人生

2018.10.13

西近江路紀行24 昔話

西近江路紀行24 昔話

「志賀町むかし話」というこの地域の民話作りを文化継承
事業としてまとめた本がある。140編ほどの多くの寄せられた
原稿には、志賀の古い時代の人々の豊かな心情が垣間見られ、
素朴な生活の営みを感じることが出来る。残された昔話は、
その時代の名残りを今の人々に彷彿させ、世代の心を温め
合うものでもあろう。
昔の農作業は大変だった。そして皆の共同作業でもあった。
農触れ言葉というのがあったそうだ。「のどめのかたまん、
ざんやといのーお」辻々に大声でこの触れ言葉が出ると無事
すべての作業が終わったという合図だった。何かほんのりと
温かみが伝わる話ですね。人の記憶は曖昧であり、忘れ去られる
ものだ。昔話はそれぞれの想いと忘れさった日々の情景を呼び起こす、
それは地域の文化や風土の一端を見せるものでもあった。
忘れ去るもよいが、心襞に残っている不可知なものを浮かび
上がらせるのも人の成長には必要であろう。

柳田国男の「日本の伝説」の序説に以下のような記述がある。
 伝説と昔話とはどう違うか。それに答えるならば、昔話は動物
の如く、伝説は植物のようなものであります。昔話は方々を
飛びあるくから、どこに行っても同じ姿を見かけることが出来ますが、
伝説はある一つの土地に根を生やしていて、そうして常に成長
して行くのであります。雀や頬白ほおじろは皆同じ顔をしていますが、
梅や椿は一本々々に枝振りが変っているので、見覚えがあります。
可愛い昔話の小鳥は、多くは伝説の森、草叢くさむらの中で
巣立ちますが、同時に香りの高いいろいろの伝説の種子や花粉を、
遠くまで運んでいるのもかれ等であります。
、、、、、
諸君の村の広場や学校の庭が、今は空地になって、なんの伝説の花も
咲いていないということを、悲しむことは不必要であります。
もとはそこにも、さまざまのいい伝えが、茂り栄えていたこと
がありました。そうして同じ日本の一つの島の中であるからには、
形は少しずつ違っても、やっぱりこれと同じ種類の植物しか、
生えていなかったこともたしかであります。私はその標本のただ
二つ三つを、集めて来て諸君に見せるのであります。
、、、、、
しかし、小さな人たちは、ただ面白いお話のところだけを読んで
お置きになったらいいでしょう。これが伝説の一つの木の中で、
ちょうど昔話の小鳥が来てとまる枝のようなものであります。
私は地方の伝説をなるたけ有名にするために、詳しく土地の名
を書いて置きました。そうして皆さんが後に今一度読んで
見られるように、少しばかりの説明を加えて置きました。

なかなか、含蓄のある言葉ですが、この西近江路周辺も色々とある。
ここに上げた昔話もまた、日本の何処にでも見られた話と思う。

1)庄六さんの墓
現在の南小松の「今在家」から「雄松崎」にかけての一帯は昔は
「比良の庄」に属していた。ところが小松の庄から「ここは小松
の土地だ」といって、境を今の北比良と南小松の境にもってきた。
当然のことながら争いになってしまった。これが「弘安3年の比良
の庄堺論争」として歴史に残っている。
さんざん争そったあげく、結局くじ引きで決めることになり、比良
の庄からは庄六さんという人がくじを引いたが、残念ながら負けて
しまった。庄六さんは口惜しさと申し訳なさにいたたまれず、
雄松崎を見下ろす丘の上で首を吊って死んでしまった。気の毒に
思った村人は、ねんごろに葬り、像を建てて雄松崎に向かって
安置し、庄六さんの霊を慰めた。
ところがそれからというもの、雄松崎ではさっぱり魚が獲れなくなった。
漁師たちは怒って庄六さんの墓を横に向けてしまった。
ところが横に向けようが後ろに向けようが、いつの間にかまた
雄松崎の方を向いている。何度繰り返しても同じだった。
そのうち漁師たちも諦め、長い年月とともに忘れ去られ、
今では訪れる人もなく、雑木の生い茂るままの丘の上にひっそり
と建っている。争いに勝った小松の庄も、境界線を変えることはできたが、
神様まで動かすことは出来なかった。そこには比良明神の御零社
が立っていた。今もう御社はない。場所をはっきり知るものも少ない。
どうやら今在家の上の辺りらしいが。毎年4月の天満宮の例祭の
日には、船橋家の御主人が神饌を携えておまいりされることになっている。
今はそんな昔のことも忘れ去られ、拓けていく仏生寺野から整備の
進む八講田、年ともに賑わいを増す舞子の浜を眺めて庄六さん
の霊もさぞかし安らかに眠っているでしょう。

ここにあるような境をめぐる争論は多くの古文書やそれぞれの
村が勝手に造った絵図が存在することからもよくわかる。
土地とそれに伴う水が生死を決めた時代ではやむを得ない
のかもしれない。
例えば、話にもあった弘安3年の境争いには、比良庄絵図は
少なくとも3点が伝来するが、自分たちに都合よく改ざんも
されている。また、これらの事態を複雑にしたのが、それぞれを
領有する寺院の山徒集団の圧力や領有する土地の複雑性もであった
ようだ。このほかにも、歴史的には「木戸庄、葛川の境相論」
「和邇庄、龍華庄境相論」などもある。なお、話の境界争いは
「小松庄、音羽庄堺相論」と歴史的には言われている。
さらには、これらの争論は何度も蒸し返えさりたり、利害が
複雑に絡むため、数10年単位で長期化した。
少し面白い点では、「小松庄、音羽庄堺相論」は足利義教の時代には
又ぶり返し、美味く裁許できなかった足利義教は、神にその決定
を担わせる「湯起請」を実施している。これは、神前で選ばれた
当事者の者が湯に手を入れてそのやけどの具合が軽いものが神に
選ばれたものとして勝ちを得る「神慮」の1つであり、中世では
よく行われていたという。その勝者は町を救った英雄扱いを受け、
末代までお米をもらったりしたという。だが、敗者は庄六さんと
同じように自殺をしたものも多く記録されている。庄六さんも、
もし生き長らえてその湯起請に出られたら、如何になったであろうか。
人の人生とは分からぬものだ。

2)北浜住吉神社にまつわる話
旧栗原村に,大教寺という大寺院がありました。今の妙道会敷地内
と思われます。後に宗派の争いで焼かれたとのことですが、皇室が
直参される格式高い寺でもありました。寛弘7年2月、花山天皇
の皇子清仁せいにん親王が、比良山最勝寺へ参詣の帰途に御座船で
北浜の湊にお着きになりました。御座船には、貴船神社を祀り、
船の安全を祈っておりました。親王は栗原道を通られて、無事
大教寺参詣を澄まされ、再び御座船を召されて、帰路につきました。
御座船が沖に出た時、湖上に突如すさまじい突風が吹き、船も
危うくなりました。これを見て、北浜の人は、漁船に乗って急ぎ
救援に向かいました。と同時に、南浜の方からも救助の船が出ました。
風いよいよ烈しく、すくいの方法もありませんでしたが、親王が
御座船の舳先に立たれて、一心に住吉大明神を祈念されると、
さすがに風も収まり、波も静まって難を逃れることが出来、
御座船は漁船に守れらながら、一時寺浜(南浜)に御安着に
なりました。なお、寺浜跡を残す南浜の町道端には、わたしたち
の子供の頃には、住吉大明神と書かれた木柱がありましたが、
朽ちて古くなったので、今は住吉神社、八幡神社、貴船神社
と3神社の社名が書かれた石碑が建て直されています。
皇室は、このことを痛く感じられ、同年4月、北浜湊の上に
住吉神社を建立され、合わせて神饌田を下したまわりました。
当時、御神体は木造でしたが、昭和12年に何ものかに盗まれました。
ちなみにその木造御神体は、国宝級のものだと言い伝えられています。
さらに、親王はこの時救援に向かった漁師に感謝され、南浜、
北浜の長男に限り、和邇祭礼に我と同じ服装をして稚児として
出るよう、お許しになりました。今、行われている「駒被り」は
その名残です。
また、嵐のあった26日を住吉神社の祭日とされていますが、
とりわけ秋の大祭には、南浜におもむいて沖に出て、竹筒に湖中
の水をくみ取り、その水でお湯を立ててお祝いをしますが、
この南浜の水を入れないとお湯が立たないというのも、
不思議なことです。
また、同じような話が住吉神社の由来として伝わってもいる。
北浜の真光寺の浜から船に乗られた一行は途中風と浪が強く
なって南浜につきましたが、南浜の南喜左衛門さんの屋敷で
住吉さんへ祈願すると、たちまち湖は静かになってお帰りなる
ことが出来たという。それがあり、喜左衛門さんから住吉さん
をお祀りして欲しいと北浜が頼まれ、今の土地の近くに祀られる
ことになったという。
この話もそうであるが、志賀が古来より北国海道として敦賀など
の北陸地域と京都を結ぶ重要な中継地域であったことや都人が
琵琶湖や比良山系などのこの地の景観に触れるため、よく訪れていた
ことがわかる。民話であるからその真実性には疑問も残るが、
一般庶民の生活や今残る神社や寺院の由来などは面白くも読める。
まず、この話に出てくる寺院や神社は石碑や古文書からも見える
ものであり、当時の古地図などからも和邇周辺はいくつかの
舟入もあり、親王が舟を使ったのは、本当なのであろう。
さらに、2月、3月は比良おろしと言われる突風が今も列車を止める
ほどであるからこの突風にまつわる事態は予想できることでもある。
もっとも、南浜の水を入れないとお湯が立たないというのは、
ちょっと理解が難しいが。

