が
鬼門として感じながらも、ここを訪れ、歌に詠みこんでいったのは、
偶然ではなかった。春はやはり、春の七草と呼ばれる若芽の美味しさ
が料理に多くの彩りを添える。

七草粥の七草は「春の七草」をさし、今でも食べられている。
「せり・なずな / ごぎょう・はこべら / ほとけのざ / すずな・すずしろ /
これぞ 春の七草」。それらを簡単に、
(1) 芹(せり)水辺の山菜で香りがよく、食欲が増進。
(2) 薺(なずな)別称はペンペン草。江戸時代にはポピュラーな食材。
(3) 御形(ごぎょう)別称は母子草で、草餅の元祖。風邪予防や解熱に
効果あり。
(4) 繫縷(はこべら)目によいビタミンAが豊富で、腹痛の薬にも。
(5) 仏の座(ほとけのざ)別称はタビラコ。タンポポに似ていて、
食物繊維が豊富。
(6) 菘(すずな)蕪(かぶ)のこと。ビタミンが豊富。
(7) 蘿蔔(すずしろ)大根(だいこん)のこと。消化を助け、風邪の
予防にもなる。
もっとも、最近は少し里の奥に行かないと取れないこともあるそうだ。
七草はどれもてんぷら、和え物、煮付けどのような調理をしても、
美味しい。セリのごま和え、イタドリの煮つけ、筍とふきの煮つけ、
さらに筍ご飯、春の香りが口いっぱいに拡がっていく。
最近は中々手に入れにくくなったもろこ焼きは素焼き、酢漬け、田楽、
でもやはり素焼きかな。
わけぎはネギより細く3月ごろが美味しい。いかや油揚げなどを入れて、
ぬた料理にすると美味しい。「こしあぶら」は、「たらの芽」と並んで
好まれている山菜。独特の香りが季節を感じさせてくれる。
水田の苗は稲となり、麦が黄色く色づくころ。安曇川のやな漁が始まる
季節となる。捕れるのは「あゆ」、「ウグイ」いずれも川を上ろうと
する成長したもので大きめのもの。水を張ったトラックに「あゆ」が
ひっきりなしに運ばれて行く。「ウグイ」は「ハス」と同様骨が多い魚
で市場では人気がいまいちだが、塩焼きが抜群においしい。

夏は魚料理も多くなる。ハス魚田、小鮎の山椒煮、ごり煮、はすは
少し小骨が多いが骨切りをしてみそ炊き、煮付けにすると美味しく
食べられる。夏には欠かせない魚だ。小鮎は北小松などでは地引網
で捕っていたそうだ。山椒の辛味と香ばしさが何といえない。
てんぷらにするのもよし、ちょうど口に合う大きさが好ましい。
ごり煮はつくだ煮として売られている。夏場には欠かせない味だ。
なかよし豆という料理がある。小豆と大豆を別々に炊いて丁寧に
混ぜ合わせる。田植えの時期に皆で食べたことからこの名前がある
と聞いた。
初夏のビワマスは脂が乗っていて刺身すると一番おいしく食べられる。
ゴリは、かま揚げし、ポン酢で食す、琵琶湖の夏の風物詩。
7月から9月、7月頃の体長1㎝位の子どものゴリ、早く炊かないと
溶けてなくなるそうだ?薄い褐色を帯びた透き通るような体、
釜揚げ。琵琶湖名産の「ゴリの佃煮」、少し前までは一般お惣菜
だったけど、今は中々口に入らない。

秋は、ズイキ、ナス、大根や豆類、要するに何でも美味しいということだ。
山菜おこわは、こごめ、ゼンマイ、ユキノシタなどの山菜をニンジン、
ゴボウ、椎茸を混ぜてもち米で合わせたもの、秋の味覚がふんだんにある。
さらに、ヤマノイモはムカゴをムカゴご飯に、根を下ろしてイモ汁
にするとその粘り気の強さに驚くほど、飯にかけたりすると美味しく
滋養のある味を味わえる。食用菊はてんぷらや和え物としても美味しく
食べられる。ズイキはしのだ巻きにすると一段と美味しさを活かせる。
この時期のビワマスはあめのうおご飯として炊き込んだ身をほぐし、
ご飯と混ぜて美味しく食べられる。
みょうがもこの時期、熱湯をかけると淡いピンク色に変身する。
みょうが寿司として美味しい。

冬もまた別の味がある。鮎の幼魚の氷魚(ひうお)の細く白くその
淡白な味、ゆず酢やじゅんじゅん鍋で味わうのもよい。
又、いさざも冬の小魚としててんぷら、豆との炊き込み、煮付け、
水炊きに登場する。冬瓜もあっさり味でスープにしたり、油揚げ
との煮込みなどでカボチャと同じように食べることが多い。
この地で作られた味噌もその独特の味で比良味噌として今も
作られている。

料理はその土地で代々受け継がれてきた文化だ。その風土を
背負ってもいる。おばあちゃん、母親、そこに土地の思い出が
詰め込まれている。平均化され、平板化する食では人の心も育たない。
比良山麓の幸、琵琶湖の幸、共にうまく組み合わせ様々な料理
が里人に培われてきた。このような郷土の料理を受け継ごうと
頑張っているグループもある。

先日食べた料理グループの作った料理が浮かんできた。
今回は秋の収穫物が満載だった。落花生、カボチャ、ズイキ、アズキ、
ダイズ、シソ、もち米、等々すべて地元産。緑、黄色、褐色様々な
彩がテーブルに並び、野の香りを放っている。目まぐるしく立ち働く
料理会のメンバーの手で、それらが、落花生しょうゆおこわ、
カボチャ羊羹、干しズイキの巻き寿司、鶏つくねバーグ、なかよし豆、
シソの実つくだ煮、ズイキのすみそ和え、カボチャスープ、きゅうりの
贅沢煮、に変身する。
さらには前日作ったという自家製パンもあった。特に落花生おこわは
秋の味がじっくりと口の中を支配し、しばしの幸せに包まれた。
その時の櫛を梳いた雲と比良の山並みのまだ深い緑が思い出された。
またある時は、「わらびご飯、ビワマスコンフレーク揚げ、かぼちゃ
スィーツ、きんぴらごぼう、冬瓜スープ、紫蘇の実つくだ煮、ズイキ
のしのだ巻き、カボチャのてんぷら、食用菊おひたし」、琵琶湖の
青より青い空に包まれ育った里の実りが立ち並び、その香りと彩に、
思わず感謝!!それぞれに工夫も。例えばわらびご飯は少し味を
薄目の女性向き、きんぴらごぼうは一番人気の方のやり方を見習って
作りましたよ。味は秋の空に漂い浮かぶ気分で、満足満足の出来。

メンバーも様々な思いがある。共通した思いは、自然豊かな志賀
の味を家族に食べて欲しいと言う。
「姑として、嫁にこの地域の味を伝えたかった」、
「母親として子供たちに地域で取れる食材で手造りの料理を
食べさせたい」、
「琵琶湖の魚介類を食材にした料理をもっと知りたい」、
「地元のお年寄りからこの地域の食材を使った料理を教えて
もらうのが楽しい」、
「季節に応じた食材を使って四季を感じるのが楽しみ」、
「外から来た人間にとって豊富な湖魚の料理は参考になる」、
「冷凍食品や食材になれた若い人に季節ごとの生の食材の良さ
を知って欲しい」、
「メニューを決める時、レシピもないのに幼い頃食べた記憶だけ
から料理を再現できた時、”化石を掘り起こした気分”になる」、
「昔、おばあさんが食べさせてくれた懐かしい味が今の若い世代に
食べつながれることを信じて活動をしている」
など等。
そして、「野菜類は自分で作ったものをその日に持ち寄り、魚介類は
その日に捕れたものを使う事が大事であり、これは会の発足当時
から守るべきこととして大切にしている」との言葉であった。
まさに、郷土の味だ。

2018.11.20

寒さはやはり冬、立冬の季節

立冬(11月7日から21日ごろ)