3)金刀比羅ことひら神社由来
今からおよそ200年前、守山の農家(為右衛門)の老夫婦が裏の
岩山で柴刈りをしていると、目の前に金比羅さんの御神符がひらり
と舞い散ってきました。
農婦がこれを拾い上げ、不思議さともったいなさでご神慮を
うかがいますと、「この地に祀ってほしい」とのお告げでした。
このあたり、琵琶湖が一望できる景勝の地ですし、前には清水の
ほとばしる瀧もあります。村人たちはこの地に祀ることにしました。
当時、村の港には、柴や割り木、庭石などを運ぶ、50石、100石船
も何艘も入港していました。漁師や船頭衆も、この金毘羅さんを、
海の守り神として信仰し、毎月10日は例祭で、100年祭、
150年祭も行われました。
3月10日は大祭です。この日は、村の総代さんや、役内さんも
参詣されます。数10年前までは、大祭になると、村の辻々に猿の
ぬいぐるみをつるした、大きな幟が何本も立てられました。
金比羅さんへ参る道の途中には、一厘玉と言われた赤や黄色や
青などの飴を細い竹にぶら下げたお菓子などを売る店も出される
などして、村人は、老若男女を問わず、山の中腹にある金比羅さん
まで参詣し、お神酒やお饅頭を頂くのがならわしとなっていました。
今も3月10日の大祭の日には、お神酒やお餅などを持って
参詣する人は多く、村の守り神として崇められています。

仏像や神社、寺院の由来には、このような昔話と同じようなのが、
各地にある。白洲正子が「私の古寺巡礼」にも同じような記述をしている。
「その瀧の前で和尚は17日の断食ををし、不眠不休で一心不乱に
祈念した。満願の日、滝つぼに目を凝らしていると、長年夢見た
不動明王が、水しぶきをあびて立っているではないか、思わず彼は
水中に飛び込み、しっかりと抱きついたが、きがついてみると
それは桂の古木であった。で、今見たばかりの生々しい像を、その木
の上に刻んだが、これが現在伝わる明王院の本尊で、同じ材を
もって造った他の2体を、1つは比叡山へ、1つは近江の伊崎寺
へ納めたという。
伝説と、人は言うかもしれないし、似たような話は何処にでもある。
寺院の創立に関するパターンと言っていいほどだが、たとえ作り話であろうと、
わたしは聞くたびに感動する。」

神の存在がまだ人の心根に深く根差していた時代、その共同体をまとめ、
発展させていくやり方の1つは神社であり、御神体の存在であったのだろう。
巨岩や巨樹はそのもので、神性を持ちうるが、お告げという力も有力な
手法であった。
「楊梅の滝にまつわる話」には、滝の神様を敬う言い伝えがある。

4)燈籠場とろば地蔵尊の由来
昔、ずっと昔から、燈籠場地蔵尊という信仰の篤い地蔵さんが受け続けられた。
願いこともよく聞いてくださる等身大の大きなこのお地蔵さん、
どこから来たのか詳らかでない。地蔵さんは、ふつうあまり大きなもの
は少なく、一尺余りで村人もこの燈籠場地蔵さんのお守りを大切に
続けている。安置されていた場所は、現存する中浜の土地である。
その昔、渡来人たちが平城京や平安京へ一歩一歩歩いた。周りくねった
若狭街道に筋に面している。この付近は、琵琶湖岸沿いにやや
まっすぐに延び、波よけの丈夫な石垣の連なる処である。その石垣
の側には、周り三尺有余の松並木が7,8本茂っている。
この松の木の陰で、湖辺の風で冷を楽しみ、景色に見とれていた
と思われ、ほどよい休み場所として、数多い渡来人やいかめしい武士、
商人たちも、一息継がれていたのではないかと思う。
湖の対岸には、東方に沖ノ島遠景や三十三所の名所である長命寺山、
東南には、源氏物語に出てくる神山、近江富士の三上山、後方には、
近江八景の霊峰比良山の山々がそびえている絶景のところであり、
人々は、詩や歌を考えておられただろう。
その当時は、若狭街道といえば、都への主要街道であった。その一角に、
目印のための石燈があり、その隣に安置されていたお地蔵さんである。
海上では海津、今津を経て和邇川先の燈台を見ることで、堅田、
大津への交通の基にしたのだろう。当地の燈籠場付近では、陸路
の安全と海路の安泰のために、村人たちによって祈願をこめて
建立されたもので、昔から丸笠のごときものが祀られている。
燈籠場の笠であったのかもしれない。いずれにしても仏教伝道
興隆時の古きものなのであろう。
このころより、代々信仰の基とされ、村人たちも大切にお守り
を続けている。
中浜地区では毎年八月二十四日、早朝より子供も大人も区民総出
で地蔵菩薩を弔う行事が営まれ、営々と絶えることなく受け継がれている。
また、観音講中も誰云うとなく受け継がれ、お婆さん方も毎月、
西国三十三所の御詠歌を声高らかに唱え、村人の安泰とともに
老寿を感謝してお仕えされ、燈籠場地蔵さんのお陰を信じている。

燈籠場とろば地蔵尊の御詠歌
松風や 波の響きも そば近く 守らせ給え 和邇の中浜
と詠じられ、信仰の的である。この歌が続く限り老から若者へと
受け継がれていくことだろう。

現在では、若狭街道も昔話となり、数十回にわたり改良拡張され、
国道161号とあらためられた。そのため、広かった燈籠場
とろば地蔵尊の場所も僅少となり、そこから20メートルほど
西へ入った公民館の前に、区民発起人により立派なお堂に
安置されている。

5)小女郎ケ池の昔話
小女郎池までは、蓬莱駅から中学校を通り、五〇〇メートルほど
蓬莱の山麓を上ると雑木林の先に見えてくる。冬の雪に浮かぶ
姿は美しいが、夏にはただの池としか見えないのが残念だ。
だが、この池にまつわる昔話は中々に楽しい。

昔この蓬莱山の麓に忠右衛門という人のいえがありました。妻を
はなといい、2人の間には生まれて間もないかわいい赤ん坊が
いました。ある夏の日、山へ行ってこの小女郎がのそばで草刈り
をしていたはなは、暑さのあまり池の水でも飲もうと思って
池に近づくと、かたわらに真っ白な蛇が1匹いるのを見つけました。
はなは蛇に「お前はいいな、暑くなると池で泳ぐことが出来て
さぞかし涼しいことやろうが、私は人間と生まれたばっかりに
こんなに暑うても仕事をせんならん」と何の気もなしに愚痴を
こぼしました。
ところが、その夜中はなは暑さのあまり寝苦しくてふと目を
覚ましました。そして、そのうえ夢中のままで家を飛び出し、
気が付いてみると昼間水を飲みに来た池の中に我が身を横たえて
居たのです。不思議なことに暑さはかき消すようになくなり、
はなはそのまま家に帰りました。このことがあって、より奇妙な
ことには、毎夜きまった時刻になるとはなの身体は焼け付く
ような暑さに襲われ、その度にはなは夢中のまま山へ行き、
小女郎が池に身を浸さねばならないのでした。夜ごとに床を
抜け出す妻の様子に不思議に思った夫の忠右衛門は、ある夜ひそかに
妻の後をつけていきました。
ところが、こともあろうに池の面に横たわり泳ぐ真っ白な大蛇
と化したはなの姿を見て、大声を出して驚きました。その声に
気が付いたはなは「今はいたしかたございません。実は池の
ほとりに住む蛇の主に魅入られてしまいました。と泣く、
すべてを打ち明けました。
忠右衛門は因果の恐ろしさ覚り、すべたは前世の因縁と諦めて
妻をこの池の畔に住まわせることにしました。しかし、気がかり
なのは手元に残された赤ん坊に乳を飲ませることでした。
このため、2人は相談の末、妻は山を下り、夫は山に登って
1日1度だけ逢うことにことにしたのです。
こうして、赤ん坊に乳を与えるために休んだ石は、丘石といい、
そこには今も赤ん坊の足あとが残っていると伝えられています。
「雨たもれ小女郎が池。」と旱魃の際、土地の人らが唱える
雨乞いの風習ははなが夫と別れる時に「干ばつののため、村が
困るようなことがあったら、ここへきて「小女郎が池の歌を
詠ってください」と言い残したという伝説に基づくものだと言われています。

今でも小野の浜から湖辺沿いに歩くと、ここに言うような沖の島、
三上山、長命寺の山が春は薄青き空の下、夏は深い青色の湖を
隔てて、秋には遠く伊吹の山まで、冬は灰色の空の下に、見える。
その景観は四季折々の姿を我々に見せる。昔ほどではない砂浜の
白さに松林が並行して走る情景は、いつまでいても時を感じない
緩やかな流れでもある。
それは古代から近世へさらには江戸時代まで変わらぬ景観だった
のかもしれない。さらには、道標、地蔵、一里塚など時代の痕跡
も消えていない。
西近江路を歩くと、昔話の痕跡や現存する遺跡が路傍の片隅に
忘れられたように残されている。この「志賀町むかし話」を片手に
そぞろ歩きするのも面白い、書かれている昔話を読むとそんな想いが
強くなる。

2018.10.06

西近江路紀行23 志賀の祭り

西近江路紀行23志賀の祭り

秋もまた祭りが彼方此方で、今年は台風が多いせいか、抜ける
青空の下でというのは少ないかもしれないが、催される。
春は和邇の天皇神社だが、秋は小野神社だ。神社が各集落にあり、
それぞれが長い歴史に沿って続いてきた。小野、栗原、比良、
南小松、北小松などもそれぞれの地域の祭が見られるが、
木戸や和邇は各地域を合わせた祭りが昔から行われていた。
秋の祭は少なくなったようだが、春祭りはそれぞれの地域で
盛んにおこなわれるので、この紀行のそぞろ歩きにでも立ち寄る
とあらためて地域の活力を垣間見られる。しかし、樹下神社を
中心に行われる北小松や比良は四月末にそれぞれの神輿
を繰り出すが、担ぎ手の高齢化も進み、一昔前までの賑わいは
薄れていく。祭りという地域共同体としての所業もまた時代
という手の中で、その機能を必然的な形に整えざるを得ないのだろう。