時雨と底の見えない透き通った青空が交互に立ち現われる。
比良の山並み、緑と薄い赤や赤茶の深みが増し緞通の趣を一層
味わい深く見せている。ブナやクヌギの木々が錆色の金色と
淡い茶色に色づいた葉を残しているのだろう。樹々の下には
どんぐりが球体や楕円形を成してその実を明日にかけて枯葉の
下に落としこんでいる。里は一挙に秋の装いを剥ぎ取り、
冬にその姿を変えようとしていた。
だが、淡い寂しさにも明るさが混じり込んでいる。楓の紅葉は
やはり赤く美しく、葉を落とし始めた公孫樹の黄色と光にさらなる
華やかさ与えている。比叡ではすでに紅葉は過ぎたという。
このあたりは今が旬だ。近くの里山でまだ頑張っている山菜を採った。
春に盛りの山菜が意外に多く葉を沈めていることに少し驚いた。
せり、ギシギシ、ヨメナ、西洋タンポポ、ヨモギ、何でもあり、
そんな感じだった。勿論、ヤマノイモや赤やルビー色の小さな実を
つけた野イチゴの仲間も多くいる。ヘビイチゴ、ナワシロイチゴ、
フユイチゴなどなど、葉の後ろに隠れたり、大きな葉の下で静かに
しているものもある。ヤマノイモや蔓たちはムカゴを実らし、
地中のイモもまたその美味しさを地に潜ませている。

11月17日天皇神社、普段通りに参拝に行くと、新嘗祭をしていた。
拝殿で宮司が祝詞をあげ、それが周囲の杉の木々に埋もれ沈んでいく。
少人数の、世話人だけの行事なのだろう。ひっそりと、だが、
厳かに始まり静かに終わった。多分、木戸や小松など他の地区でも
同様な形で行われているのであろう。地域おこしと称して春や秋の
祭事が観光化する中、このような形が本来の姿なのだ、そう思った。

もっとも、毎年恒例の秋祭りはイベントとして木戸や和邇でも
開催されている。木戸センターでも多くの人が湧き上がっていた。
郷土料理会の弁当もまた20分ほどで完売であった。いつもながらの
人気である。ビワマスの揚げ物、ズイキのしのだ巻き、きんぴら等々
色とりどりで美味しそうだ。ちょっと紹介の記事から
「11月11日比良も微笑を見せる日、多くの人に食べつなぐ幸せ
を感じてもらった。さざめく人の波、音楽や華やかな踊り、
人の心根に少しでも触れたい、その想いを妹っ子弁当、ちらし寿司、
わらび弁当、手焼きおかき、比良の赤、浅黄、薄茶、緑の織りなす
彩色を封じ込めて。わずか20分ほどで完売、今年もまた人の笑顔
にささやかな貢献?里の恵みに感謝、これを作った人にも感謝!」

山茶花の柔らかな花に心を優しく撫ぜられ、スイセンの凛々しい
白に元気をもらう。鍋物が本格的に美味しく、ほうれん草と豆腐だけ
のシンプルな鍋に舌鼓をうつ。
寒さもまた本格化、冬用の羽布団の登場かも。

2018.11.16

西近江路紀行29 白洲正子、広重 

西近江路紀行29 白洲正子、広重 

琵琶湖を中心に近江については100以上の小説に登場する。
歌川広重もまた近江八景を20数回も描いている。
今もまだその片鱗は、特に西近江や奥琵琶湖に多く残っている。
西近江路紀行では、その一端を紹介し、さらに五感でそれらを
感じ取ってもらいたい。

「近江山河抄(白洲正子)」は、西近江路のこの志賀あたりを
感じるに、ちょうどよいかもしれない。これまでの紀行紹介
と少しダブるかもしれないが、一度読んでもらうと面白い。
比良の暮雪から
「ある秋の夕方、湖北からの帰り道に、私はそういう風景に
接したことがあった。どんよりした空から、みぞれまじりの
雪が降り始めたが、ふと見上げると、薄墨色の比良山が、
茫洋とした姿を現している。雪を通してみるためか、常よりも
一層大きく不気味で、神秘的な感じさえした。
なるほど、「比良の暮雪」とは巧い事をいった。
比良の高嶺が本当の姿を見せるのは、こういう瞬間にかぎる
のだと、その時私は合点したように思う。
わが船は比良の湊に漕ぎ泊てむ沖へな離りさ(さかりさ)
夜更けにけり
比良山を詠んだものには寂しい歌が多い。
今もそういう印象に変わりはなく、堅田のあたりで比叡山が
終わり、その裾に重なるようにして、比良山が姿を現すと景色
は一変する。比叡山を陽の山とすれば、これは陰の山と呼ぶべき
であろう。、、、、
都の西北にそびえる比良山は、黄泉比良坂を意味したのでは
なかろうか。、、、、
方角からいっても、山陰と近江平野の間に、延々10キロに
わたって横たわる平坂である。古墳が多いのは、ここだけとは
限らないが、近江で有数な大塚山古墳、小野妹子の墓がある
和邇から、白鬚神社を経て、高島の向こうまで、大古墳群
が続いている。鵜川には有名な四十八体仏があり、山の上
までぎっしり墓が立っている様は、ある時代には死の山、
墓の山、とみなされていたのではないか。
「比良八紘」という諺が出来たのも、畏るべき山と言う観念が
行き渡っていたからだろう。が、古墳が多いということは、
一方から言えば、早くから文化が開けたことを示しており、
所々に弥生遺跡も発見されている。小野氏が本拠を置いたのは、
古事記によると高穴穂宮の時代には早くもこの地を領していた。
、、、、、
小野神社は2つあって、一つは道風、1つは「たかむら」を
祀っている。国道沿いの道風神社の手前を左に入ると、その
とっつきの山懐の丘の上に、大きな古墳群が見出される。
妹子の墓と呼ばれる唐臼山古墳は、この丘の尾根つづきにあり、
老松の根元に石室が露出し、大きな石がるいるいと重なって
いるのは、みるからに凄まじい風景である。が、そこからの
眺めはすばらしく、真野の入り江を眼下にのぞみ、その向こう
には三上山から湖東の連山、湖水に浮かぶ沖つ島もみえ、
目近に比叡山がそびえる景色は、思わず嘆息を発していしまう。
その一番奥にあるのが、大塚山古墳で、いずれなにがしの命の
奥津城に違いないが、背後には、比良山がのしかかるように迫り、
無言のうちに彼らが経てきた歴史を語っている。
小野から先は平地がせばまり、国道は湖水のふちを縫っていく。
ここから白鬚神社のあたりまで、湖岸は大きく湾曲し、昔は
「比良の大和太」と呼ばれた。小さな川をいくつも越えるが、
その源はすべて比良の渓谷に発し、権現谷、法華谷、金比羅谷など、
仏教に因んだ名前が多い。、、、、
かっては「比良3千坊」と呼ばれ、たくさん寺が建っていた
はずだが、いまは痕跡すら止めていない。それに比べて「小女郎」
の伝説が未だに人の心を打つのは、人間の歴史と言うのは
不思議なものである。

白鬚神社は、街道とぎりぎりの所に社殿が建ち、鳥居は湖水の
なかにはみ出てしまっている。厳島でも鳥居は海中に立っているが、
あんなゆったりした趣きはここにない。が、それははみ出たわけ
ではなく、祭神がどこか遠くの、海かなたからきたことの記憶
に止めているのではあるまいか。
信仰の形というものは、その内容を失って、形骸と化した後も
行き続ける。そして、復活する日が来るのを域を潜めて待つ。
と言うことは、形がすべてだということができるかもしれない。
この神社も、古墳の上に建っており、山の上まで古墳群がつづいている。
祭神は猿田彦ということだが、上の方には社殿が3つあって、
その背後に大きな石室が口を開けている。御幣や注連縄まで
張ってあるんのは、ここが白鬚の祖先の墳墓に違いない。
小野氏の古墳のように半ば自然に還元したものと違って、
信仰が残っているのが生々しく、イザナギノ命が、黄泉の国へ、
イザナミノ命を訪ねて行った神話が、現実のものとして思い
出される。山上には磐座らしいものが見え、明らかに神体山
の様相を呈しているが、それについては何一つ分かっていない。
古い神社であるのに、式内社でもなく、「白鬚」の名からして
謎めいている。猿田彦命は、比良明神の化身とも言われるが、
神様同士で交じり合うので、信用はおけない。
白鬚神社を過ぎると、比良山は湖水すれすれの所までせり出し、
打下(うちおろし)という浜にでる。打下は、「比良の嶺おろし」
から起こった名称で、神への畏れもあってか、漁師はこの辺
を避けて通るという。
そこから左手の旧道へ入った雑木林の中に、鵜川の石仏が
並んでいる。私が行った時は、ひっそりとした山道が落椿で埋まり、
さむざむした風景に花を添えていた。入り口には、例によって
古墳の石室があり、苔むした山中に、阿弥陀如来の石仏が、
ひしひしと居並ぶ光景は、壮観と言うよりほかはない。四十八体
のうち、十三体は日吉大社の墓所に移されているが野天であるのに
保存は良く、長年の風雪にいい味わいになっている。
この石仏は、天文22年に、近江の佐々木氏の一族、六角義賢が、
母親の菩提のために造ったと伝えるが、寂しい山道を行く旅人には、
大きな慰めになったことだろう。古墳が墓地に利用されるのは
良く見る風景だが、ここは山の上までぎっしり墓が立ち並び、
阿弥陀如来のイメージと重なって、いよいよ黄泉への道のように
見えてくる。
ーー
越前と朝鮮との距離は、歴史的にも、地理的にも、私達が想像する
以上に近いのである。太古の昔に流れ着いた人々が、明るい太陽
を求めて南に下り、近江に辿り着くまでには、長い年月を要した
と思うが、初めて琵琶湖を発見した時の彼らの喜びと驚き想像
せずにはいられない。」

小説、短歌、和歌に加えて、浮世絵の代表作としても広重の近江八景
がある。近江八景は、中国の「瀟湘八景図」(しょうしょうはっけい)
(北宋時代成立)になぞらえて、琵琶湖の湖南の名称を8つ選んだものだ。
石山秋月、瀬田夕照(せたのせきしょう)瀬田の唐橋、粟津晴嵐、
矢橋帰帆、三井晩鐘(みいのばんしょう)三井寺(園城寺)、唐崎夜雨
(からさきのやう)唐崎神社(当時の松は八十メートル以上もある
極めて大きな松であった。諸外国や江戸でも有名で、多くの観光客
が来たという。その風景を描いた絵図もある)、堅田落雁
(かたたのらくがん)浮御堂、比良暮雪(ひらのぼせつ)比良山系、
「雪ふるる 比良の高嶺の 夕暮れは 花の盛りに すぐる春かな」
と詠まれている。広重は、生涯で20種類あまりの「近江八景」
シリーズを手がけている。傑作とされる保永堂版比良暮雪は、
比良の荒々しさがよく表現されており、他のとは一味違い、冬景色
と比良の力強さを上手く調和させている。雪に埋もれた小さな村
を呑み込むほどの猛々しさで迫る比良の山並み、都では北の鬼門
として恐れられた霊山でもある。右下の青く描かれた琵琶湖畔
と対比され一層の激しさが感じられる。
スケッチ図などから広重がこの地を訪れて描いたのは確かなようで、
金糞峠から見た情景は今でも確認が出来る。
松尾芭蕉と同様に、琵琶湖と比良の山並みの織りなす情景が彼らを
引き寄せてきたのだろう。近江山河抄と二重写しに見えてこないだろうか。

司馬遼太郎の「街道をゆく」の紹介も北小松のところで記述したが、
今もまだこの情景が垣間見られる。
なお、「街道をゆく」の第一巻がこの地から始まったのは、偶然では
なく司馬さんの強い想いからだという。近江は皆さんに不思議な魅力
をみせるのかもしれない。

「北小松の家々の軒は低く、紅殻格子が古び、厠の扉までが紅殻
が塗られて、その赤は須田国太郎の色調のようであった。
それが粉雪によく映えてこういう漁村がであったならばどんなに
懐かしいだろうと思った。、、、、私の足元に、溝がある。水が
わずかに流れている。村の中のこの水は堅牢に石囲いされていて、
おそらく何百年経つに相違ないほどに石の面が磨耗していた。
石垣や石積みの上手さは、湖西の特徴の1つである。山の水が
わずかな距離を走って湖に落ちる。その水走りの傾斜面に田畑
が広がっているのだが、ところがこの付近の川は眼に見えない」

近江山河抄、街道をゆくの情景描写は今もまだ垣間見られる。
そして、その良さにこの里に移住してくる人も少なくはない。

比叡(瀬戸内晴美)は、女流作家が出家し、比叡山で行をつむ話である。
比叡山での「もしかしたら、既に死んでいるのに気付いていないのだろか、
と言う厳しい修行の中で、仏に引き寄せられ、新しく生きて行く事
を知る姿を語っている。
「湖はとぎすましたような晴れた冬空を沈め、森閑と横たわっている。
そこからのぞむ比叡の山脈は湖の西に南から北に走りながら
くっきりと空をかかげ、圧倒的に、力強く、生命力にみちあふれていた。
日本仏教の根本道場と呼ぶにふさわしい威厳と神聖さを感じさせた。
琵琶湖と比叡は混然と一体化して、それを切り離す事の出来ない
完璧な1つづきの風景を形成している。俊子の目にはそのとき、
山脈があくまで雄雄しく、湖がかぎりなくおおらかにふるまっている
ように見えた。」

比叡山の北へと続くと比良山系があり、志賀の里がその麓に広がる。
比叡に描かれた情景は比良へと続き、その趣は同じだ。
こんな情景もある。
「今日は満月だ。夜見る湖はとぎすましたような晴れた空を水面
に沈め、森閑と横たわっている。ここからのぞむ対岸の島々と
その山の連なりは湖の南から北に走りながらくっきりと空をかかげ、
圧倒的に力強く、生命力にみちあふれている。琵琶湖と中天の月は
渾然と一体化して、それを切り離す事の出来ない完璧な1つづき
の風景を形成している。一度見るよい。
さらに、冬には湖に薄く舞い落ちる雪が満月の光に染められ、
金粉をまいているように湖水の面に映っている。湖面も月光に
染められ金波がひろがる上に雪が休みなく降り続いている。
それは不思議なこの世ならぬ幻想的な光景だ。
琵琶湖は私たちに色々な姿を見せてくれる」

井上靖の「比良のしゃくなげ」、藤本恵子の「クレソン」、等
読む小説には事欠かない。そして、小説の情景がまだまだその
美しさを残している。

2018.11.10

西近江路紀行28 小野神社より深く

西近江路紀行28小野神社より深く

この紀行でも、すでに記述しているが、もう少し、小野神社
と他の小野氏の神社を見て行こう。妹子、道風とゆっくりと
神社廻りと周辺の幾つもの古墳を見るだけでも1日はかかる。
一度、古代の雰囲気を味わいながら、歩いてもらいたい。

小野神社について
祭神は、天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひと)であり、
米餅搗大使主命(たかねつきここで言う「たかね」は鉄のことも
指しており、この辺一体が、鉄を生産していたことに関係が
あるのかもしれない。ちなみにこの周辺は砂鉄から鉄を生産していた。

小野神社は、古代氏族である小野一族の始祖を祀り、飛鳥時代の
創建と伝わる。小野妹子・篁(たかむら 歌人)・道風(書家)
などを生んだ古代の名族小野氏の氏神である。推古天皇の代に
小野妹子が先祖を祀って創建したと伝える。
境内に小野篁神社(本殿:重文)がある。また近くの飛地境内
に道風神社(本殿:重文)がある。道風は、書道家として、
当時は著名3人の1人に数えられた。埼玉の春日井も関係がある。
平安時代には、小野氏同族の氏神として春秋に祭祀が行われており、
平安京内に住む小野氏や一族がこの神社に参向していた。
境内から石段で高くなった本殿前の空いたスペースにこの神社の
祭神・米餅搗大使主命にちなんで、お餅が飾られている。