先ずは、五箇祭りがあろう。
五月五日、この日、木戸の樹下神社の空気は弾んでいた。
灰色の石垣が朝の柔らかな光の中でそここに小さな影を作り出し、
中央の拝殿の周りには、裃姿の寄人衆が少し緊張気味に、
更には半被姿の若いものが幾つもの塊を作り、にこやかな風情
で集まっている。少し勾配のある石畳をゆっくりと親子連れや
年寄りたちが薄青く鱗のような輝きを放っている琵琶湖を
背にして登ってくる。それを両手を広げるような趣の石の
鳥居が出迎える。
大物、荒川、木戸、守山、北船路の五つの地域の祭りの日であった。
杉の木立が拝殿を囲むように四方から何条もの影を差し込み、
見上げれば、木立の立ち並び、その中空にぽかりと空いた
青く澄んだ空が見える。既に五基の神輿が金色の光を放ち、
きらびやかな飾りがそれを更に色づかせている。神主の祝詞が
杉の木立を縫い、集まった人々を吹き渡り、まっすぐに伸びた
参道を琵琶湖に駆け下りていく、そんな様にも見える。

「当社の例祭には五基の神輿による勇壮な神幸祭であり、
庄内五部落の立会の古式祭で古くより五箇祭と称され、
例年5月5日に開催され、北船路の八所神社の神輿とあわせ
五基の神輿が湖岸の御旅所へ渡御する湖西地方で有名な祭だ」、
と古老が教えてくれた。
しかし、五基の神輿が揃うには、少し時間を戻す必要がある。
普段、北船路の神輿は当日の朝早く、北船路の八所神社を
出て昔の西近江路を樹下神社に向かう。それを守山地域の人々
が若宮神社から打ち太鼓を先頭に太鼓道と呼ばれる道に沿って
向かい木戸の村境で出迎えるのだ。これは「北野の挨拶」
と呼ばれ、静かな雰囲気ながら緊張を高めた裃の先導者が
ゆっくりとおじきを交わす。昔からの慣わしだ。
神輿が動き始める。周囲の人もざわつき人波が揺れる。金色の
光の中に白い法被姿の若衆が掛け声に合わせ、ゆっくりとまっすぐ
に湖へとねり動く。感慨深げに神輿を見る老婆、父親の肩に
乗ってしきりに声をかける子供、スマホを盛んに向ける若い子たち、
参道には、様々な人たちが照り付ける陽の中で笑い微笑む。
神輿は一六一号線を突っ切り、湖西線に向かい、湖岸につくと
左手に折れて御旅所で勢ぞろいする。二番目に入ってきた守山
の神輿が対岸の三上山に向き、次に伊吹山に向く。その前を
北船路の神輿が通り抜けると、勢いよく残った神輿が走り出した。
それは大輪の向日葵がぱっとその金色に近い花を日に向ける
強さにも似ていた。これを「木戸浜の別れ」とも言っている。
その昔、この樹下神社のまっすぐな参道は琵琶湖を渡り、
東近江の神々との交信をも続けたのであろう。この西近江路周辺
には湖岸近くに多くの御旅所が散在する。白髭神社の湖の鳥居も
そうなのかもしれない。神の道は琵琶湖の中に今も息づいている。
さらに、北船路の神輿が湖岸の還御道と言われる道を提灯を
掲げて八所神社まで、黄昏の陽を浴びて暮れなずむ琵琶湖の
青黒き拡がりに浮かぶように進むさまは情感があふれていた。

西近江路紀行3の和邇には和邇祭の紹介があるが、南小松の
八幡神社の春の祭礼を少し点描してみる。

やや黒味を帯びた松林の間には、白き碧さの湖が静かに
横たわっている。目を転じれば、東からの陽光を浴びる比良
の山端の切れたあたりに小さな湖がいた。先ほど乗ってきた
電車の去る音が静かな時の流れを引き裂いていく。やや
褐色の強くなった山肌に白き亀裂の目立ち始めた比良山の山並み
に向かって緩やかに上る小道をたどり始めた。国道を横切り
更に小道を歩くと、石の道標が出迎えた。地元の古老の話では、
古来白鬚神社への信仰は厚く、京都から遙か遠い神社まで数多くの
都人たちも参拝したという。その人たちを導くための道標が、
街道の随所に立てられたが、現在その存在が確認されているのは、
七箇所ほど(すべて大津市)。建てられた年代は天保七年で、
どの道標も表に「白鬚神社大明神」とその下に距離(土に埋まって
見えないものが多い)、左側面に「京都寿永講」の銘、右側面に
建てられた「天保七年」が刻まれている。
二百数十年の歳月を経て、すでに散逸してしまったものもあろうが、
ここに残されている道標は、すべて地元の方の温かい真心によって
今日まで受け継がれてきたものだ。その最後の道標がここ、
八幡神社の参道の手前にある。
その道標の先にある家の庭には敷き詰められた石と淡然とした
趣のある石灯篭がこちらに向かってにこやかな笑いを帯びた風情
で置かれていた。横を手押しの車を押して白髪の髪を後ろで
まとめ上げた老婆が、ゆっくりとしたテンポで通り過ぎていく。
がたがたという音がやや朽ちた壁と石畳の道の間に強く響いてゆく。
その先には、八幡神社との刻銘がある常夜灯の大きな石の影が
参道を寸断するかのように、一直線に伸びていた。
その常夜灯の先に八幡神社があった。

古老の話と説明文から、
「南小松の山手にあり、京都の石清水八幡宮と同じ時代に
建てられたとされます。木村新太郎氏の古文書によれば、
六十三代天皇冷泉院の時代に当地の夜民牧右馬大師と言うものが
八幡宮の霊夢を見たとのこと。そのお告げでは「我、機縁によって
この地に棲まんと欲す」と語り、浜辺に珠を埋められる。
大師が直ぐに目を覚まし夢に出た浜辺に向うと大光が現れ、
夢のとおり聖像があり、水中に飛び込み引き上げ、この場所に祠
を建てて祀ったのが始まりです。
祭神は応神天皇です。
創祀年代は不明ですが、古来、南小松の産土神であり、往古
より日吉大神と白鬚大神の両神使が往復ごとに当社の林中
にて休憩したと云われ、当社と日吉・白鬚三神の幽契のある
所と畏敬されています」と説明する。
県下一と言われる大きな狛犬が、本殿を守るかのように鎮座していた。
右のそれのタテガミは、やや逆立つように大きな目は怒りを
含んで本殿に向かうものへの畏敬を望んでいるようであり、
左のそれは緩やかな鬣にあわすかのように目や口の造作から
穏やかな空気が流れ出てくるようだ。ともに180センチほど
の大きな体を悠然と台座の上に横たえ、周囲を圧した情感を
発している。静かな空気を剥ぎ取るようにどこからか水音がした。

本殿の横、石の水路からその音は出ていた。水路は小さいものの、
水しぶきが水路にそって伸びる苔の帯に降り注いでいる。
小さな光の筋がその緑に絡みつくように映え、水の強さを
さらに深くしているように見えた。水音をたどれば、後背の杉
の群れの中に消え、念仏山といわれる比良の前面にある小山
へと続いているのであろう。また下へとたどれば、神社の石垣
に沿って、正面の鳥居の下へとそれは続いている。小さいながらも、
まるでこの神社を守るかのように水音が周囲を覆っている。

春の祭礼(四月下旬)には、神輿をお旅所まで担ぎ、野村太鼓奉納
や子供神輿がこの地域を巡るという。拝殿の前には、土俵の堤が
あり、八朔祭(9月1日)が行われ、夜七時ごろからは奉納相撲
が開催される。子供たちが裸電燈の下で勢いよくぶつかり合い、
周囲からの声援で踏ん張り、そして投げを打つ。
そんな様が自身の少年時分の思い出と重なって古いトーキー映画
のごとき緩やかなモノクロの映像の流れにしばらく身を置く自分がいた。
昭和といわれた時代の名残香が一瞬鼻をつく、しかしそれは五十年
以上の古き香りなのであろう。
さらさらという水音に、沖天の光の中にいる自分、引き戻された。
狛犬の目が一瞬、お前はここで何してんねん、と言っているようでもある。
石と水の里、そんな想いがさらに強まった。

ちなみに、柳田国男の「日本の祭」に面白いことが記述されている。
祭りを肌で感じ、楽しく心地良く過ごすのも大切だが、以下の2つ
はちょっと頭に留めて置いてもらいたいものだ。
「日本の祭の最も重要な1つの変わり目は何だったか。一言で
言うと見物と称する群れの発生、すなわち祭りの参加者の中に、
信仰をともにせざる人々、いわばただ審美的の立場から、
この行事を観望する者の現れたことであろう。それが都会の
生活を華やかにもすれば、我々の幼い日の記念を楽しくも
したとともに、神社を中核とした信仰の統一はやや壊れ、
しまいには村に住みながらも祭りはただ眺めるものと、
考えるような気風を養ったのである。」
さらに
「1年を通じて一番大きな祭りは、なんとしても秋の収穫祭後の、
モノの豊かな時に行われるもので、その次には、春の末または
夏のかかり、農村では苗代ごしらえにかかる前のものがあった。
旧暦4月8日という日が、特に山の祭りと関係があったようである。
人の良く言うのは春秋両度の祭、これは農業ことに稲作の始め
と終わりとを、表示したことはほぼ確かで、その前後の定まった
日を、山の神が田に下り、また田の神が山にはいる日として、
祭るという農村も多い。」

2018.09.30

秋分に想う

秋分(9月22日から10月7日ごろ)

秋の足は速い。夏の暑さが残っていると思ったが、あっという間に消し去られた。
消されるという言葉が似あう、と思った。それは大型台風が日本を舐めつくし、
また現れた、そんな想いに夏が消され持ち去られた、そんな感じだ。
ビワマスの炊き込みご飯が喉を撫ぜた。今年の採れたての新米に醤油、長ネギ
が絡み合い、少しのおこげと微妙な調和でその匂いと食感を味わった。
10月1日から漁が禁止されるのだが、30センチ以上の銀色の鱗に久しぶり
の琵琶湖の味をかみしめた。刺身には7月初めぐらいが旬で美味しい、サーモン
ピンクのあのねっとりした色が舌に絡み、その歯ごたえのちょうどよい堅さが、
頭を突き抜けていくが、炊き込みのご飯に染み込んだ味もまた秋を教えてくれた。
それにみょうがを小さく刻んだ小粒の調味は密やかな苦みと辛みがその味
を更に引き立てていた。ふとしたお婆さんとの出会い、野菊とズイキの太い幹を
だきかかえるようにして歩いてきた。ズイキは干していろいろに使える。
少し前に食べた細身にまかれたズイキの巻き寿司とみょうが寿司は秋の匂い
がして美味しかった。
先日食べた秋刀魚は日本人の味だと思えば、ビワマスは琵琶湖人の味だ。