応神天皇の頃、7代目米餅揚大使主命(たがねつきおおみかみのみこと)
わが国で最初に餅をついた餅造りの始祖といわれ、現在では
お菓子の神様として信仰を集めている。毎年秋に全国の菓子製造業者
が集まり、餅を形作った御輿を巡幸する。境内の神田で穫れた
新穀の餅米を前日から水に浸して、生のまま木臼で搗き固める。
それを藁のツトに包み入れる。納豆のように包まれたこれを
「しとぎ」と呼んでいる。境内での儀式が終わると、しとぎが
集落内の注連縄のところまで運び出される。
菓子の老舗の屋号に「匠」「司」が使用されるのは、「匠」「司」の
称号が菓子業の功績者に与えられる免許だったことの名残であり、
小野道風が「匠」「司」の称号を授与することを勅許されていた
人物であったと言われている。
11月2日に行われる本祭は五穀豊穣を祈願する神事で、小野地区
の氏子総代らが準備をして当日を迎える。参加するのは氏子総代5名
のほか、「十二人衆」や「宮年寄」とも呼ばれる長老衆と、一般
参加者代表の者だけで行われる規模の小さな祭りだが、
この古い祭りが始まったのはおよそ1200年前だと伝えられている。
注連縄に通されたしとぎの前で、再び祈りが捧げられる。
古来より伝わるしきたりに従って神饌(しんせん)に用いるため
のしとぎなどが用意され、現在、宮司が常駐していない小野神社
に近江神宮から神職が来て、しとぎの儀式が執り行われる。
儀式が終わると神に捧げられたしとぎは、集落内に3箇所ある
竹ざおに張り渡された注連縄のところまで運ばれる。しとぎは
注連縄の下まで運ばれ、注連縄を通して吊るされるのである。
吊るされたしとぎを前に神職により祈りが捧げられ、それが
終わるとすぐにしとぎは注連縄から外され、縁起物として
見物客に配られる。最初の1カ所は神職が付いていくが、残り
の2カ所は氏子だけで行われる。こうして、小野神社の氏子たち
が代々受け継ぐ長い歴史を誇る神事は幕を下ろす。
しとぎは漢字では「粢」と書き、藁つとに包んで腰に下げて
持ち歩き、農作業の合間などに藁ごと焼いて火を通し、間食したという。
氏子総代のひとりは、
「氏子の手によって、これだけ長い歴史を誇る祭りが受け継がれて
きたことを誇りに思います。これからもこの伝統をいつまでも
残していきたいですね」と語る。
参道入口に「餅祖神 小野神社」と刻まれた道標がある。

しとぎに、小野神社のざわめき、静かな喧騒
老若男女、人はわき、群れ騒ぐ楽しさ
秋の風にせせらぎ、時代の香り
深緑、赤茶色、鍋島の緞通に、底のない青さに浮かぶ比良の山並み
秋波を包む和邇の流れが静かに下り湖にそそぐ
和邇、春日、小野、古き栄華の末裔の森
宮司の青紫、巫女の白、その色立ちにさざめく社叢の緑の深さ
米餅搗大使主命(たがねつきのおおおみのみこと)に参す
古代妹子に思いを馳せる人の憂いなき顔、かおまた顔
「11月2日、しとぎの儀式に思う」

推古天皇の時代に小野朝臣妹子がこの地に住んで氏神社として
奉祀したと伝えられる。小野神社の文献上の初見は、「続日本書紀」
宝亀3年(772)で、鎌倉時代にも小野氏の末裔が歴代奉仕し、
古来の神領を守り続けたが、建部3年(1336)神主小野好行が
南朝側に加担したため、家職を奪われ、小野氏は衰退し、
神領も大半没収された。
延元2年(1337)近江国守護佐々木高頼が新たに摂社を設けて
篁、道風を祀ることにした。

境内社の小野篁神社は平安初期の漢学者で詩人、歌人としても名
の高かった小野篁を祀った神社で社殿は暦応三年に佐々木六角
により建立されたと伝えられる、また飛地境内社の小野道風神社
は小野道風を祀っている。

小野神社とその祭神
官撰のひとつ「続日本後記」(承和元年834)によると小野氏の
氏神の社は近江国の滋賀郡に在り。「勅すらく、彼の氏の五位巳上は、
春・秋の祭り至らむ毎に、官符を待たずして、永く以って行き
還(かえ)ることを聴す(ゆるす)」。とあり、また同4年(837)
の条には「 勅すらく、大春日・布瑠(ふる)・栗田の三氏の五位巳上は、
小野氏の准い(なずらい)、春・秋二祠のときに官符をまたずして、
近江国の滋賀郡にある氏神の社に向く(おもむく)ことを聴す」とある。
当時の皇族や上流貴族は、「畿内」と「畿外」との境、この場合は
逢坂山を越える時は、事前に天皇に奏請し、許可を伝える太政官符
を携行する必要があった。上の二度にわたる勅は、小野氏やその同族
に対する適用除外の特例措置である。
上記の勅は、古い和邇氏同族が、当地の小野神社を氏神の社とし、
祭礼を行ってきたことを示す。「布瑠」は奈良県天理市石上神宮付近
の豪族で、和邇や柿本の一族と祖先を同じくしていた。
「大春日」は「春日」、もっと古くは「和邇」である。「古事記」
孝昭天皇段の和邇氏同族の中心グループで、もとから奈良盆地
東北地域を本拠地とした和邇臣(春日臣)・大宅臣・檪井臣
(壱比韋臣)や、京都に起こり奈良盆地東北地域に拠点を持った
粟田臣・小野臣など、これらのすべてが小野で氏神を祀っていた。
ちなみに、小野氏が隆盛する前は、古代最大の豪族集団であった
和邇氏の同族和邇部氏がこの地域を支配していたが、その後春日氏
になり、小野氏へとつながれていく。いずれの源流もヤマト朝権に
絶大な力を持っていた和邇氏同族である。

小野篁神社
小野神社の境内社として小野神社本殿の前に位置し、建築年代を
示す史料はなくて、様式の切妻造平入(国の重要文化財)から
小野道風神社本殿と同じ南北朝時代前期の歴応年間(1338~1342)
の建築と考えられている。
祭神:小野篁(おののたかむら)
小野篁は、平安時代初期の公卿で漢詩文「令義解(りょうのぎげ」
の撰修に参画した漢詩人で、学者・歌人としても知られている。
小野篁の孫にあたる平安時代前期の女流歌人六歌仙・三十六歌仙
の一人である小野小町の供養塔もある。

小野道風神社
小野神社飛地境内社の小野道風神社本殿は、小野篁神社や天皇神社
と同じ、切妻造平入(国の重要文化財)で南北朝時代・歴応四年(1341)
に建てられ、小野篁神社より規模は少し小さいが、重量感があふれている。
祭神:小野道風(おののとうふう)

小野道風は、平安時代中期の書家で小野篁の孫。醍醐、朱雀、村上三朝
に歴任。柳に飛付く蛙の姿を見て発奮努力して、文筆の極地(野跡)
に達せられ、藤原佐理(すけまさ)の佐跡、藤原行成(ゆきなり)
の権跡と共に日本三大文筆、三跡の一人として文筆の神として
崇められている。

小野道風神社からは、参道入口の正面に見える住宅街の中に残された
唐臼山古墳がある。この周辺には、他にも多くの古墳が点在する。

小野妹子神社
小野妹子の墓といわれている唐臼山古墳の上に祀られている。
祭神:大徳冠位小野妹子
推古天皇の時代、遣隋使として中国隋に聖徳太子より国書を託された
小野妹子は大国隋へ対等の外交交渉を拓り開き日本の力を示した。
現在も神社へは外交官、駐在員の参拝者があり、華道の創始者
でもある。華道関係の訪問者も多い様である。
社殿裏の石垣の跡は、古墳の巨大な箱型石棺状の石室が露出したもの。
この周辺には、私有地で普段は、見られない古墳がある。
かなり保存状態が良く、中は高さ3m、奥行き4mほどの長方形である。
天井は、ほぼ1枚の岩石で覆われている。

小野妹子と小野一族
5世紀代になって朝鮮半島から多くの移住民が西日本の各地に
移住してきたが、大半は一般の庶民であった。6世紀後半になる
とその当時の東アジア世界でも最先端の知識人が志賀津に移住
してきた。その人々を一括して「志賀の漢人(あやひと)」という。
漢人は中国系の人という意味であるが、百済の聖明王から倭国
の欽明天皇に提供された移住民で、国家と国家との間で行われた
移住である。百済王は、倭王の要請にこたえて国家の形成を
指導する人材を派遣した。数年間滞在した後に帰国する学術、
技術の専門家や「漢人」のように倭国に定住した人々である。

近江は天皇(大王)家の成立と深く関わっている。
後に「継体天皇」とよばれる人物がこの近江から誕生する。
継体天皇崩御後の混乱を欽明天皇が収拾したが、欽明の末子の
代に至り、崇峻天皇が暗殺される(592)という大事件が起こった。
その後を受けて即位した推古天皇の摂政となった聖徳太子は、
天皇を中心とする中央集権国家建設の必要性を痛感し、範を
大陸に求め隋の統治技術と文物を導入すべく図った。
「日出づるの処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」
の国書を携えて入隋したのが小野妹子であり、607年であった。
翌年、隋の答礼使・裴世清(はいせいせい)とともに帰国した。
聖徳太子は同年、再び妹子を隋に派遣した。その後帰国して
大徳冠(第一階)に昇進した。
これは遣使・妹子が高く評価された証といえる。
官位十二階の制定は、この遣隋使による文物導入の成果の一つ
であった。妹子を出した小野氏は、本拠地の小野が和邇と接する
こともあって、大和の豪族・和邇氏の一族かとも推測される。
「新撰姓氏録」には妹子が「近江滋賀郡小野村」に住したため
小野臣を称したとある。
しかし、「延喜式」神名帳の滋賀郡八座に、日吉社(ひえ)と並んで
小野神社も名神大社とされており、「続日本後紀」承和元年(834)
の条には、小野社春秋の祭礼に、五位以上の小野氏は官府を持たず
に往還することを許されている。これらの点から、小野氏は和邇氏
といちおう別個に小野を本貫(ほんがん 本拠地)とする土豪と
みるのが有力な説とされるが?

2018.11.05

霜降に想う、秋の味

霜降(10月23日から11月6日ごろ)

比良の山並みも深緑に茶褐色や褐色が混じり合い地味な鍋島緞通
を思わせる装いを見せはじめた。麓を歩けば、クヌギや楢の木、
樫や柏の木の実が足元ではぜる。でどんぐりたちだ。そろそろ、
霜が朝早く下りるのだろう。
久しぶりの雨だった。秋の初時雨、見る間に消えたが、その柔らかな
感触に秋を感じた。
ヤマイモは、晩秋の山菜だ。ムカゴはご飯に炊き込んだり、イモは
とろろ汁や油で揚げた磯辺焼き、てんぷらにすると美味しい。元々が
生薬の山薬として、滋養強壮向けに使われてきた。
秋の七草と言うが、こちらは鑑賞の趣が強い。
山上憶良の歌がある。
萩の花 尾花 葛花 なでしこの花 女郎花 また 藤袴 あさがほの花 
(はぎのはな……はぎ おばな……すすき、くずばな……くず、
なでしこ……なでしこ、をみなへし……おみなえし、ふじばかま……ふじばかま、
あさがほ……ききょう)
女郎花が黄色の風を送ってくる。芒の白さを感じ、秋の柔らかさに
触れるのもこの頃か。
庭の紫式部も熟した紫の実で染まっている。仄かな色香の漂うような
薄緑の葉が群れるその根付に小粒の紫がたわわに、小さな虫たちの
ような趣にも見える。灰色がかった鳥がヒーヨ、ひーよと二鳴きほどして
枝を揺らした、ヒヨドリに見えた。

紅葉の話題が盛んだ。以前は高尾や嵐山に出かけたが、今は一枝の赤さを
楽しんでいる。
川端康成の短編にこんなのがあった。
「紅葉した山に火の降る幻が、私の眼の奥に見えていた。山というより
谷というのがいいほど、その谷は深く、、山端谷川の両岸に迫って、
きっ立っていた。真上の天を見上げるように上向かないと、山の上の空は
見えなかった。その空はまだ青いが、夕べの来る色があった。
谷川の白い石にも、おなじけはいの色があった。高くから私を包んで、
身に染みこむ紅葉の静まりが、早く夕を感じさせるのか。谷川の流れは
深い紺色で、紅葉が流れに映らぬ紺色なのを、わたしの眼があやしんだとき、
その紺の水に火の降るのが見えたのだった。火の雨や火の粉が降るようで
はなく、ただ、水の上に小さな火の群れがきらめくのであった。
しかし、降っているのにはちがいなくて、その小さな火の1つ1つは紺の
水に落ちて消えた。山の間を落ちるまは、紅葉で火の色が見えないのだ。
それなら、山の上はと見上げると、空を思いがけない早さで小さな火の
群れが落ちていた。日の群れが動くためか、両方の山のいただきを岸として、
狭い空は川のように流れていると見えてきた。」

料理グループの味、今回は、「わらびご飯、ビワマスコンフレーク揚げ、
かぼちゃスィーツ、きんぴらごぼう、冬瓜スープ、紫蘇の実つくだ煮、
ズイキのしのだ巻き、カボチャのてんぷら、食用菊おひたし」、琵琶湖の
青より青い空に包まれ育った里の実りが立ち並び、その香りと彩に、
思わず秋を感じる。
それぞれに工夫も。例えばわらびご飯は少し味を薄目の女性向き、
きんぴらごぼうは一番人気の方のやり方を見習って作った。
味は秋の空に漂い浮かぶ気分で、満足満足の出来だった、やはり食欲の秋。

2018.11.03

西近江路紀行27 雄松崎白汀 

西近江路紀行27 雄松崎白汀 

西近江路を、ある夏の日の思い出、強烈な光が眼に焼き付いた。

白砂が光っている。この夏空の下では、砂のその小さな粒は
かき消され、絹衣のごとき濃淡で青い空の下に白く映えている。
だが、裸足を歩き始めるとそんな情感的な想いは追いやられ、
その暑さに思わず、自分の感傷的な危うさを知らされる。
足裏に感じた熱さが一瞬にして頭を溶かすかのような痛さと
なってわが身を駆ける。右手に見える2千本近い松の木蔭が
一層の涼しさを見せている。
松林は湖岸の緩やかな湾曲の流れに合すかのように左へ曲がり込み、
そして砂浜と混じり、やがてさざ波が寄せる岸辺へと溶け込み
消えている。その先には、沖島の濃緑色の塊がややかすんだ湖面
の上に浮き立つように見えた。
浜には、赤と黄色のパラソルが1つ白い砂の中に、太陽を浴びながら
暑そうに立っている。浜風が頬をゆるりとかすめていくが、
この暑さの中では、何ほどの力があろうか、蒼と白と濃緑の
風景を微塵も変えることはない。
今日は木曜日であるからであろうか、浜に遊ぶ人が数人、子供たち
の嬌声にまじり、小さな影を作っている。少し前までは、多くの
人がこの浜で終日遊んでいたというが、最近は、めっきり人
も減ったよ、と松林の奥に旅館を営む主人がぼっそりという。

この「雄松崎の白汀」は、樹齢100年を超える古木などが
1600本以上もあるといわれ、比良山系の深緑の山並みを
光背にその白砂青松が続く眺めが素晴らしく、風光明媚な地
として知られいる。
「琵琶湖周航の歌」には、
「松は緑に 砂白き 雄松が里の 乙女子は 
赤い椿の森蔭に はかない恋に 泣くとかや」
と唄われ、平安時代には、後述するように
「子ねの日して小松が崎をけふみればはるかに千代の影ぞ浮かべる」
と和歌にもなっている。
この歌を含め、少しその昔には、以下のような記述がある。