今年は9月24日が中秋の名月で25日が満月という。1日の違いがなぜ
起こるのか、それは詮索好きな人の任せるとして、でもいずれも雲がその姿を
隠した。 月は信仰の対象でもあったので、お供え物をして収穫の感謝をする。
すすきに団子、おはぎが幼いころの何とも言えない郷愁を奏でるが、今は
それを「粋な」ものとして、特別扱いだ。十五夜と十三夜の両日を祝うのは
平安から伝わる風習で、旬の食べ物を供えることから、十五夜は「芋名月」、
十三夜は「栗名月」と言ったそうだ。
澄んだ闇天に突き通すような黄金の光を浴びながら日々の安寧に浸る
「中秋の名月」、平安時代から観月の宴、今もどこかで観れるのであろうか。

今は、薄雲を前垂れのように見せている満月が浮かび、木々の黒く盛り上がった
葉影から金木犀の立ち込める香りに酔い、スズムシの静かに鳴き通す声に
眼を閉じれば、己の輝かしい日々もふつぜんと湧く、我が人生の短編が
速き突風のごとく浮かんでは消えた。薄明りに紫苑の紫の花びらが高くのびのびと
咲き誇り、少し先の葦原が風になびく、紫苑は中秋の名月頃に良く咲き、
別名、十五夜草ともいわれると聞いた。

暑さが拭い去られ、稲穂も黄金色に色づけば、それはお月見と秋祭が思い
浮かぶ。蒼く澄んだ空に黄色と朱色の色帯びた幾多の鱗雲が足早に三上山
の先へと流れ消えつつあった。それを追うかのようにまだ残る赤白い
光の中に月がその姿を見せ始めていた。
対岸の八幡の山からのぼった月はその光を弱め、丸い球体の端が欠け
始めている。蒼き空に深く浮いていた陽も、比良の山並みに吸い込まれる
のがずい分早くなり、月の出番が早くなった。
月光は山麓を白く貫いている道を浮き立たせこの内湖の水面をを海のように
照らしている。更に、その光りはいまは人の腰まで伸びた稲穂の一つ一つ
にその影を落とし、暗闇の先まで続く松林を青白く光らせ、やがて湖の湖面
まで届いていた。その稲穂の中に悄然と立つ湖岸の福田寺の本堂が湖を
見守るかのように周囲からひときわ高く傘を広げたような甍が光って見えた。

西近江路紀行22 琵琶湖と月と比良の山並みと

西近江路紀行22琵琶湖と月と比良の山並みと

西近江路を味わうのは、夜の情景もまた素晴らしい。
番外編的に夜を味わってもらいたい。特に秋分、秋の色が
すべてにしみなすころ。
光り輝くような月、冴えわたる虫の声、夜が楽しみな季節、
曼殊沙華が赤く群れ咲き野の緑を凌駕し、紫苑の紫の
花びらが高くのびのびと咲き誇り、葦場が茶色に色づき
風に揺れる、月影に恋い焦がれる女人の想いのようにも
思える。紫苑(しおん)は中秋の名月頃に良く咲き、別名、
十五夜草ともいわれる。田んぼの水を抜き、稲刈りが彼方
此方でたけなわ、井戸の水が枯れ始める頃との説もあるが。
金木犀の黄橙、銀杏の薄茶色、秋色と香りが強烈な濃さ
となって里に漂い群れる。

八幡山を見下ろすように黄金の輝きを放ち丸い月が湖上の
上にあった。黄金の光、黒天の闇は周囲を薄黄色に染め、
徐々にその色を弱めながら八幡山に届くあたりで黒墨の空間
を見せている。中天に眼を映せば、漆黒のみが天を覆い、
星が小さな瞬きを見せて無数に散っていた。
彼は、その輝きに小さな安寧を感じた。小さいころ味わった
金平糖の甘さがジワリと口から喉へと広がった。
湖上は月光を浴びた水面が幾重にも白い横じまを見せ、
白き羽衣の薄絹の輝きに上下左右へと動いていた。
その白き輝きは幾重もの皺をみせ、対岸の沖島や八幡山
近くの湖面からこちらに向かうにつれて徐々にその絹の
輝き失い細い糸筋になって、やがて湖の真ん中あたりで
黒く平板な面となった。手前の松林の木々が白く輝く浜に
何十という影を落とし浄土に己の光を求める死人にも見えた。
黄色の原色の満月と黒と白のみで何十もの横糸の如き白い光
を放つ湖面のモノトーンの世界、微妙な対立を見せる
世界があった。不釣り合いな情景が琵琶湖を欣求浄土
(ごんぐじょうど)への湖の道を思わせる。
ふと、俺はどうなるのだろう、そんな想いが頭をよぎった。

今年は9月25日が満月で24日が中秋の名月。
月は信仰の対象でもあったので、お供え物をして収穫の感謝
をする。特に芋類の収穫に感謝するという意味合いから
「芋名月」とも呼ばれ、里芋料理や満月に見立てた月見団子を、
窓辺や縁側の月の見えるところにお供えした。
十五夜と十三夜の両日を祝うのは平安から伝わる風習で、
旬の食べ物を供えることから、十五夜は「芋名月」、十三夜は
「栗名月」と呼ばれる。いわゆる「十五夜」は一年で最も
美しい月が見られるとされており、旧暦では8月は一年の中
で最も空が澄みわたり、月が明るく美しく見えた。
そのため「中秋の名月」と呼ばれ、平安時代から観月の宴
も開催されていた。

鰯雲はなやぐ月のあたりかな   高野素十
秋の田の穂の上に置ける白露の
  消ぬべくも吾は思ほゆるかも   詠み人知らず

蓬莱の山頂から見る、目の下には、白く続く砂浜とその砂浜
を守るような姿形で何百の松が数列になってこれも長く長く
続いて、暗闇の中に消えていく。少し先黒く重く小さなざわめき
を発しながら、比良の山々がこれもどこまでも続いている。
湖と山々の間には、何十という光りが紅く時には橙色に輝き、
点在しているのが見え、時折、白い線がそれらの間を流れて行く。
ふと思った。古き昔、これら眼下に広がる世界には、光りはなく、
漆黒の世界が支配していたのだろう。周囲を見渡せば、空に
うがつ星たちは、何者にも邪魔されず、伸び伸びとした光りを
発しているが、先ほどの砂浜からではその光りは弱く縮み
頼りない力しか見せていない。月明かりに映える比良の山並
はトカゲの背びれの様に北へと伸び、尾根伝いの細い道は
黒々とした木々の間を走り抜けていく。更には、トカゲの
横腹のような山麓が湖との間にある平地まで降りて、わずか
ばかりの田畑を人間に分け与えている風に見える。横腹からは、
幾筋もの水の流れが湖に向かって月の光りを反射しながら
伸びて行き、3つほどある三角に突出した浜辺には、白く
輝くさざなみが押し寄せては消え、また新しい波を
見せている。黒い水面に灯火をつけた舟が数艘、わずかな
揺れを見せながら漂っている。その揺れに合わすかのように
右手を見れば、黄色と赤の帯が間断なく湖を渡って、ゆるやかな
弧を描きながら対岸の林や建物に消えて行く。その細く赤い帯は、
昼間見た曼珠沙華のつづれを思い起こさせた。
つづら折りにのびる山道の両側を赤く染め、スギ林の向こうに
消えていた。足元のその花は、紅く細い花びらを幾重にも白い茎
から四方へと伸ばし、夕日の中で、その色を一段と強めていた。
草原で塊となって咲いている曼珠沙華の力強さとは違い、数本
が細い筋となって赤茶けた山道を縫うように伸びていく様には、
可憐という言葉が似合っていた。

少し琵琶湖の名文を紹介しよう。
瓔珞品ようらくぽん(泉鏡花)より
琵琶湖の夜の美しさに魅了された主人公が何度となく琵琶湖を訪れる。
天人石を探したり、夢の中で鮒になったり、無限の世界を体感する。
「水を切る船端の波の走るのが、銀を落とすと、白い瑠璃の階きざはし
が、星を鏤めてきらきらと月の下へ揺れかかって、神女の、月宮殿
に朝する姿がありありと拝まれると申します。」
「霜のように輝いて、自分の影の映るのが、あたらしいほど甲板。
湖水はただ渺茫として、水や空、南無竹生島は墨絵のよう。
御堂の棟と思い当たり、影が差し、月が染みて、羽衣のひだを
みるような、、、」と夜の湖水を表現している。
瓔珞は仏像の胸や頭を飾る飾り。石山や彦根、竹生島などが
背景にある。
更には、
「前後に松葉重なって、宿の形は影も留めず、深き翠みどりを
一面に、眼界唯限りなき漣さざなみなり。この処によずるまで、
手を縋り、かつ足を支えた、幹から幹、枝から枝、一足ずつ
上るにつれて、何処より寄することもなく、れん艶たる波、
白帆をのせて背に近づき、躑躅を浮かべて肩に迫り、倒さかさまに
藤を宿したが、石の上に、立ち直って、今や正に、目の下に
望まれた、これなん日の本の一個所を、琵琶にくぎった水である。
妙なるかな、近江の国。卯月の末の八つ下がり、月白く、山の
薄紅、松の梢に藤をかけ、山は翠の黒髪長く、霞は里に裳も
すそを曳いて、そよそよとある風の調べは、湖の琵琶を
奏づるのである。」
と夜の湖水を表現している。
さらに、
比叡(瀬戸内晴美)には、
女流作家が出家し、比叡山で行をつむ話である。
比叡山での「もしかしたら、既に死んでいるのに気付いていない
のだろか、と言う厳しい修行の中で、仏に引き寄せられ、
新しく生きて行く事を知る姿を語っている。
「湖はとぎすましたような晴れた冬空を沈め、森閑と
横たわっている。そこからのぞむ比叡の山脈は湖の西に
南から北に走りながらくっきりと空をかかげ、圧倒的に、
力強く、生命力にみちあふれていた。日本仏教の根本道場
と呼ぶにふさわしい威厳と神聖さを感じさせた。
琵琶湖と比叡は混然と一体化して、それを切り離す事の
出来ない完璧な1つづきの風景を形成している。
俊子の目にはそのとき、山脈があくまで雄雄しく、湖が
かぎりなくおおらかにふるまっているように見えた。」
その合間に日本の文化や西行、一遍などの出家者の恋の話し、
外国の風景、や名画の話など、豊かな話題が散りばめられている。
男と秘密に旅をした堅田の町も思い出される。
「旧い家並みの家々は、どの家もどっしりと地に根を生やした
ような落ち着きで肩を並べていた。生まれてくる前に、通った
事のあるような所だと、俊子は感じていた。」
また、雪の降る日、浮御堂に立った後、隣りの料亭で鴨鍋を
突付く、月が出ている。その光景を、
「湖に薄く舞い落ちる雪が月光に染められ、金粉をまいている
ように湖水の面に映っていた。湖面も月光に染められ金波
がひろがる上に雪が休みなく降り続いている。それは不思議な
この世ならぬ幻想的な光景だった。」
「人が寝とんなはる時間、夜通し車走らせて好いとる女ごの
許ば通いなはる。そぎゃんして、病気になって死にはってもよか
と覚悟しとらすっと」と。
なおも責める尼僧に、「そぎゃんこと解決できるなら、だあれも
なあんも苦しむことなか。そぎゃんこと悪かことわかとって、
とめられんばってん、死ぬほどきつか思いすっと」