「比良の山嵐が吹き降りる湖岸に眼をやると、近江国與地志略には、
比良北小松崎 則比良川の下流の崎なり。往古よりふるき松二株有り。
湖上の舟の上下のめあてにす。
と、その由緒を記す小松崎がある。現在の近江舞妓、雄松崎付近に
あたるのであろうか。この小松崎も大嘗祭の屏風歌に詠みこまれる
ほどの歌枕であった。大嘗祭とは天皇が即位の後,初めておこなう
新嘗祭のことで、大嘗祭に際しては、あらかじめ占いで定められた
悠紀、主基ずきの二国から神饌が献じられるのが決まりであった。
そして、平安時代の宇多、醍醐天皇の頃には、悠紀は近江国、
主基は丹波ないしは備中国に固定していた。また、神饌とともに
悠紀、主基の名所を織り込んだ屏風歌の風俗歌が詠進されるのも
恒例となっていた。仁安元年(1166)
六条天皇の大嘗祭の折には、平安時代後期の代表的な歌人である
藤原俊成が悠紀方の屏風歌を勤め、梅原山、長沢池、玉蔭井ととも
に小松崎を詠んでいる。
子ねの日して小松が崎をけふみればはるかに千代の影ぞ浮かべる
子の日の遊びをして小松が崎を今日みると、はるかに遠く千代までも
栄える松の影が浮かんでいる。というのが、和歌の主旨で、天皇
の千代の代を言祝いだ和歌である。子の日の遊びと言うのは、正月
の初の子の日に小松を引き、若葉を摘んだりして、邪気を避け、
長寿を祈った行事である。
小松崎と小松引きとが上手く掛けられている。松を含む地名自体、
めでたいとされたのであろう。
また、平安時代後期の歌人としても、似顔絵の先駆者としても
著名な藤原隆信も小松崎を
「風わたるこすえのをとはさひしくてこまつかおきにやとる月影」
と詠んでいる。この和歌には、
こまつというところをまかりてみれは、まことにちいさきまつはら
おもしろく見わたされるに、月いとあかきをなかめいたして
という詞書が記されており、隆信が実際に小松崎を訪れて詠んだ歌
であることが察せられる。
隆信の和歌が小松を訪れて詠んだ和歌ならば,小松に住む人にあてた
和歌もあった。
人のこ松というところに侍りしに、雪のいたうふりふりしかば、
つかしし、朝ほらけおもひやるかなほどもなくこ松は雪にうづも
れぬらむ
作者の右馬内侍は平安時代中期の歌壇で活躍した女流歌人なので、
少し時代が古いが、小松に近づく雪の季節に対して、そこに住む
友人をおもんばかる気持がよくあらわれている。
小松あたりの冬の厳しさは有名であったと察せられる。

鎌倉時代以降になると、京都と東国を往還する人々も多くなってくる。
京都の公家たちも、鎌倉幕府の要請やみずから鎌倉幕府との人脈
を求めて鎌倉へ下向していった。
また、東国への旅が一般化すると、諸国の大寺社や歌枕を実際に
見聞しに行く者たちも増えていった。
「宋雅道すがらの記」を記した飛鳥井雅縁もそんな一人である。
宋雅とは出家後の号、飛鳥井家は和歌,蹴鞠の家として知られ、
家祖雅経の頃から幕府、武家との関係が親密であり、雅縁も
足利義満の信任が非常に厚かった。そんな雅縁が越前国気比大社
参詣に出立したのが、応永三十四年2月23日、70歳の時である。
実は、この紀行文も旅から帰った後、将軍義教より旅で詠んだ
和歌があるだろとまとめの要請があって記したものである。
旅の路順は湖西を船で進んでいたようで、日吉大社を遥拝し、
堅田を過ぎて、真野の浦、湖上より伊吹山を眺め、比良の宿
に宿泊している。そこで、
「比良の海やわか年浪の七十を八十のみなとにかけて見る哉」
と自分の年齢をかけた和歌を詠んでいる。翌日は小松を通っている
と志賀町史にはあり、毎夏湖上から見た情景が蘇る。

この白汀、夏歩くのも好きだが、冬の夕暮れ、湖水が紅く色づき
始め、比良の山並みにかかるこれも赤く映えた雲の流れがゆっくり
と流れていく、その中を白い砂に自身の足跡のみが残る。
そんな情景が好きだ。
西近江路を少し琵琶湖寄りに道を変えて、湖の群青、空の青さ、
銀砂の拡がり、比良の山並みの緑の織りなす中に、無心で佇むのも
一興であろう。

2018.10.27

西近江路紀行26 水と石、風の里

西近江路紀行26 水と石、風の里

この地は石、水、風の里、水がはね琵琶湖へと駆け下り、風が比良山系
を突き抜けて緑や赤、黄色の風を里に落とす。
また、石は生活文化の一つとして家や畑の石垣、庭石、水路、港の岸壁
などに深く沁み込んでいる。

比良の山は水の塊、日本海から吹き込んでくる風と雨、尾根道は、雨が
山の背をさかいにわかれていく分水嶺となっている。山に染み込む水が
沢を作り、水を地下に吸い込む。
比良山系からにじみ出る湧水は小さなせせらぎを無数に作り出し、それが
小川となって「川戸」のような生活文化を織り込み、最後には琵琶湖の水
を活用するための「橋板」という湖に突き出すように作られた洗い板の
琵琶湖ならではの原風景を作ってきた。橋板も和邇浜近くではまだ数基あり、
そこから湖面を見ると湖に浮ているような気分になる。水が身近に感じられる
瞬間だ。大小様々な神社の横や片隅を流れる湧水の流れ、絶えることなく
軽やかな律動を伝える。多分、多くの神社で耳をそばだてると、聞こえてくるはずだ。

近江の石については、白洲正子も「近江山河抄 近江路」では
近くの鵜川の石仏を記述している。
「そこから左手の旧道へ入った雑木林の中に、鵜川の石仏が並んでいる。
私が行った時は、ひっそりとした山道が落椿で埋まり、さむざむした風景に
花を添えていた。入り口には、例によって古墳の石室があり、苔むした
山中に、阿弥陀如来の石仏が、ひしひしと居並ぶ光景は、壮観と言う
よりほかはない。四十八体のうち、十三体は日吉大社の墓所に移されているが
野天であるのに保存は良く、長年の風雪にいい味わいになっている。この
石仏は、天文22年に、近江の佐々木氏の一族、六角義賢が、母親の
菩提のために造ったと伝えるが、寂しい山道を行く旅人には、大きな慰めに
なったことだろう。古墳が墓地に利用されるのは良く見る風景だが、
ここは山の上までぎっしり墓が立ち並び、阿弥陀如来のイメージと重なって、
いよいよ黄泉への道のように見えてくる。
また、「かくれ里 石の寺、石を訪ねて」では例えば、
「こんな高いところまで巨石を運んで塚を築いた人々の精力と技術驚く
べきものがある。近江に、石部の連、とか山や石に関する名前が多いのも、
古墳の築造にたけていただけでなく、巨石信仰が行きわたっていたから
であろう。「みあれ」は鎮魂と同時に、再生を意味する。石に宿った祖先の
魂は、次第に石室や石棺に姿を変えて伝えられ、生まれ変わっていったので、
不必要なほど大きな石材を用いたのも、単に勢力を誇示するするための
手段ではなかった。そこから石塔や石仏への転化はほんの一歩である。」
と記述しているが多くは石仏についてであり、生活文化としての石の視点はない。

この里では、神社の鳥居、狛犬、燈籠、常夜灯、庭石、地蔵さん、石の道標、
家の基礎などにも石が多く使われており、その描写を南小松の八幡神社の
様子で見たい。
「やや黒味を帯びた松林の間には、白き碧さの湖が静かに横たわっている。
目を転じれば、東からの陽光を浴びる比良の山端の切れたあたりに
小さな湖がいた。先ほど乗ってきた電車の去る音が静かな時の流れを引き
裂いていく。やや褐色の強くなった山肌に白き亀裂の目立ち始めた比良山
の山並みに向かって緩やかに上る小道をたどり始めた。国道を横切り
更に小道を歩くと、石の道標が出迎えた。地元の古老の話では、
古来白鬚神社への信仰は厚く、京都から遙か遠い神社まで数多くの
都人たちも参拝したという。その人たちを導くための道標が、街道の
随所に立てられたが、現在その存在が確認されているのは、七箇所
ほど(すべて大津市)。建てられた年代は天保七年で、どの道標も表に
「白鬚神社大明神」とその下に距離(土に埋まって見えないものが多い)、
左側面に「京都寿永講」の銘、右側面に建てられた「天保七年」が刻まれている。
二百数十年の歳月を経て、すでに散逸してしまったものもあろうが、
ここに残されている道標は、すべて地元の方の温かい真心によって今日まで
受け継がれてきたものだ。その最後の道標がここ、八幡神社の参道の
手前にある。
その道標の先にある家の庭には敷き詰められた石と淡然とした趣のある
石灯篭がこちらに向かってにこやかな笑いを帯びた風情で置かれていた。
横を手押しの車を押して白髪の髪を後ろでまとめ上げた女性が、ゆっくりとした
テンポで通り過ぎていく。がたがたという音がやや朽ちた壁と石畳の道の間に
強く響いていゆく。その先には、八幡神社との刻銘がある常夜灯の大きな
石の影が参道を寸断するかのように、一直線に伸びていた。
その常夜灯の先に八幡神社があった。

古老の話と説明文から、
「南小松の山手にあり、京都の石清水八幡宮と同じ時代に建てられたと
されます。木村新太郎氏の古文書によれば、六十三代天皇冷泉院の時代に
当地の夜民牧右馬大師と言うものが八幡宮の霊夢を見たとのこと。
そのお告げでは「我、機縁によってこの地に棲まんと欲す」と語り、
浜辺に珠を埋められる。大師が直ぐに目を覚まし夢に出た浜辺に向うと
大光が現れ、夢のとおり聖像があり、水中に飛び込み引き上げ、
この場所に祠を建てて祀ったのが始まりです。祭神は応神天皇です。
創祀年代は不明ですが、古来、南小松の産土神であり、往古より日吉大神と
白鬚大神の両神使が往復ごとに当社の林中にて休憩したと云われ、当社と
日吉・白鬚三神の幽契のある所と畏敬されています」と説明する。

大きな狛犬が、本殿を守るかのように鎮座していた。
右のそれのタテガミは、やや逆立つように大きな目は怒りを含んで
本殿に向かうものへの畏敬を望んでいるようであり、左のそれは緩やかな
鬣にあわすかのように目や口の造作から穏やかな空気が流れ出てくるようだ。
ともに180センチほどの大きな体を悠然と台座の上に横たえ、周囲を
圧した情感を発している。

静かな空気を剥ぎ取るようにどこからか水音がした。
本殿の横、石の水路からその音は出ていた。水路は小さいものの、水しぶきが
水路にそって伸びる苔の帯に降り注いでいる。小さな光の筋がその緑に絡み
つくように映え、水の強さをさらに深くしているように見えた。
水音をたどれば、後背の杉の群れの中に消え、念仏山といわれる比良の前面に
ある小山へと続いているのであろう。また下へとたどれば、神社の石垣に沿って、
正面の鳥居の下へとそれは続いている。小さいながらも、まるでこの神社を
守るかのように水音が周囲を覆っている。

春の祭礼(四月下旬)には、神輿をお旅所まで担ぎ、野村太鼓奉納や子供神輿
がこの地域を巡るという。拝殿の前には、土俵の堤があり、八朔祭(9月1日)
が行われ、夜七時ごろからは奉納相撲が開催される。子供たちが裸電燈の下で
勢いよくぶつかり合い、周囲からの声援で踏ん張り、そして投げを打つ。
そんな様が自身の少年時分の思い出と重なって古いトーキー映画のごとき
緩やかなモノクロの映像の流れにしばらく身を置く自分がいた。
昭和といわれた時代の名残香が一瞬鼻をつく、しかしそれは五十年以上の
古き香りなのであろう。
さらさらという水音に、沖天の光の中にいる自分、引き戻された。
狛犬の目が一瞬、お前はここで何してんねん、と言っているようでもある。
石と水の里、そんな想いがさらに強まった。」

八屋戸若宮神社周辺もまた石と水の里だ。
八屋戸の里をもう少し散策すると、緑と水色の小さな世界が拡がっていた。
若い杉の木立、頭上には黄や赤の入り混じった葉が残光を透かしていた。
そこからのぞかれる比良の山端が澄んだ蒼さの空に、煌めく緑の円錐が一瞬
左右へと揺れ、微動したように見えた。影を落とす細い道は滑らかに磨かれた
石が敷き詰められ、小さな森まで続いている。横の水路では、多くの水滴
をはね、光を反射し、くねりつついく筋もの水縞を作りながら彼の進む方向
とは逆行して流れ去る。比良の恵みとなる水を石造りの三面水路で引き込み、
家々の生活用水として長くその恩恵を受けてきた。そのような水路が地域
を縦断する形でいくつもあるという。

守山石という江戸時代からこの地の特産品として庭石や神社の基礎石として
使われてきた石が観賞用の庭石や庭全体を覆う形での敷詰め石としてこの
地区の家々には多く見られる。さらには、これらの石は比良の湊から対岸
の石山寺や大津城などの石垣にも使うため、船で運ばれたそうだ。
立ち並んだ倉庫や石細工をするための小屋などの名残がその痕跡を名前や
史跡などに残っている。
小さな神社がまだ若い杉の木立に見え隠れしている。その背後に広がる竹藪
の中には水のような光が漂っている。苔に覆われた道を行くと、ぽっかりと
木々の屋根が消えた下にやや薄緑を帯びた水面を持つ池が静かにそこにあった。
水面に揺れる光の群れと何処からか漏れてくる湧水の水音が一定のリズムを
持ち、彼の体に染み込んできた。人の気配はあるが、人が見えない。
そんな不可思議な世界に彼一人が、水と光の空間に立ちつくしている。
さらに入り組んだ小道を歩き、白い壁の土蔵の美しさに思わず立ち止まり、
緑の中に橙色のかんきつの小さな実をなでながら、登り道から下りへと
方向を変えてみた。比良の山並みが後押しをするかのようにその歩は早まり、
1コマづつの写真が古きトーキーの映像のようにゆっくりと流れ去っていく。

眼前には琵琶湖がさざ波の模様を引き、観光船の大きな波痕を深く描き、対岸の
長命寺山の小さな山影や沖島の茫洋とした姿を見せながら、浮かんでいた。
神社に向かって歩いていたときは、気が付かなかったが、湖に沿って走る国道
に向かって歩き始め、その青と白とやや薄い水墨画的情景の広がりのある
湖面に思わず、見とれた。歩くにつれて石の持つ情景が幾重にも重なっている
ことに気が付いた。家々を取り巻く石垣がちょいと入った路地を一直線に
横切っている。そのさして広からぬ田畑は、何段かの棚田となって湖に下り
落ちるように耕されているが、それは大小の石で造られた石垣で丁寧に
囲われていた。縁側が日の中でまばゆい光を発しているその庭には守山石で
造られた石灯篭があり、その造りは真っ直ぐといきり立つ宝珠、それを受ける
見事な請花、露盤のくびれも見事であり、蕨手(わらびて)の先っぽまで
反り上がる笠のラインはその優雅さに思わず見とれる。火袋を受ける中台
に施された十二支の彫刻の精緻さは素人目にも多くの石工がこの地域で
活躍していたそんな証、所在なげに置かれた庭の石たちに見られた。

この辺をよく知る人に案内され、湧水のある林に向かう。杉の林が切れかかり、
湖の淡い碧さが垣間見れるところに小さな泉があった。クレソンがその小ぶり
の葉を緑の光の中に浮きだたせていた。白い砂地から幾重もの輪となって
水がふつふつとわいている。透き通った水の中を飛ぶように動くものがあった。
数匹の小エビだった。クレソンの葉に隠れ、またそこから飛び出し、自由
奔放の時を過ごしている様だ。この小さな水の世界が彼らの全世界なのだ。
気が付けば、背後にはこの里を慈しみ、守るような形で、比良の山並みが
その緑と赤のパッチ模様の山肌をみせ佇んでいる様だ。
まだここには古き時代の生活とその匂いが残っていた。
最近は、若い人が移住したり戻ってきたりしているという古老の話は、この
情感の中では、すとんと心に落ちる。