これ日本情景の極めだね、と思う自分がいる。今、坂の上から
見るその光景も月に映える湖面からその光を少しづつ弱め、
濃淡の帯となり、しじまを作りながらやがて黒い湖面に同化していく、
それが一枚の画枠のごとく眼前にあった。たしかに、満月の夜、
細く光りうねる波のしじまに月の光が漆黒の水面を照らし、
薄黒い空に黄色く光り輝く月は何人も寄せ付けない冷たさに満ちている。
然しそれは一度眼に触れたものを離さない強さの輝きでもある。

更には、松尾芭蕉と言う人が短い文で、このあたりの情景を詠って
いるのが今の雰囲気に合うな、と独り言。月夜におかしくなるのは、
ドラキュラや狼人間だけではないようだ。もっとも、秋分以外
の詩もあるが。
「鎖(じょう)明けて月さしいれよ浮御堂(堅田)」
「やすやすと出でていざよう月の雲(堅田)」
「病雁の夜寒(よさむ)に落ちて旅寝かな(堅田本福寺)」
「比良三上雪さしわたせ鷺(さぎ)の橋(本堅田浮御堂)」
「海晴れて比叡(ひえ)降り残す五月かな(新唐崎公園)」

夜もまた違う味わいを見せる西近江路、古代の都人は地の果て
という怖れとこの不思議な美しさに戸惑い心のうねりをたえず
感じてきたのであろう。
人に言わせると、冬の夜の琵琶湖の満月が好きだ、という。
昨日からまた雪が降り出し、比良の山も湖も灰色と白く舞う雪
の花にひっそりと見え隠れする。白く輝く光りを浴びた湖面
は三角錐の八幡山と皿を伏せた沖島の島影を浮き立たせ、細かな
波状のつらなりが丸く輝く月の下で揺れかかっている。
雲一つ無い闇天の空に神々しく輝く満月がその様をのぞき見ている。
山と空、水、沖舟にさす影、羽衣のひだと思わす波のはしり、
それが墨絵の 趣で眼前にある。
私は、凍えそうな手に己が息を吐きかけ、闇に身を置いていた。
湖水は寂寞として何も言わず、橋を渡る赤いいくつもの筋のみ
が消えては またその緩やかに伸びる赤い帯を現していた。
さらに、湖北の雪の残り香であろう雪の切片が湖に薄く舞い落ち
月光に染められ、銀砂をまいているように湖水の面に踊っていた。
湖面も月光に染められ銀色の波がひろがる上に小雪が舞い落ちている。
だが、月が雲にかき消されると平板な重く澱んだ水面となり、
すべてが凡庸な湖の世界となる。いずれにしろ、四季の中で
満月に出会うことがこの地をあらためて記憶にとどめることになる。

2018.09.23

白露に想う

白露(9月7日から21日ごろ)

今年は溶けるほどの夏だった。初候の頃はまだ、露が宿るとは言えない。
ようやく処暑の姿が見えたほどだ、それでも自然は動く。
秋の気配が見え、山間の野草にも露が宿り始める。寒さや暑さだけでなく、
ささやかな自然の変化にも季節の移り変わりが出始める。
我が家の自生のみょうがも大きくなって、みょうが寿司、おすまし、
秋の香りが膳に並ぶ。
そして、ナス、カボチャ秋には欠かせない野菜、焼きナスに醤油
をかけて食べる、秋の快感でもある。

夏が終わり、秋が始まった。
秋色の風が群青に赤がさしている湖を渡る。
刈り取られたばかりの水田の緑の根株。
まだ黄金色の穂を垂れたままの穂波たなびく田。
紫苑の紫が涼しさの風にゆらりとなびく。
彼岸花、その太く赤い線が画枠となって一幅の絵を成す。
金色と艶やかな緑と金色の織りなす平板な光景が湖に溶け出す。
暮れなずむ黄橙色が湖の青い鱗模様の水面に溶けかかる。
秋色の風は虹色が混じりあい七つの香りを野に放つ。
秋の夕暮れは、人によりその評価は様々だ。水面に長く影を引き、
立ち並ぶ中ぶりの木々の褐色の肌を薄い紅色が包む、それに人生
の長きを感じ、憂鬱だと忌み嫌う人もいれば、夏の暑さに
圧し潰されていた心と身体の安らかさに生きていることの
素晴らしさを思う人、混じり合う明るさの匂いに五体の存在を
あらためて感じるもの、そして黄昏と言われる言葉に涙する人、
春はあけぼのと言った古人もいたが、秋は夕暮れというのも
おかしいとは思えない。
夕暮れは秋の心を見せるもの。

大気が冷えてきて、露ができ始めるころ。「暦便覧」では、
「陰気やうやく重りて、露にごりて白色となれば也」と説明している。
中々に風情のある季節名である。
近頃は味わっていない宝石の琥珀を彷彿とさせる美しさに
封じ込めた和菓子の宝石「琥珀」は菊花の花びらを幾重にも重ね、
その可憐な姿とかたどった目にも可愛らしくその上品な甘さの中に
広がる紫蘇、小豆、抹茶それぞれの風味が嬉しい。
この時季に迎える重陽の節句は、平安から、延年を祈る菊花宴や菊の香りを
移した菊酒の習慣がある。別名、菊の節句とも言う。
紫蘇は調味料的にこの時期何に合わせても味を引き立てる。より大きい葉
のエゴマ、味噌に混ぜると中々に美味しい。間とこの時期、ガマズミ、
ナツハゼ、ヤマボウシなど赤や紫の実がちょっとつまんで一口、秋の野味覚だ。
秋の七草(萩、すすき、葛、なでしこ、おみなえし、藤袴、桔梗)
は愛でることで満足?
「秋の野に咲きたる花を指および折り かき数ふれば七種ななくさの花 山上憶良」

歩きに合すかのように真紅の連なりが眼に映える。
曼殊沙華だ、稲の刈入時期を教えてくるという細く糸筋のような花びらが
すっと天に向く様は何とも言えない強さと愛らしさを交じらせた姿形
を見せる。この時期の好きな花だ。黄色味を帯びた緑や深みの残る緑、
日に映えた薄く光る緑、その様々な緑を押し分けるようにあぜ道、
枯れ田、石積みの一隅に焔を燃やす、秋の涼やかな風にその色を更に赤める。
近くで焼く藁の紫煙が鼻孔をなぞる。

底の抜けるような青い空の下、木々の小枝のさざめき、遠くからアオゲラ
のキョッ、キョッと甲高い鳴き声、少し上の苔に覆われた石には、
ミソサザイがチリチリチリという震え声で啼いている。圧し潰される
ような暑さから解放され、のびやかな声が秋の到来を告げている。

2018.09.22

西近江路紀行21ダンダ坊遺跡を訪ねて

西近江路紀行21ダンダ坊遺跡を訪ねて

西近江路からは少し外れるが、武奈ケ岳や比良岳が聳え立つ
比良山系に向かって比良の集落を抜けていく。今は、国道
161号が山裾に沿って走っているが、県道をさかのぼる。
晴れた日は、琵琶湖が足元にまで押し寄せる感じで、迫っている。

ダンダ坊への写生
すでに人家は途絶え、先ほどまで後ろに光り輝いていた
湖の姿も消えた。道は舗装から砂利道へそして、山道へと
変わり、まるで俗世と来世はここだ、と宣言している様でもある。
まるで来世の自分を見せるかのように暗い杉の森が目の前
に広がっていく。歩を更に進めれば、杉の木立ちが天空の蒼さ
を被い隠すように続き、見下ろすように立ち並んでいた。
細い山道がつづら折りに伸び、薄暗がりに消えていく。
光明の如き薄い光がその先で揺れている。
わずかな空気の流れが私の頬をかすめていくが、聞こえるのは
山道を踏みしめ歩く自分の足音と踏みしだかれる落ち葉の音だ。
静寂が周囲を押し包み、はらりと何かの葉が足下に落ちてきた。
さわりと、その音さえ聞こえて来た。森の光りを切るように
いくつかの影が通り抜けていく。ヤマガラかホオジロか定かではない。