西近江路から少し外れるが、八幡神社、若宮神社周辺は小さな名所、眼尻を
たてて、目的地にただ歩き続ける、そんな行動とは別次元の想いが生きている。
だが、石の里と言われるだけ、石を切り出すのは大変な作業だった。採石場
は山の中腹にあるため、細く急な山道を石出し車を使って里まで運ぶ。
二輪や四輪の木製の車輪で作った独特の荷車を使う。大人が十人ほどかかって
積み下ろすのだが、一日に一つの石を下ろすだけということもあるそうだった。
それを京都や対岸の石山などに海上輸送する、まさに「石の海の道」があった。
生活文化の石、河川や琵琶湖の水害から地域を守るための百間堤などの堤防、
獣害を防ぐしし垣、利水のための水路、石積みの棚田、神社の彫刻物などであり、
高度な技術を持った先人たちが、長い年月をかけて築き上げてきた遺産である。
個人の家の庭や道には、石畳として使われたり、生活用水のための石造りの
かわとなど生活の一部に溶け込んでもいる。神社の狛犬、しし垣、石灯篭、
家の基礎石、車石など様々な形でも使われて来た。
しかし、一方では水との闘いの歴史も刻んできた。比良山系の急な斜面は
大雨になれば、里を呑み込むほどの強さを見せる。そのため、部落の周辺
は今も石積みのしし垣と呼ばれる堤防が多く残っている。高さ1メートル
以上の苔むした石垣はその苦闘の歴史を今に見せている。特に大門地区で
記述した百閒堤はその代表であろう。幾度となく荒れ狂う川を押し戻して
きたのであろうか。そこに立つと先人の知恵と苦闘が足元から伝わって
くるようだ。西近江路を迂回してでも、この堤に立つのをお薦めしたい。

又、この里は風の里だ。
「比良おろし」という言葉があることでもわかる。よくJR湖西線をも
停めてしまう。比良山系の尾根が厚い帽子を被ったような風枕と呼ばれる
雲が現れると里に強烈な北西の風が吹き下ろす。まさに風神が千メートル級
の山肌を駆け下りる、そんな様だ。
冬から春の初めに多いが、毎年3月26日に行われる天台宗の行事「比良八講」
の前後に吹くものを比良八講・荒れじまいまたは比良八荒(ひらはっこう)
と呼び、本格的な春の訪れを告げる風とされている。
比良八荒には、琵琶湖に没した乙女の悲恋の物語が存在ある。
「一人の若い修行僧が、東江州へ托鉢行脚に出かけた際、急病でとある在家
の軒先で倒れました。すると、この家の人々が手厚く看護し、修行僧は間
もなく病から回復し、 自らの草庵のある比良のふもとへと無事帰ることが
できました。実はこの時、看護にあたったその家の娘が修行僧に深く恋する
身となっていたのです。
そして、翌年、修行僧は昨年のお礼を兼ね、同家を訪ねました。娘はたまらず
自分の恋心をうち明けましたが、相手は修行の身。 若い僧は恩人を一蹴する
こともできず、次のような約束をします。対岸の比良まで百日間通い続ける
ことができるなら、その時は夫婦になりましょう、と。 娘は、その日から毎晩、
対岸比良の燈火を目指してたらいを船にして通い続けます。
そして、九十九夜通い続け、いよいよ満願の百日目の夜を迎えます。
今日で願いが叶うと勇んで湖上に出てみると、折から吹いてきた比良颪により、
対岸の燈火は吹き消され、湖面は荒れに荒れ、遂に小さなたらい船の娘は
湖に没してしまい、 はかない恋も終わりを告げる」

実際にも多くの水難事故があり、風の里は自然に生きていることを感じさせる
里でもある。しかし、四季折々の風は楽しい。怖さと同時に楽しさも見せてくれる。
風と雲の織りなす天空のキャンパス、夏の暑さを吹き払う濃い緑色の風、
秋の様々な色合いを見せる涼やかな風、それは電車が少し立ち往生するなんて、
人生のわずかな時だと思わせる。薄緑を帯びた湖面を綿帽子やひつじ雲、
更に薄く梳いた刷毛のような雲たちがその影を薄黒く落とし、風にひかれるように
対岸に流れ消え行く。厚雲にその黄色く大きく丸く輝く月を隠されていた天
はあっという間に深黒に穿った星たちが瞬き光る夜空とし、変幻させる風の
波たち、息するほどに湖も比良の山並み、すべてがその息遣いに人々に瞬間
の感動を与える。

2018.10.21

寒露に秋の香りを感じる日々

寒露(10月8日から22日ごろ)

朝の光が細く光る竹林の隙間からはじけ、刈田の表面を
なめるように照らす。褐色と切り株の小さな緑に支配されていた。
柿の古木が灰色や緑の苔をまとい不細工だが、力強さを
秘めた姿を冷めた空気にさらし、枝には橙や少し赤みの
増した柿の実がたわわになっている。その足元に何のためらいも
ない様子で無造作に転がっている柿の実、熟れる前に
落ちたのであろうか青い色のものもある。老いの中に漲る力、
秋がその身を寄せていた。
刈田には藁が長い竹竿に等間隔に干してあって、それを見る
のがまた楽しい。もっとも、この情景も少なくなったが。
湖岸に近い刈田からは、薄い紫の煙が風にゆらめいている、
秋の匂いが漂っていた。「霖雨蒼生(たくさんの人たちに恵を
与えること、または恵を与えて救うこと)」の過ぎし場所、
人に心の糧も与える。
チンチロチンチロチンチロリンというマツムシ、ガチャガチャ
というクツワムシ、ルルルルルルルという連続のカンタン、
翅をふるわせ野草に戯れる。秋は虫たちもうれしそうだ。
ススキの穂がその音に合すかのようにゆらりと揺れている。
大輪の菊が青い空を突き通すように黄色を浮き立たせている。
菊晴れは秋のすべてを体現している。鯖寿司の肉厚のある肌色が
眼に映りこむ、思わずつばを飲み込んだ。

ふと、先日食べた料理グループの作った料理が浮かんできた。
今回は秋の収穫物が満載だった。落花生、カボチャ、ズイキ、
アズキ、ダイズ、シソ、食用菊、冬瓜、新米、等々すべて地元産。
緑、黄色、褐色様々な彩がテーブルに並び、野の香りを放っている。
目まぐるしく立ち働く料理会のメンバーの手で、それらが、
落花生しょうゆおこわ、カボチャ羊羹、干しズイキの巻き寿司、
鶏つくねバーグ、なかよし豆、シソの実つくだ煮、ズイキのすみそ和え、
カボチャスープ、きゅうりの贅沢煮、菊のおひたし、に変身する。
少し酸味のあるもの、程よい甘み、まろやかな自然の香り、料理で
つながる日であった。

すでに葉を落とした木々をかき分けるように斜面を少し上がると黄色
や緑が少し混じった葉の茎を辿り、30センチほど土を掘るとそこには
丸長く伸びた「やまのいも」が姿を見せる。これを塩ゆでにしてあくを
抜き、油炒めや唐揚げにする。また、とろろ汁や粗い千切りにすると
サラダや天ぷらにもなる。
生薬として、外皮を剥ぎ、日干しにしても使え、これが「山薬(さんやく)」
として滋養強壮や夜尿症には効果がある。

歩きながら昔聞いた童謡が心に流れてきた。
「あれ松虫が 鳴いている ちんちろ ちんちろ ちんちろりん
あれ鈴虫も 鳴き出した  りんりんりんりん りいんりん
秋の夜長を 鳴き通す
ああおもしろい 虫のこえ

きりきりきりきり こおろぎや
がちゃがちゃ がちゃがちゃ くつわ虫
あとから馬おい おいついて
ちょんちょんちょんちょん すいっちょん
秋の夜長を 鳴き通す
ああおもしろい 虫のこえ」

もう少し北では、オオハクチョウの飛来があったという、冬は忍び足で
里を歩き始めている。

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