朽ちかけた標識がやや傾きながら目の前にあった。
上りの勾配がきつくなり、山道を歩く音に合わすかのように
その息づかいが高まり、別な人がいるかのように聞こえ始まる。
千年以上前に建てられたという寺、天台僧の修業の場であり、
多くの寺院が山中に営まれた。江戸時代には、この様子を
「比叡山三千坊、比良山七百坊」と称していたという。
しかし、歩いてきた風景の中には一片の証も見られなかった。
道が切り取られたような崖の間を抜け、右手の山へと続いている。
歩けるように整備された細い道が山の端に沿って、上に向って
さらに伸びている。
ちょっときついな、と心なしか不安を覚える。上っては下り、
下りを暫らく感じると直ぐに上る。そんなことが暫らく続く。
小さな水の流れを渡り、また小さなきざはしとなっている山道を
上がる。膝とその周りの肉がそろそろ悲鳴をあげ始まった時、
突然、森が切れ、視界が広がる。
そこは縦五十メートル幅百五十メートルほどの広さを持ち森
の重さがすっぽり抜けたように蒼い空の下に小さな草花を
咲かせていた。参道と思われる道が枯草に身を隠すように伸びている。
そこを登り切った所にかっての山門の名残であろう礎石が
二つ置かれている。広場には、苔むした石垣がいくつかの群れ
を成し、やや細い灌木の中に散在している。
鷲か鷹か判然としないが、蒼き天空を二羽の鳥が旋回している。
その昔には、遠く彼らの親たちは数百人の人間が天に念仏を
唱えながら日々暮らす姿を見てきたのであろう。滑稽なりと思ったか。
見渡せば、いくつかの遺跡らしきものが私を手招いている様だ。
寺院遺構は、北から南に張出す尾根の先端に位置している。
山の端を切りとったであろう広い敷地に石垣で築かれた階段、
山門、本坊、開山堂、池、礎石と思われる遺構が残っている。
さらに東側の谷筋には、下から坊跡が並び、谷筋の一番奥に
館跡がある。前面を石垣で固め、その背後は築山を兼ねた
土塁と堀がある。風雪にややその姿を緩やかな曲線に落としている
ものの、正面に開口する石垣で築かれた桝形虎口というものがある。
直角に折れた石垣は見事である。

更には、屋敷跡の北奥には、築山を築き、中心に三尊石を置き、
この裾から滝が落ち、築山裾の池へと流れるような造りがある。
武家儀礼のための庭園と思われている様だが、ここは一種
の城でもあったのであろうか。
まさに城は春にして、草木深しの趣だ。まばらに林立するブナ
や杉の木々が柔らかい影をその遺構に落とし、冴えわたるヤマガラ
の囀りと枯草の触れ合う音のみがここを支配している。
読経の響く伽藍と御堂が甍の波となって彼の身体を駆け巡る。
館跡と庭園の残照がすでに亡き人々の想いと合わせ、一類の悲しさ
さえ見える。陽はすでに中天から外れ、徐々に秋の寒さを周囲
に撒き散らし始めている。
背中に滲み出している汗が徐々に消えていく。
過去の栄華に想いをはせるには、余りにも小さすぎる広さだ、
そんな事を彼は思う。時は残酷だ。人の肉体と同様に、祈りの場
であり、象徴である存在を見事に風化させている。来たことへの
満足感と荒廃した栄光の場への寂寥が微妙なバランスで私を
取り込み、すでに心は家路へと急いでいた。
概要説明

比良連峰は、平安時代中期以降、天台宗の勢力拡大と伴に、天台僧
の修業の場となり、多くの寺院が山中に営まれた。江戸時代には、
この様子を「比叡山三千坊、比良山七百坊」と称された。
ダンダ坊もそうした寺院の一つで、横川恵心院の別院として平安時代
に始まり、元亀3年(1572)に織田信長との抗争で延暦寺とともに
破壊され、焼滅したと考えられている。

ダンダ坊遺跡は、比良川が支流を集める「いんだにはし」と「出会橋」
の北側に巾約150m、奥行約550mの範囲に広がる比良山中最大の
寺院遺跡である。遺跡は大きく寺院跡、坊跡、館跡などの四つの
ブロックに分かれ、特に寺院跡と館跡の遺構が明瞭に残っている。
寺院遺構は、北から南に張出す尾根の先端に位置している。尾崎を
削平した広い敷地に石垣で築かれた参道、階段、山門、本坊、開山堂、
池、礎石などの遺構が明瞭に残っている。尾根の東側の谷筋には、
下から坊跡が並び、谷筋の一番奥に館跡があり、前面を石垣で区画し、
右手背後は築山を兼ねた土塁と堀で遮断している。
一番の見所は、正面の左端に開口する石垣で築かれた桝形虎口である。
直角に折れた石垣が見事である。屋敷の北奥には、築山を築き、
中心に三尊石を置き、この裾から滝が落ち、築山裾の池へと流れる。
伊吹町上平寺に残る京極氏館の庭園と同じ様な造りで、武家儀礼
のための庭園と思われているが、なぜ山岳寺院に造られたのか
解明されていない。

2018.09.15

西近江路紀行20 栗原

西近江路紀行20栗原

西近江路和邇の地区を少し山側、途中峠と呼ばれる方に向かい、
天皇神社を通り過ぎると川のせせらぎに迎えられるように
栗原の集落がある。
水に育まれた、栗原水分神社と棚田の世界、ここも志賀の街だ。
艶やかに日に照る柿は、一つ一つの小枝にみのり、いくつかのそれに
漆のような影を宿していた。ある一枝には、その赤い粒が密集して、
それが花とちがって、夥しく空へ撒き散ったかの柿の実は、そのまま
堅固に張り付かくように端然とした静けさを保った空へ嵌め込まれていた。
野辺の草葉はその碧さを失い、大根畑やそれを囲むかのような竹藪の青さ
ばかりが目立った。大根畑のひしめく緑の葉は、日を透かした影を重ねていた。
やがて左側に沼を隔てる石垣の一連が始まったが、赤い実をつけた
葛がからまる垣の上から、小さな泉の澱みが見られた。
ここをすぎると、道はたちまち暗み、立ち並ぶ老杉のかげへ入った。
さしも広く照っていた日光も、下草の笹にこぼれるばかりで、
そのうちの一本秀でた笹だけが輝いていた。
少し前に食べた大根料理の味が口の中にほわりと拡がる。栗原の大根は
美味しいと評判だ。
集落の周りは村を守るように雑木林が幾重もの木漏れ日を小さな畑、
家の屋根、細くうねりのある道々に投げかけている、ここは雑木林の里だ。
また昔はクリの木が多く見られたそうだ。
栗原の名前もそこから来たのであろうか。

秋の冷気が体に寄せてきた。
身の丈ほどの石垣に色づいている数本の紅葉が、敢えて艶やかとは
言いかねるが、周りのややかすれた木々の黒ずんだ木肌と合わせ、
私にはひどく印象に残る朱色のように見えた。
紅葉のうしろのかぼそい松や杉は空をおおうに足らず、木の間に
なおひろやかな空の背光を受けた紅葉は、さしのべた枝の群れを
朝焼けの雲のようにたなびかせていた。
枝の下からふりあおぐ空は、黒ずんだ繊細なもみじ葉が、次か次へと
葉端を接して、あたかもレースを透かして仰ぐ空のようだった。
左へ折れて、小さなせせらぎを横目で見ながらゆっくりと登る。
幾段にも続く道がつづら折りのように上へ上へと延びていた。
川面には枯草がその縁を伝うように両脇を薄茶色で彩っている。
小さな堰堤がその流れを遮るように青草が縞模様に映える壁と
なっていた。そこから丘陵への道がひっそりと姿を現した。
その丘陵の端には、一本の蜜柑の木が寒々した空に身をゆだね、
立っている。春に来たときは、その枝枝に白い蕾をつけ周辺の
緑の若草に映えて天に伸びきっていた。
今は冬の寒さに耐えるため、厚い木肌に覆われたその気の横
に立つと、遠く琵琶湖の白く光る姿が見えた。何十にも続く
小さく区切られた田圃が琵琶湖に向かって駆け下りている。
すでに今年の役割を終えた水田は黒々とした地肌を見せ、中天
の光りの中で来る冬の寒さに備えるかのように身を固くしている。
あぜ道のそばにはこぶしを握ったような幹のクヌギの木が孤独
に耐えるように立ち並んでいる。稲木と呼ばれ刈った稲を干す
ためにも使ったのであろう。他の地域では榛の木(はんのき)が
よくあぜ道の横に行儀よく並んでいる風景を見る。
しかし、私の眼には一か月ほど前の金色に光る稲穂のさざめき
の光景が見えていた。

何十年、何百年とこの地で住いしてきた人々の変わらぬ世界でもあった。
丘を下り、幾重にも重なるように立ち並ぶ栗原の集落を抜けると、
その小高い場所に水分(みくまり)神社があった。古老の話では、
「御祭神は、天水分神アメノミクマリノカミという。
当社は康元元年の創祀と伝えられ、元八大龍王社と称して、和邇荘
全域の祈雨場であった。応永三十五年畑庄司藤原友章が栗原村を
領した際采地の内より若干の神地を寄進した。元禄五年社殿改造
の記録がある。尚和邇荘全体の祈雨場であったのが、後に
和邇荘を三つに分けて、三交代で祭典を行い、更に後世栗原村
のみの氏神となって現在に及んでいる。また当社には古くから
村座として十人衆があり、その下に一年神主が居て祭典、宮司が司る。
この為古神事が名称もそのままに残っている。その主なものは、
神事始祭(一月十日)日仰祭(三月六日)菖蒲祭(六月五日)
権現祭(七月二十日)八朔祭(九月一日)等があり、御田植え祭が
6月10日にある」という。
残念ながら私はそれらの祭事を見たことがない。
今も行われているかも定かでない。一度地域の人に確認しなければ
と思いながらもそのままだ。

広く長い参道の中間点あたりの勧請木に青竹を渡し勧請縄が
掛けられている。何本有るのかもわからない程多くの子縄が
垂れ下がりそれぞれに御幣とシキミの小枝がつけられている。
ちょっと不可思議な光景でもある。
しかし、雨乞い、田植え祭りなど水に育まれた集落である。
なお、栗原には道路を挟んだ対面にもう一つ棚田がある。
それは昔、何気なく竹藪の流れに身を任せるかのように分け入った
先に突然現れた。道を一気に駆け下り、さざめく小川のほとり
から上を見上げた時のあの風景は中々に忘れ難い。丘に張り付き
隠れるように幾重にも水路が走り、それが細長く仕切られた
水田に小さな水の流れを起こしていた。さらにその先には、
緑深く敷き詰めた比良の山端がその丘を懐に抱くように、迫っていた。
心が癒される一刻の鎮まりと絵画のごとき風景がそこにあった。
まさにかくれ里の風景が夏の暑さを忘れさせた。

2018.09.08

西近江路紀行19 古墳の散策

西近江路紀行19古墳

志賀町の古墳

この地域は敦賀と京都、奈良への陸路、水路の重要地域でもあり、和邇部氏、
小野氏などの有力豪族が支配していた地域でもある。
このため、琵琶湖を望む比良のすそ野には、多くの古墳がある。
西近江路をそぞろに歩く途中にでも少し山側に足を踏み込むとその残証が見られる。
私有地で中々入れない小野の古墳に踏み入れた時、大きな石板で囲まれた室は
そこに普段とは違う空気を感じたものだ。
しかし、そのような古墳はほとんど消えてしまった。時の流れの中で、自然と人の
絡み合う想いはその存在を中々許してくれないようだ。

志賀町史第4巻を中心に簡単な紹介をする。
①北小松古墳群
遺跡の立地は比良山系の尾根筋を山系の北から数えて2つ目となる尾根筋
最先端から一段と下がった低位に位置する山塊の先端近くに主に分布する。
AからCと北の支群の4つのグループが見られる。計12基の古墳がある。
概ね、主体部は横穴式石室からなり、長さは4メートルほど高さは2メートル弱と
想定さる。出土品には須恵器と鉄釘があった。
石室などはしっかりとしている。

②南船路古墳群
南船路の集落から天川を隔てた西南西の丘陵裾野にある。総計7基の古墳がある。
多くは径7,8メートルの円墳で、主体部は横穴式石室からなり、高さは2メートル弱
想定される。

③天皇神社古墳群
天皇神社の境内にある。3基ほどの古墳があるが、高さ1メートル強の円墳。

④石神古墳群
小野神社と道風神社の中間にあり、眺望のよい場所である。4基の古墳からなる。
主体部は横穴式石室からなり、一番大きな4号墳は直径15メートルほどの墳丘である。
天井石は1石で高さは3メートルほどあり、比較的高い。家形石棺が出土しているが、
須恵器と土師器に刀の小片があった。鉄滓も採取された。
大きさなどからも有力豪族(小野氏?)の墓と思われる。
なお、志賀町史第1巻には、以下の記述もある。
「本町域の比良山麓製鉄遺跡群を構成する多くの遺跡の共通する大きな特徴の
一つは、そのなかに木瓜原型の遺跡を含まないことである。木瓜原遺跡では
一つの谷筋に一基の精錬炉だけではなく、大鍛冶場や小鍛冶場を備え、製錬から
精錬へ、さらには鉄器素材もしくは鉄器生産まで、いわば鉄鉱石から鉄器が
作られるまでのおおよそ全工程が処理されていた。しかし、この一遺跡
単一炉分散分布型地域では、大鍛冶、小鍛冶に不可欠なたたら精錬のための
送風口であるふいごの羽口が出土しないことが多い。本町域でもその採集は
ない。山麓山間部での製錬の後、得られた製品である鉄の塊は手軽に運び
出せるように適度の大きさに割られ、集落内の鍛冶工房で、脱炭、鉄器生産
の作業がなされる。小野の石神古墳群三号墳の鉄滓もそのような工程で
出来たものである。しかし、この古墳時代には、粉砕されないままで、河内や
大和に運ばれ、そこで脱炭、鉄器生産がなされるといった流通形態をとる
場合も多くあった。、、、、」

⑤石釜古墳群
和邇川沿いの井の尻橋付近にあり、琵琶湖をまじかに見れる場所ではない。
南北2つの支群からなり、総計で7基の古墳がある。直径5メートルから
19メートルほどのものもある円墳である。

⑥から⑩まではいずれも曼荼羅山を囲むようにして、築造されている。
⑥ヨウ古墳群
曼荼羅山の北にあり、ゴルフ場と和邇川の中間に位置する。3基の古墳からなる。
直径22メートルほどの円墳の1号機をはじめ結構大きい。

⑦前間田古墳群
曼荼羅山の北裾とヨウ古墳群との中間にある後期古墳群である。3基の古墳からなる。
直径が10メートル前後のものであり、規模的には大きくない。

⑧曼陀羅山北古墳群
小野朝日と緑町の中間、曼荼羅山の尾根に築造されている。眼下に和邇川河口
や琵琶湖、対岸の湖東も見える場所である。5つの古墳からなる。
直径は10から20メートルほどの円墳であり、主体部は横穴式石室になっている。

⑨大塚山北古墳群
曼荼羅山の尾根筋上のなだらかな頂部に築造された3基からなる古墳群である。
いずれも直径10数メートルの円墳である。

⑩ゼニワラ古墳
曼荼羅山北寄りの東に位置し、丘陵の尾根筋に占める単独の古墳である。
直径は20メートル、横穴式の石室で何枚かの岩で積み重ねられている。
出土には須恵器があった。

⑪唐臼山古墳
小野妹子公園の中にあり、前方後円墳の崩れたものではないかとの推測もある。
墳丘は南北18メートル、東西20メートルほどあり、大きめの古墳とみられる。

白洲正子「近江山河抄」に以下の記述がある。
国道沿いの道風神社の手前を左に入ると、そのとっつきの山懐の丘の上に、
大きな古墳群が見出される。妹子の墓と呼ばれる唐臼山古墳は、この丘の
尾根つづきにあり、老松の根元に石室が露出し、大きな石がるいるいと
重なっているのは、みるからに凄まじい風景である。が、そこからの眺めは
すばらしく、真野の入り江を眼下にのぞみ、その向こうには三上山から
湖東の連山、湖水に浮かぶ沖つ島もみえ、目近に比叡山がそびえる景色は、
思わず嘆息を発していしまう。その一番奥にあるのが、大塚山古墳で、
いずれなにがしの命の奥津城に違いないが、背後には、比良山がのしかかる
ように迫り、無言のうちに彼らが経てきた歴史を語っている。

⑫小野不二ケ谷古墳群
滋賀丘陵の尾根筋上部で傾斜変換点を創り下降する交点に位置する。
2つの古墳からなり、集落の間に築造されているため、その集落で祭祀されて
きた集落間の一体化が考えられる。3点の土器を含め、幾つかの遺物がでている。

⑭和邇大塚山古墳
ゼニワラ古墳の近くにあり、前方後円墳を成している。琵琶湖が広く望め、
その規模は全長72メートルほどある。盗掘があり、その原型を推し量るのは厳しい。
副葬品としては、鏡一面、刀剣三点、甲冑一点、鉄斧二点などがある。

⑮小野神社古墳群
小野神社本殿の北脇にある。2基の古墳からなるが、小野神社の敷地整備に伴い、
その規模は不明。主体部は箱式石棺と思われる。以前には、石棺が他に5基あった
といわれるが、確認できない。

⑯道風神社古墳群
道風神社本殿のすぐ西側に古墳がある。2基の円墳があり、直径は20メートルほど、
であるが具体的な形は不明。

なお、志賀町史第1巻にも、同様の記述があり、それと合わせて確認するのもよい。

2018.09.07

処暑に思う

処暑(8月23日から9月6日)
暑さが和らぐというだが、まだ刺すような陽が身体と心を苦しめる。
中候に「天地始粛(てんちはじめてさむし)」がある。朝晩の暑さが少し和らぐ。
天地の暑さがようやくおさまり始める頃。「粛」は縮む、しずまるという意味。
私はこのような日に出かけたのを後悔していた。台風が過ぎたとはいえ、

夏の顔にならない。陽射しもまだそれほど強くはないし、なんと言っても、
この蒸し暑さはなんなのだ。体の隅々に水が染み渡るように湿気が私の
身体を被いつくす。毛穴からはその湿気が逆流するかのように汗が染み出してくる。
首筋と額から頬にかけて一筋、二筋と汗が流れて行く。
まるで私のけだるさと憂うつな気分を声なき声として洗い出しているようだ。
黒い雲が駆けていく。その間を縫うように白い雲を突き抜けるかのように
陽射しが私の顔に届く。白い雲の上にはさらに高層の雲が秋の天空を
思い出させるかのように霞み光る太陽のまわりにゆっくりと一筆を描くかの
ごとく流れ過ぎ行く。それは蜘蛛なのであろうか、視界の端にうごめく黒いものがいる。
しかも、その先の雑木林の奥に白い花の群れを見た。ヤマユリがこんなところに、
蜘蛛に感謝した。てんぷらにしてその歯ごたえを味わった。

大葉とは違うが見分けるのが少し難しい「エゴマ」、エゴマも紫蘇もシソ属で
よく似ているが、エゴマは青紫蘇より、繊維が固く匂いが強い。エゴマ特有の
臭いが、ちょっと日本料理には不向きか?青紫蘇は、野菜として大葉。エゴマは
韓国・中国料理に、大葉、紫蘇は日本料理に使うのがお薦め。ちなみにえごまは
江戸時代菜種油が一般的になるまでは、油の主流であったようだし、エゴマ味噌
を使った料理は結構美味しそうだ。

帰り道、きんえのころ、いわゆる猫じゃらし、里道の脇に金色の穂が揺れていた。
仔猫の宙(そら)が早速飛び掛かってきた。名前の通りの面白さにしばし暑さを忘れた。
4日、かなりの大型台風が近畿を直撃した。さすがにその音と風の凄さに
しばし聞きほれた??
眼の感じたものを文にしてみた。
「黒く重たい雲がすべてを覆い、大地と雲のわずかな空間に風と雨の攪拌を起こす。
家々はその残されたわずかの隙間に喘ぎ無力な姿をさらす。
雨粒が甍を突っ走り、跳ねまわり、アイスダンスのような激しい回転を見せる。
風が踊り、葉群れの黄緑、淡緑色、幾いろもの緑が雨粒に烈しく打ち据えられる。
雨が横に流れ、厚い水膜を作る。水膜に呑まれる家々、それは恐怖を感じる人
のように慌てふためき大きく傾ぐ。
垂直の、それは滝のように、雨が道路に打ちかかり水しぶきをあげる。
薄い褐色の水がしぶきの流れを作り、側溝を駆けていく。
電線がギシギシと苦しそうな叫び声を上げている。
幾条もの黒い線が上下左右に大きく騒ぎ、電柱もその騒ぎにただただ立ちすくむ、
困惑の表情を見せる。
眼はじに強烈な光が走り、轟音が一瞬身体を駆け抜けていく。
2階の雨戸の激しい雨音、連打する小太鼓のの響きを家中に撒き散らす。
家が揺れた。足元が微妙な揺れを起こす。
白いものが一瞬に眼の前を流れ去る、鈍い衝突音、雨に消された。
一瞬手元の光が消えた。浮かぶ白壁、深緑の竹たち、その身を任し、
打ちかかる雨粒の群れに立ち向かう」

6日未明の北海道の地震、不思議と北海道に行く機会が多かったが、地震の話は
聞いたことはなかった。山陰、中部、そして近畿への台風、この地震、昔であれば
これだけの天災不安が起こると年号を変えたそうだ。
この数か月、節気の穏やかな響きとは相いれない不穏な空気、気候、だが、人は無力だ。

2018.09.02

西近江路紀行18 数多い古社

西近江路紀行18 数多い古社

小野から北小松のそぞろ歩きの中でも度々登場したが、この地域比叡山などや古代からの続きで神社仏閣が多い。これ等だけを目当てに歩くのもまた楽しい。

歴史の中で比良明神が記されたのは、明確ではないが、「石山寺縁起」には登場し、奈良時代東大寺建立に尽力した良弁僧正の前に、老翁となって現われ、石山寺の地を譲り、如意輪観音を祀らせたと伝えられる。また、琵琶湖が七度も葦原に変じたのを見たほどの老齢で、仏教結界の地として釈迦尊に比叡の地を譲ったと言う説話もある。
旧くは湖西の山々を司る神が比良明神と言われている。

比良は修行のやまであり、「梁塵秘抄」には、
「聖の好むもの、松茸、平茸、滑薄なめすすき、さては池に宿る蓮のはい、根芹、ねぬなは、河骨、独活うど、蕨、土筆」
山中で修行する聖が好む食材が豊富にある場所が比良だった。様々な茸、せり、
ジュンサイ、独活、土筆など山の幸が豊富な聖地との想いがあったのであろう。
今でも郷土料理には、これらが食材として活かされてもいる。

琵琶湖街道物語などには、以下の様な記述もある。
「近江の神社の多くは奈良時代の天智朝、天武朝に創祀されたと伝えられる古社です。その中に、平安時代に朝廷が崇敬した神社があります。醍醐天皇の御代に制定された延喜式神名式に、国家の祭祀にかかわる神社の一覧が揚げられています。式内社と称され、祈年祭にあたり幣棉を受ける大社と地方の行政機関である国司から受ける小社があり、そのうち名神大社とされる、特に国家の重大事に神祇官が斉行する名神祭に列する二八五座の大社がありました。
この式内社は全国で2861処3132座の神社が揚げられています。
近江国には、滋賀郡八座、栗太郡八座、甲賀郡八座、野洲郡九座、蒲生郡11座神崎郡二座、愛知郡三座、犬上郡七座、坂田郡五座、浅井郡14座、伊香郡46座高島郡34座計155座があります。、、、、、
近江の式内社のうち、琵琶湖西岸に位置する古代の滋賀郡には、七社八座が「延喜式」
に載せられています。
これらの式内社について、「神社録」は、次の通り記しています。
・那波加神社
・倭神社
・石坐神社
・神田神社
・小野神社二座
・日吉神社
・小椋神社
このうち、日吉社について言えば、名神大の一座は従4位上の大山咋神ではなく正1位の大己貴神とあるべきところです。
滋賀郡は、古市、真野、大友、錦部の四郷からなり、湖南の錦部は古代の大津京の置かれたところで、湖西の真野はその基盤となる地域です。式内社をはじめとする神社は、真野氏、小野臣や近江臣など湖西地域を本拠地とする古代豪族の創祀になるものが多く、比叡や比良の山麓と琵琶湖畔に鎮座しています。
滋賀郡の北部に位置する真野郷には式内社である神田神社があり、隣接してやはりこれも式内社である小野神社があります。両社は湖西を本拠地とした古代豪族の真野氏と小野氏が祭祀した神社です。祭神は、天足彦国押入命を同じくし、それぞれに米餅搗大使主命(たかねつきおおみ)と彦国葺命を祀っています。」

なお、小野神社は、古代氏族である小野一族の始祖を祀り、飛鳥時代の創建と伝わる。小野妹子・篁(たかむら 歌人)・道風(書家)・などを生んだ古代の名族小野氏の氏神である。推古天皇の代に小野妹子が先祖を祀って創建したと伝える。
境内に小野篁神社(本殿:重文)がある。また近くの飛地境内に道風神社(本殿:重文)がある。道風は、書道家として、当時は著名3人の1人に数えられた。埼玉の春日井も関係がある。平安時代には、小野氏同族の氏神として春秋に祭祀が行われており、平安京内に住む小野氏や一族がこの神社に参向していた。境内から石段で高くなった本殿前の空いたスペースに、この神社の祭神・米餅搗大使主命にちなんで、お餅が飾られている。
毎年10月20日には、全国から餅や菓子の製造業者が自慢の製品を持って神社に集まり「しとぎ祭」が行われる。米餅搗大使主命は応神天皇の頃、わが国で最初に餅をついた餅造りの始祖といわれ、現在ではお菓子の神様として信仰を集めている。
参道入口に「餅祖神 小野神社」と刻まれた道標がある。
これにちなんだ祭りが行われる。

多く点在する神社をまとめてみると、

比叡、比良山麓の真野川、小野川、和邇川の流域に広がる真野郡には、各村落に鎮守社が鎮座しています。それらの多くはかって荘園領主が地域の鎮守として勧請した神々であったが、近世以降は村落の鎮守として祭祀されて来た。
志賀町史は、比良山麓の荘園鎮守の社について「この地域が山門膝元であっただけに、山王上七社を構成する神祀の一つ十禅師権現を勧請したものが多く、本町地域の荘園においても例外ではない」としている。そして、「和邇荘には大字和邇中に天皇社、木戸荘では大字木戸に樹下神社、比良荘は大字北比良と南比良の村境に天満神社、樹下神社、小松荘には大字北小松に樹下神社がそれぞれ鎮座しているが、天皇社はかっての牛頭天王社、木戸、比良、小松の樹下神社は旧十禅師権現社である」
と記している。
近世までの各神社は、明治の神仏分離によって社号や神号の改変が行われた。
祇園社の牛頭天王と日吉社の十禅師および明神は、いずれも仏号であるとして
神号に改められた。

町内の神社はいずれも規模が小さく、本殿と鳥居、拝殿、御輿庫、などの付属建物で構成される。とくに、拝殿は三間もしくは二間の正方形平面で入母屋造り、桧皮葺(ひわだぶき)である。
なお、補足に「びわ湖街道物語」(西近江路の自然と歴史を歩く)を活用。
主な神社建築は、
①樹下神社(北小松)
十禅師社と天満社の二棟。
祭神は、鴨玉依姫命カモノタマヨリヒメノミコト
②八幡神社(南小松)
祭神は、応神天皇
③天満神社(北比良)
祭神は、菅原道真公
④天満神社お旅所(北比良)
⑤樹下神社(南比良)
⑥湯島神社(荒川)
祭神は、市杵島姫命イチキシマヒメノミコト
⑦樹下神社(木戸)
樹下、宇佐宮、地主の三棟がある。
祭神は、玉依姫命タマヨリヒメノミコト
十禅師権現社と称し、コノモトさんとも呼ばれていた。
また、木戸荘の荘園鎮守社として勧請され五か村の氏神となっており、
木戸、守山、大物、荒川、北船路村からなる木戸荘の惣氏神とされた。
⑧若宮神社(守山)
⑨八所神社(北船路)
⑩八所神社(南船路)
祭神は、八所大神、住吉大神
⑪水分神社(栗原)
祭神は、天水分身アメノミクマリノカミ
⑫住吉神社(北浜)
祭神は、底筒男命、中筒男命、表筒男命
⑬大将軍神社(中浜)
祭神は、中浜神
⑭樹元神社(南浜)
祭神はククノチノカミ
⑮天皇神社(和邇中)
三宮神社殿、樹下神社本殿、若宮神社本殿もある。
祭神はスサノオノミコト。元は京都八坂神社の祗園牛頭天王を奉遷して
和邇牛頭天王社と称した。
近世では、五か村の氏神。
⑯小野神社(小野)

比良山麓の荘園鎮守となった社や祀堂は、この地域が山門膝元であっただけに
山王上七社を構成する神祇の一つ十禅師権現を勧請したものが多く、本町地域
荘園に老いても例外ではない。たとえば、和邇荘には和邇中に天皇神社、木戸荘では木戸に樹下神社、比良荘では北比良と南比良の村境に天満神社、樹下神社、小松荘には北小松に樹下神社がそれぞれ鎮座しているが、天皇神社はかっての和邇牛頭(ぐず)天皇社、木戸、比良、小松の樹下神社は旧十禅師権現社である。

近世、北比良村では「山の祭り」、木戸・和邇荘郷単位と来た船路村では
それぞれに「権現祭」という祭礼が行われていた。この権現とは延暦寺の
氏神である日吉大社行司権現と密接な関係を持つものと推定されるがいずれにせよ、荘園鎮守に始まる諸社の祭祀がやがて村民の守護を願った祭礼と化して言った事を物語っている。こうした状況の中で、惣村の宮座は、村の氏神ともいうべき鎮守社や村堂を基盤に様々な神事や祭礼を主導する祭祀組織となり、一方で村政の執行機関としての役割を担って行った。

宮座運営の場となったのは、主として各村落内の鎮守社や村堂であったが、
それらはかって荘園領主がその支配を貫徹するために地域の土俗信仰に習合
させる形で勧請した神祇に淵源を持つものが多い。しかし、中世後期にかけて、
荘園社会が次第に衰退し、新たなる地縁的結合が進められていくに伴い、
これらの鎮守社や村堂は、村落結合のよりどころとなり村民の精神的紐帯と
なっていった。

惣の集団的な意志が村民一般のものとして確認される場が村鎮守社などにおける宮座で、その点惣村と宮座は常に一体化して存在した。惣村の執行機関と言うべき宮座は、村人中の老衆、若衆といった年齢階梯制に基づく座的組織によって構成される事が多い。

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